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 つつみしんやのひとりごと 
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2026.9.19

母が死んだ(其の伍)

(其の四)では、母は晩年、認知症のせいで
父や姉とうまく行かなくなったと書いた。
もちろん、私も難しい場面が何度かあったが、
一緒に暮していなかった分、父や姉ほどでは
なかったと思う。

認知症と言っても、母は自分の名前や
生年月日、住所は最後まで言えたし、
家族のことが分からなくなるようなことはなかった。
記憶は、新しくて 自分に関わりの薄いものほど
残らないようで、私が退職したことも覚えて
いないようだったし、妻の両親が亡くなったことは
覚えていられなかったようで、
何度も言わなければならなかった。

一方で、夫と娘(私の父と姉)が
死んだことははっきりと覚えていた。
自分の娘に先立たれたことは、最大のショックで
あったようで「毎日(なんで先に死んだんやと)
写真に文句言うてる」と私に漏らしたこともあった。
それでも、いつ死んだのかは覚えていられなかったのか、
あちこち命日と享年を記したメモが残っていた。

母は、長年糖尿病であった。
最後の4年近くは、老人ホームでの
規則正しい生活と食事のおかげか、血糖値が
問題になることはなかったが、入所当初、本人は
ずい分と血糖値のことを気にしていた。

調べてみると、糖尿病の人は認知症の
発症リスクが約2倍だそうだ。
母の認知症と糖尿病に関連があったのか
どうかまでは分からないけど、統計的には
糖尿病の人に認知症になる人が多いのは
間違いなさそうだ。

母は新しいことはあまり覚えていなかったが、
何十年も前のことは、かなり詳細に話していた。
以前、「記憶は話すたびに上書きされる」と
何かで読んだことがある。
だとすると、母の話には 事実に母自身の
無意識な創作が加わっていても不思議ではない。

1年くらい前だったか、母と電話で話していたとき
母が「あんたがコンビニでアルバイトをしていたとき」
と言い出した。
私は「一度もコンビニでバイトしたことはない。
誰かと思い違いしているんじゃないか」と言うと
「なんでやの、してたやんないの。
なんでそんなことを言うの?」と
少し取り乱したように言った。
あとから思えば、あれは正に認知症の
症状であったと思う。
私がコンビニでバイトしていたかどうかの真偽など
全くどうでも良いことで、「ふんふん」と話しを合わせて
聞いてあげれば良かったと思う。
そんな風に「母がボケている」ということは知っていても、
ついついそのことを忘れて接してしまうことが多かった。

姉との間でもよくあった。
姉が母に「こんなこと言われた」
「こんなこと言うてた」と私に電話してくる。
私は自分がターゲットでないので冷静に
「しょうがないやん。オカン、ボケてんねんから」
と応える。
姉は「あぁそうや。そうやった。
また引っかかってしまた。
分かってんねんけどなぁ」と言う。

別の時は、私が母に言われたことに腹を立て
姉に言うと「しょうがないやん、ボケてんねんから」と
言われて「しまった!またひっかかった」てな感じだった。

数年前、伯母(母の姉)が亡くなる前、
私は伯母の認知症を全く見抜けなかった。
節々に話しの不自然さ、違和感を感じていても
その違和感に焦点をあててみようとはしなかった。

母が老人ホームに入所したとき、
親戚(父の従妹)に電話をして、苦情を訴えた。
「子供に無理やり老人ホームに入れさせられた」と。
それは間違ってはいないけど、なぜそうなったかの
背景は語らず(語れず)、家に帰りたいと
訴えたわけだ。
すぐに そのおじさんから私に
「一体、どうなっているんだ?」と
電話がかかってきた。

「母が転倒し立ち上がれなかったから
救急車を呼んだ。
その日、母は二度転倒した。
自宅で生活するのはもう危険だと判断したので
老人ホームに入れた。
本人は立ち上がれなかったことは覚えていない」
と説明すると「そうやんたんか」と
納得してくれた様子だった。
電話で話すと母は全く普通で認知症だなんて、
分からないから騙されてしまう。
母にすれば、騙しているつもりはないのだけど。

ところで、認知症になっても
「自分に都合の悪いことは言わない」のは、
ボケてないときと一緒やねんな。
これって自分を守るための 本能かしら。
人間て おもろいな。


「母が死んだ」シリーズ、其の伍まで来たが、
なかなか母との想いでを綴るに至らない。
いや、今まで書いてきたことも今日書いてることも
母との想い出と言えばそうなんやけど。

どこに向かっているのかも分からないが、
まだもう少し続きそうで終わりが見えない。
こういうのは、自分がよしと思えるまで
書いてみるしかないだろう。





2026.9.19

フルマラソン 6時間を切れるのか(6)

9月は滋賀に行ったり、大阪に行ったりした上、
母の死もあり、おまけに長雨ということもあって、
ほとんど走れていない。
2日に走ったあと、次に走ったのが昨日。
中15日、2週間以上練習をサボってしまった。
サボった訳ではないねんけど。

本番までひと月半を切ったのに
こんなんで大丈夫か。
と、心配になるが、昨日16日ぶりに
10キロ走ったけど、体力に全く衰えを
感じなかったのは良かった。
走らない日は、室内でエクササイズ
しているのも効いているんちゃうかと思う。
ペースは相変わらずで、とてもじゃないが
フルマラソン6時間切りは
奇跡が起こらない限り、叶いそうにない。
6時間切りは、ほぼ完全に諦めています。

さて先日、ニューシューズを入手した。
シューズは大体 500キロから 700キロ
走るとダメになる。
今 練習で履いている靴は、すでに 450キロ
走ったので、本番用にと新しいものを購入したのだ。
今回も アルトラを選んだ。

