2024年12月
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2024.12.1
Rico Yuzen
『To The Sky』 アルバム発売記念ライブ
Rico さんのライヴ、前に観たのはいつだったろうと
記録を見てみると、なんと2017年12月!
7年も前だったのね、と時の流れの速さに
驚きつつ、今日のライヴ会場
「BODY & SOUL」に向かった。
「BODY & SOUL」、老舗のジャズクラブだ。
青山にあった時は何度か観に行ったことがあるけど、
2021年に渋谷に移転してからは、初めて。
少し広くなったのかな。
青山のお店は、ステージに対して横長だったのだけど
今のお店の方が、見易いと思う。
さて、ライヴ。
まず、バンドが素晴らしかった。
ピアノの堀さん、ベースの安カ川さんは、
ライヴでも観たことがある人たち。
ドラムの小松さんは、サックスの山田さんは
初めてだと思うけど、皆さんそれぞれ、
キャリアのある方々で安定の演奏だった。
Ricoさんは、ニューヨーク録音の3枚目の
CD『To The Sky』を8月にリリース。
そのレコ発で、今日が14か所目だったとのこと。
若い頃、大阪で共演したことがあるのだけど、
NY で3枚ものアルバムを作ること、
アルバム発売ライヴで全国15箇所を廻ること、
東京でのライヴが、BODY & SOUL であること、
どれをとっても、簡単なことではなく、
これまでに色んな事を乗り越えての
今日だったろうな、と歌声を聞きながら
しみじみと思いました。
個人的には『Send In The Clowns』、
日本語の『Very Special Moment』、
そして『Angel Eyes』が、CDよりも
ダークな感じで良かった。
[ MEMBERS ]
Rico Yuzen (vo)
堀秀彰 (pf)
安ヵ川大樹 (b)
小松伸之 (ds)
山田拓児 (sax)
@ BODY & SOUL (渋谷)
[ SETLIST ]
1st set
1, (バンドのみ)
2. What Is This Thing Called Love
3. Moon River
4. Never Far Away
5. Nature Boy
6. Keep Your Smile
2nd set
1. But Not For Me
2. Send In The Clowns
3. No More Blues
4. To The Sky
5. Very Special Moment
6. Angel Eyes
7. Have Yourself a Merry Little Christmas
EC. It Don't Mean a Thing
2024.12.2
1日限定10食の海鮮丼
先日、何年振りかで五反田の「五輪鮨」で
ランチを食した。
店に着いた時、まだ開店前だったのだが、
4人の男性が店の前に並んでいた。
その人たちの話によると 海鮮丼が有名らしく、
限定10食なので、早めに来て並んでいるのだという。
それなら私も食べてみようと注文した。
なんと、海鮮丼に兜焼きが!
ハマチかブリかカンパチか分からないけど、
立派な兜焼きが乗っている。
食べにくいので、それをお皿に移し、
食べ始めたけど、刺身の量も半端じゃない。
しゃりは、そんなに多くはなかったので、
刺身の方が余ってしまうという、
通常の海鮮丼とは逆の事態。
おまけに兜焼き。
これでお椀も付いて、なんと1,000円也!
強力!
2024.12.6
ナナ展2024
国立新美術館 展覧会
友人が2年ほど絵を習っていて、この度、
六本木の国立新美術館での展覧会に
出展したので 観に行ってきた。
一般社団法人七草會というところの
教室の発表会的な展覧会だ。
絵画部門と書道部門があり、絵画部門には、
油彩画、水彩画、日本画、パステル画、
版画など種類も様々。
参加費用は、作品サイズにより33,000円から
77,000円と、それなり。
芸術をたしなむのにはお金がかかるのです。
実は私も来年4月のグループ写真展に
出展を申し込んで出展料を支払ったところ。
その写真会の詳細は、また改めて。
さて、展覧会。
絵画の先生の作品も出展されていたが、
芸術というのは、幼児が書いた作品でも
完成しているので、どれが先生の作品で
どれが生徒さんの作品かは分からない。
中には、素人っぽいと感じるものもあったけど。
いくつかは「有名な画家の作品です」と
言われれば信じてしまいそうなレベルの高い
ものもあった。
友人は、絵を習って2年ほどだが、
もともとアートに興味があったわけでもなく、
絵を描きたいと思っていたわけでもない。
でも、ひょんなきかっけから習い出して、
続いている。
今年は、この展覧会に出展することを
目標にしてきたようだ。
私も退職したら、絵を描きたい、習いたい、
と思っていたけど、なんやかんやでまだ
始められていない。
やりたいこと、多すぎ。
2024.12.7
し つ け
「身」に「美しい」とかいて「躾(しつけ)」。
