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つつみしんやのひとりごと  
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2007.6.8

「はじらい」     

今日、夜10時ごろ、目黒駅のホームで制服の高校生カップルが

ベンチに座って接吻を交わしていた。

横目でチェックしながら前を通り過ぎたのだが、割とディープというか、

ねちっこかった(ように見えた)。(見るなよ)

私が高校生だったころ、そんなこと考えられなかった。

制服で、学校の帰りに、女子と、駅のホームで!

(あ、「女子と」って書くと男子とは、していたみたいで誤解を招きそうだが、

もちろん男子ともそんなことはない。)

「欧米化」と言うとまるで漫才の突っ込みのようだが、こういうのも欧米化というのだろうか。

人間が色んなことから解放され、自由になっていくことは素晴らしい。

でも、このカップルを見てなんとなく、「恥じらい」みたいなものが失われていっているように感じ

さびしく思った。

こんなこと思うのは、やはり、おっさんなのか。






2007.6.13

「運動神経と楽器演奏能力」

私は、運動神経が鈍い。

いわゆる「どんくさい」方である。

幼稚園の時には自分は走るのが遅いことを自覚していた覚えがある。

だから、小学校の時から体育の授業はもちろん、運動会もあまり好きな方ではなかった。

それでも小学校の時には、地区の子ども会のソフトボールチームに所属していたし、

遊びではよく野球もやったが、けっしてうまく出来る方ではなかった。

当然、趣味は文系に偏っていく。

小学5年生でギターを始め、中学校では吹奏楽部に所属した。

楽器は弾けるようになるとそれは楽しいもので、

中学1年のころは、トロンボーンを家に持って帰ってまで練習していた覚えがある。

近所迷惑な話だ。

その頃は、「スポーツはダメでも音楽(楽器)がある」と、そこまで明確ではないにしろ、

楽器をある程度できることが、スポーツのできないコンプレックスを

カバーしていた感は否めない。

その頃は、楽器演奏と運動神経は関係ないと思っていたのだ。

その頃は、というより割りと最近まで・・・。

考えてみれば、当たり前のことなのだが、ギターにしろ、ピアノにしろ、

サックスにしろ、ドラムにしろ、身体の一部を動かして演奏するのだ。

身体を動かすことを運動というのだから、楽器演奏も運動なのだ。

グルーヴのある演奏にはスピードが必要だ。

この場合のスピードは、速く弾けることではない。

言葉ではうまく説明できないが、リズムに乗るスピードというか、

1拍1拍を感じるスピードというか、そんな感じのものである。

そのスピード感(ドライヴ感とも言えるな)ある演奏には、

高い身体能力が必要なんじゃないかと最近思うようになったのだ。

運動神経はあんまり関係ないやろ、と思っていたのに

今ごろ現れた壁は「運動神経」である。

それは、ないやろ、今さら。という感じである。

昨日、Russell Maloneの演奏を聴きながら、

「この人、運動もやったらできるんやろな」と思った

もっとも運動音痴の黒人、リズム音痴の黒人ってもともとイメージしにくいが。

NYヤンキースのバーニー・ウィリアムスという選手は、野球でメジャーリーガー、

ギタリストとして名門コンテンポラリー・ジャズ・レーベルGRPからCDをリリースしている。

天は時々、二物を与えなさるようだ。





2007.6.18

「バースディ・プレゼント」

昔、一緒にバンドを組んでいたT君の中学生時代の話だ。

彼は、ビートルズの大ファンだった。

その当時、LPレコードは1枚2,500円もして中学生の小遣いでは

そうそう買える物ではなかった。

彼の誕生日、家に帰るとおばあちゃんがプレゼントに

「あんたが欲しがってたレコード買うて来たったで」と

LPレコードの入った袋を差し出した。

彼は大喜びで、ステレオに向かい、袋を開けた。

中には「ずうとるび」のレコードが入っていた。





2007.6.26

「アニッチャ」

コンピューター内のファイルを整理していたら、

保存していたことも忘れていた文章を発見した。

何かのサイトに出ていたのだが、それが何のサイトだったかも忘れた。

でも、すごく好きなのでここで紹介する。

よしもとばななさんの「チエちゃんと私」という本の抜粋らしい。

― ― ― ― ― ― ― ― 

私はサーフィンをしなくて見ているだけだけど、見るのは好き。

ずっと見ていると少しわかってくる。

今日の午後、どんな波が来るのか、ある程度予測はつくんだよね。

うんと慣れてくると。

でもそこが人というものの弱いところで、サーフィンをする生活が

数年続いてルーチンになってくると、いつかの天候、そのときの波と

比べるようになってしまうし、波のことがわかったような気になって

きてしまうみたい。

それでケガして、また反省して、またケガして、を繰り返す人はとても多いよ。

同じところをぐるぐる回ってるのに気づかないの。

実は違うんだと思うんだ……。

毎回違う波だというふうに思えることのほうが、

似た波を分類するよりも大事なの。

天気の分析は欠かせないものだし、するべきなんだけど、

同じような天気と波があると思ってしまうのはとても傲慢なことで、

同じようなものがあるとしたら、それは自分の内面のほうであって、

世界のほうではないの。

これって、自然はすごいっていう話じゃないよ、全然。

自然以外も、全てのことがほんとうはそういうふうに毎回少しずつ

違っているのに、広すぎてこわいから、人間はいつでも固定させて、

安心しようとするの。知ってることの中に。


― ― ― ― ― ― ― ― 

これを読んで、以前、瞑想で習った “アニッチャ” という言葉を思い出した。

パウリ語(だったと思う)で「無常」という意味である。

なにひとつ、変わらないものはない。

全てが変化し続けていて、全ての一瞬、一瞬が新しい。

考えてみれば、当たり前すぎるほど、当たり前のことだ。

だが、ついつい忘れてしまうことでもある。

そして、当たり前すぎてふだん意識しないようなことほど、めちゃくちゃ重要だったりする。


ちょっと、上の引用文とはポイントが違うが、無常を知ることは幸福なのである。

やがて消えてしまうものなら、執着することも嫌悪することもない、というわけだ。

また、変化し続けることが当然であれば、心変わりや浮き沈みを責めることもない。

釈迦は、無常を知れ、と教えた。

無常という言葉の意味は知っていても、人生で無常をつかむのは、

無情にも難しいのだ。




2007.6.27

「パンのへた」

たぶん、「パンの耳」という呼び方が一般的なのだろう。

我が家では(大阪では?)「パンのへた」と呼んでいた。

「へた」とは、「下手(へた)」ではなく、「端(はし)、へり」という意味で

そのまま、場所を指している。

私には、「耳」より「へた」の方が、しっくりくる。

子供の頃からそう呼んでいたせいかもしれない。

中学生くらいのときに「パンの耳」と人が呼ぶのを聞いて、