ALTRA ESCALANTE 4


アルトラはこれで3代目。
今履いているのが「エスカランテ3」という
モデルだが、ニューシューズは、
そのアップデート版「エスカランテ4」。
最新モデル「5」が出ているのだけど、
「4」は旧モデルなので幾らか安く手に入った。

アルトラの一足目は「エクスペアレンス」という
ドロップ(つま先とかかとの高低差)が4ミリの
ものだったが、「エスカランテ」シリーズは
ドロップ・ゼロ。
つま先とかかとがフラットなものだ。
履いた印象は、軽くて靴下のようにフィットする。
以前、安いベアフッド・シューズも買ったけど
それはソールが薄すぎて、長時間履くのには
向いていなかった。
(慣れれば違うのかも知れないけど)
アルトラはクッションもあり、足が疲れない。
普段履きにも欲しいのだが、
いかんせん見た目はあまりカッコよくない。





2026.9.18

母が死んだ(其の四)

父と母は仲が良い夫婦だったと思う。
私が小学生3年生か4年生だったとき、
一度大げんかをして、父が「出ていけ!」と
怒鳴ったことがある。
夜遅く(たぶん9時ごろ)のことで、
私と姉はすでに寝室にいた。
母は「明日出ていく」と言ったらしいが、
父は収まりが付かず「今すぐ出ていけ!」と怒鳴った。

怒鳴った父は、私たちの部屋に来て
「お母さん、出ていくからな」と言った。
私も姉も何が起こったのか訳も分からず、
そんな経験は初めてのことで、
ただ黙っているしかなかった。

後日の母の話では、父が私たちに
「お母さん、出ていくからな」とわざわざ言ったのは、
子供たち(私と姉)に「お母さん、出て行かんといて」と
言って止めて欲しかったんだろうということだった。
それは、父に確かめたことはないので、真相は
分からないけど、「今すぐ 出ていけ!」と怒鳴って
引っ込みがつかなくなった父が、子供らに助けを
求めた可能性は十分にある。

夜の9時過ぎに家を追い出された母は、
国道沿いのラブホテルに一人で泊まったらしい。
細かいことは覚えていないけど、翌日には
何ごともなかったかのような、いつもの父と母に
戻っていたような気がする。

そんなこともあったけど、基本的に仲の良い夫婦で、
父はたまに仕事関係の人を家に招いて、
母の料理を自慢していたことも覚えている。

40代から 60代ぐらいまでの母は、とても
充実した人生を送っているようにも見えた。
生まれ変わっても父と結婚するというような
ことを言っていたし、いつ死んでも後悔がないと
言っていた。
父も「久子(母の名)命」のような人だと
思っていた。

それが、高齢になってから少し変わった。
正確にいつからとは言えないのだけど、
70代後半ぐらいからだろうか、
母が変なことを言うようになった。
原因は、認知症だと思っている。

印象的で覚えているのは、ある年の正月、
両親と私たち夫婦と甥(両親の孫)と
5人で食事をしている最中に母が、その時点で
60年近く前の、本当にあったかどうか
分からないような父の女性問題を話し出した。
自分がとてもつらい思いをした、と。
私は「それ、孫の前でする話か?」と思った。
口に出して言ったかもしれない。
父は一切の弁解も弁明もしなかったが、
かなりの怒りを堪えているように感じた。

その頃から、父と母の関係はギクシャク
しだしたように思う。

母は「父のことを怖い」と言い出した。
ある時は「(父が)怒ってお皿を投げた」と言った。
姉も私も「あの父が?」と首を傾げた。
よほど逆鱗に触れるようなことを言ったのだろうが、
母に何を言ってそうなったのか尋ねても、
答えられるはずもなかった。
母は自分が、父が怒るようなことを
口にしているという自覚は全くない様だった。

その頃はそれが認知症の始まりだとは、
父も姉も私も気付けなかった。

あの頃、母は病気だと捉えることができれば、
少しは違う対処ができたのかも知れない。
いや明らかに母がおかしくなってきているのは
分っていたけれど、どう対処して良いのか
分からなかったのだな。
専門家に相談すれば良かったのかもしれない。

しかし、人間の心理というか脳は面白い。
あんなに父のことを悪く言い、
「結婚しなければ良かった」などと、
息子の私に向かって言っていた母は、
父が死ぬと一切の悪口を言わなくなった。

死んだらみんな、ええ人になるんやなぁ。

父が死に「さびしい、さびしい」と言っていた母は
一度だけ、私に
「(父を)私がイジメたからなぁ」と言ったことがある。
私には「母がイジメたから父が死んでしもた」と
言っているように聞き取れた。
私が「イジメたの?」と聞き返すと
母は何も答えなかったけど。

姉は、2018年から両親と住み始めた。
そんな母とやっていくのは姉には難しかった。
(誰でも難しいわ)
当時、母は飲んでいた薬の副作用もあって、
かなり、めちゃくちゃなことを言っては、
翌日には覚えていない、というようなこともあったらしい。

そのうち、父が死に、姉は癌になった。

姉の癌が分かったとき(2023年春)、
母はすでに老人ホームに入っていた。
母は自分が娘の看病をできないことを、
ずい分と憂いていたが、姉は病気の
しんどさもあり、母と距離を置いた。

こんな風に書いていると、
良い人生だったのに、終わりの方だけ
なんだか、哀しい人生だったなぁ。





2026.9.17

母が死んだ(其の参)

正月に会った時、90歳になった母に
それまでとは違う衰弱を感じた。
この1~2年、会うたびに弱っていくのを
手に取るように感じていたけど、
いよいよ夏まで持たないだろうと思った。