今年3月いっぱいで、36年半続けた
テレビ番組「サンデーモーニング」の司会を
降板した関口宏さん(81)の記事を読んだ。
関口さんの父親は、往年の二枚目スター、
佐野周二(1912―1978)だ。
といっても私はリアルタイムでは知らないので
名前を聞いてもピンとこない。
上原謙(加山雄三の父親)などと同時代の
人だと聞くとなんとなく「あーそうか」という感じ。
佐野周二は、戦争にも行った人で、記事には
映画監督の小津安二郎との中国戦線での
ツーショット写真もあった。
そういう時代の人だから、父親として厳しく、
礼儀作法にもうるさく、関口さんは子供の頃、
「お父様」と呼んでいたらしい。
そのお父様との思い出話の中に、
こんな話があった。
「僕が4歳くらいの時かな、泳ぎを教えると
言われて舟に乗せられ、なんの説明も
ないまま沖に放り込まれました。
しばらくたって抱き上げられ、メチャクチャに
泣いたことを覚えています。
私が泣き声を高くすると、おやじの笑い声が
それに合わせて高くなったことも。
まあ、それで水が平気になったから
文句は言えませんが。」
これを読んで思い出した。
たぶん私が小学1年生ぐらいだったと思う。
家族で地元にある室内プールに行った。
そこは、夏場はプール、冬場はアイス・スケート場に
なる町内唯一の娯楽施設だった。
まだ泳ぐことができなかった私を
両親のどちらかが プールの中に放り込んだ。
プールに浮き輪なしで入ったことがない私は
とたんに溺れそうになった。
子供の私には、足の届かない深さだったんだ。
その必死にもがく(というかある意味 溺れている)
私の姿をプールサイドから、母と姉が(なぜか
父の顔は浮かばない)大笑いしながら、見ていた。
悪魔だと思った。
残念ながら、関口さんのように
「それで水が平気になった」わけではない。
(長いこと忘れていたけど)55年ほど経っても
楽しい想い出でもない。
あれで、泳げるようになったとかだったら、
全然違うこととして記憶に残るんだろうか。
関口さんと私の想い出の大きな違いは、
関口さんの父親は、関口さんを抱き上げた後
笑っていたとあるが、私の場合は、
溺れかけている私を見て、母(と姉)が
笑っていたのだ。
溺れかけている本人にすれば、笑いごとではない。
生き死にの問題なのだから、全然違う話だわな。
母は覚えていないだろう。(聞いてないけど)
きっと水に慣れさす、泳げるようにするための
躾のつもりだったんだろうけど、
これも躾と呼ぶのかな。
大げさに言うと、恐怖以外、何一つ残されて
いないんだけどね。
まあ、子供が成長して結果的にプラスに
なっていれば、「躾」だろうし、ひとつ間違うと
「トラウマ」だわな。
私の場合「トラウマ」というほど、強烈でもないけど。
ちなみに、私がやっと泳げるようになったのは、
小学4年生の夏休みだったと思う。(遅い)
お風呂で練習し、なんとか少しの時間なら
水(お湯)に顔を付けられるようになり、
前述のインドア・プールではなく、
市民プールで、水に顔を付けて浮いてみて、
手足をバタバタさせたら、前に進んだのが
最初に「泳げた」だ記憶だ。
結構、嬉しかった覚えがある。
その時は、父2人か、父と姉と3人で
市民プールに行ったんじゃなかったかと思う。
余談。
プールの名前が思い出せず、
「柏原市 インドアプール」で検索してみた。
それらしい情報がないので、
「70年代」というキーワードも加えて検索すると、
一番上に AI の回答が。
「柏原市には、70年代にインドアプールが
あったという情報はありません。
ただし、柏原市立サンヒルスポーツセンターには
屋外プールがあります。」
AI は勉強不足やな。
「サンヒルスポーツセンター」は私が大人に
なってから(たぶん80年代)に出来た市立の
施設で、件のプールは、たぶん民間企業の
ものだったと思う。
AI が勉強不足といっても、ネット上に
データがないんねんから、学びようもないわな。
残念ながら、それが分かりやすい AI の限界や。
プールサイド(冬場はリングサイド)に
ジューク・ボックスがあった。
特にスケート場だった冬に、そこで流れる
ビートルズや70年代フォーク(かぐや姫や
吉田拓郎、チューリプなど)が、私の
記憶の奥深い所で、郷愁の元となって
熟成し続けている。
2024.12.9
伯母の最期 その1
5年ぶりの再会
昨年の12月8日、伯母(母の姉)は
89歳で、他界した。
昨日は命日だった。(ジョン・レノンと同じや。)
その伯母の最期について書きたいと思っていたけど
あっという間に1年が過ぎた。
恐ろしいほど時の経つのが速い。
伯母は、滋賀県に住んでいた。
2005年に伯父さんが亡くなって18年間、
ひとり暮らしだった。
子供はいない。
年に一度ぐらいかな、伯母から電話があった。
大体、話は80歳過ぎてもハイヒールを履いているとか
元気にダンスをしているとか、健康自慢が多かった。
しかし、一昨年だったか昨年の春頃だったか、
私の記憶が曖昧なのだけど、転んでケガをした