なぜか、気取っていてるようで、恥ずかしくて、自分には言えないと

思った記憶がある。

さて、そのパンのへた、パンによっては、そこの方が、白い部分より

おいしかったりするのだが、それは、大人になってからのことで、

子供の頃、朝食に出る食パンのへたはあまりおいしくなかった。

白い部分だけ食べてへたを残していた友達がいたが、

我が家では、けっしてそんなこと許されなかった。

もったいないからである。

小学生だったある日、母になぜ残しちゃいけないか聞いたことがある。

母は、「そこに一番栄養があるんやから、食べなさい」と言った。

ずーっとそれを信じていた。

たぶん二十歳過ぎても・・・。

子供の頃には、なぜそこだけ色が濃いくて固いのか、考えたことも

なかったのだが、ある日、突然、気付いたのだ。

「ただのおこげやん」って。





2007.7.2

「アリガトウゴザイマシタ」

友人と三軒茶屋の居酒屋へ行った。

そこはチェーン店で、お店はあちこちにある割と有名店だ。

料理がまあまあなので時々利用する。

三軒茶屋店はひさしぶりだったが、料理や飲み物を、

カウンターやテーブルにあるタッチパネルで注文するしくみに変わっていた。

別にそれはそれで、混んでる時に、中々店員さんが来てくれないとか、

せっかく注文したのにしばらく待った後に「売り切れです」と言われるとか、

そういうことがなくなって便利な面もあるのだが、

なんとなく、人間ではなく、機械に注文するのは味気ない気がする。

おまけに一番イヤだったのは、注文が完了するたびにそのタッチパネルについた

スピーカーから「アリガトウゴザイマシタ」と音声が流れるのだ。

画面に「ありがとうございました」と文字がでるだけでいいじゃないか。

それなら、別に気にならない。

機械から全く心のないあの自動的な「アリガトウゴザイマシタ」が

流れるたびに、なぜか、イヤ〜な気がした。

あの機械を作った人や、採用した会社の責任者は気にならないのだろうか。

疑問だ。

それとも、気になるのは私だけか。


以前、住んでいた家の近くのコンビニに、

素晴らしい「ありがとうございました」を言う男性店員がいた。

たぶん20代半ばぐらいだったと思う。

文章では表現できないが、

いつ行ってもその「ありがとうございました」を聞くと、すがすがしい、

ちょっと心が洗われたような、軽い、うれしい気持ちになるのだ。

どんなに忙しくてもけっして雑にならず、一人一人のお客さんに

丁寧に「ありがとうございました」と言っていて、感心した覚えがある。

彼は、きっと今ごろ、何の仕事をしていても出世というか、成功しているんだろうな、

と勝手に想像している。

あんな「ありがとう」は機械には言えない。





2007.7.16

「音の不思議」


例えば、絵の具なら、黄色と青色を混ぜると緑色になる。

そこには、もう黄色も青色もない。

新しく出来た緑色があるだけだ。

でも、音は違う。

「ド」と「ミ」を混ぜると(同時に鳴らすと)、「ド」も聞こえるし、「ミ」も聞こえる。

そして、あらたに生まれた「ド」と「ミ」の「ハーモニー」が聞こえるのだ。

「ハーモニー」は、音ひとつではありえない。

音が2つ以上必要だ。

でも「ド」と「ミ」を別々に聞いても「ハーモニー」は聞こえない。

そして、「ハーモニー」は時間とともに消えてどこにも存在しない。

その組み合わせで、きれいな「ハーモニー」、にごった「ハーモニー」、

不安定な「ハーモニー」、緊張感のある「ハーモニー」など、色々出来あがる。

神秘だとは思わないかい?





2007.8.11

我 慢

子供の頃、欲しいおもちゃを買ってもらえなかった覚えがある。

親にしてみれば、「我慢」することを教えたかったのかもしれない。

(ただお金がなかっただけかも知れないが。)

でも、もしかしたら、子供にとってそれは「我慢」ではなく、

「どうすることもできなかった」体験をしただけではないかと思うのだ。

子供にしてみれば、欲しいものが手に入らない、それは、我慢でもなんでもなく、

「ただ手に入らないだけ」なんじゃないか、だから、

「どうすることもできなかった」だけだと。

「お菓子を買って欲しい」と子供がダダをこねる。

親が「我慢しなさい!」としかる。

子供は、「我慢」するのではなく、お菓子が手に入らないので

しばらく、ダダをこねたあと、お菓子を「あきらめる」のではないか、

そうするしかないから。

もちろん、子供に思い通りにならないこと、どうしようもないことがある、

ということを教えるのは重要だろう。

でも、もし、本当に子供に我慢することを教えたかったら、お菓子を買い与え、

目の前において、食べさせない、とか、おもちゃを買い与え、

見るだけで遊ばせない、とかしてみてはどうか?

すると、それはもう、「どうすることもできない」ではなく、

「我慢する」しかないのだから。

ただ、この方法を実践するには、ダダをこね、泣き叫ぶ子供を

大人(親)が、「我慢」しなければならない。





2007.8.15

みたいな。

今日、渋谷の駅前の交差点を渡っているとき、

前を18〜19歳ぐらいと思われる、女性1人、男性2人の3人組が歩いていた。

その女性のこんな話し声が聞こえてきた。

「ねぇ、今からどこ行くの?みたいな。」

それに男性の一人が何かボソボソと答える。

すると、女性が、

「えぇ、置いてかないでよ。もう、あんまり歩けないんだからぁ、みたいな。」

そのあたりで、この3人組を追い抜いたので続きは聞いていないが、

この短い会話の中でさえ、いちいち「みたいな」が付くのである。

きっと彼女は、それなしには話せないのだろうな。みたいな。

それって、ちょっと変じゃないか?みたいな・・・。





それはやめて。

映画を観た後、あるお店で食事をした。

ちょうどお客さんが帰って、まだ片付けていないテーブルしか空いていなかった。

お店の方が、「すぐに片付けますから」と言って片付けだした。

お皿やグラスをトレーに乗せた後、お客さんが使ったあとのおしぼりで

テーブルを拭いた。

時々、そういうお店に遭遇するが、あれはやめてほしいものだ。

私も飲食店勤務の経験があるが、使用後のおしぼりは、

お客さんの汗と、よだれと、時々鼻水と、たまに涙と、食べこぼした食料と、

色んなものを拭き取ったもので、けして衛生的ではない。

それでテーブルを拭くというのはいかがなものか?

私の豊かな想像力は、まるで汗や鼻水をテーブルに塗りたくっているように

感じてしまう。

そして、おしぼり屋さんは「おしぼり以外の目的に使わないでください」と

言っている。

こんなこと気にするのは私が神経質だからか。

皆さんは平気なのか?

(少なくとも、拭いている店員は平気なのだろうな。)

私は、それでそのお店のレベルが分かると思っている。





2007.8.29



頼まれたわけでもないのに人に対し何かをした時でさえ、

心のどこかで相手から感謝されることを期待していて、

「ありがとう」と言われることを無意識に期待している自分がいるほどなのに、

頼まれたから “してあげた” のに、そのことをまるで当たり前のように扱われ、

礼を言われなかったとしたら、誰でもいい気はしないだろ?