結局、私の予想は外れ母は夏まで生きたが、
8月に入って、その衰弱はガタンと
音を立てたかのように進んだ。
転倒による慢性硬膜下血腫の疑い。
左足のむくみから考えられる血栓の疑い。
血栓が肺に飛べば一巻の終わり。
血栓のための薬を出すと、体内で出血の
リスクが高まる。
おまけに本人には告知しなかったが、
昨年11月には胆管癌が見つかっていた。
奇しくも私の誕生日(8月7日)に
医師は「3ヵ月だろう」と言った。

血栓があるかどうかの検査、
あった場合、治療をするかどうかの
判断を迫られた。
こういう判断は全て私がしなければならない。
本人にはもう判断力がないからだ。
たとえ余命があまりないと分かっていても、
自分の判断次第で、死期が早まったり
かえって苦痛を増すことがあるかも知れないと
思うと判断を下すのが難しかった。
ネガティブ・ケイパビリティの求められるところだ。

母の苦痛を少しでも和らげること、
それを目的に 最善は何かを考え、
8月の半ばに血栓があるかどうかの検査をした。
結果、血栓が見つかり、薬を出してもらうことにした。
そのあと、足の浮腫(むくみ)が いくぶん
ましになったので、すこしは楽になったのかも知れない。

8月の半ばの時点では、たぶん9月か
10月だろうと思っていた。
10月に1週間船旅をする予定があって、
その時に重なるとイヤだなと思った。
出発前なら、旅行をキャンセルすればよいが、
旅の途中だと厄介だと思った。
しかし、これだけはコントロールの利くことではない。
人が死ぬ日だけは、誰も選べないんだ。
もし、そうなったら そのときのこと。
なるべく余計な心配はしないことにした。

9月は比較的予定が少なく、先週と今週は
たまたまだけど私は何も予定が入っていなかった。
こんなことは珍しい。
そうしたら、先週の火曜日9月8日に母は死んだ。
5年前の父のときも、3年前の伯母のときも、
2年前の姉のときも、今回の母のときも、
通夜や葬儀のために私が何か予定を
調整しなければならないことがなかった。
まるで、そういうときを選んで逝ったかのようにさえ思えた。

特に姉との最後の会話が死ぬ数時間前の
「今日何曜日?」だったのは、逝く日の確認の
ようにさえ思えた。
そのタイミングを選んでくれたことに感謝した。

が、今回の母の場合は、少し違う感じがした。
前述のとおり、母は私の予定が何もないときを
選んでくれたように見える。
父、伯母、姉、母だけではない。
昨年死んだ義父と義母のときもそうだった。

義母のときは、通夜や火葬はやはり
スケジュールの変更をしなくて良かったが、
葬儀の日が火葬の4日後で、行きたかった
コンサートと重なってしまい、それだけは行けなかった。
これは、義母が死んだ日というより、
生きている人間(家族やお寺)の都合で、
葬儀がその日になったので仕方がなかった。

今回の母の場合、少し違う感じがしたというのは、
それは故人がその日を選んだというより、
”そうなっている” という感じがしたのだ。
故人がその日を死ぬ日に選んだといえば、
そうだし、その日に私が予定を入れてなかったと
いえばそうだし、いずれにしろ、そんなレベルの
ことではなく、これは ”そうなっている” 。
なぜそうなっているのかは、
神秘で不思議で説明のつかないこと。
そんな風に感じたんだ。
違う言い方をすれば、なぜその日に死んだのか
私(達)は、知らない。
知る術もない。

だからといって、感謝がないというわけでもない。
それとは別の次元の話しね。





2026.9.16

母が死んだ(其の弐)

死んだ母が、夢に出てきた。
理由は分からない(夢の中では分っていた
ように思う)けど、私が何かをして
母に叱られ、激しい往復ビンタを喰らった。

夢の中の私は子供ではなかったように
思うのだけど、夢の中では大人か子供の区別も
曖昧で、年齢もない。

往復ビンタを喰らった私はそのまま寝た。
翌日、寝ていた部屋のふすまを開けると
母がいたようだが、口を利かずに出かけた。

出かけた先で友人に会った。
母に往復ビンタを喰らった話を
その友人に話しながら、変な点に気付いた。
ビンタされた部屋も私が寝た部屋も
私が幼稚園から小学3年生まで
住んでいた家のようだったんだ。
それで、あのビンタされたことは
「夢だったと思う」と友人に話す。
その話している自分も夢の中だとは
気付いていないのだけど。

なぜビンタされたか、思い出そうとしても
思い出せない。
そばには父もいたような気がする。
考えていると、ビンタしたのか本当に母だったのか
どうかも分からなくなってくる。
でも、確かに友人には「母にビンタされた」と
話していたんだな。

目が覚めて、妻に「母にビンタされた」と
言うと、「お母さんに何悪いことしたの?」と
訊かれた。
その場では「何もしていない」と答えたけど
いっぱい心当たりがあるよ。
書かないけど。

おかあちゃん、ごめんなさい。





2026.9.15

三浦綾子

20代後半に 三浦綾子にハマった時期があった。
当時販売されていた多くの小説やエッセイを読んだ。
たぶん、20冊ぐらいか、もしかしたら
もっと読んだかもしれない。
三浦さんはクリスチャンだが、その影響で
宗教嫌いだった私が日曜日に教会へ行き、
その場で聖書を買ったほどだった。
結局、教会へ行ったのはその一度きりで、
聖書も本棚の飾りになっただけだったけど。

もう30年以上も前だが、三浦さんの本で
読んだいくつかの言葉は今も私の心に残っている。

「人は、人を殺して人殺しになるのではありません。
人は、人殺しだから、人を殺せるのです」
これは、強烈だった。
自分もいつ人を殺すか分からないのだと、
思った覚えがある。
これは「気を付けて生きなさい」
「目覚めていなさい」という教訓だったと思う。

