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2026.9.27
母が死んだ(其の七)
はっきりと覚えている。
あれは小学6年生の修学旅行の
前日のことだ。(52年前!)
そろそろ私も思春期というのか、
所謂反抗期というのか、
なんだか分からないが、
難しい年頃に入った頃だった。
何かがあったとは記憶はないのだけど、
どうもイライラしていた。
そこにそんな私の心持ちを全く知らない母が、
私に向かって何かを言った。
内容は、なんてことのない普段の会話であったと思う。
しかし、そのいつもと変わらぬ母の態度が
私のトリガーを引いた。
いきなり奇声を発した私は、母に殴りかかった。
母に対して怒りがあった訳ではない。
どうすることもできないイライラをたまたま
目の前にいた母にぶちまけたようなもの、
それは地表からマグマが吹き出したようなものだった。
おそらく母は驚いたに違いない。
しかし、まだ身体も母の方が大きく、力も上だった。
鬼と化した母は「親になんてことを!」と
言いながら、強烈な反撃に出た。
母に叩かれて、一瞬で私は戦意を喪失した。
そのあとのことは覚えていない。
ちゃんと謝ったかどうかも覚えがない。
ただ翌日から修学旅行に行くのに、
何か親に用意してもらう物があったように思う。
それをちゃんと用意してもらえなかったら
どうしよう、と不安になったことは覚えている。
あ、思い出した。
たぶん、修学旅行に持って行くお小遣いを
貰えなかったら、どうしようと思ったんだ。
翌朝、母はいつもの通りで、お小遣いもちゃんとくれた。
が、あんなことをしでかした自分は、
気持ちよく旅行に出発することはできなかった。
私の小学校(大阪)の修学旅行は一泊で、
行き先は三重県の伊勢志摩だった。
伊勢神宮の参拝と、ミキモトパールの見学を
したように思う。
二見ヶ浦の夫婦岩が見える旅館に泊まったと
記憶しているが、本当に旅館から見えたのか
どうか、はなはだ怪しい。
母から貰った小遣いの使い道は、
家族へのお土産である。
母に貰ったお金で、母に土産を買うという訳だ。
なんとなく まだモヤモヤしながら、
母(というか両親)への土産を選んだ記憶がある。
選んだのは、伊勢の風景が描かれた
小さな徳利とお猪口のセットだった。
そんなこと、よく覚えているなぁ、オレ。
ずっと実家のサイドボードの中に飾られて
いたような気がする。
今もあるのかな。
2026.9.26
Toninho Horta
〈Jazz in Hokutopia Vol.4〉

トニーニョ・オルタ、8年ぶりの来日だそうだ。
私はジャック・リーとのデュオで一度観たことが
あるが、それは 2010年のことだったので、
もう16年も前になる。
その時のエントリーを読むと、ゲストで日本人
女性ヴォーカルが登場したとあるが、
それが今日も出演した Nobie さんだった。
今年6月にピットインに Nobie さんの
ライヴを観に行った(ギターは馬場孝喜さん)。
その時に今日のライヴのチラシが置いてあったんだ。
「Jazz in Hokutopia Vol.4」という
イベントの2日目で ライヴは三部構成。
<1部>トニーニョのソロ
<2部>トニーニョと、日本の若手のジャズ・
ミュージシャンとの共演。
<3部>トニーニョと、ブラジル音楽を演奏する
日本のミュージシャンとの共演。
トニーニョ、77歳。
元気です。
登場から開口一番は
「スミマセン、コンニチハ、コンバンワ」
ソロ・コーナーの1曲目は『Moon River』。
とても美しい。
私的には、ジャズメンとのセッションより、
ブラジル音楽を演奏する日本人ミュージシャンとの
セッションが面白かったなぁ。
16年前に聞いた「シンカンセン、シンカンセン」も演ったよ。
この曲、新幹線で東京から博多まで行くんだ。
私見だけど、<3部>が面白かったのは
トニーニョはジャズメンとはの共演も多いが、
やはり「ザ・ジャズ」の人ではないからかなと思った。
即興的要素も多かったと思うけど、ジャズ的
というよりトニーニョのビジョンというかやりたいことが
ハッキリしているように感じた。
時にそれがメンバーへの合図となって表れるのだが、
どうも完全にそれに応じられていたようには
感じられなかったのは私の気のせいか。
<2部><3部>ともにドラマーに「もっともっと」と
求めているように感じた場面があったんだ。
きっと限られた時間での打合せとリハーサルで
本番に臨んだのだろうから、それでも十分に
コラボしていたと思うけど。
何曲かで観客に歌わせようとするのだけど、
日本人はシャイだから大声で歌う人は少ない。
三部でハモらせようとまでしてた。
きっとブラジルでなら大合唱なんだろうな。
とはいえ、最後にはスタンディング・オベイション。
日本は4回目だと言っていたけど、
貴重なライヴを観られて良かった。
トニーニョは、ガットギター1本とフルアコ、
テレキャスタイプのシンラインを使用。
フクオカ・ギター、ニシムラ・ギター(Westville)
(もしかしたら ニシガキ・ギターだったかも)、
エチゼン・ギターの話をして謝辞を述べていた。
Made In Japan のギターを数本使っているようだ。
(英語で話してくれてたけど、内容は相変わらず
聞き取れません。)
ルシアーにすれば、トニーニョに弾いてもらえるなんて、
この上ない光栄と歓びだろうね。
今回のギターは、エレキは2本とも Westville。
ガットギターは、フクオカ・ギターかな(自信なし)。


後半にはトニーニョが 500ccのペットボトルの水を
一気飲みする場面もあった。
結構な時間をかけて飲み切ったけど、
大丈夫かね、高齢なのにあんなことしてと
心配になった。
ロビーには「15:00開演、17:10終演予定」と
貼り出されていたけど、終わったのは 17:55。
5分ほど押して始まったけど、予定を大きく上回り
(休憩を挟んで)2時間50分ほどのショーだった。
今日のチケットは、当日券も多少残っていたようだけど
明日の東京、29日の大阪、30日の静岡公演は、
ソールド・アウトのようだ。
帰ってきて、トニーニョの発売されたばかりの
ニューアルバム『Standards & Stories』をポチリました。
[ プログラム ]
◇ トニーニョ・オルタ・ソロ
◇ トニーニョ・オルタ・ジャパン・ジャズ・コレクティブ
〈トニーニョ・オルタ(vo&g)、馬場智章(ts)、Akira Ishiguro(g)、
小川晋平(b)、小田桐和寛(ds)〉
( 休 憩 )
◇ トニーニョ・オルタ・ジャパン・ブラジル・コレクティブ
〈トニーニョ・オルタ(vo&g)、ノビー(cho&vo)、太田朱美(fl)、
小畑和彦(g)、織原良次(b)、斉藤良(ds)〉
@ 北とぴあ さくらホール(東京都北区王子)
[ 参考エントリー ]
2010.10.7 TONINHO HORTA & JACK LEE
2026.6.6 Nobie Especial Band
2026.9.26
新版 思考の整理学