「ありがとう。助かりました。」と一言言ってくれれば、また困った時には “助けてあげよう” と

思えるのに、お礼も何もないと、もう “助けてあげたくなく” なる。

お前が頼むから “してやった” のに、礼の一言もないのか!と相手を責めたくなる。

“してあげる” とか “助けてあげる” とかずい分、傲慢なもんだなと

自分の頭の中の会話を聞きながら思った。

そもそも、お礼を言われようが、言われまいが、自分がしたそのことで相手の人が、

助かったのなら、それでいいじゃないか、人の役に立てて良かったじゃないか、

とも思うのだが、私のエゴはどうもそれでは納まらない。

何かをしてもらったら、「ありがとう」と言いなさい、と育てられたおかげで

「ありがとう」と言わないことは、非常識で無礼なことになってしまった。

自分だって人に対し充分感謝を表現しているかと言えば、はなはだ疑問なのに、

他人のことになると、「礼も言わないなんてなんて非常識!」というわけだ。

そんなことを考えていたら、数日前に妻に教えてもらった話を思い出した。

神津カンナさんのエッセイ、「人に何かをしてあげること」。

 ↑ 是非、ご一読を。

ほんの数日前、これを読んで感動したところじゃないか。

何の実にもなっとらんやないか!

と自分を省みたのであった。





2007.8.31

やりたくない

早いもので、8月も終わり。

8/31と言えば、子供の頃は、一番いやな日だった。

夏休みが終わるからではない。

夏休みの宿題をやっていないからだ。

おかげで8/31はゆっくり眠れなかった。

眠れなかったと言えば。

高校の卒業式の次の日が日本史の追試だった。

担任の先生に「単位を落としたままでは、一生その成績が付きまといます」と脅され、

追試を受けてある程度の点数を取れば単位をくれるということで

卒業式の前夜、徹夜で勉強した。

と言いたいところだが、徹夜はしたが、「やらなきゃいけない、でもやりたくない&やる気ない」と

いう気持ちを一晩中味わいながら、なんだかんだして時間をつぶし、朝を迎えた。

おかげで卒業式中、めちゃくちゃ眠かった覚えがある。

結局、勉強しなかったので受けても意味がないと思い、翌日の追試は受けなかった。

つまり、高校の日本史の単位は落としたままだ。

担任に「卒業後、何年経っても、成績証明を取れば、単位を取っていないことが分かります」と、

それがさも重大であるかのように言われたが、

45歳になる今まで、一度も成績証明など取ったことない。

これからも取ることないだろうし、仮に取ったとして、その単位を取っていないことが、

何だと言うのだろう。

先生方はなぜに日本史の教科書をあれほどまでに暗記させたかったのだろう・・・。

興味のないことを覚えなければならないのは、拷問に近い。

今でもあれは、日本史のテストではなく、記憶力(しかも興味のないことを覚える)のテストだった

と思っている。




2007.9.1

健康診断

朝から健康診断に行ってきた。

体重、身長に始まり、血圧、視力、聴力、心電図、採血、検尿、検便、レントゲン・・・

今まで、まともな健康診断など受けたことなかったので、バリウムを飲むのも初めてだった。

初めての病院、初めての先生、どんなことをするのか分かっていない上、

身体をあちこち調べられるのだから、やっぱり緊張している。

でも担当の看護婦さん(美人!)の最初の笑顔でその緊張もかなり和らいだ。

(というか、あの笑顔で自分が緊張していることをキャッチした、という感じだ。

看護婦さんの笑顔と自分の心理状態のギャップを感じずにはいられない感じ。)

ああ、やっぱり白衣の天使なのだな。

おまけに「とってもきれいな心電図ですよ〜」なんてあの笑顔で言われるものだから、

ついつい、いい気になってしまう。

心電図がほめられているのであって、別に私が褒められているわけではないのに。

全部で1時間足らずで終わったので、どこまで細かい診断ができるのか

分からないが、結果を待つことにしよう。


それにしても色々なものが進歩しているのだな。

検便は小さな容器に少しうんちをつけるだけ。

体重はもちろん身長まで自動で測られ、視力も昔のようにしゃもじみたいなものは

使わず、機械を覗いて測定する。

血を採るのも注射器で抜くのではなく、針をさすと管を通って、

真空の容器に自動的にたまっていくしくみ。

採りすぎや、足りなかったのでやり直しということもないらしい。

知らない間にどんどん便利に簡単になっていってる。

世間では当たり前のことなのだろうが、私には初めてのことが多く、新鮮だった。





2007.9.6

商店街に葬儀場?

鎌倉市の商店街で、ある業者が葬儀場を建設しようとしていて、

商店街の反対にあっているという。

商店街側は、「商店街のイメージに合わないものは営業しない」という

景観形成方針を楯にとり、「葬儀場は、商店街のイメージを壊す」と

真向から反対しているようで、鎌倉市も業者に見直しを要請しているようだ。

業者側は、建築基準法、都市計画法などの法律を守っての計画で、

パチンコ店、マージャン店とは違い、商店街のイメージ、景観を壊すことには

該当しない、と反論している。

私だって、自分の家の前や隣に葬儀場が建設されるとなれば、いい気はしない。

が、ちょっと待てよ、と思った。

同じセレモニーの会場でも、結婚式場が建設されるとなれば、

そんなに反対する人はいないだろう。

その商店街事業部の主張は、

「どんな場所で開業しても構わないという性格の施設ではないことも、

広く社会的常識・良識として明らかなことです」と言っている。

葬儀は、人が忌み嫌う「死」を扱かう儀式だ。

「明るい」かと言えば「暗い」。

観光に行って、葬儀場があったら、なんとなく居心地が悪い。

だから、人々は反対するのだろう。

でも、考えるまでもなく人は死ぬ。

100%間違いなく死ぬ。

生まれた時、その人の将来で決定していることは、いつか「死ぬ」ということだ。

葬儀場建設反対を唱えている人だって、亡くなれば、お葬式を挙げてもらうだろうし、

家族がなくなれば、葬儀場も使うだろう。

だが、「商店街にあってはならぬ」という。


「明暗」「陰陽」「表裏」「プラスマイナス」色々な表現があるが、全ての事象には、2面がある。

光があれば、必ず影がある。

しかし人は「光」ばかりを求め、「影」を嫌う。

残念ながら、「表」しかないものは、存在しないにもかかわらず。

もし、「死」を忌み嫌うのではなく、「誕生」とセットで捉えているなら、

葬儀場は、「人生を終えたお祝いの場」という風に言えなくもない。

もちろん、死は悲しい。

愛している人との別れるのは誰だっていやだ。

だが、「死」自体は忌み嫌うものではないだろう?