また聖書の言葉で
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。
ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、
いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてに耐える」
というのがあるのだけど、この「愛」を
「自分」と置き換えて読みなさい、という
いうようなことも書いてあって、
全くそんな風に生きていない自分は
キリスト教の崇高さに触れたような気がした。

「結婚したからといって夫婦になるのではありません。
一生かかって夫婦になっていくのです」
なんていうのも印象に残っている。

さて、昨日のニュースで、三浦綾子記念文化財団が
専務理事を解職したとの記事を読んだ。
三浦綾子記念文化財団は、北海道旭川市で
三浦綾子記念文学館を運営している。
その文学館事務局長を務める男性専務理事
(53)が、なんと、業務用パソコンに大量の
児童ポルノを保存していたという。

勝手に文学館の招待券を発行していたことが
ばれて、その調査の過程で見つかったらしい。
また、家族のフェリーの代金を財団の
クレジットカードで支払うというような
せこいこともやっていたようだ。

パソコンから見つかったのは、女児の裸などの
画像や動画。
その数5千ファイル以上だという。

なんたること。
記事には
「元専務理事は保育士だった。
日本基督教団牧師の資格を持ち、
道内の教会を担当していたことがある」
とある。

保育士で 牧師が 児童ポルノ……

2016年に観た映画『スポットライト
世紀のスクープ』を思い出した。
あれは、カトリック教会が組織ぐるみで
神父による児童への性的虐待を何年にも
わたり、隠蔽してきたという事実を暴いた
米国の新聞記者たちの実話に基づく映画だった。

こういう牧師や神父と呼ばれるおっさんたちは
神が怖くないのかね。
神への畏れよりも 児童好きの方が
勝っているのかね。
なんやよう分からんけど、
天網恢恢疎にして漏らさず ですな。

三浦綾子さんが、もし生きていたら
何と言ったであろうか。
財団としても、忸怩たる思いでしょう。





2026.9.14

akarin

YouTubeで見つけた「akarin」という
10歳の女の子。
10歳という年齢を感じさせないギターを弾く。

ちょっと前に Eric Johnson の
『Cliffs Of Dover』や Andy Timmons の
『Electric Gypsy』を弾いている動画を観て、
この子はただ者ではないと思っていたのだが、
今日、彼女のオリジナル曲がアップされた。
『omoide』というタイトルのその曲。
「わたしの想い出をたくさんつめました
聴いてもらえたらうれしいです」と
概要欄には書いてあるのだが、
この曲が素晴らしい。
エレキギターのこと、分かってらっしゃるというか
おいしいフレイズ満載です。

ダンナ、この子、10歳ですぜ、
やばいっす。

Akarin - omoide (original) 10歳


ちなみに YouTube には、6歳の頃からの
ギタープレイがアップされているが、
6歳の時から、ただ者ではない。





2026.9.13

母が死んだ

9月8日未明、母が死んだ。
享年 90。

「他界した」とか「息を引き取った」とか
婉曲な表現を避け、わざと「死んだ」と書いている。
なぜなら「死んだ」に違いないからだ。
その現実を婉曲な表現でごまかすことはしたくない。

母と最後に会ったのはその2日前(6日)で、
すでに意識はなく、声をかけても反応がなかった。
その前に会ったのは、8月28日。
26日に緩和病棟に入院しており、
もう歩けないほどに弱っていた。

もう長くないのは分っていたので、
8日に大阪に行くつもりだった。
7日に主治医から「長くない」との電話をもらい
7日中に大阪に行くことも考えたが、
8日まで持つだろうと思った。
結果的には、8日の午前3時ごろ
病院から「呼吸が止まっている」との電話が
あったので、大阪にいたとしても死に目には
会えなかっただろう。

9月9日は、奇しくも母と父の
67回目の結婚記念日。
その日に母を荼毘に付した。

5年前、父は 90歳と9ヵ月で死んだ。
5歳違いの母も 90歳だったので計算してみると、
父は、90歳と9ヵ月4日、
母は、90歳と9ヵ月 20日で、
母の方が少し長生きだった。
負けず嫌いの母だから
少しだけ長く生きしたのかな。
母の親兄弟の中では、今のところ、
90歳まで生きた人はおらず、一番の長生きだ。

この6年間で、父、姉、母が死んだわけだが、
残念ながら誰一人として、死に目に会うことは
叶わなかった。
まあ、それは大して重要なことでは
ないのだろうけど。

考えてみると、この5年間で死んだ親族は
両親と姉の3人だけではない。

2021年 父(享年90)
2021年 叔父(父の弟・享年85)
2023年 伯母(母の姉・享年89)
2024年 姉(私の姉・享年64)
2025年 義母(享年90)
2025年 義父(享年93)
2026年 伯母(父の姉・享年97)
2026年 母(享年90)

なんと8人。
こんなにも短期間に多くの親戚、親族が
死ぬのは もちろん人生で初めてのこと。
享年を観てもらえば分かる通り、
姉の 64をの除いては、そういう歳だったと
いうことなのだけど。
残念なことに、ここに友人(同級生)も加わっている。
「死」は本当に身近なことなのです。

さて、母のこと。
約4年間、母は望んでいない
老人ホームでの生活を強いられた。
強いたのは他でもない私と、
2年前に死んだ姉だ。

4年前、母が家の中で転倒し立ち上がれなかった時、
同居していた姉が救急車を呼んだ。
母は救急搬送され、そのまま入院となった。
骨折などはなかったが、
入院中にコロナにも罹った。

退院後は、住宅型有料老人ホームに
「リハビリ施設」と偽って入所させた。
これは姉のアイデアであったけれど、
私も同意したので姉と同様に私にも責任がある。

母は、すぐにそこがリハビリ施設などではなく
老人ホームであることを見抜いた。
当たり前だ。
リハビリなんてしないのだもの。

母は、家に帰りたがった。
姉が生きているうちは姉が対応してくれていた。
2年前、姉が癌で死んでからも、
母は「一人で暮らせる」と言い、
何度も私とぶつかった。

母は、自身が姑とうまく行かなかった。
「老いては子に従え」という言葉を
私は小学生の時に覚えた。
が、その母は老いても 子に従うことに抵抗した。
曰く「私の人生である」と。