という話も聞いた。
その時、ハイヒールだったかどうかまで、覚えてないけど。
昨年10月25日、伯母に連絡がつかないことを
心配した伯母の知人が、市役所に安否確認を要請をした。
玄関で呼んでも応答がなく、市役所の人と警察と消防が、
2階の窓から家に入ったところ、伯母は大きな音で
テレビを観ていたらしい。
その時、何か救急搬送するだけの理由
(不整脈か何か)があって、病院に運ばれたんだ。
そして、そのまま病院に入院し、検査をした結果、
心臓の手術の必要があるということになった。
以前から、心臓には問題(弁膜症)を抱えていたんだ。
なぜ知人と連絡がつかなかったかというと、
携帯電話も家の電話も繋がらなくなっていたんだ。
伯母が死んだ後に分かったことだけど、
認知症が進んでいたようで、お金の管理が
出来なくなっていて、電話代も滞納し止められていたんだ。
11月1日、その件でその病院のドクターから
私のスマホに電話があった。
伯母が私の電話番号を緊急連絡先に書いていたんだ。
ドクターが言うには、その入院している病院ではない
別の病院で手術をしたいので、転院の必要があり、
身内に立ち会って欲しい、手術の説明も聞いて欲しい、
というような内容だった。
ちょうどその翌日からアメリカ旅行だった私は、
「なんでこんな時に!?」と思ったけど、
転院の時期がまだ未定だったので、病院には
11月7日までは、日本にいないことを伝えた。
旅行中にも(時差のせいで真夜中に)病院から
電話がかかってきたけどね。
そして、転院の日は、11月10日に決まった。
11月10日、私は仕事を休んで、
朝から滋賀に向かった。
伯母に会うのは、叔父(母、伯母の弟)の
葬儀以来8年ぶりだった。
伯母は、とても強い人だった。
昭和9年(1934年)生まれ。
6人兄弟の一番上、長女。
前述のように、80歳を過ぎても、ハイヒールを履き
社交ダンスを踊るような女性だ。
結婚は、3回。
1回目は離婚だが、2回目と3回目の
夫には先立たれ、子供もいないため、
強く生きるしかなかったんだと思う。
そんな伯母だったが、8年ぶりに会うと
少しマイルドになった印象だった。
いつもは、化粧もしているけど
その時はスッピンだったせいもあるかも知れない。
伯母は「何で来たんや?病院には
『甥(私)には連絡しないで』って言うたのに」と言った。
人の世話になること、人に迷惑をかけるのがイヤなんだ。
この時点では、私は伯母の認知症に全く気付くことが
できなかった。
手術をする病院に転院するため、
タクシーを手配してもらい、その病院を
一旦退院するための手続きをしに窓口に行った。
10月25日から11月10日まで入院し、
検査をしてもらった訳だから当然支払いがある。
約13万円の請求だった。
私が「クレジットカードで立替えるよ」と言うと
世話になることを許容出来ない伯母は、
病院のスタッフに向かって、
「私が退院してから、支払います」と
キッパリ言い切った。
でも、字を書くのも億劫なのか(あとで考えると
これも認知症の影響だったのかも知れない)、
病院のスタッフが差し出した「支払い誓約書」は、
私に代筆を頼んできた。
そして、ここにきてようやく、病院側が、
私に来て欲しがっていた訳が分かった。
伯母は支払い誓約書に(代筆だけど)サインを
したんだけど、それだけでは病院側は不十分なんだ。
その時の伯母が現金を少ししか持っていないことを
病院側は数日前には把握していた。
たぶんクレジットカードを持っていないことも
確認していたんじゃないだろうか。
高齢で、心臓の手術をするのに万が一のことが
あったら、その13万円を払う人がいなくなるもんね。
で、私は連帯保証人の欄にサインをした。
まぁそらそうだわな。
病院は慈善事業じゃないもんな。
それから、タクシーに乗って、
手術をする病院に移動した。
そこで、若いドクターから手術の説明を
伯母とふたりで聞いた。
私は初体験だったが、医療ドラマなどで
観たことのあるシーンだった。
手術は、足の付け根からカテーテルを入れて、
心臓に人工の弁を取り付けるという。
話しを聴いていて、素人の私は、
そんなことが可能なのか、と驚くような内容だった。
ドクターの口ぶりでは、手術自体は、
そんなに難しくないようだが、
カテーテルを通す血管の途中に血栓があって、
それが脳に飛んでしまった場合など、
想定されるいくつものリスクの説明が続いた。
そのひとつ一つについての同意書に
本人のサインが必要だった。
その枚数、A4 サイズの紙で33枚。
本人が署名したのは7ヶ所(この時は伯母は自分で書いた)。
私も「説明を聞きました」という確認書にサインをした。
カテーテルの手術だが、稀にカテーテルでは
心臓まで到達することが出来ず、
その場合、開胸手術になることがあるらしい。
それについても同意がいる。
私は、ドクターにそれについて「同意しない」という
選択をするとどうなるのかと質問してみた。
その場合、もちろん同意のない治療行為は、
病院はやらない。
しかし、後々病気が進行してから、