「死」を否定するなら「生」をも否定することになる。

もし、「死」を「生」と同じように扱っていたら、人生は全然違ったものになるのだろうな。

何百年か何千年か先、人間の魂がもっと進化したとき、

商店街だろうが、自分ちの近くだろうが、

人が葬儀場の建設に反対しなくなる日が来るのだろうか。

ついつい、「影」のない「日なた」ばっかりの人生を求める自分を省みつつ、そんなことを考えた。


参考 由比ガ浜葬儀場反対運動 経過報告<続報>





2007.9.11



一昨日、ギターの試奏をして結局買わなかったことから、考えてみた。

20代のころは、欲しくてもお金がなくて買えなかった。

(何しろ、29歳まで就職したことがない=安定収入がなかったのだ。)

今なら、その気になれば、買うことができる。

でも買わなかった。

で、あることに気づいた。

買ったのに使ってないもの、買ったのに見ないDVD、買ったのに聴かないCD、

これらは、「買いたい」という欲望を満たすために買ったのであって、

それら本来の目的のために買ったのではないようなのだ。

買う時は、聴きたいと思って買ったはずのCDなのだが、実はそうではないということだ。

それは、この数年増えた数本のギターを見ても明白だ。

買っただけで、ほとんど弾かないギター達・・・。

そんなに持ってても聴くヒマないで、というCD達・・・。

買い物は、ストレス解消になる。

だから、ますます要らないものまで買ってしまう。

でも、ほんの少し、その「買いたい!」「欲しい!」を我慢するか、そのままのしておけば、

翌日には、ほとんど買わなくて良かったものであることに気づく。

それでも、欲しければ買えばいいだろ?

最近、少し買わなくなってきたような気がするのだ。

たとえば、CDショップで試聴して買う確立がかなり少なくなった。

以前なら買っていただろう場面で買わなくなってきた感じがするのだ。

(それでも月に数枚は買うけど。)

一昨日のギターだって、以前なら買っていた可能性は充分にある。

ただ、ギターの場合、所有欲というのもあって、弾かなくても持っていたいのだ。

こいつは、またちょっと面倒なのだが、以前に比べると、

この所有欲も幾分、弱って来たように思う。

これが、歳をとるということなのか、こうやって、色んな欲が薄れていって、

安心して死ねるようになるのか?(欲望いっぱいだったら死に切れないだろ?)

でも、薄れていない欲望がある。

そう、食欲だ!

(性欲と思った方、それは、あなたでしょう。)





2007.9.28

フリーハグ

「FREE HUGS」ってご存知か?

まずは、この映像を観て欲しい。(3分39秒)

数ヶ月前、アメリカにいる友人から、このURLが送られてきた。

この映像は上手く編集されていて、BGMともマッチしていて、

おまけに自分とは関係のないどこか遠い外国のお話で、短編映画を観ているような感じで、

観た時、ちょっぴり感動してしまった。

最近、この「FREE HUGS」がとうとう日本にも上陸した。

渋谷や原宿に「FREE HUGS」と書いた紙を持って立つ若者が増えているらしい。

今朝TVで、渋谷で見知らぬ若者同士が抱きあっている光景を見たのだが、ちょっと違和感があった。

もちろん、報道にはなんらかの意図が含まれていて、

最初に観たYouTubeの映像はあきらかに(感動を)狙ってきているのに対し、

今朝のTVは「なんやおかしなことが始まったでぇ」というような報道だった。

確かに、世界中の人々が見知らぬ人であってもHUGできる世界は、

戦争や紛争のない理想の世界だろう。

でも、そういうこととは別に、何なんだろう、この違和感は。

別に「FREE HUGS」を否定する気はない。

最初にYouTubeの映像を観た時は、「ええ話やないか」ぐらいに思ったのだが、

日本で身近に行われているとなると、ある意味ステキなことだと思う反面、抵抗があるのだ。

うまく書けないが。

HUG出来そうにないと思う私は、閉鎖的なのだろうか?保守的なのだろうか?

皆さんはどう思う?





2007.10.8

ボーリング

何年ぶりだろう。

10年ぶりぐらいにボーリングをした。

驚いたのは、ガーターが出ないようにレーンに(ボールが溝に落ちないように)柵が出るのだ。

「バンパーレーン」というらしいが、最近では設置されているボーリング場も多いようだ。

これなら、誰がプレイしてもガーターにならず、必ず数本は倒すことになり、ゲームとしては楽しめる。

私が、子供のころはもちろんそんなものは無かった。

だから、最初の頃は30点や40点だったものだ。

初心者や子供でも点数が取れて、楽しめるようになったことは良いことだが、

子供が「ガーターを出さずに投げるにはどうしたらいいのだろう」と考えたり、工夫したりする機会を

奪ってしまうようで、なんとなく手放しで喜べない。

そんな風に思う私は考えすぎだろうか、それとももはや古い人間なのだろうか。



←バンパーレーン













2007.10.9

早く寝たい

23:00過ぎ。

帰りの電車で前に立っていた女性(40代か?)が携帯メールを打つ画面が丸見えだった。

人のメールを覗くのは、悪趣味だと思いながら、丸見えなので見てしまった。

彼女は、「早く寝たい」とだけ打って送信した。

一体、誰に送ったんだろう・・・





2007.10.13

Don't Think.Feel!

先日、ある人に言われた。

「あなたは分析しすぎだ」と。

「例えば、人に何かしてもらっても、いちいち色々考えるので素直に喜べない」と。

全くその通りだ。

が、私は「それは理性だと思っている」と答えたら、

「必要なの?」と聞き返された。

・・・要らない。

その人に言われた通り、人に何かをしてもらった時、

「実は〜〜だからしてくれたんじゃないか」とか

「本当は、〜〜なのにしてくれたんじゃないか」とか反射的に考えてしまう。

してもらったことを喜ぶ前にだ。

喜ぶ前に色々考えるので、喜べない。

そうすると感謝もない。

最悪やなぁ。

で、その人は私に「その分析癖を止めなさい」と言った。

「どうやって止めるのですか?」と私。

「分析しながら、止めるのです。自分のやり方でやめるしかありません。」

なるほどね。

考える(分析する)ことは、演奏にも邪魔だ。

演奏に邪魔なことは、人生に邪魔なのだ。


※「Don't Think.Feel!」は、「燃えよドラゴン」の中のブルース・リーの台詞。





2007.10.14

Soleと分析

昨日書いた、私に「あなたは分析しすぎだ」といった人は、

New York に在住する女性で、リフレクソロジー(Reflexology)を施す方だ。

リフレクソロジーって、簡単にいうと足の裏のマッサージなのだが、彼女の場合、

ただ単にマッサージして疲労を取るとかだけではなく、足の裏を見て、触って、リーディングするのだ。

足の裏は、英語で「sole」、発音は、「soul (魂)」と同じだ。

足の裏を見れば、その人の魂までもが読めるということなのだろうか。

彼女とのセッションは今回が2回目で、1回目は昨年の12月。

もちろんNew York へ行った訳ではない。

今回も前回も彼女が一時的に日本に帰ってきた時のことだ。

元々は、New York 在住の友人の紹介で、前回は私と妻と二人見てもらったのだが、

とても素晴らしかったので、今回は友人知人数人に紹介した。

彼らも、一様に「また受けたい」というぐらい、癒され、元気になれる。

前回、私は「アグレッシヴに音楽をやりなさい」と言われた。

その言葉がこの1年の私の活動の元だったといっても良い。

さて、分析しすぎる私が、「なぜ足の裏で初対面の人のことが、こんなに分かるのか」

という疑問について、分析していないことに気がついた。

分析の結果、

「分析しても分からないことは、分析しない」と分析してたようだ。





2007.10.16

Spain

一昨日は、新しく始めたギターデュオの練習だった。

練習中、ふと思いつきで チック・コリアの「Spain」を演ってみようということになり、

練習し、なんとかまとまりそうなのでレパートリーの1曲に加えることにした。

そして、昨日。

毎月定期購読している雑誌「JAZZ LIFE」が届いた。(会社に届くようにしている。)