とてもじゃないが、母が一人暮らし
できるなんて思えなかった。
私ひとりの考えではなく、ケアマネージャーや
老人ホームの担当者に聞いても同じだった。

でも、母の家への執着は強かった。
認知症が進んでおり、まともな母だったなら
言わないであろうひどい言葉も浴びた。
「私を殺す気か」
「子供なんか生まなきゃ良かった」

「(老人ホームから出られるように)弁護士を立てる」
などと言うこともあった。
そんなことできる訳もないのだけど。

「私の人生だ」と言われれば、全くそうなのだけど、
だからといって、一人暮らしなどさせられるわけでも
ないことは、母の認知症も手伝ってか
とうとう 分ってもらえなかった。

老人ホームでの生活は、買い物など外出もままならず、
また食事も(病院食のようで)おいしくない、
と母の不満は溜まる一方だった。
私にできることは、たまに母を食事に
連れ出したり、お菓子を買って行くぐらい。

今となっても、確かに母の一人暮らしは
無理だったし、姉が生きていた時に
家に帰したとしても、階段から落ちるか、
転んで骨折をするか、火を使って
火事を出すか、そんなところだっただろうと
思うのだけど、それとて、自分のしたこと
(老人ホームに入れ続けた)の正当化の
ようにも思えてならない。
だからって、ほかにどうすることも
できなかったのだから、自分を責めているわけでも
ないし、後悔があるわけではない。

ただ、夫を亡くし(21年)、自分の姉を
亡くし(23年)、娘を亡くし(24年)、
ずい分寂しい思いをし、おまけに家に帰れず、
自由に外出もできず、死にたくても、これだけは
自分ではどうにもならず、つらい時間を
過ごしたのだろうと思うと、意味不明に
申し訳ない気持ちもある。

先日、老人ホームの部屋の荷物も片付たのだが、
誰に宛てたというわけでもない日記のような
手紙のようなメモがいくつも残っていた。
その中には、先に書いた境遇への怒りや
悲しみもあったけど、むしろ、周囲の人
(入院中知り合った人、死んだ父・姉、
姉の子供(孫)、私の妻、私)への感謝の方が
多く綴られていたことが私には救いだった。

ホームのスタッフや看護師の方々は、
お仕事だろうから、一々感傷的になることも
ないだろうと思っていたけれど、母の死を
本当に悲しんでくださっているように
思えたことも私には救いだった。

母は昭和10年生まれだが、この時代の人の
多くは今では考えられないような苦労をした。
母も中学卒業後、15歳で田舎の宮崎から
就職のため出てきて、弟妹が4人もいたため、
給料の半分を実家に送り続けたという。

勉強ができるのなら何でも良かったと、
美容院の住み込みに入り、美容師の免許を
取ったものの手の平に汗をかく体質のせいで
その道には進まなかったと聞いたこともある。
でも、ハサミは持っていたんだな。
子供の頃、散髪にも行っていたけど、
時々、母に髪の毛を切ってもらった覚えがある。
大きな鏡がなかったせいで、右左の髪の長さが
微妙に違っていたのも良い思い出だ。

自分が生まれた時、家にいた3人、
父、母、姉がいなくなった。
生まれたときから、いるのが当たり前だった
3人がいなくなった。
4人家族の私以外の3人が、死んでしまった
ことの意味は大きいような気がする。
どんな意味かと言われても、いま正確に
言語化できないのだけれど。
もしかしたら、死んだのは死んだということで
あって 何の意味もないのかも知れないけどね。

これで天涯孤独になったわけでもなく、
今のところ、何より妻がいてくれるし、
甥や姪、母の兄弟の叔父、叔母がいる。
あと従妹も。(父の兄弟は全員死亡)
それに友人もね。

でも、人間は死ぬ。
全員、必ずね。

どうも人間には、生きることは良いことで、
死ぬことは良くないことだという思い込みがある。
不思議なことに、死んだ人の話しは聞いていないのに
なんで、生きることが良いと
信じ込んでしまったのだろうね。
その方が、生きていくのに都合が良いからかな。
もしかしたら、死は生よりも良いかも知れないのに。

ま、この世で 生きていた人がいなくなること、
会えなくなることは、寂しいことには違いないけど。


母の想い出を書くのは、また今度にしよう。





2026.9.12

14歳の君へ
どう考えどう生きるか

池田晶子 著




先月読んだ『14歳からの哲学 考えるための
教科書』(2003年)のあと、刊行された
『14歳の君へ どう考えどう生きるか』
(2006年)。

この2冊についてご本人のあとがきには、
内容的にはあまり変わりはないが、
『14歳からの哲学~』は「かなり原理的な
ところから、ものごとの考え方を説き起こした」
とあり、『14歳の君へ~』の方は、
「もう少し柔らかく、ある意味で読みやすく、
エッセイふうに書いてみました」とある。
確かに読みやすくはあったが、
64歳のおっさんにも
「こんなことも知らんと64歳まで生きてきて
しもたんか!」と思うようなこともあり、
十分な読み応えでした。

14歳(中学生)が本書を読んで、
いったいどう思うのか、とても興味がある。
というのも、私が14歳であれば、
間違いなく途中で、投げ出したような
気がしてならない。
だから、64歳になって読んでるんやろうけど。
(というか、私が14歳の時にこの本は
まだ書かれてないねんけどな。)