やっぱり痛いので(しんどいので)手術をして欲しい
となっても、病気が進行してしまった分、
リスクが大きくなるのだという。
そして、そういう例が実際にあるらしい。
伯母は説明を聴いたあと、
「先生、これ(手術が成功するかどうか)は運ですね」
と言ったが、ドクターは
「手術が終われば以前のように踊れるようになりますよ」
と言った。
伯母は「先生、一緒に踊ってくださいね」と応えた。
私は、心の中で(おばちゃん、すごいなぁ)と思った。
まだコロナの影響だったのか、
私は病室には入れてもらえなかったので、
その説明を聴いた後、伯母と別れた。
最後になる可能性もゼロではなかったので、
普段はしたことのない、ハグをしてその場を離れた。
13日に手術のためのカンファレンスがあり、
「手術は15日に決まりました」と病院から連絡があった。
つづく
2024.12.10
伯母の最期 その2
手術は成功したが
11月15日の手術は、うまく行った。
しかし、「退院まで早ければ一週間」と
言われていたのに退院できたのは、
確か11月25日を過ぎていたような気がする。
しかも、正しくは退院ではなく、説明では
「リハビリが必要」ということで、手術前に
入院していたS病院への転院だった。
S 病院でリハビリのあと、12月1日(金)に退院した。
伯母の電話が繋がらないため、本人に様子を
聞くことができなかった。
11月10日に会った時に伯母に
「なんで電話が止まってるの?」と訊いた。
後々、電話代の支払が滞っていたからだと分かるのだが、
その時の伯母は「電話はめんどくさいやろ」と言った。
あんなに話し好きな伯母が「電話がめんどくさい」
なんて、変なことを言うなぁと思ったが、
それ以上その時は考えられなかったんだ。
12月2日(土)の夜、警察より電話があった。
安否確認の要請あり、2階から部屋に入ったところ、
電気が止まっており、暖房がない部屋で
本人はダウンコートを着て丸くなって寝ていたらしい。
土曜日のため市役所は対応出来ず、
警察も連れて行ける施設がないのだという。
警察官曰く「あのままでは凍死する危険がある」。
そんなこと言われても、どうしようもない。
まさか死ぬとは思えなかったので、とにかく
月曜日に市役所に電話をして対応を頼もうと思った。
12月4日(月)、市役所に電話。
福祉課の人が伯母の家まで見に行ってくれていた。
お隣のMさんが、電気代(2万円ほど溜まっていた)を
立替えて払ってくれたので、電気は使えるようになっていた。
「遠くの親戚より近くの他人」とは、正に。
伯母は、何も飲み食いをしていないようで、
水を飲むよう勧めても飲まないし、
おにぎりを持って行っても食べないという。
「とにかく12月6日(水)には行きます」と伝えた。
こういう時、本人と直接話せないのは本当に困る。
同日 夕方S病院から電話。
夕方保健所の人が伯母の様子を見に行ってくれたらしく、
具合が悪かったのでS病院に救急搬送されたとのこと。
処置をして落ち着いたので明日には退院できるが、
もう自宅に帰すのは危険なので、市役所の判断で
特別養護老人ホームに入所させるとのこと。
本人は、渋々承諾したらしい。
12月5日(火)
S病院を退院。
伯母の自宅からは、少し離れた養護老人ホームに入所。
普通は、そんなに簡単に入所出来ないが、
市役所の権限での仮入所だ。
2週間の期限があるので、早急に行先(老人ホーム)を
決めなければならない。
12月6日(水)
会社を休んで、滋賀へ。
米原から在来線、能登川という駅から、
10分ほどバスに揺られ、バス停から歩いて
11時ごろ、養護老人ホームに着いた。
伯母に会う前に市役所の福祉課のHさん、
養護老人ホームのYさんに状況を聞き、
打合せをした。
Hさんは、伯母が老人ホームに入ることに
抵抗するのではないかと心配しているようだった。
伯母と対面。
手術前、11月10日に会った時より、
弱々しくなった印象だ。
「おばちゃん、もうひとり暮らしは出来ないよ。
施設(老人ホーム)に入ろう。
オカン(伯母の妹)がいる施設に
今なら空き部屋があるから、そこに行くか?」
伯母は、素直に「うん」と言った。
事前に母のいる施設の空き部屋を
チェックしてあった。
ちょうど良いタイミングで空き部屋があったんだ。
元々、母と伯母は「同じ施設に入れたらいいね」と
話していたらしく、これがその機会だと思ったのかも知れない。
それに、伯母はもう家には住めないと覚悟したんだろう。
自宅を「処分して欲しい」と私に依頼した。
病院などの支払いがあるので、お金が要る。
預金通帳は、どこにあるのかと訊いても、
「分からない」と言う。
「家に探しに行くよ」と言うと、
「見つけられないよ」と言う。
じゃあ、通帳を再発行してもらいに行こうということに
なったが、その時は、まだ家に行けば見つけられるような
気がしていた。
そんな話しをしていると、お昼になったので、
スタッフが昼食を運んで来た。
伯母は「食べたくない」と言ったけれど、
私は「ひと口でも食べた方がいい」と言った。
「トイレに行くので、部屋を出て行って欲しい」と