中を見ると、「Spain」の楽譜が載っている。

そして、夜、LIVEを聴きに行くと、渡辺香津美が「Spain」を演奏した。

帰宅すると、妻がこういった。

「チャッチャッチャチャーラララ、チャッチャラ、(と、Spainのテーマ部分を歌う)っていう曲

今日、目黒の駅前で(ストリート)演奏してたよ。」

なんと、Spain なシンクロニシティ。





2007.10.18

Don't Think.その2

今月号のJAZZ LIFE(雑誌)の付録に1989年9月号に掲載された Sarah Vaughan (Jazz Singer、

1990年死去)のインタビューが載っていた。

インタビューの後半、「歌や音楽を演奏することを学んでいる読者にメッセージを」、と訊かれて、

彼女はこう答えている。

「歌いなさい。どのようにして歌おうかなんて考える前に、今すぐ口を開けて歌いなさい!

私はそうしている。ただ口を開けて歌う。それだけ、ね。」





2007.10.22

嘆かわしい

TVで見た方もいるだろうが、最近離婚した有名人の元妻が、3年ほど前、不倫していたらしい。

その報道を見ていて、大変不愉快だった。(見るなよ。)

「不倫」のことではなく、それがマスコミにばれたのは

相手の男が(週刊誌に)しゃべったからなのだ。(芸能界ではよくあることだが。)

相手は年下で、名前を聞いても顔を見ても知らないくらい、(悪いけど)大して売れていない芸能人だ。

一部には売名行為だとの批判もあるようだが、

そうじゃないというのなら、何のためにそんなことしゃべるのだろう。

人間として最低じゃないか。

本人がブログでファンに対して謝罪しているというので、見てみた。(見るなよ。)

ビックリした。

そういうことを軽々しく公にしたことを詫びているものとばかり思って見たのだが、

詫びている内容は、「不倫」を軽率だった、と詫びているのだ。

週刊誌に語ったとされる内容も、(ここに書く気にはならないぐらい)男として情けない。

こんな人が、ドラマや舞台で人前に立っていると思うともっと情けない。

そして、その男の発言に飛びつくマスコミはもっともっと情けない。


あ、別に不倫を肯定しているわけではないので念のため。





2007.10.23

嘆かわしい その2

昨日の「ひとりごと」を読んだ読者の方からたくさんの反響があった。

と言いたいが、1通だけメールをいただいた。

(もっと、遠慮なく意見を送っていいのだよ。)

その方へのお返事にも書いたのだが、

件の男のように男の風上にもおけない奴はいつの世にもいるだろうし、

週刊誌ってそういう下世話な話で食ってるので、仕方ないのかもしれない。

が、それをTVで取り上げるというのはいかがなものか。

TVはもっと報道すべきことがあるんじゃないか?

マスコミ、特にTV局は、もっと大人になる必要があると思う。

「そういうあなただってその番組を観たのだから同罪だ」と言う意見もあるかも知れない。

しかし、週刊誌は、買わなければ読めないが、TVはスイッチを入れると観れるのだ。

送り手が、情報をもっと選ばなければならないんじゃないか?