外山滋比古 著

「東大・京大で1番読まれた本」として
知られる『思考の整理学』。
刊行は 1983年なので、もう43年も前の本だ。
本書は、それに 1986年文庫本された際に
加えられた一章と 2009年の東大での
講演会をまとめたものを加えた新版。
著者は、日本の英文学者、言語学者、
評論家、エッセイスト。文学博士、大学教授の
外山滋比古(とやま しげひこ)(2020年没)。
内容はタイトル通り、「思考の整理」についてだ。
たぶん、大学生向けに書かれたと思われる。
大学生が、論文を書くための資料や、
思考の整理の仕方、知識や記憶の扱い方に
ついてのヒントが書かれている。
著者は 1923年生まれだから、83年当時
すでに 60歳だった。
今ほどデジタルが普及していなかった時代なので、
その整理方法が(今となっては)恐ろしく
アナログで気が遠くなりそうだが、昔の人は
こうやって本を書いていたのだろうと思う。
今、本書に書かれている方法をそのまま
実行する人はたぶんいないと思うけど、
ここに書かれていることをヒントに、
自分なりにアレンジしてデジタルで
整理することは可能だろう。
その方が、効率的だろうしね。
本書が書かれた時点では、「コンピューターの
出現で人間は知識を記憶する必要がなくなった。
事務仕事がコンピューターに奪われる。
が、創造的な仕事はコンピューターにはまだできない」
という旨のことが書かれている。
が、40年経って、AIというものが、
創造の分野にまで及んでいる。
創造の分野においても、人間はだんだん
必要でなくなり始めているように見える。
今から 40年後にはどうなっているんだろう。
きっと、無人運転のタクシーやバス、もしかしたら
鉄道も当たり前になっているかも知れないし、
AIが創ったアートや、音楽、文学などが
ひとつのジャンルになっているかもしれない。
あるいは、もっと恐ろしいことが起こっているかも。
私は論文を書いたり、研究発表をしたりする
ことはないが、本書に書かれていることは
考えたことのなかった区別が色々あって
参考になった。
それらは思考の役に立つと思う。
(覚えていればだけど。)
以下、印象に残ったこと。
学校で作られる「グライダー人間」と
「飛行機人間」の違い。
学校教育の弊害。
(これは色んな角度で同じようなことが
言われているけど、「グライダー人間」を
使っての説明が良かった。)
知的活動には3つの種類がある。
(1)既知のことを再認する
(2)未知のことを理解する
(3)全く新しい世界に挑戦する
これは本を読むときに、今どれを実行しているか
意識することで、読み方、取り組み方が
変わると思う。
第一次的現実と第二次的現実の区別。
ふたつの相反する能力。
拡散と収斂(しゅうれん)。
など。
★★★★☆
2026.9.25
キャロル・キング&ジェイムズ・テイラー
ジャスト・コール・アウト・マイ・ネーム

今年2月に公開されたらしいのだが、
全くノーチェックだった映画『キャロル・キング
& ジェイムズ・テイラー ジャスト・コール・
アウト・マイ・ネーム』が、角川シネマで
上映されたので観て来た。
2月に公開なのになぜ9月に? というのは
角川シネマでは現在「ピーター・バラカン
音楽映画フェスティバル 2026」(Peter
Barakan’s Music Film Festival 2026)を
開催中で、その1本として本作が上映されたんだ。

これが、予想をはるかにはるかに超えて、
とにかく全てが素晴らしかった。
まさか落涙するとは思ってなかったよ。
私的には、アメリカの良心のシンガーソングライター、
キャロル・キングとジェイムズ・テイラー。
彼らの共演は、1970年に遡る。
ロサンゼルスの老舗ライブハウス、トルバドールで
共演したのが始まりで、2007年に
トルバドール開業50周年記念で、37年ぶりに
再共演を果たし、2010年に「トルバドール・
リユニオン・ツアー」と題し、世界各地で公演を実施した
本作は、70年代の映像も交えながら、
まるで 2010年のコンサートを観たかのような
体験のできる作品に仕上がっている。
余計な編集は一切ない。
過去の映像が挟まれるのもとても効果的。
(ちょっと、最近観た某アーティストのライヴ・
ドキュメンタリーの編集が酷かったので、
余計に素晴らしく思ってしまったかもしれない。)
音楽はもちろん素晴らしいのだけど、
一番はジェイムズとキャロルの「親密」。
「親密さ」とは書かずにあえて「親密」。
これに感動する。
途中、1970年頃の親密さを表現したいと
いうようなことをジェイムズが言うのだけど、
ふたりの心の間に全く壁がないというか、
距離がないというか、ラブラブの恋人同士でも、
こんなに「親密」ではないのではないかと思った。
誤解のないように書くと、その親密は
所謂 男と女のそれではない。
ミュージシャン同士、あるいは人間同士の親密で、
あまりの距離のなさにふたりがひとりかと思うほどだった。
そして、その親密はジェイムズとキャロルの
間だけではなく、バンド・メンバーにも存在していた。
バンドがこれまた素晴らしい。
特にダニー・コーチマー(ギター)、ラス・カンケル
(ドラムス)、リーランド・スカラー(ベース)が、
バリバリええ仕事してまっせ。
彼らは、1970年にも一緒に演奏していた仲間たちだ。
(それもあってリユニオン・ツアーなのだと思う。)
2010年、彼らはこのツアーで来日もした。
見逃したことは、痛恨の極みだ。
ジェイムズは、2024年の来日公演を観られたけれど、
キャロルとの共演は、もう観られることはないだろう。
そういえば、2024年のジェイムズのコンサートでも
バンドメンバーに対する深い愛と尊敬を感じたっけ。
ジェイムズの歌っているときの表情が素晴らしい。
本当に幸せな人はこういう顔をしながら
歌うんだと思った。
キャロルはハイヒールでピアノを弾き、時々
踊るものだから、足をくじきやしないかと
ひやひやしたよ。
(キャロルは 2010年当時 68歳かな。)
キャロルとジェイムズのハーモニーは、
声が溶け合って美しい。
時々、個性豊かなシンガーふたりがハモると、
個性的過ぎて声が溶け合わず、
ふたりのシンガーが、別の音程で唄っている、
という風に聞こえることがあるけれど、
このふたりの大御所は、きれいに溶け合うんだ。
ここにも「親密」を感じたね。
そして、親密の絶頂、本編ラストの
『You Can Close Your Eyes』で落涙です。
映画のチケットは、「トークイベント付き上映」と
なっていたので、業界の人か音楽ライターの
誰かが登壇するのかと思っていたら、
ピーター・バラカンさん ご本人だった。

かなりマニアックなお話しで面白かった。
「JAMES」は「ジェイムス」ではなく「ジェイムズ」。
「日本人はなぜか「ジェイムス」と表記するけど
「ジェイムス」なんて名前はないから」と言ってました。
確かに日本での表記は私が見た限り、
全部「ジェイムス」だわ。
試しに AI に「JAMES の発音は、ジェイムスですか?