言うので、全員、伯母の部屋を出た。
私は、母が入所している施設に電話をかけ、
事情を説明し、入所の申し込みをするから、
空き部屋を仮押さえして欲しいと依頼した。
時間にして、20分ぐらいだっただろうか、
伯母の部屋に戻ると、伯母の様子が急変していた。
トイレに行くため、ベッドから立ち上がろうとは
したんだと思うが、その時、身体に何かが
起こったようで、肩で息をしながら、
「皆んな(部屋から)出て行って」と言う。
何か構われるのもイヤなようで、
かなり、しんどそうだった。
そのうち、老人ホームの看護師さんが、
来てくれたのだけど、何も言うことを聞かない。
しばらく落ち着くまで、伯母とは話もできそうにない。
伯母は JA(農協)の口座を持っているので、
通帳の再発行について、養護老人ホームのスタッフに
必要書類を確認してもらったところ、
本人が行っても写真付きの身分証と印鑑が要るとの
ことだったが、伯母は写真付きの身分証など持っていない。
いずれにしろ伯母はもう出かけられる状態ではなかった。
私は、JA に電話をした。
代理人による再発行の手続きを訊くと、
照会状を本人自宅に郵送して、
本人が委任状を記入して云々。
そして、書類を揃えて行ったとしても、
不備があれば、通帳の再発行はされない。
これは無理だと判断した私は、
伯母の自宅に通帳を探しに行くことにした。
市役所のHさんが公用車で、伯母の自宅まで
連れて行ってくれると言うので甘えることにした。
前日に伯母が入所した養護老人ホームから、
伯母の家までは車で1時間近くかかる距離だった。
私は、伯母から家の鍵をひとつ預かったが、
今後のために合鍵があった方が良いと思い、
伯母の家に行く前に鍵屋に寄ることにした。
スマホで伯母の家の近くの鍵屋を検索したのだが、
一件しか出てこなかった。
伯母の家に行くのに、10分か15分か
遠回りすることになるが、私たちはその鍵屋に向かった。
スマホで見た鍵屋の住所に着いたが、
なぜかそんな店は、見当たらない。
電話をかけてみると、そこは鍵の出張専門で
合鍵は作れないと言う。
スマホで見つけた時、すぐ電話をして
確認すれば良かったんだけど、
こういう時は、こんな風なことが起こるだよな。
合鍵は、後回しにして 伯母の家に向かった。
市役所の人から、話しは聞いていたけど、
伯母の家は想像以上のゴミ屋敷状態だった。
土地が45坪ある、広い家なのだが、
全く床が見えないほど、色んなものが散乱していた。
そして、通販で買ったんだろうか、
使っていない日用品や食品、サプリメント、飲料、
化粧品などが山のようにあった。
ここで生活していたのか?と衝撃を受けた。
1時間ぐらいは、いただろうか、
結局、通帳は発見出来ず。
少しの現金を見つけたので、持ち帰ったけど、
病院や老人ホームの支払いにも、足りない程度だった。
Hさんが市役所に来て上司に会って欲しいと
言うので市役所に向かったが、途中、伯母のいる
養護老人ホームのYさんから、電話がかかって来た。
伯母の状態が悪いので、救急搬送して良いかという。
私は、もちろんお願いしますと頼んだ。
前日入院していたS病院なら、
伯母に関する色んな情報を持っているので、
そこに搬送して欲しいと依頼した。
すぐに折り返しの電話があり、
S病院が受け付けてくれるという報告があった。
しかし、救急隊員の判断で、伯母の状態では、
養護老人ホームから遠いS病院に運ぶのは、
危険だということで、近くの病院(総合医療センター)に
搬送された。
市役所でHさんの上司と少し話した後、
私は再び市役所の車に乗せてもらい、
Hさんに伯母の搬送された病院まで
送ってもらうことにした。
途中、私の携帯に電話があった。
搬送先の病院のスタッフからだった。
つづく
2024.12.11
伯母の最期 その3
危篤
伯母が救急搬送された病院のスタッフからの
電話は、救急処置の同意についてだった。
「人工呼吸器を付ける必要がある時、
付けても良いか?」と質問された。
回復の見込みがある若者ならもちろんのことだが、
89歳の老人に人工呼吸器を付けた場合、
外せなくなることもある。
そのことを確認すると
「そういうこともあり得る」と言う。
人工呼吸器を付ければ、
生き延びるかも知れないのに、
付けないと判断することは、
生かせないということでもある。
しかし、人工呼吸器を付けたところで
先は長くないことも明白で、もしかしたら、
植物人間状態で生かすことになるかも知れない。
自分の母親のことなら、本人も延命措置を
望んでいないことを知っているし、
普段から心づもりもあるが、伯母のことで
私にそんな判断が迫られることになるとは、
考えたこともなかった。
「今、決めなければダメですか?」
「はい」
「本人は、なんと言っていますか?」
「ご本人は、意識がなく答えられる状態ではありません」
私は、腹を括った。
「人工呼吸器は、付けないでください。
いわゆる延命は、何もしないでください」
すると病院のスタッフ(男性)は、こう言った。