私は高校時代、嫌いな教科、たとえば
古文、漢文、日本史、世界史など
勉強する意味が全く分からず、
授業も試験も本当にイヤだった。
先生に「こんなの覚えても将来役に立つと
思えないのになぜやらなければいけないのか?」
と質問した覚えもある。
その時の答えは(正確には覚えていないけど)
「普通教育だから一通りやっとかないと」
みたいな回答だったような気がする。

池田はこう書いている。
「君が勉強が面白くないのは、それがなぜ
自分に関係があるのかわからないからだったね。
だけど、この世界では自分に関係のないこと
なんか一つもない。
すべて自分に関係のあることなんだと思って、
世界を見て、勉強するようにしてごらん。
勉強するということの意味と面白さが、
わかるようになるはずだ。
国語、数学、理科、社会、英語、どれも
勉強することにはそれなりの意味がある。
それぞれが、それぞれの仕方で、この
世界のことを知ろうとして探求している
ものだからだ。
そして、世界に自分に関係のないことは
ないのだから、「世界を知る」ということは、
「自分を知る」ということだ。
「自分を知る」ことでこそ、
人間は賢くなることができる。」

うーむ。
14歳どころか、高校生の 18歳の私が
この言葉を聞いたとて、嫌いな科目を
真面目に勉強(というか暗記)しようとは
思ったとは思えない。
なにしろ当時の私の頭の中は、ギターと
女の子のことで見事に一杯だったからな。
それでも「この世界では自分に関係の
ないことなんか一つもない」とか
「それぞれの仕方で、この世界のことを
知ろうとして探求している」とか
「「世界を知る」ということは、
「自分を知る」ということだ」とかいう
フレイズは、ちょっとは刺さったんやないか、
自作曲の歌詞のワンフレーズに
使ったんやないか、と思うわけです。
もしかしたら、ずっと心に残って、
その観点で世界を観たかも知れないと
思うわけです。
「当時、こんな先生がいたらな」と思うこと
自体がもうすでに他力で、自分で考えて
いない証拠なんでしょね。とほほ。

そのほかの印象に残った文章も記しておこう。

大勢の人間が集まって社会というものを
形成すると、その社会というものは、
確かにどうも悪い方向へと向かう。
それで昔から人々は、理想社会(ユートピア)
というものの形を思い描いてきたわけだが、
でもこれはよく考えると、その発想の仕方が
すでに間違っている。
必要なのは、理想的な社会ではなく、
理想的な人間だ。
社会を構成する一人一人が理想的な
人間になる以外に、理想社会の実現なんか
不可能だということに、どういうわけか、
人間は気がつかないんだね。
(p. 87)

善悪の問題は難しいから、たいていの人は
自分で考えることをせずに、自分の好き嫌いに
従って生きるか、逆に、誰かが決めてくれた
善悪に従って生きるようになる。
これが普通に思われている「道徳」だ。
親や学校や世の中が、何となくそうだと
思い込んでいる「決まり」、その決まりを
決めているのが善悪で、それに従うのが
道徳的なことなのだと、世のほとんどの
人は思い込んでいるんだ。
(p. 95)

社会や時代や状況とともに変わって
しまうような価値は、本当の価値ではない。
本当の価値は、いつどこでどんな時でも同じ
変わらない価値でなければならない。
なぜなら、変わるもので変わるものを
導くことはできないからだ。
(p. 167)

自分を認め、他人をねたまず、
何かを誰かのせいにもしない。
すべてそのまま受け容れる。
そういう心が、不幸でない幸福な心だ。
人は心で不幸になっている。
自分で自分を不幸にしていると
気づくなら、君の心はきっと
幸福になるはずだ。
(p. 175)


よく読むと、当たり前のことばかりなのに
気が付いていないんだよな。
なぜなら
「考えてない」からなんだわ。


★★★★☆





2026.9.7

大塚オーミ陶業

2年前に徳島県鳴門市にある
大塚国際美術館に行った。
大塚国際美術館は、世界26か国1000点以上の
本物そっくりの実物大の名画を陶板で
展示してある人気の美術館。
(国内の数少ない黒字の美術館らしい。)
その陶板を製作したのが、大塚オーミ陶業だ。

大塚オーミ陶業の本社は大阪だが、
滋賀県甲賀市信楽町に工場がある。
先日、その工場のショールームに行ってきた。
現在は、ショールーム見学の受付は
受け付けていないのだが、全くの偶然で
妻が大塚オーミ陶業の方とつながり、
特別に見学が実現したのだ。
ただ見学するだけだと思って行ったら、
なんと社長自らの、大変丁寧な
会社の歴史や陶板製作の説明、
ショールームに展示されているサンプルの
説明まで、聴かせて頂くという貴重な
体験となった。
これが全く知らない世界で
大変興味深いお話しであった。
東京、埼玉、静岡、愛知、兵庫、徳島など
全国から妻の仲間たち 14名が集まったのだけど、
14名だけではもったいないような機会だった。

陶板は実物を見ないと、紙に印刷したものとの
違いやディテールは分からない。
ショールームの見学は会社にしてみれば、
陶板のことを広く世の中に知ってもらえる機会でも
あるのだろうけど、大塚美術館設立の目的とも
重なっているわけだ。

最近は絵画だけではなく、仏像や土器など
立体も手がけておられ、素人が観ただけでは
本物と見まがうほど。

その製作の過程は、気が遠くなるような細かい、
繊細な作業の繰り返し。
芸術であると同時に職人による匠の技。
そこへ最新技術が加わり、ますます
リアリティを増していくのであった。