ジェイムズですか?」と投げかけてみたら
「ジェイムズ(またはジェームズ)の方が原音に近い」
との回答でした。
でも、「S」は日本人には「ス」なんだよなぁ…
2022年製作/97分/G/アメリカ
原題:Carole King & James Taylor: Just Call Out My Name
劇場公開日:2026年2月20日
(2026.9.26 追記)
[ TRACKLIST ]
Opening (You Make Me Feel Like) A Natural Woman
1. Something In The Way She Moves (彼女の言葉のやさしい響き)
2. So Far Away
3. Carolina In My Mind (思い出のキャロライナ)
4. Country Road
5. Smackwater Jack
6. Where You Lead (地の果てまでも)
7. Your Smiling Face (きみの笑顔)
8. Beautiful
9. Enough To Be On Your Way > Shower The People (愛の恵みを)
10. Way Over Yonder
11. Sweet Baby James
12. Up On The Roof
13. It's Too Late
14. Fire And Rain
15. I Feel The Earth Move
16. You've Got A Friend (きみの友だち)
17. How Sweet It Is (To Be Loved By You) (君の愛に包まれて)
18. You Can Close Your Eyes (目を閉じてごらん)
Ending Mexico (あこがれのメキシコ)
[ MEMBERS ]
キャロル・キング(vo, p, g)
ジェームス・テイラー(vo, g)
ダニー・コーチマー(g)
ラス・カンケル(ds)
リーランド・スカラー(b)
ほか
2026.9.25
原田真二
OUR SONG and all of you
― Live at 武道館 ―

私が中学生から高校生にかけて、
原田真二、世良公則、Char の3人は
「ニューミュージック 御三家」と呼ばれた。
それまでお茶の間で聴くことのなかった音楽が
テレビを通して流れるようになった時代だった。
2年前に死んだ姉が 高校生のとき、
原田真二のファンだった。
当時の彼氏まで原田真二似の男だったよ。
真二のデビューから2年ぐらいは、アルバムも
シングル・レコードも全て家にあった。
原田真二は、そのかわいらしい見た目からか
女性のファンが多く、当時アイドルのようだった。
私はもっとロックな音楽が好きだったけれど、
真二の曲の中にも好きなものがあって、
姉に隠れて(なんで?)こっそり、ギター・ソロを
コピーしたりしていた。
1979年、高校2年生になる前の春休み、
私は姉に連れられ、大阪フェスティバルホールの
真二のコンサートに出かけた。
姉が私の分も チケットを買ってくれたんだ。
これが私の初のロックコンサートだった。
なんと48年前のそのチケットの半券が
手元に残っている。

3月29日。
春休みだったことと、入場の際、会場の
入口に並んでいると、女の子ばかりが多く、
ちょっと恥ずかしかったことを覚えている。
あのとき、原田真二は 20歳だったんだな。
『OUR SONG and all of you』は、
デビュー後 わずか 10ヶ月、十代(19歳)で
史上初めて武道館単独公演に臨んだ、
原田真二のドキュメンタリー。
もう 10年くらい前だと思うが、この DVD の存在を知った。
私は 79年春のコンサートを観たこともあって、
この武道館公演(1978年7月24日)を
観たいと思い、DVD を購入した。
DVD は 2005年の発売で、すでに廃版になっていた。
中古品は見当たらず、新品はもともと税込(5%)
3,990円だったのに少々高かった覚えがある。
自分も観たかったが、姉も観たいだろうと思って
購入したが、姉に話すと全く興味がなさそうだった。
それで、いつか観ようと思ってそのままになっていた。
1978年当時 VHS で発売されたライヴ・ビデオが、
DVD になって 発売されたのだとばかり思っていたが、
そうではなく、1978年12月に劇場公開された
ドキュメンタリー映画だった。
しかし、購入時は(というか 観るまで)
ドキュメンタリーとは知らず、ライヴ・ビデオだと
思っていた。
ちょっと苦言。
まず、武道館のステージ設営のシーンから
始まって、ライヴが始まるまで、13分以上ある。
予算の関係か、技術がまだなかったのか分からないが、
2005年の作品としては、大変音が悪い。
ミックス・バランスが悪く、ヴォーカルが
奥に引っ込んでしまっている曲もある。
ギターやドラム、ベースはよく聞こえるのだけど
全般的にとにかくバランスが悪い。
ハウリングも何度かある。
アスペクト比が4:3なのは、時代だから
仕方がないとして、映像のノイズも多い。
今なら、ノイズ・リダクションや、リミックス、
リマスターして世の中に出すべき作品だと思う。
おまけにこの時代のこういう映像作品の特徴か、
演奏中に全く関係ない映像が挟まれる。
例えドキュメンタリー作品だといえども、
純粋に演奏シーンを観たい音楽ファンには
まったく余計な仕事をしてくれたもんだと思う。
ちなみに監督は、地球交響曲〈ガイアシンフォニー〉
シリーズの龍村仁。
これは劇場公開作品のビデオだから仕方がないけど、
DVD として発売するなら、今なら、舞台裏映像、
合宿中のリハーサル風景、ファンとの触れ合い、
オフショットなどは、本編とは別の特典映像として
まとめるんじゃないだろうか。
いや、まとめて欲しい。
それから観ていて気になったのは、やたらと裸になる。
真二もバンドメンバーも。
上半身だけだけど。
そして、ステージ以外のシーンでは、
やたらとホットパンツ(丈が短い短パンね)なんだ。
これも真二もバンドメンバーも。
あの時代って、そんな風だったっけ?
今ならちょっと恥ずかしいような気がする。
というか今、ホットパンツをはいている男性は見ない。
ファンと話しているオフショットでも、
真二は上半身裸に、ホットパンツなんだ。
なんかスゴイ時代だったんだな。
で、観ていると、リハーサルでも上半身裸の
シーンがあって、真二の背中の汗を観て、
当時は今ほど冷房があまり効いていなかったせいも
あるのかとも思った。
それにしてもね。
バンドについて、特筆すべきは、
ツイン・ドラムスであることだ。
それがなんと Robert Brill と 古田たかし。
Robert Brill といえば、Char さんの
デビュー当時の バンドメンバー、
1st アルバムのレコ―ディングメンバーだ。
Robert Brill と しーたか(古田たかし)は
違うタイプのドラマーだが、このふたりが
一緒にリズムを創っているのも面白い。
ふたりとも Char さんのライヴで聴いたことが
あるのだけど、ツインになると 印象としては、
Robert のリズムが強いような気がする。
私が観た翌年3月のライヴが、ツインドラムで
あったかどうかは、全く記憶がないのだけどね。
(調べてみると、しーたかひとりだった。)
『タイムトラベル』など、レコードの演奏より
アレンジがされていてカッコ良い。
真二が、デビューから10カ月で、まだ19歳だった
ことを考えると、スゴイ才能だったと思う。
ギター(青山徹)は、かなりフューチャーされており、
レコードよりロック色が強い。
バンドの演奏は良いので、音が悪いのが残念だ。