さもなければ、良識のある人はどんどんTV離れしていくだろう。

現実に、ニュースはインターネットで手に入れられるのでTVは観ないという人達もいるようだ。


「嘆かわしい」と言えば、今朝、これもTVでやっていたのだが、

図書館で借りた本に、書き込みをしたり、マーカーで線を引いたり、切り抜いたりする人が

増えているという。

たいした被害になっているようで、ひどい奴は、表紙だけ返して、中身は全部ちぎり取っていたりするらしい。

びっくりしたのは、法律の本にたくさん書き込みがしてあって、「器物損壊罪」とか書き込んであるのだ。

コメンテイターが、「これが器物損壊ですよ。法律を勉強している人がこういうことするのが

信じられない。」と嘆いていた。





2007.10.25



最近、全く別の機会に、同じ内容の話を聞いた。

一度は某健康食品の説明会で、

もう一度は、食用油の研究や調査をされている先生の講演会で。

その内容は「トランス脂肪酸」に関する話。

動脈硬化や心臓疾患のリスクを高める為に有害である可能性が指摘されている「トランス脂肪酸」。

マーガリン、ショートニングなどに多く含まれているらしい。

アメリカでは、その使用の規制が厳しくなってきていて、2006年から一食あたり、

0.5g以上のトランス脂肪酸を含む加工食品や一部の栄養補助食品に関してトランス脂肪酸量の

表示を義務付けた。

ニューヨーク市では、来年8月から飲食店で出される一食に含まれるトランシ脂肪酸の

総量が、0.5グラム以下に規制される。

つまり、タバコ吸ってもいい、酒飲んでもいい、でもマーガリンは食べちゃダメ、

というわけで、マーガリンを使って料理を出すと罰せられるのだ。

日本では自主的にトランス脂肪酸軽減に取り組んでいる企業はあるようだが、

まだまだ遅れていて、行政は規制を行っていない。

アメリカのKFCやスターバックスなどの大手チェーンは、

トランス脂肪酸の含量の少ない油脂への切替を始めているらしいが、

同じチェーンでも日本国内の店舗は対象外の場合がほとんどということだ。

日本では、欧米に比べてその摂取量が少ないから、というのが規制のない理由らしいが、

果たしてそうだろうか。

ファーストフード店の(ショートニングで揚げた)フライドポテトは、

1ヶ月たっても腐らないらしい。

マーガリンは、腐らず、ねずみもゴキブリも食べないという。

それを人間だけが食しているのだ。

某メーカーの脂肪が身体につきにくい、と宣伝されているクッキングオイル。

厚生労働省許可特定保健用食品となっているが、

これにもトランス脂肪酸が含まれていると指摘されている。

おまけにこんな記事も。

これは2年前の記事で、その後どうなったかは発見していないので、なんとも言えないが。

調べていくと、一般的に使われているサラダ油もどうもよくないらしい。

一概にそれらの情報を鵜呑みにするのは危険だろうが、

これだけ多く書かれているところを見ると、ちょっとやばそうだ。

よくある話で、例えば、

農家で自家用の野菜には農薬を使っていない、

医者は、自分や家族に抗がん剤を使わない、

家電メーカーのえらいさんのお家では電子レンジは使っていない、など。

では、油メーカーの開発者やえらいさんのお家ではどんな油使ってるんだろうか。


そう言えば、小学生時代、給食で毎日のようにマーガリンが出てたよな・・・。





2007.10.28

とんでもない

2,3日前、TVで中継で生出演していたある人が、スタジオにいる司会者に

「お忙しいところ、どうもありがとうございました」と言われて、

「とんでもございません」と答えていた。

そういえば、最近、妻が「話し方教室」なるものに出たらしく、

「とんでもございません」という日本語は正しくない、と言っておった。

しかし「とんでもございません」は、私もたまに使うし、かなりポピュラーな表現なので

間違いではないだろうと思ったのだが、正しくは、

「とんでもないことでございます」と言うらしい。

その方が、違和感があるのだが・・・。

言葉は生き物で時代とともに変わっていく。

先日、広辞苑に「うざい」や「めっちゃ」が載ったとニュースでやっていた。

「とんでもございません」が間違いでなくなる日もそう遠くないだろうな。





2007.10.30

食の安全

このところ、毎日のように出てくる、食品業界の表示偽装問題。

「赤福餅」の製造日と消費期限を改ざんに続いて、

同業者の「御福餅」も消費期限を改ざんした疑いがあると報道された。

そして、大阪の船場吉兆が福岡市の百貨店の自社店舗で消費期限のラベルを

張り替えた菓子を販売していた問題が発覚。

なんでも、賞味期限が最大で39日も過ぎていたものや、

消費期限が最大17日過ぎていたものを販売していたという。

ニュースによっては、賞味期限が最大で54日過ぎたタルトもあったと報道していた。

買ったお客さんは、たまらんな。

こういうニュースを見ながら、今頃、びくびくしている食品業界の人達がたくさんいるのだろうな、

などと考えていて、「あっ」と思い出した。

それは、私が15歳の頃。

高校に入学してまもなく、人生初めてのアルバイトをしていた時のことだ。

毎週日曜日、朝から夜まで、あるスーパー・マーケットの中にある魚屋でアルバイトをしていた。

朝、開店前の仕事のひとつに、「牡蠣」の入ったビニール袋に印刷された日付を

爪でこすって消す、というのがあった。

そして、その日の日付のシールを貼り、商品棚に並べるのだ。

記憶が定かではないが、消した日付は前日ではなく、一昨日ぐらいだったような気がする。

(つまり、2日はごまかしたことになる。)

その牡蠣は加熱用で生で食べる人はいなかっただろうが、明らかに表示偽装だ。

その頃は、社会のことも分からず、「なるほどこうやって売っているのか」と単純に思った覚えがある。

その店での偽装は、牡蠣だけではない。

その他の魚だって昨日の売れ残りで今日も売れるものは新しいパックに入れ替え、

今日の日付に変えていた。

毎日、今日の日付というわけだ。

もう、30年近く前のことで、今、その店があるかどうかも分からないが、

もしかしたら、今もあんなことやっているのだろうか・・・。


閉店間際、売れ残った(たぶんもう死んでいる)貝を、

パックの上から(値引きした値段を書くための)マジックペンで、パンパン叩きながら、

「いかっとりまっしゃろ?いかっとりまっしゃろ?」と言い、

お客さんに見せていた店長を見ながら、少し悲しかった覚えがある。





2007.11.1

修学旅行のお土産

「赤福」問題をもう少し。

私の出身小学校(大阪)では、修学旅行が伊勢だった。

(もう、30年以上前の話なので、現在はどうか分からないが。)

伊勢神社を参拝し、確かミキモトパールアイランドとか、見学に行ったような気がする。

泊まるのは、夫婦岩で有名な二見浦だ。

そして、その修学旅行のお土産が、「赤福餅」なのだ。

ひとり、10箱ぐらい買って帰り、近所へ配るのが一種の習慣のようになっていた。

そんなこと、忘れていたのだが、

一昨日の「ひとりごと」、「食の安全」読んだ読者(同級生)からメールをもらい思い出した。

彼に言わすと「俺ら関西人は今までの人生で最低100箱は食ってる」そうである。

私自身は、いくらなんでも100箱は食ってないだろとは思うが・・・。

そんなわけで、小学生のお土産としても絶対的なシェアをほこっていた「赤福」。

関西人には、独特の思い入れがあるのである。


書いていて思い出したのだが、その修学旅行のお土産「赤福」、

小学生にたくさん持って帰らすのは、重たくて大変だということで、

前もって「赤福○○箱」と予約をし、解散時に配られていたような気がする。

つまり、学校と取引してるような感じだったのだ。

そこまでポピュラーなものだっただけに、残念だ。





2007.11.3

とんでもない その2

「とんでもございません」という言葉使いについて数日前にこんなことを書いた。

その後、妻が話し方教室の先生からもらったという、コピーを見せてくれた。

そこに書かれていたことを要約すると、

  「とんでもない」は、「美しい」や「高い」と同じく、形容詞。

  「もったいない」を「もったいございません」と言わないように、

  「とんでもない」を「とんでもございません」とは言わない。

  「とんでもない」の最も丁寧な言い方は、「とんでもないことでございます」

  もう少し平たく言うなら、「とんでもないことです」か「とんでもないです」が正しい。

なるほどそうか、形容詞だったのか。

「とんでも」「ない」と切り離して、捉えていたがそれが間違いだったようだ。

が、しかし、その見せてもらったコピーにも、「とんでもございません」を

「街のそこかしこで耳にする」間違いとして紹介していた。

「街のそこかしこ」で使われるようになったら、

もうそれは「間違い」ではなくなる日も近いのだと私は思う。

例えば「重複」、これは本来正しくは「ちょうふく」と読む。

明治時代の辞書には「ちょうふく」しか載ってなかったそうだが、

大正時代に「じゅうふく」と読むようになり、昭和に入って「じゅうふく」も辞書に載ったようだ。

現在では、70%以上の人が「じゅうふく」と読むらしい。

今ではどちらも間違いではない。

(アナウンサーなど、言葉を商売にしている人達は「ちょうふく」と読むようだ。)

もっともこれは漢字の読み方の話で、形容詞を分解してしまう話とは

ちょっと違うかもしれないが、いずれにしろ、言葉はこのように生きていて、時代とともに変化していく。

だから、何でもありと言っているのではない。

正しい言葉の知識を身につけることには大賛成だ。





2007.11.8

コンサート・チケットの変遷

私は、中学生の時に初めて行ったコンサートからチケットを保管してある。

記念にというわけでもないが、なんとなく、捨てられなくて30年以上。

今日は「コンサート・チケットの変遷」ということで その一部をお見せしよう。(見たないか)

20年ぐらい前までは、コンサートのチケットもそれぞれ趣向を凝らしたものだった。

例えば、これ(↓) Rod Stewart のチケット 



1981年5月1日 大阪フェスティバルホール。

裏は、こう(↓)