「それは、人工呼吸器を付けてまで、
生きていて欲しくないと言うことですか?」
なんという酷い質問をする人だと思った。
医療従事者の口から出たとは、思えない言葉だ。
私は、こう答えた。
「随分と意地悪な質問ですね」
相手は黙った。
彼はそれについては何も言わず、
違うことについての問答をし、電話を切った。
数分後、その病院から再び電話があった。
今度は、ドクターからだった。
かなり深刻な状態で、持っても数時間だと言う。
私が病院に到着するまで、
持たないかも知れないとまで言った。
もうすっかり暗くなっていた。
これ以上、市役所のHさんに甘えるわけにもいかない。
途中の駅まで送ってもらい、そこから電車に乗った。
数時間前には、全く予期していなかった事態が
起こっていた。
元々、私は、伯母を施設に入るよう説得するために
来たのに、危篤になり、最期を迎えようとしている。
車で駅まで送ってもらう途中、Hさんが、
「間に合うと良いですね」と言った。
いや、間にあったんだ。
今日伯母が急変したのは、私が来るのを待っていたんだ、
と思った。
病院に着いたのは、19時を過ぎていただろうか。
正確な時間は覚えていない。
救急で運ばれ、処置を受けた伯母には、
酸素マスクが取り付けられていた。
声をかけたが、意識があるのかどうかも分からない。
ドクターは、意識ははっきりしていないだろうと言った。
私の声が聞こえているのかどうかも分からないが、
身体を触ると目を大きく見開いた。
それから、ドクターの説明を一通り聞いた。
救急搬送だったため、救急隊員からの情報しかなく、
先月、心臓の手術をしたことなどは、
私と電話で話した時に得た情報で、
もう少し早くに情報があれは違う処置も可能だった、
とドクターは残念そうだったが、そんなことは、
もうどうしようもないことだ、
その場その場で関わった人たち全員が
その時最善だと思う判断をした結果なんだと思った。
ドクターは「朝まで持たないだろう」と言うので、
日帰りのつもりだったが、私は簡易ベッドを
レンタルして、病室に泊まることにした。
翌日午前中の仕事は、キャンセルした。
病室に運ばれた時は、息を吐くたびに「あ、あ、」と
声を出し辛そうだったけど、数時間で静かになった。
血圧は緩やかに下がり続けていた。
夜中に何度か看護師が診に来るたびに目が覚め、
様子を見たけど、変わりなかった。
12月7日(木)。
朝6時頃、看護師がやって来て目が覚めた。
血圧は、上が60代後半、下が30代後半だった。
朝になり、ドクターが変わった。
前夜のドクターは「朝まで持たないだろう」と言ったけど、
意識は はっきりしていないものの
状態は安定しているように見えた。
交代したドクターに「どれくらい待ちますか?」と訊いた。
「このまま1週間持つかも知れないし、
今日(死ぬ)かも知れない」と言われた。
もう長くないことは間違いないが、
あとは本人の体力、生命力なんだろう。
看護師が伯母を診て「頑張ってはる」と言った。
私は声には出さずに伯母に言った。
「おばちゃん、もう十分今まで頑張って生きてきたやん。
よう頑張ったわ。もう頑張らんでええよ」
さて、どうしたものか。
伯母の身寄りは、現在存命の妹2人
(ひとりは私の母)と弟ひとり。
全員80歳を過ぎている。
私の母は、入院中。
入院していなくても滋賀まで一人では来れないけど。
弟は神奈川在住、もう一人の妹は宮崎在住。
一応、状況報告のため電話はしたけれど、
ふたりとも高齢のため簡単には滋賀まで来られない。
この流れは私が伯母を看取る役目だということだ。
伯母が病院に提出した緊急連絡先に、
私の電話番号を書いていた時点で
この流れは決まっていたんだ。
それは良いのだけど、
前日、日帰りのつもりで滋賀に来ていた私は、
どうするかを考えなければならなかった。
素人判断だけと、伯母の様子を見ると、
あと数日は持つだろうと踏んだ
私は、東京に戻る決意をし、
伯母の手を取り、声をかけた。
「おばちゃん、眞也やで。分かる?」
すると伯母の口元が微かに微笑んだ。
「いったん東京に帰るけど、また来るからね」
それには反応がなかった。
私は病室をあとにした。
次に来れるとしたら、2日後の12月9日(土)だ。
それまで持つかどうかは分からないし、
状況は全く変わらないかも知れない。
いよいよもう最期だからと親族が病室に集められたものの、
病人が復活したなんて話しも聞いたことがある。
いつ死ぬかなんて誰にも分からないんだ。
とりあえず、仕事も溜まっているので、
東京に戻り、翌日8日(金)は、出社することにした。
12月8日(金)、午後6時過ぎ、電話が鳴った。
病院からだった。
6時前に息を引き取ったという知らせだった。
つづく
2024.12.12
伯母の最期 その4
荼毘に付す
3年前、父が亡くなった時は、両親と
同居していた姉が全ての手続きをやってくれた。
父は緩和ケアに入っている状態で、
その数ヶ月前に余命宣告も受けていたので、
心の準備もできたのだけと、伯母のケースは
ほとんど突然のことのように思えた。