10代からとても才能があった人であることには
間違いないが、当時、音楽家としての活動と
芸能界の板挟みになっている様子が伺える。
それは、Char さんも同じだったけど。
特典映像として、DVD発売時(2005年)の
原田真二に、龍村仁監督を交えたインタビュー
映像も収録されている。
武道館から、27年後のご本人のトーク。
真二は、自分を観て「なんて生意気なんだ」と
言い、龍村仁監督は、「あの頃から真二は
年齢不詳だった」という。
そのインタビュー時、まだ 40代の真二は
良い感じだが、最近 YouTube で観た4年程前の映像は、
遠目には石塚英彦(ホンジャマカの石ちゃん)かと
思うほど大きくなっており、ビックリしました。
ちなみにこの武道館コンサートは、1996年に
なって CD 化されている。
そちらの音はどうなっているのだろうと、
『てぃーんず ぶるーす』を聴き比べてみた。
ちゃんとリミックスしたようで、バランスは、
改善されているが、どうやら唄は差し替えたようだ。
(ほかの曲は未チェック)
ライヴ盤を出す時にまずいところを録り直すのは
よくあることだと聞いたことがあるが、
コンサートから18年後のリリースなので、
これはいつ頃 録り直したのだろうか。
最近の真二の活動はよく知らないけど、
ライヴはやっているようなので、一度観たいな。
[ 曲 目 ]
1. Curtain Rise
2. てぃーんず ぶるーす
3. Angel Fish
4. 風をつかまえて
5. タイムトラベル
6. Our Song
7. Joy
8. 黙示録
9. シャドーボクサー
10. Sports
11. Wake Up
12. High-Way 909
13. Wise Way
(1曲目『Curtain Rise』は レコード音源)
[ MEMBERS ]
原田真二 (ヴォーカル・ピアノ・ギター)
山田秀俊 (キーボード)
青山徹 (ギター)
関雅夫 (ベース)
Robert Peter Brill (ドラムス)
古田たかし (ドラムス&パーカッション)
2026.9.24
DIANA KRALL
LIVE AT THE MONTREAL JAZZ FESTIVAL

2004年とあるからもう 22年も前の作品、
ダイアナ・クラールの「モントリオール・ジャズ・
フェス」の DVD を観直した。
(ええ、終活の一環、CD・DVD・書籍の
処分のためです。)
購入時に最後までちゃんと観たか
どうかも覚えていない。
頭の方だけ、ちょっと観てあとからゆっくり
観ようと思ってそのままになっている DVD も
少なくないと思うが本作はどうだったのだろう。
ダイアナ・クラール(Pf &Vo)+ギター・トリオ。
驚いたのは、ドラムが ピーター・アースキンだったこと。
そんな重要なことも覚えていないのか。
この DVD を買った時には、私にとってそれは
さほど重要ではなかったのか。
いずれにしろ、初めて観るように鑑賞した。
認識を改めたのは、ピアニストとしてのダイアナ。
弾き語り程度に自分の唄のバッキングを
するレベルではなく、完全にジャズ・ピアニストだ。
私は 10年前にダイアナのライヴを観たのに
今さらそんなことを言うと、ファンに叱られそうだが、
なんとなくシンガーとしてのイメージが強いんだな。
ギターは、アンソニー・ウィルソン。
私が不勉強なだけかもしれないけど、
ジャズ・ギター界ではそんなに有名な人ではない。
調べてみると、父親もジェラルド・ウィルソン
というジャズ・トランぺッターの息子。
ダイナとの仕事は長いが、そのほかにも
驚くほど多くの著名なアーティストと仕事を
してきた人だ。
ダイアナのギタリストといえば、故ラッセル・
マローンの印象が強かったが、アンソニーの方が
ダイアナとのキャリアは長いんだ。
今年は12月に来日公演があるのだけど、
チケット代 21,000円と見て、行く気が失せていた。
もう良い席はないかも知れないけど、
ちょっと観たくなってきたなぁ。どうしよう。
ダイアナは、私よりずっと若いと思っていたが
1964年生まれなので、私より2歳下。
妻と同じ年だった。
本作では、ダンナであるエルヴィス・コステロ
との共作も4曲演っている。
特に『Narrow Daylight』が好きだな。
(2026.9.26 追記)
[ 曲目リスト ]
1 Sometimes I Just Freak Out
2 All or Nothing at All
3 Stop This World
4 The Girl in the Other Room
5 Abandoned Masquerade
6 I'm Coming Through
7 Temptation
8 East of the Sun (And West of the Moon)
9 Devil May Care
10 Black Crow
11 Narrow Daylight
12 Love Me Like a Man
13 Departure Bay
14 Narrow Daylight [Video]
[ MEMBERS ]
Diana Krall (vo, pf)
Anthony Wilson (gt)
Robert Hurst (b)
Peter Erskine (dr)
2026.9.23
ソクラテスについて
先日、『ソクラテスの弁明』(プラトン 著
納富信留 訳)を読んだ。
訳者の納富信留(のうとみのぶる)先生は、
元 国際プラトン学会会長で、現在、
東京大学大学院の教授らしい。
その納富先生の『ソクラテスの弁明』に
関する、 2016年の東大での講義を
YouTube で 観ることができる。
タイトルは「ギリシャの文学と哲学:
ソクラテスという「哲学者」の誕生
ソクラテスは何故死刑を受けたのか?」
2回に分けての講義だったようだが、
動画も2本に分かれていおり、
それぞれ1時間45分。
2本合わせて3時間半になったが
続けて観た。
それを観ただけで、ソクラテスや
『ソクラテスの弁明」について、分かったとは
思わないが、本を読んだだけでは分からなかった
裁判の背景や、ソクラテスの人となりも
知ることができた。
講義の中で先生が
「今、目の前にソクラテスがいても、
私たちは彼を死刑にするでしょう」
というようなことを言う。
私が『ソクラテスの弁明』の感想に
「何言うとんねん、このオッサンと
思ったところもあった」と書いたが、
どうやら、そう思うのは私だけではないようだ。
ソクラテスは「そんなこと言わんでもええのに」
というような、わざと陪審員の感情を逆なで
するようなことを何度も口にする。
まるで、自ら死刑になるためかのように。
自分は、真実を述べているのであり、
裁判にかけられているのも、死刑になるのも
私が真実を述べているからに他ならない。
と、言い切る。
もう死刑にならないと、自分が真実を述べた
ことにならないかのように。
それは狂信的でさえあるのだが、
ソクラテスの処刑後、その裁判は正当だったのか
という議論が起こり、弟子たちはソクラテスの
言いたかったことを弟子なりに本にする。
全てが残っているわけではないが、結構な数の
ソクラテス本が書かれたと考えられている。
プラトンの『ソクラテスの弁明」もそのひとつ。
プラトンは、実際に裁判の場にいたと
考えられているが、ソクラテスの弁明の内容は
その場でとった記録ではなく、プラトンが、
ソクラテスはこういうことを言いたかったに
違いない、と創作したものだと考えられているらしい。
つまり、事実をもとにしたフィクションだ。
ソクラテスは、哲学をしていたがために
死刑になった。
不正をするぐらいなら、美しく、善く生きて
死ぬ方が幸せだったのだ。