1階F列No.12。結構前の方だった覚えがある。

当時、Rodは凄い人気で、コンサートのチケットを取るのも郵便で申込み、抽選だった。

確か、この前のツアーでは、抽選に外れて取れなかったな。

他には、QUEEN 1979年4月19日 大阪フェスティバルホール(↓)



これは TOTO の初来日、1980年3月5日(↓)



Eric Clapton 1985年10月7日(↓)



そして、1986年についにチケットが変わる。

James Brown 、1986年2月4日 大阪城ホール(↓)



Whitney Houston の初来日。

1986年11月4日 大阪フェスティバルホール(↓)



チケットの予約や入手は、簡単で便利になったけど、

オンライン化されてからデザインは味気ないものになった。

何かを得れば何かを失うのだな。





2007.11.9

サービスについて

今日のこと。

仕事で、銀行へ行った。

窓口で、いくつか手続きを済ませた後、新しい通帳を発行してもらうための手数料が、

1,050円だというので、1,100円払った。

通帳が出来るのに少し時間がかかるというので、その間にATMコーナーへ行き、

用を済ませ、再び窓口に戻ってみたが、

まだ、その担当者(女性)が何か仕事をしているようなので、ソファに座って待つことにした。

彼女を見ていると何やら、トラブルがあったらしく、あわてているようだ。

どうも、窓口の横にある機械が故障したのか、作動しないようで、詳しそうな人を呼んで来て、

二人でその機械のふたを開けたり閉めたりしている。

しばらく見ていたが、どうも復旧しそうにないので、

「通帳は、あとで取りに来ます」と言おうとして、「まだ時間かかりますか?」と声をかけた。

その問いの彼女の回答にひっくり返りそうになった。

「もうすぐ、お釣り、出ますから」

え〜っ? お釣り?

私は、50円のお釣りのために何分も待ってたのか?

たぶん、10分ぐらいかかってたと思う。

びっくりして、あきれて腹も立たなかった。

私は、その機械が作動しないので通帳が出てこないか、手続きが完了しないのかと思っていた。

まあ、お釣りをもらわないと、手続きは完了してないのだが・・・。

「そんな50円のことなら、銀行にはお金がいっぱいあるのだから、

とりあえず、どこかから払っておけば良いじゃないか、

そうすれば、こんなにお客さんを待たせなくて済むじゃないか」

とも思ったのだが、おそらく、銀行では絶対にそんなことしてはいけないことに

なっているのだろうな。

この機械に1,100円入れたのだから、この機械から50円お釣りをもらう必要があるのだ。

自分のポケットからとりあえず立て替えるなんて言語道断。

サービス向上のためか、不正防止のためのルールか分からないが、

ルール通りにしか出来ない、融通がきかないおかげでサービスは低下する良い(?)例だ。

自分の判断で出来ないならせめて責任者のところへ行き、

「お客様にお待ちいただいておりますので、先にお釣りをお返しします」

と、機転を利かすことは出来ないのか?

それでも、責任者は「その機械からお釣りが出るまで待ってもらいなさい」と言うのだろうか?





2007.11.12

親知らず

9月から通い始めた歯医者。

今日で10回目になる。

その間、2本の歯に金をかぶせ、小さな虫歯を治療し、

古い詰め物を新しいものに交換し、そして今日は、「親知らず」を抜いた。

右の上の「親知らず」で、全然痛みもなく自分としては何の問題もなかったのだが、

診察の初日に先生は、「これは抜いた方がいい」と言った。

で、とうとうその日が来たのだ。

一応、抜いた方が良い説明も事前に受けたのだが、12年前、他の「親知らず」を抜く時、

大変だった思い出があるので、なんとか自分で「これは抜きません」と自信を持って言える証拠を

見つけようとインターネットで探ったが、調べれば調べるほど、抜いた方が良い話が多く、あきらめた。

もちろん、抜かなくても良い「親知らず」も稀にあるようだが、

そもそも猿人からの進化の過程で、あごは小さくなったが、歯の本数が減らなかったため、

こいつは、何かとトラブルの原因になっている歯らしい。

置いておけば、将来、他の歯がダメになった時、移植したり、

隣の歯の入れ歯のブリッジにしたりと、役立つ道もあるのだが、

それより、トラブルの元になる確率の方が、高いようだ。

「親知らず」があるせいで、その手前の歯が虫歯になり、その歯を抜くことになって、年取ってから、

「親知らず」をそこへ移植するぐらいなら、最初から、虫歯の原因になりかねない「親知らず」を

抜いてしまった方が簡単だというわけだろう。

以前抜いた「親知らず」は、横向きに生えていたため、抜くのが大変だったのだが、

今回のは、まっすぐ生えていたので、思っていたより簡単に抜けた。

麻酔のおかげで痛みもなく。

でも、あと一時間ほどしたら、麻酔が切れる。

その時、痛いのかな・・・


ところで、何で「親知らず」というか、ご存知か?

と、えらそうに書いたが、私も知らなかったので調べてみた。

その歯が、生える頃には、多くの人が親元を離れていて、

親がその生え始めを知ることはない、というのが、「親知らず」の語源らしい。

英語では、「wisdom tooth(智歯/ちえば)」と言い、

これは、知恵がついてから生えてくる歯であるかららしい。

同じものでも、文化によって全然違うネーミングをするのだな。

私の場合、生えたのも抜いたのも、親は知らんので、やはり「親知らず」の方が合ってるな。





2007.11.19

店員の言葉遣い

最近の若い店員の言葉遣いについて、色々言われるようになって、

ずい分経つような気がするが、いまだに違和感がある。

今日もある食堂で、お水を出される時、

「こちら、お冷やになります。」

いやいや、説明してもらわんでも分かるで。

しかも、「なります」って・・・。

注文したものが出てくる時、例えば、

「こちらが(あなたの注文した)シーザーサラダになります。」

という場合の「なります」が、許容のギリギリやねんけど・・・。

と、ひっかかりだすと、彼の言うことの多くが変に聞こえてくる。

「いらっしゃいませ〜。空いてるお好きなお席へどうぞぉ。」

「お好きなお席」て。

「空いてるお席へどうぞ」だけでええやん。

まあ、空いてないお席には座られへんねんけど。


なんでかな、ぼやきを書くときは大阪弁になる・・・





2007.11.23

親知らず その2

9月から通い始めた歯医者、先週親知らずを抜き、

昨日、その抜いた後の経過を診てもらい、一応、治療は完了した。

次回は、クリーニング(歯垢除去)、その後は数ヶ月に一度の定期健診だという。

10年以上、歯医者に行ってなかった身としては、定期健診で数ヶ月に一度、歯医者へ行くのも

面倒な気がするが、先生の話を聞いているうちに、

健康な歯を維持するためにはそれも必要なことなのかなと、思い始めた。

予防医学、健康維持医学というやつだな。

さて、以前、親知らずの語源について、

その歯が、生える頃には、多くの人が親元を離れていて、
親がその生え始めを知ることはない、というのが、「親知らず」の語源らしい。


と書いたのだが、昨日の先生の説明によると、

「昔は人の寿命も短く、人生50年と言われた。

親知らずは、18歳や遅い人は20歳を過ぎてから生える人もいるので、

その頃には、もう親は死んでいていないことも多い。それで「親知らず」と呼ばれるようになった」

とのことだった。

ほとんど同じ意味なのだが、ちょっとヘビーに感じた。


私の「親知らず」、残すところあと1本なのだが、「来年抜きましょう」と言われている・・・。





2007.11.24

天 才

昨日の深夜、TVに作詞家の松本隆が出演していた。

松本隆といえば、"はっぴいえんど"のメンバーで、はっぴいえんど解散後、

作詞家として、大成功した人である。

阿久悠、阿木燿子、なかにし礼らと並んで、日本の歌謡界を支えた一人だ。

代表作は、(ありすぎるのだが、一部を書き出すと)