工場見学をして、もう一度、大塚国際美術館に
行きたくなったので、たぶん行くと思う。
今度は、もっとゆっくり時間をかけて観たい。


ショールーム見学中



大塚国際美術館

[ 関連エントリー ]
2024.10.29 大塚国際美術館





2026.9.6

無敵のソクラテス
第三章 さよならソクラテス
第四章 対話はつづく

池田晶子 著




『無敵のソクラテス』の第三章は、
1997年刊行の『さよならソクラテス』。
『帰ってきたソクラテス』、
『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』に続く
ソクラテス対話シリーズの第三弾である。
『さよならソクラテス』は、1996年から
97年にかけて「新潮45」に連載されたものなので、
テーマがその当時に話題になっていたことが多い。

前二作に続いて池田は、ソクラテス、
クサンチッペ、プラトンの口を借りて、
ばっさばっさと斬り捨てる。
当時刊行された書籍を批判しているものもある。
『脳内革命』(春山茂雄)、
『女の哲学のことはじめ』(三枝和子)など。
渡辺淳一の『失楽園』なんて、大丈夫かと
心配になるほどの斬りようだ。

『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』のあとがきに
「その実名の方からの反論その他を
頂戴したことは、なぜか一度もない」と
と書いてあった。

『失楽園』を「これが文学なのだろうか」、
「立派な情痴小説」とバッサリ斬り、あげく
クサンチッペに「聞こえたら怒るわよ」と言われると
「怒る理由がないよ。
何億っておカネがはいる売れっ子の小説家が、
貧乏な一哲学者の正直な感想に、
いちいち怒る理由がないよ」と
ソクラテスに言わせる始末。
こんな風に書かれれば、反論する方が
恥ずかしくて何も言えなくなるわな。

心理学者との対話では、
「汝ら偽善者は、まず初めに自身の目から
はりを取り払え。さすれば、物明らかに見え、
汝の兄弟の目からちりをとり除くも可なり」
というキリストの言葉に対し、
「ああ馬鹿だな。「汝ら偽善者」と呼び
かけられて、どこのどいつが、よその誰か
でなく自分のことだと思うと思うかね。
だからあの男はやり方が下手だと、
いつも言っとるのだ。人間というものを
まるでわかっとらん」とソクラテスに言わせている。

そのほか印象に残った文章を記しておこう。

〈ソクラテス〉 金は無価値で、金儲けは
卑しいなんてのは学者の寝言で、金儲けが
卑しいとするなら、卑しい心で金儲けするからに
すぎんじゃないか
(p. 327)

〈ソクラテス〉 哲学は何を築くものでもないな。
また、とくに新しくなるものでもないな。
(P. 384)

〈ソクラテス〉 愛と性欲とを間違えない
なんてのは、じつはちっとも難しいことでは
ないのだ。とても簡単なことなのだ。
〈クサンチッペ〉 どんなふう?
〈ソクラテス〉 うん、愛というのは、相手が
どのようなのであれ愛するということであり、
性欲というのは、どのような相手であれ、
するということだ。
(P. 400)

〈クサンチッペ〉 大金持ちになって大贅沢
すること、それがいったいなんなのよ。
確かに、それはそれで幸せかもしれないけど、
だからって、それが必ず幸せだってわけじゃない。
金持ちだってことが、幸せだってことじゃない。
みんな、なんか勘違いしてるんでないか。
金持ちだってことが幸せだってことだったら、
金持ちでなくても幸せな方が、よほど安上り
じゃないか、よほど幸せのはずじゃないか。
(p. 452)

〈池田某〉 哲学の始まりは、日常のこと
でしょう。哲学と日常が別のものだなんて
思っているのは、哲学をわかってないか、
日常をわかってない、つまり両方とも
わかってないということです。
(p. 467)

〈プラトン〉 美しい女は美しいが、
美しさそのものに比べて美しいわけじゃない。
(p. 492)

〈プラトン〉 美しさそのものは眼に
見えるものではない。
眼に見える美しいものを、美しいもの
たらしめているところのものが、眼には
見えない美しさそのものなのですから。
だからこそ、われわれ愛知者の魂は、
眼に見える美しいものの向こうに、それが
よって来たる美しさそのものを想起して、
それをこそ焦がれて追いかけてゆくのですよ。
(p. 492)


★★★★▲


第一章、第二章には★4つをつけたが、
全章(一冊)読んでの感想は ★★★★▲





2026.9.4

Char
50th Anniversary Tour 2026




Charさんの デビュー50周年記念 全国ツアーは、
6月28日に始まり、7月から8月にかけて
全国13都市を周り、本日が最終日だった。
今年は、初日(かつしかシンフォニーヒルズ
モーツァルトホール)と最終日(NHKホール)を
観ることができた。

今日はギターがとても冴えてたし、声もよく出ていた。
と、6月28日にも同じことを書いている。
もしかしたら、50代の頃より
よく声が出ているのではないかと思った。
デビュー当時の曲は、キーが高いように感じるが、
きっと、喉のケアなど気をつけているんだろうな。

今さら、Charさんのギターを聴いて
「上手い!」とかいうのもなんだけど、
ギタープレイは、数回唸らされてしまった。
2ヵ月強ツアーを周ってきて、ええ感じに
タイトに仕上がってたという印象。

席は2階後ろの方で、ステージまで
ちょっと遠く、やや不満。
以前ならA席かB席だっただろうけど、
最近はそういう安い席は設けず、
全席指定という公演も珍しくない。
本公演も然り。
とはいうものの、NHKホールは2階でも
観やすいし、音も良いと思う。

ギターは、いつものピンクペイズリーのマスタング、
バーガンディミストのストラトキャスター、
『Move On』ほか数曲で、ESP のチャーモデル
(6弦がDまででるタイプ)、アンコールの
『Wodering Again』では、レスポールのゴールドトップ。