そして、死刑と言われ、知りもしない「死」を
恐れることは、理にかなっていないというわけだ。
おまけに「善く生きている者は、悪く生きている
者によって害を加えられることはない。
それは神の掟にかなわない」
と言い切る。
告発者がいたせいで、自分が死刑になった
としても、告発者が自分に何か害を
加えたことにはならない。
なぜなら自分は善く生きたから、という
超振り切った理屈。
彼の生き方は誰もが真似できるものではないが、
彼の提示した「善く生きる」という生き方は、
時代を超えて、普遍的なテーマとなったのだろう。
いつの時代も、金銭や名誉などの成功を
求める生き方と、魂がよくなる善い生き方、
両方を実現するのは難しい、ということでもあるだろう。
いや、両方の実現など、ソクラテスにはどうでも良い。
善い生き方のみが、美しく立派な生き方で、
そうでない生き方は、恥ずかしい、醜いことだと断じる。
あなたは、どちらの生き方を選ぶのか? と
ソクラテスは問うてくる。
ソクラテスの生き方は
「誰もが真似できるものではない」と
書いたが、それにしても、振り切っているというか
不器用というか、もっと上手くできたんじゃないか
とも思ってしまう。
でももし、ソクラテスがそんな人だったら、
歴史には残らなかったに違いない。
< 参考動画 >
ソクラテスという「哲学者」の誕生 第1回 納富信留
ソクラテスという「哲学者」の誕生 第2回 納富信留
2026.9.22
老後について考える
「老人ホームに入れるとボケる」と
聞いたことがある。
母を観ていて、もしかしたらそうだったのかも
しれないとも思う。
老人ホームで規則正しい生活になることは良いが、
ボケる要因の一つは、絶対的な運動量が
減るからではないかと思う。
例えば、自力で歩ける老人たちは、
(保育園の園児たちがやるように)一緒に
散歩するとか、そういう運動の機会があれば良いが、
おそらく老人ホームでは、入所者に転倒されては
困るので そういうことはやらないだろう。
デイサービスに行っても、椅子に座ったままで
簡単な体操をする程度で、とても筋力を
保てるような運動をしているとは思えない。
何もしないよりは ましだろうけど。
転倒のリスクということを除いても、
老人ホームで大勢の散歩が叶わないのは、
ひとつには、同じ年齢であっても、個人による
その体力差が大きいということもあるように思う。
おそらく体力の差は、15歳の中学生の個人差よりも
85歳の老人の個人差の方が大きいのではないか。
3日に一度8キロ歩くという 86歳の叔父がいる。
歩くだけではなく、自分で決めた足腰のための
エクササイズを毎日やっているとも言っていた。
叔父は心臓を患ったことがある。
医者は激しい運動は控えるように言ったらしいが、
毎日歩くことで健康を取り戻した。
先日、2週間ほど入院したが、退院してきて、
すぐに歩いてみたら、「2キロで疲れてしまった。
体力が落ちた」と言っていた。
今まで長年鍛えていたこともあって、
歩くことをやめなければ、またすぐに8キロ
歩けるようになるだろうと思う。
何より歩くことが習慣になっているのは強いと思う。
私の両親を思ったとき、86歳のとき 3日に一度
8キロを歩けたとは思えない。
歩くことは、様々な健康効果を期待できる。
逆をいえば、歩かないことで筋肉が落ちると
様々なリスクが高まる。
母が、最後の数週間に何度も転倒したのは、
もう身体を支える筋肉がなかったからだと思う。
幸い転倒による骨折はなかったが、
高齢者が転倒すれば、骨折しそのまま
寝たきりになることも多いだろう。
長生きするのも善し悪しだと思うが、
寿命は自分では決められないので、
生きている間、ボケずに健康でいられたらと思う。
病気になって、ネタきりで、下のお世話も
他人に任せ、頭もぼんやりで、自分で何も
できないような状態で、それで生きていくのは
やはり避けたい。
もっと言えば、意識のない状態で管に繋がれ、
生きている老人もいるだろう。
それは「生きている」ことになるのだろうか。
世の中には 90歳を過ぎても、現役で
仕事をされている方もいる。
先日、1931年生まれ、94歳の医師、
藤井英子さんの記事を読んだ。
藤井さんは、89歳の時に開業した。
それは、89歳の医師を雇ってくれる病院が
なかったからだ。
医師を続けるには、開業するしか
選択肢がなかったのだという。
その方がどんな健康法で 94歳にして
元気でいられるのかまでは書いていなかった
けれど、そんな風に生きられたら素敵だ。
サックス・プレイヤーの渡辺貞夫さんは、
現在 93歳だが、今も現役で全国でプレイを
されている。
もともと持って生まれた身体のポテンシャルも
あるだろうから、誰もがそんな風に 90代を
生きられるわけではないとは思うけれど、
今の、私の場合 60代の生きる姿勢が、
80代 90代の人生を決めるような気がしている。
2026.9.22
ソクラテスの弁明
プラトン 著 納富信留 訳

まさか自分がギリシャ哲学の本を
手に取ることになるとは思わなかった。
本書は、プラトンが書いたソクラテスの
裁判における弁明。
ちょっと前まで、ソクラテスが一冊も著書を
残していないことさえ、知らなかった。
それどころか、いつの時代の人かも
分かっていなかった。
ソクラテスは対話は得意だったようだが、
文才はなかったと言われているようだ。
もしかしたら、対話に忙しく、本を書いている
暇などなかったのかも知れないし、
目の前にいる人と対話することが重要で、
文字では伝わらない、と思っていたのかも知れない。
ソクラテスが死後 2400年以上経っても
「西洋哲学の祖」と言われ続けるのは、
弟子のプラトンが ソクラテスの対話を
書物にしたからだった。
(ソクラテスの死後、プラトン以外の
何人もの人が ソクラテスのことを書物にした。)
この『ソクラテスの弁明』には
いくつもの日本語訳がある。
一番古いものは、明治36(1903)年から
44(1911)年にかけて刊行された
木村鷹太郎訳の『プラトーン全集』らしい。
日本では 100年以上かけて、何人もの
人によって何度も訳されている。
特に 1960年代に出版されたものが
多いのは興味深い。
このたび 私が読んだのは、2012年に
出版された、光文社古典新訳版。
これは解説が充実しており、
とてもわかりやすいと評判だった。
プラトンなんて、どうせ何が書いてあるか、
素人には分からないだろうと思っていたが、
その評判を目にしたので読んでみることにした。
訳者は、納富信留(のうとみのぶる)。
少し前に YouTube で、東京大学の哲学の
教授が高校生向けに講義している動画を見つけた。
少し観てみて、とても分かりやすい、と思った
(まだ全部観てなくて、ブックマークしたままなのだけど、
こういう先生の講義が無料で聴けるのはスゴイね。)
知らずに買ったのだが、その講義をしていた先生が、
本書の訳者、納富教授だったのだ。
本書は本編より、解説の方がページ数が多い。
はっきり言って、本編(ソクラテスの弁明)より
解説が素晴らしい。
いや、本編あっての解説だから、
けっしてそんなことはないのだけど。
ソクラテスの弁明部分は、ソクラテスに対し
正直「何言うとんねん、このオッサン」と
思ったところもあったのだけど、解説のおかげで
やっとソクラテスに触れたような気がした。
「何言うとんねん、このオッサン」という反応は、
恐ろしいことにソクラテスを有罪にした当時の
アテナイの市民陪審員達と変わらないことに
途中で気が付いた。
訳者もそのことは指摘している。
もともと、本書を読もうと思ったきっかけは、
池田晶子の『無敵のソクラテス』を読んだから