考えてみれば、89歳だし、このひと月ほどの
流れを鑑みれば、突然なことでもないのだけど。
死亡の知らせを聞いてからはバタバタだった。
本来なら、普段、伯母と付き合いのある人に
連絡をすべきなのだが、それが誰だか分からないので
私が知っている親戚以外は、誰にも連絡をしなかった。
葬儀屋への連絡、といっても、葬儀はしない
(誰も来ない)ので、遺体を火葬場まで
運んでもらう手配をした。
亡くなった病院は、伯母の住所地ではなかった。
住所地の火葬場なら2万円、
それ以外だと8万円と言われた。
そんなに違うんや。
しかし、住所地の火葬場まで運ぶ段取りができるほど
私には時間的にも精神的にも余裕がないので、
病院のある市の火葬場に決めた。
いずれにしろ、死亡と診断されてから、
24時間以上経たないと火葬は出来ないので、
火葬するのは、翌々日の10日(日)になる。
病院に近い近江八幡駅の駅前のホテルを予約した。
翌日(9日)は、病院で死亡診断書を受け取り
市役所に届けなければならない。
お骨は、誰もいない伯母の家に置いておくわけにもいかない。
お骨を大阪の実家まで運ぶことも考え、レンタカーも予約した。
骨壺を持って電車に乗るのは、なんだかイヤだった。
レンタカーは、大阪で乗り捨てだ。
12月9日(土)。
午前中、宅急便が届く予定(しょうもない理由)が
あったので、それを受け取り、妻と家を出た。
15時頃、近江八幡駅に到着。
レンタカーで病院に向かった。
病院で、伯母(の遺体)と対面したり、
手続きしたりすることがあるんだろうと思い、
葬儀屋さんには、16:30 に来てくださいと依頼していた。
しかし、ほとんど手続きらしい手続きもなかった。
電話をして、葬儀屋さんに早く来てもらい、
安置室に移動した。
そこでも対面は、なかった。
考えてみれば、普通は葬儀をするから
そこでゆっくり遺体と対面するからね。
一緒に行った妻は、翌日の朝、仕事のため名古屋へ
移動する予定で、その時しか お別れのタイミングが
なかったので、棺桶の蓋を開けてもらい別れを告げた。
「(火葬は翌日)朝10時半からなので、
10時15分には、火葬場へ来てください」と言われた。
今の霊柩車は、私が子供の頃のような仰々しさはない。
病院の駐車場で、その霊柩車を見送りながら、
あまりのあっけなさに戸惑いがあった。
霊柩車を見送った後の夕陽
それから、市役所に死亡届けを提出しに行った。
市役所で、死亡届けを提出し
火葬許可証を発行してもらわないと、
火葬は出来ないんだ。
そのために市役所には、土日でも職員がいて
受け付けをしてくれる。
初めて 死亡届けの記入をし、火葬許可証を受取った。
12月10日(日)。
朝、9時40分ホテルをチェックアウト。
ホテルから火葬場まで車で15分ほどと聞いていたので、
余裕を見て9時40分にチェックアウトしたんだ。
車に乗り、ナビで「さざなみホール」と入力した。
ちょっと遠い。
いや、遠いことより「ホール」という言葉に違和感があった。
前日「明日さざなみホールで」と、葬儀屋さんが言ったような
気がしたのでナビに「さざなみホール」と入力したんだけど、
念のため、スマホで検索してみると「さざなみホール」は、
いわゆるホール(コンサートなどの会場)のようだ。
そんなホールと火葬場が同じ所にあるだろうか?
いや、そんなんないでと思ったが、念のため
「さざなみホール」に電話をかけ、
「そちらは、火葬場もありますか?」と尋ねた。
電話に出た人は、おそらく(とんちんかんな問合せだな)と
思ったことだろう。
「いいえ、こちらはコンサートなどのホールです」との回答だった。
そういえば、葬儀屋さんに言われてメモしたことを思い出した。
手帳を見ると平仮名で「さざなみじょえん」と書いてある。
ナビで検索してみる。
出てこない。
うーむ、困った。
落ち着いて考えれば「近江八幡市 火葬場」と検索すれば
すぐに見つかったんだろうけど、やはり動揺していたんだろうか。
結局、葬儀屋さんに電話をして確認した。
「さざなみじょえん」ではなく「さざなみじょうえん(浄苑)」だった。
きっと焼肉の「叙々苑」の影響で、そう聞いてしまったんだな。
仕事で名古屋に向かう妻を駅でおろし、
「さざなみ浄苑」に向かった。
前日、病院で遺体と対面した時には、
伯母の口は確かに開いていた。
しかし「さざなみ浄苑」で最後のお別れをするために
見たその口元は、固く閉じられていた。
真っ白な死装束を着ていることからも、
前日、病院で遺体を引き取った後、
葬儀屋の方(納棺師)が、伯母が旅立つための
準備をして下さったことが分かる。
顔に手を触れた。
驚くほど冷たかった。
私は、伯母に声をかけた。
「おばちゃん、ようがんばって生きたな。
もう、がんばらんでいいよ。
ゆっくり休んでな」
お通夜もお葬式もなく、伯母は荼毘に付された。
火葬場では、係の人(若い女性)と私だけ。
いや、もうひとり、伯母本人だ。
それは、特別な体験だった。
係の人の説明を受けたあと、
着火ボタンを押すように促された。
えっ? 遺族が着火ボタンを押すの?