太田裕美 「木綿のハンカチーフ」
アグネス・チャン 「ポケットいっぱいの秘密」
桑名正博 「セクシャルバイオレットNo.1」
近藤真彦 「スニーカーぶるーす」
寺尾聰 「ルビーの指環」
南佳孝 「スローなブギにしてくれ」
森進一 「冬のリヴィエラ」
松田聖子 「白いパラソル」「風立ちぬ」「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「Rock'n Rouge」
       「時間の国のアリス」「ガラスの林檎」「SWEET MEMORIES」「秘密の花園」

などなど、作品の総売り上げは3,300万枚を超えるという。

私は、彼の作品では、吉田拓郎の「外は白い雪の夜」が、好きだ。絵が浮かぶ。

で、彼が興味深いことを言っていた。

アイディアが浮かんだ時どうするか?

ほとんどの人が「メモする」と答えるだろう。

だが、彼はメモをとらないそうだ。

「翌日になって覚えてないようなものは、大したものではない、

本当に良いものならば覚えている」、とのこと。

アイディアの泉が枯れることのない天才だからこそ、言える言葉だな。

凡人は、浮かんだアイディアにしがみつき、なんとか忘れまいとするものだが。


ちなみに私の友人(45歳・男)は、カラオケで誰かが「木綿のハンカチーフ」を歌うと、今でも泣いてしまう。





2007.11.26

理不尽

昨夜、夜中の2時に「もう寝よう」とTVをつけたら、(なんでつけるねん)

9月にドイツで開催された「IAAFワールド・アスレチック・ファイナル」をやっていた。

「IAAFワールド・アスレチック・ファイナル」とは陸上競技のランキングトップ8選手のみが

出場を許される大会だ。

こんなに夜中にやってて、あんまり報道もされてないのは、

織田裕二が出てないからか、と思ったがそんなわけないだろう。

日本人選手が、出ていないのだ。

いや正確には、ひとり、ハンマー投げの室伏選手が出ていたが。(彼は3位だった)

で、面白くて3時過ぎまで観てしまったのだが、「ちょっと理不尽やな」と思うシーンがあった。

100m女子ハードルで、3人がフライングで失格になった。

その中には、優勝候補と期待されていた選手もいた。

ルールは、一度目のフライングは許されるが、二度目に誰かがフライングすると、

その人が、失格になるようだ。

理不尽なのは、一度目の人は失格にならず、二度目以降の選手が失格になる点だ。

今回のレースでは、「用意」の体制に入ってから、一人の選手が手を上げてレースを中断した。

どうもこれは、フライング扱いになるようで、

次(二度目)のスタートで2人がフライングし、失格になった。

三度目のスタートで、また一人失格。

四度目のスタートでようやくレースになった。

「ルールが改正されてから、フライングが減った」と解説者は言っていたが、

「同じ人が二度フライングしたら、失格にしたらええやんか」と思うのは、

私が素人だからか。

人生は、時々理不尽だ。





2007.12.7

明日は

12月8日。

「何の日?」と聞かれて、ある一部の方々は

「そりゃ、真珠湾奇襲の日じゃろ。太平洋戦争が始まった日じゃ。」

と答えるだろう。

そして、ある一部の人々は、

「John Lennon の命日だ。」

と答えるだろう。

たくさんの偉大なミュージシャンが、亡くなっているのに

私が、John の命日を忘れないのは、それが、12月8日(1941年)真珠湾奇襲の日だからだ。

正確には、真珠湾奇襲は日本の12月8日、ハワイ現地では12月7日。

John がニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前において、

狂信的なファンとされるマーク・チャップマンに殺害されたのは、

現地時間の12月8日(1980年)、日本では9日だ。

病院に運ばれた John は、午後11時過ぎ(現地時間)に死亡した。

その時、病院内のスピーカーから流れていた曲は、なんと、Beatles の「All My Loving」だったという。

真珠湾にしろ、John Lennon にしろ、12月8日は悲しい日なのだ。





2007.12.10

民営化?

仕事で、契約書に貼るために15,000円の収入印紙が必要で

郵便局へ買いに行った。

費用は、先方と折半なので、「7,500円の領収書、2枚でください」と

窓口で言うと、「できません」と言う。

もちろん7,500円分2回買えば、7,500円の領収書2枚もらえるのだが、

そうすると、収入印紙の枚数が増える。

15,000円なのだから、10,000円と5,000円の2枚で済ませたい。

レジから印字される領収書がでてくるので「出来ない」というわけだ。

そんなもん、民間なら、手書きですぐくれるぞ。

そして、レジから出てきた領収書は控えにとっておけばいいことだろ?

何でそんな簡単なサービスが出来ないのだ?

何が民営化なのだ?

まったく良う分からんわ。





2007.12.15

お仕事は?

今日はあるイベントにPA(音響)の仕事を手伝いに行った。

そこで主催者の一人のSさんという男性と話した。

彼は来年で還暦を迎える白髪の優しそうな人だ。

「お仕事は何をなさってるのですか?」という問いに

「女房を幸せにすることです」と答えられた。

そして、

「これには定年がないんです」と、うれしそうに話された。

聞いている方も幸せになる話だった。





2007.12.16

上達の秘訣

松岡 修造がジュニアにテニスを教えている特集をTVで観た。

「世界のトップのコーチが来ると、子供達は、上達の魔法を教えてもらえるんじゃないかと期待する。

が、上達に魔法はない。

言われたことをできるまでやるだけだ」と、言っていた。

考えてみれば、当たり前のことなのだが、そのことをつい忘れ、

大人になっても上達の秘訣があるんじゃないかと思ってしまう。

スポーツだけではない。

楽器にだって、仕事にだって、人間関係にだって・・・人生全てにだ。

秘訣や魔法がないとすると、「本気で上達したいのか?」が結果を左右する。

やっかいなのは、「本気で上達したいと思っている」と自分では思っているが、

実はそうではない方向にエネルギーを費やしていて、自分ではそれに気付かないときだ。

またそういう時は、人の言うことも中々耳に入らないのだな、これが。



ひとりごと  ひとりごと