なのだけど、ソクラテスが今も西洋哲学の祖と
呼ばれ続ける意味が少しは分かったよ。
何より本書を読んでの収穫は、ソクラテスは
「無知の知」とは言っていないことだ。
ソクラテスは「知らないと思っている」と言ったのだ。
「知らないと思っている」と「無知の知」は
正確にはイコールではない。
ソクラテスは、自分の「不知を自覚」していた。
そのことを日本では「無知の知」という言葉に
誰かがしてしまったようだ。
プラトンは「無知」と「不知」という言葉を区別していて、
「不知を自覚していないこと」を「無知」と呼んだ。
ソクラテスが賢者と呼ばれる所以は、
自分が不知であることを自覚していたことなのだな。
ソクラテスは「(私は)知らないと知っている」ではなく
「(私は)知らないと思っている」と言った。
このふたつには、大きな違いがあるのだな。
なぜなら、ソクラテスの大前提は
「(自分は)知らない」である。
「(自分は)知らない と 知っている」と言ってしまうと、
「知っている」ことになってしまい、大前提と矛盾する。
「知らないと思っている」は、答えではなく、まだ「問い」の
最中にいる表現、問い続ける態度でもあるわけだ。
こんなことは哲学を勉強している人にとっては、
基礎なんだろうけど。
そして『ソクラテスの弁明』の最大のポイント。
そして、なぜソクラテスは、裁判にかけられ
死刑になったのか。
助かる道があったであろうになぜソクラテスは、
毒杯を飲んだのか。
これについても、分かりやすい解説で
理解することができた。
2400年経っても人間は、全く成長(進化)して
いないことを、諦めではなく、ソクラテス、
プラトンのスピリットとして、問いとして
受取りたいと思う。
もうひとつ興味深いのは、ソクラテスは
神を信じていたこと。
過去、欧米には信仰心のある哲学者も
多くいたかも知れないが、現代はどうであろうか。
私の狭い知識の印象では、現代では哲学と
宗教は遠いものになっているような気がする。
(これは単に不勉強である可能性もあるが。)
元々日本は宗教色の薄い国であるから、
(そんなに多くの日本の哲学者を知らないけど)
少なくとも池田晶子からは 宗教への信仰は
感じられない。
一方で、ソクラテスは、哲学の営みを
神からの使命と信じていたかのようであることに
まだまだ、私の理解はついて行っていないのであった。
★★★★▲
< 参考サイト(分かりやすい)>
『ソクラテスの弁明』をはじめて読む人にオススメの翻訳書&解説書
不知の自覚とは?無知の知との違い・具体例をソクラテスから解説
< 参考動画 >
謎が多い『ソクラテスの弁明』は、どのように理解すればいいのか?|納富信留
2026.9.21
母が死んだ(其の六)
8月17日、甥とふたりで母を病院に連れて行った。
左足が腫れているのは、血栓があるかも知れない
との疑いから検査をすることにしたからだ。
病院では検査と検査の間、検査のあとの
医師の結果説明までの待ち時間が長かった。
おまけに全てが終わった後、会計までの
待ち時間も長かった。
時間は昼の12時を過ぎていた。
車椅子に座った母は、空腹もあって
「なんでこんなに待たされるんや。とろい」と
待合室全体に聞こえるような大きな声で言った。
もちろん、本人は自分の声が大きすぎるなどとは
思っていないし、その場にいる他の人に
聞こえていることも知らない。
私は、会計窓口に「午後に支払に戻ってきます」と
言い残し、先に食事に行くことにした。
行きたい和食の店が閉まっていた。
近くに3年前に死んだ伯母(母の姉)が
50年位前に働いていたステーキ屋があった。
母には、肉は良くないかなと思ったが、
「食べるか?」と訊くと「食べる」というので、
行ってみることにした。
その店は、伯母が働いていたこともあって、
姉が高校生のときにアルバイトしていた
こともある。
私もこの店に行くのは、50年ぶりぐらいだったと思う。
あの頃とは、内装も雰囲気も変わってしまっていたけど。
母は、赤身ステーキを頼んだ。
一口食べて「柔らかい」と嬉しそうだった。
少しして「このお肉味付けは?」というので、
母の目の前にあるステーキソースの入った
皿を指さし「それを付けて食べ」と答えた。
5分も経たないうちに母は同じことを聞いた。
数切れ残して「もう食べられない」というので
私と甥が残りを食べたのだが、
赤身ということだったけど、なんだか脂っぽかった。
病院に支払に戻っている間、母は甥と
コンビニに行き、車の中でハーゲンダッツの
アイスクリームをペロリと食べた。
いくつになってもスイーツは別腹だそうだ。
アイスクリームというか糖分の威力は凄い。
アイスクリームを食べたあとの母は、
顔色も心なしか良くなったようで、
元気が戻ったように見えた。
母との外食はそれが最後になった。
どうせならもっとおいしいお肉を食べさせて
あげたかった。
その検査の日以降、急激に母は弱って行った。
もともと食事の量は減っていたけれど、
ほんとに食べなくなっていったようだ。
私は、それは自然なことだと思う一方で、
あの日の肉が良くなかったのではないかとも思った。
関係ないかも知れないけど。
検査、外食の日から1週間で、いよいよ、
母を緩和病棟に入院させるところまできた。
24日、病院と打合せをして、8月27日の入院を決めた。
母は、25日、26日と2日続けて転倒した。
たぶんトイレに行こうとして、ベッドから立ち上がる際に
転んだんじゃないかと思う。
部屋にはベッドからトイレまで、手すりを付けて
もらっていたし、転んだ際のけが防止にと、
8月のはじめにはホームセンターで買ってきた、
クッションマットを敷き詰めてあった。
しかし、26日の転倒は かなり痛かったようで
骨折していてはいけないからということで、
救急搬送したいと、老人ホームから電話があった。
結局、27日の入院予定は、
1日早まり 26日の夜の入院になった。
幸い、骨折などはなかったようで良かった。
27日、妻とともに病室を訪れた。
母に「どう?」と聞くと「しんどい」と言った。
しんどそうな表情だが意識は
はっきりしているようだった。
先生からの説明を聴きに診療室へ。
昨年の入院時の主治医だった若い男性の医師だ。
話の内容としては、特に新しい情報はなかった。
緩和病棟は、治療はせず、患者の苦痛を
とり除き、看取るのが目的の病棟。
なので、詳しく検査を繰り返したりもしない。
この病院の緩和病棟で、父も姉も逝った。
私は医師に
「あとどれくらいでしょう?」と訊いた。
「1カ月は持たないと思います」
という回答だった。
その日、私は実家に泊まった。
翌日夕方、東京に帰る前にもう一度、母に会いに行った。
母は、ちょうどオムツを交換されているところだった。
ついに、自力でトイレに行けなくなったのだと思った。
母は前日より落ち着いている風に見えた。
「今4時」だと言うと
「4時?4時に起きてきたん?」と言う。
夕方の4時だと告げると「朝も夜もわからん」と、
昼夜が分からなくなっているようす。
口数は少ない。
「もうおかあさん、あかんな」
「病院はイヤや」
私は返す言葉が見つからず、ただ黙って聴いた。
母は時折、ナースコールのボタンを見つめる。
「これ押すの わかるのかな?」
「何がわかるの?」と聞くと
「寿命」とよくわからないことを言う。
「しんどい時に押す。しんどい時はもう終わり(の時)やわ」
「お腹すいた」
食欲はあるようだ。
やせ細った母を見て、初めて祖母に似ていると思った。
祖母は私が 19歳のとき(1982)、74歳で死んだ。
74歳というと今では若い方だが、
90歳の母同様、骨と皮だけだったのが
19歳の私には強烈だった。
私の人生で最初の身内の死が祖母だったんだ。