曲は6月28日と大体一緒だったけど、
少し違ってた。
『The Leading Of The Leaving』、
『空模様のかげんが悪くなる前に』、
『かげろう』、『Another Face』、
『All Around Me』、『Future Child』、
『ネイビーブルー』、『逆光線』、『闘牛士』
『Shin’ You Shinin’ Day』、『Smoky』
『Move On』、『Livin' In Tokyo』、
『Anytime』、『Apple Juice』、
『Wodering Again』、『Rainbow Shoes』など。
アンコールで何曲やっただろ。
終わってみたら、2時間45分だった。
休憩なしね。
そうそう、アンコールでは観客にリクエストを
聞く場面があり『Jeff's Boogie』を演ったよ。
ジェフといえば、Charさんは何かの曲の
ギターソロのとき、2回ジェフの曲のメロディ
(『Freeway Jam』ともう1曲は何だったか忘れた)が
出て来てたし、小島さんも『Led Boots』のリフ弾いてた。

デビューから50年が経ち、71歳になった Charさん。
デビュー当時は生意気でイヤな奴だったと
自分で言ってたけど、尖がってなきゃ、
ロック・ミュージシャンなんてなれないもんな。
まだまだ元気で続けて欲しいです。


[ MEMBERS ]
Char (Guitar&Vocal)
小島良喜 (Key)
澤田浩史 (Bass)
Tully Ryan (Drums)

@ NHKホール





2026.9.1

MIKE STERN BAND
featuring DENNIS CHAMBERS,
RANDY BRECKER, LENI STERN
& LINCOLN GOINES




本日から4日間8公演のマイク・スターン。
初日の 2d show を観てきた。

今回のメンバーは、昨年と比べると
ドラムはデニス・チェンバースのままで、
奥方であるギターのレニも変わらず。
ベースがリチャード・ボナからリンカーン・ゴーインズに、
ホーンがボブ・フランセスチーニ (sax) から
ランディ・ブレッカー (tp) に替わっている。
(このふたりも過去にマイクとの来日あり。)

さて、ライヴの方はというと、とても良かった。
昨年のエントリーを読むと「20回以上
観ているが、今日はその中でもかなり良かった」
と書いているが、本日も然り。
大変エネルギッシュというのか、
パワフルというのか、
エモーショナルというのか。
観客の反応も良かった。
観客の反応が良いと、プレイヤーは
もっと良くなるからね。

あいかわらず、デニチェンのドラミングは
キレキレで、スリップ・ビートも炸裂してた。
この人がメンバーの中で、一番楽曲を
把握しているように感じた。
去年も一昨年も一緒に来日しているから、
長く演っているということもあるのかも知れない。
リンカーン・ゴーインズは、やや地味目な印象。
ランディ・ブレッカーは、そんなに好きだと
思ったことはないのだけど、今日は良かったな。
トランペットの音にエフェクトをかけるのは
好きではないのだけど。
レ二・スターンは1曲目の唄が素晴らしかった。

曲は『Echoes』、『Wishing Well』、
『Chatter』など。
アンコールはいつものジミヘン。

マイク・スターンを初めて聴いたのは
40年ぐらい前、ボロアパートに住んでいた頃、
同じアパートに住んでいたハラダさんという方の
部屋で、レコードを聴かせてもらった。
ジャズなのに、テレキャスター。
ジャズなのに、ディストーション。
ジャズなのに、チョーキング、というのが新鮮だった。

今では、もう20年以上、たぶん
来日のたびに観に行っていると思う。
観に行ったライヴの記録を付けてあるが、
数えてみたら、マイクを観るのは今日で
26回目だった。
そんなに行っているとは思わなかった。
年に2、3回行った年もあったからな。
コロナの影響で、2020年に予定されていた
渡辺貞夫さん、リチャード・ボナとの共演が
キャンセルになったのは 今でも残念だ。
あの公演は2回観に行くつもりで予約していたのに。

マイクはもう 73歳。
ランディ・ブレッカーは、なんと 80歳!


[ MEMBERS ]
Mike Stern (g)
Dennis Chambers (ds)
Randy Brecker (tp)
Leni Stern (g)
Lincoln Goines (b)

@ BLUE NOTE TOKYO
2nd show





2026.8.29

カレーはスポーツだ! #91
ビーフカレー / サンマルコ(アルデ新大阪店)
★★★▲☆


久しぶりの「カレーはスポーツだ!」。
久しぶりのサンマルコ。
「サンマルク」というカフェ・チェーンがあるけど、
「サンマルコ」は別の店だ。

大阪に「KYK」というファスナーのメーカーの
名前みたいなトンカツのチェーン店がある。
私が大阪にいた30数年前なら、
トンカツと言えば「KYK」だった。
今は知らんけど。

で、そのKYK(会社名は株式会社曲田〈まがた〉
商店)が経営するカレー・チェーン店が
「サンマルコ」だ。

大阪在住の時代から、ここのナスビカレーが
大好きで、よく食べた。
東京に出てきてからも、新宿ハルクや
池袋の東武百貨店の店でよく食べた。
残念ながら、今では東京の店舗は、
東武池袋店だけだけど。

「カレーはスポーツだ!」の更新が久しぶりだと
いうのは、2023年以前に比べて、ここ最近は
外食が極端に減り、カレーを外で食べることも
ずいぶん減ってしまった。
血糖値を気にし始めたことも大きな要因だ。

でも、たまには良いだろうと、昨日は新大阪駅で
ビーフカレー(980円)にエビフライを
2尾(220×2)をトッピング。
カロリー高めの 税込1,420円なり。



カレーはさほど辛くない。
ビーフは柔らかく煮込まれており、まあまあ
美味しいが、ルーも肉も量がちょっと
物足りないねんな。
エビフライももうひとまわり大きければ嬉しいのだが。
サンマルコは、福神漬けやラッキョでなく、
キャベツのピクルスが付いてくる。
これはちょっと酸っぱくてカレーによく合う。




shinya◇shin223.com
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 ひとりごと