「また来るね」と言うと
母は「ありがとう。無理しないで」と言った。
それが母と交わした最後の会話となった。
病院を出てから、駅に向かって歩き出すと、
突然、何かが込み上げてきた。
悲しいとか 寂しいとか つらいとか ではない、
言語化できない何か。
その情動は、それが最初で最後だった。
それから9日後に意識のない母に対面した時も、
母の死を聞いた時も、冷たくなった母に
対面した時にもあんなことはなかった。
あとになって思うと、あの会話が最後だと
どこかのレベルで知っていたのかも知れない。
あの日が私の母との別れだったのだと思う。
2026.9.19
母が死んだ(其の伍)
(其の四)では、母は晩年、認知症のせいで
父や姉とうまく行かなくなったと書いた。
もちろん、私も難しい場面が何度かあったが、
一緒に暮していなかった分、父や姉ほどでは
なかったと思う。
認知症と言っても、母は自分の名前や
生年月日、住所は最後まで言えたし、
家族のことが分からなくなるようなことはなかった。
記憶は、新しくて 自分に関わりの薄いものほど
残らないようで、私が退職したことも覚えて
いないようだったし、妻の両親が亡くなったことは
覚えていられなかったようで、
何度も言わなければならなかった。
一方で、夫と娘(私の父と姉)が
死んだことははっきりと覚えていた。
自分の娘に先立たれたことは、最大のショックで
あったようで「毎日(なんで先に死んだんやと)
写真に文句言うてる」と私に漏らしたこともあった。
それでも、いつ死んだのかは覚えていられなかったのか、
あちこち命日と享年を記したメモが残っていた。
母は、長年糖尿病であった。
最後の4年近くは、老人ホームでの
規則正しい生活と食事のおかげか、血糖値が
問題になることはなかったが、入所当初、本人は
ずい分と血糖値のことを気にしていた。
調べてみると、糖尿病の人は認知症の
発症リスクが約2倍だそうだ。
母の認知症と糖尿病に関連があったのか
どうかまでは分からないけど、統計的には
糖尿病の人に認知症になる人が多いのは
間違いなさそうだ。
母は新しいことはあまり覚えていなかったが、
何十年も前のことは、かなり詳細に話していた。
以前、「記憶は話すたびに上書きされる」と
何かで読んだことがある。
だとすると、母の話には 事実に母自身の
無意識な創作が加わっていても不思議ではない。
1年くらい前だったか、母と電話で話していたとき
母が「あんたがコンビニでアルバイトをしていたとき」
と言い出した。
私は「一度もコンビニでバイトしたことはない。
誰かと思い違いしているんじゃないか」と言うと
「なんでやの、してたやんないの。
なんでそんなことを言うの?」と
少し取り乱したように言った。
あとから思えば、あれは正に認知症の
症状であったと思う。
私がコンビニでバイトしていたかどうかの真偽など
全くどうでも良いことで、「ふんふん」と話しを合わせて
聞いてあげれば良かったと思う。
そんな風に「母がボケている」ということは知っていても、
ついついそのことを忘れて接してしまうことが多かった。
姉との間でもよくあった。
姉が母に「こんなこと言われた」
「こんなこと言うてた」と私に電話してくる。
私は自分がターゲットでないので冷静に
「しょうがないやん。オカン、ボケてんねんから」
と応える。
姉は「あぁそうや。そうやった。
また引っかかってしまた。
分かってんねんけどなぁ」と言う。
別の時は、私が母に言われたことに腹を立て
姉に言うと「しょうがないやん、ボケてんねんから」と
言われて「しまった!またひっかかった」てな感じだった。
数年前、伯母(母の姉)が亡くなる前、
私は伯母の認知症を全く見抜けなかった。
節々に話しの不自然さ、違和感を感じていても
その違和感に焦点をあててみようとはしなかった。
母が老人ホームに入所したとき、
親戚(父の従妹)に電話をして、苦情を訴えた。
「子供に無理やり老人ホームに入れさせられた」と。
それは間違ってはいないけど、なぜそうなったかの
背景は語らず(語れず)、家に帰りたいと
訴えたわけだ。
すぐに そのおじさんから私に
「一体、どうなっているんだ?」と
電話がかかってきた。
「母が転倒し立ち上がれなかったから
救急車を呼んだ。
その日、母は二度転倒した。
自宅で生活するのはもう危険だと判断したので
老人ホームに入れた。
本人は立ち上がれなかったことは覚えていない」
と説明すると「そうやんたんか」と
納得してくれた様子だった。
電話で話すと母は全く普通で認知症だなんて、
分からないから騙されてしまう。
母にすれば、騙しているつもりはないのだけど。
ところで、認知症になっても
「自分に都合の悪いことは言わない」のは、
ボケてないときと一緒やねんな。
これって自分を守るための 本能かしら。
人間て おもろいな。
「母が死んだ」シリーズ、其の伍まで来たが、
なかなか母との想いでを綴るに至らない。
いや、今まで書いてきたことも今日書いてることも
母との想い出と言えばそうなんやけど。
どこに向かっているのかも分からないが、
まだもう少し続きそうで終わりが見えない。
こういうのは、自分がよしと思えるまで
書いてみるしかないだろう。
2026.9.19
フルマラソン 6時間を切れるのか(6)
9月は滋賀に行ったり、大阪に行ったりした上、
母の死もあり、おまけに長雨ということもあって、
ほとんど走れていない。
2日に走ったあと、次に走ったのが昨日。
中15日、2週間以上練習をサボってしまった。
サボった訳ではないねんけど。
本番までひと月半を切ったのに
こんなんで大丈夫か。
と、心配になるが、昨日16日ぶりに
10キロ走ったけど、体力に全く衰えを
感じなかったのは良かった。
走らない日は、室内でエクササイズ
しているのも効いているんちゃうかと思う。
ペースは相変わらずで、とてもじゃないが
フルマラソン6時間切りは
奇跡が起こらない限り、叶いそうにない。
6時間切りは、ほぼ完全に諦めています。
さて先日、ニューシューズを入手した。
シューズは大体 500キロから 700キロ
走るとダメになる。
今 練習で履いている靴は、すでに 450キロ
走ったので、本番用にと新しいものを購入したのだ。
今回も アルトラを選んだ。
ALTRA ESCALANTE 4

アルトラはこれで3代目。
今履いているのが「エスカランテ3」という
モデルだが、ニューシューズは、
そのアップデート版「エスカランテ4」。
最新モデル「5」が出ているのだけど、
「4」は旧モデルなので幾らか安く手に入った。
アルトラの一足目は「エクスペアレンス」という
ドロップ(つま先とかかとの高低差)が4ミリの
ものだったが、「エスカランテ」シリーズは
ドロップ・ゼロ。
つま先とかかとがフラットなものだ。
履いた印象は、軽くて靴下のようにフィットする。
以前、安いベアフッド・シューズも買ったけど
それはソールが薄すぎて、長時間履くのには
向いていなかった。
(慣れれば違うのかも知れないけど)
アルトラはクッションもあり、足が疲れない。
普段履きにも欲しいのだが、
いかんせん見た目はあまりカッコよくない。
2026.9.18
母が死んだ(其の四)
父と母は仲が良い夫婦だったと思う。
私が小学生3年生か4年生だったとき、
一度大げんかをして、父が「出ていけ!」と
怒鳴ったことがある。
夜遅く(たぶん9時ごろ)のことで、
私と姉はすでに寝室にいた。
母は「明日出ていく」と言ったらしいが、
父は収まりが付かず「今すぐ出ていけ!」と怒鳴った。
怒鳴った父は、私たちの部屋に来て
「お母さん、出ていくからな」と言った。
私も姉も何が起こったのか訳も分からず、
そんな経験は初めてのことで、
ただ黙っているしかなかった。
後日の母の話では、父が私たちに
「お母さん、出ていくからな」とわざわざ言ったのは、
子供たち(私と姉)に「お母さん、出て行かんといて」と
言って止めて欲しかったんだろうということだった。
それは、父に確かめたことはないので、真相は
分からないけど、「今すぐ 出ていけ!」と怒鳴って
引っ込みがつかなくなった父が、子供らに助けを
求めた可能性は十分にある。
夜の9時過ぎに家を追い出された母は、
国道沿いのラブホテルに一人で泊まったらしい。
細かいことは覚えていないけど、翌日には
何ごともなかったかのような、いつもの父と母に
戻っていたような気がする。
そんなこともあったけど、基本的に仲の良い夫婦で、
父はたまに仕事関係の人を家に招いて、
母の料理を自慢していたことも覚えている。
40代から 60代ぐらいまでの母は、とても
充実した人生を送っているようにも見えた。
生まれ変わっても父と結婚するというような
ことを言っていたし、いつ死んでも後悔がないと
言っていた。
父も「久子(母の名)命」のような人だと
思っていた。
それが、高齢になってから少し変わった。
正確にいつからとは言えないのだけど、
70代後半ぐらいからだろうか、
母が変なことを言うようになった。
原因は、認知症だと思っている。
印象的で覚えているのは、ある年の正月、
両親と私たち夫婦と甥(両親の孫)と
5人で食事をしている最中に母が、その時点で
60年近く前の、本当にあったかどうか
分からないような父の女性問題を話し出した。
自分がとてもつらい思いをした、と。
私は「それ、孫の前でする話か?」と思った。
口に出して言ったかもしれない。
父は一切の弁解も弁明もしなかったが、
かなりの怒りを堪えているように感じた。
その頃から、父と母の関係はギクシャク
しだしたように思う。
母は「父のことを怖い」と言い出した。
ある時は「(父が)怒ってお皿を投げた」と言った。
姉も私も「あの父が?」と首を傾げた。
よほど逆鱗に触れるようなことを言ったのだろうが、
母に何を言ってそうなったのか尋ねても、
答えられるはずもなかった。
母は自分が、父が怒るようなことを
口にしているという自覚は全くない様だった。
その頃はそれが認知症の始まりだとは、
父も姉も私も気付けなかった。
あの頃、母は病気だと捉えることができれば、
少しは違う対処ができたのかも知れない。
いや明らかに母がおかしくなってきているのは
分っていたけれど、どう対処して良いのか
分からなかったのだな。
専門家に相談すれば良かったのかもしれない。
しかし、人間の心理というか脳は面白い。
あんなに父のことを悪く言い、
「結婚しなければ良かった」などと、
息子の私に向かって言っていた母は、
父が死ぬと一切の悪口を言わなくなった。
死んだらみんな、ええ人になるんやなぁ。
父が死に「さびしい、さびしい」と言っていた母は
一度だけ、私に
「(父を)私がイジメたからなぁ」と言ったことがある。
私には「母がイジメたから父が死んでしもた」と
言っているように聞き取れた。
私が「イジメたの?」と聞き返すと
母は何も答えなかったけど。
姉は、2018年から両親と住み始めた。
そんな母とやっていくのは姉には難しかった。
(誰でも難しいわ)
当時、母は飲んでいた薬の副作用もあって、
かなり、めちゃくちゃなことを言っては、
翌日には覚えていない、というようなこともあったらしい。
そのうち、父が死に、姉は癌になった。
姉の癌が分かったとき(2023年春)、
母はすでに老人ホームに入っていた。
母は自分が娘の看病をできないことを、
ずい分と憂いていたが、姉は病気の
しんどさもあり、母と距離を置いた。
こんな風に書いていると、
良い人生だったのに、終わりの方だけ
なんだか、哀しい人生だったなぁ。
2026.9.17
母が死んだ(其の参)
正月に会った時、90歳になった母に
それまでとは違う衰弱を感じた。
この1~2年、会うたびに弱っていくのを
手に取るように感じていたけど、
いよいよ夏まで持たないだろうと思った。
結局、私の予想は外れ母は夏まで生きたが、
8月に入って、その衰弱はガタンと
音を立てたかのように進んだ。
転倒による慢性硬膜下血腫の疑い。
左足のむくみから考えられる血栓の疑い。
血栓が肺に飛べば一巻の終わり。
血栓のための薬を出すと、体内で出血の
リスクが高まる。
おまけに本人には告知しなかったが、
昨年11月には胆管癌が見つかっていた。
奇しくも私の誕生日(8月7日)に
医師は「3ヵ月だろう」と言った。
血栓があるかどうかの検査、
あった場合、治療をするかどうかの
判断を迫られた。
こういう判断は全て私がしなければならない。
本人にはもう判断力がないからだ。
たとえ余命があまりないと分かっていても、
自分の判断次第で、死期が早まったり
かえって苦痛を増すことがあるかも知れないと
思うと判断を下すのが難しかった。
ネガティブ・ケイパビリティの求められるところだ。
母の苦痛を少しでも和らげること、
それを目的に 最善は何かを考え、
8月の半ばに血栓があるかどうかの検査をした。
結果、血栓が見つかり、薬を出してもらうことにした。
そのあと、足の浮腫(むくみ)が いくぶん
ましになったので、すこしは楽になったのかも知れない。
8月の半ばの時点では、たぶん9月か
10月だろうと思っていた。
10月に1週間船旅をする予定があって、
その時に重なるとイヤだなと思った。
出発前なら、旅行をキャンセルすればよいが、
旅の途中だと厄介だと思った。
しかし、これだけはコントロールの利くことではない。
人が死ぬ日だけは、誰も選べないんだ。
もし、そうなったら そのときのこと。
なるべく余計な心配はしないことにした。
9月は比較的予定が少なく、先週と今週は
たまたまだけど私は何も予定が入っていなかった。
こんなことは珍しい。
そうしたら、先週の火曜日9月8日に母は死んだ。
5年前の父のときも、3年前の伯母のときも、
2年前の姉のときも、今回の母のときも、
通夜や葬儀のために私が何か予定を
調整しなければならないことがなかった。
まるで、そういうときを選んで逝ったかのようにさえ思えた。
特に姉との最後の会話が死ぬ数時間前の
「今日何曜日?」だったのは、逝く日の確認の
ようにさえ思えた。
そのタイミングを選んでくれたことに感謝した。
が、今回の母の場合は、少し違う感じがした。
前述のとおり、母は私の予定が何もないときを
選んでくれたように見える。
父、伯母、姉、母だけではない。
昨年死んだ義父と義母のときもそうだった。
義母のときは、通夜や火葬はやはり
スケジュールの変更をしなくて良かったが、
葬儀の日が火葬の4日後で、行きたかった
コンサートと重なってしまい、それだけは行けなかった。
これは、義母が死んだ日というより、
生きている人間(家族やお寺)の都合で、
葬儀がその日になったので仕方がなかった。
今回の母の場合、少し違う感じがしたというのは、
それは故人がその日を選んだというより、
”そうなっている” という感じがしたのだ。
故人がその日を死ぬ日に選んだといえば、
そうだし、その日に私が予定を入れてなかったと
いえばそうだし、いずれにしろ、そんなレベルの
ことではなく、これは ”そうなっている” 。
なぜそうなっているのかは、
神秘で不思議で説明のつかないこと。
そんな風に感じたんだ。
違う言い方をすれば、なぜその日に死んだのか
私(達)は、知らない。
知る術もない。
だからといって、感謝がないというわけでもない。
それとは別の次元の話しね。
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