その時は、父の時にもそうしたのだったっけと
記憶がいい加減だったけど、後日調べてみると、
これは地域的なことのようで、父の時は
火葬場の係の人が着火ボタンを押した。
喪主が着火ボタンを押すという火葬場は、
全国でもそんなに多くないようだ。
実際には、喪主が泣き崩れてしまい、
着火ボタンを押せないこともあるらしい。
そりゃそうだろう。
例えば、子供やまだ若い伴侶の火葬だったら、
誰だって押したくない。
そういう時は、遺族の誰か他の人が押すようだけど、
そういう火葬場では係員は、けして押さないそうだ。
その時は私しかいないわけで、
誰かに押してくれと頼むわけにもいかない。
「私が押すんですか?」と訊いた時の
係員の異様に力強い「はい。お願いします」は、
「あなたが押すしかないんです。
私は頼まれても押しませんよ」という
固い決意を一度で分からせるには 十分に感じた。
たぶん、係員は何度もこの場面を通ってきたのだろう。
これは、私が通過しなければならない
儀式なんだと思った。
私は、人生で初めての着火ボタンを押した。
つづく
2024.12.132024.12.14
伯母の最期 その5
別離
火葬が終わるまで1時間40分ほど。
火葬炉の扉が開くと、
頭蓋骨がこちら(扉側)を向いていた。
遺体は、寝ていたわけだから、
頭蓋骨は上を向いているはずなのに。
眼球のない頭蓋骨の目の穴が、
こちらを見ているようだった。
伯母は、亡くなる前の体重が 36キロほどだった。
いや、本当かどうか分からないけど、
亡くなる2日前、まだ意識がハッキリしていた時に
体重を「36度5分」と言ったので、
私が「それは体温やんか」と笑ったら、
伯母は「36キロ5分」と言い直した。
どっちにしても「5分」なんだな、と思った。
焼けた遺骨の胸のあたりに
金属の網の筒のようなものを見つけた。
11月10日に病院で、ドクターから
大動脈弁膜症の手術の説明受けた。
加齢で硬くなった心臓の弁の代わりに、
足の付け根から、人口弁をカテーテルで
挿入する手術だった。
その人口弁は、金属の網で包まれていて、
血管の中を カテーテルで心臓の弁の位置まで
運ばれると、網の部分が開いて
新たな弁になるという仕組みだった。
弁自体は、豚か何かの組織で作られていると
聞いたような気がする。
その説明の時に、模型や図を見ていたので、
一目見て、それが人工弁の残骸だと気付いた。
その手術の説明を聴いていなかったら、
私はあれに気が付かなかっただろう。
周りには棺桶の釘も転がっているので、目に入ったとしても、
特に疑問も持たず、気にならなかったと思う
こんな感じの物(ネットで拾ってきた画像)。
これの網になってる金属の部分が残っていたんだ。
もちろん、焼けて真っ黒だった。
これは素人考えだけど、私はこの手術が
伯母の死期を早めたような気がしてならない。
ドクターの説明では「手術をしないと
(弁が正常に機能していないわけだから)
確実にもっと悪化する」と言っていたから、そうなんだろう。
伯母は洗い物をしていても息が切れると言ったいたので、
心臓から血液がうまく送り出せていなかったんだと思う。
しかし、カテーテルとはいえ 89歳の老体に
手術はやはり負担だったのではないかと思う。
その証拠にドクターからは「手術後1週間で
退院できる」と聞いていたが、実際にはリハビリまで
必要で、退院には2週間以上かかっている。
いや、私はドクターの判断を疑ったり、
ミスだと言いたいわけではない。
89歳ならいつ死んでも不思議ではないからね。
ただ、年齢のことも含んでの話だったのかなと
多少の疑問は残っている。
その、私が説明に立ち会った伯母の最後の手術の証、
人工弁の部品を私は遺骨とともに骨壺に収めた。
なぜ、私はそれを骨壺に収めようと思ったのか、
その時、明確な理由があったわけではない。
ただ、これは持って行かなきゃと思ったんだ。
考えてみると、あの手術が私を伯母の元に呼んだんだ。
私が伯母の最期を看るきっかけを作ったのは、
この人工弁だったとも言える。
その結末が、ひとりきりでの収骨という
想像もつかなかった展開になった。
そう考えると、あの人工弁は、
私と伯母を繋いだ証しだったんだと思う。
誰の火葬であれ、人生で自分がたった一人で
収骨することがあるなんて、思ってもみなかった。
たぶん、これが最初で最後だろう。
誰もお別れに来ていないことを
伯母は、寂しく思っているだろうか。
火葬場が用意してくれた骨壺は、
片手の手の平に載るほど小さかった。
私は、それを持って、外に出た。
本当に良い天気だった。
突然、それまで抑えていた何かが
込み上げてきた。
誰もいない駐車場で、ひとりで泣いた。
父が死んだ時、涙は出なかったのに。
何の涙なんだろう。
ひとりで火葬に参列し、
ひとりで収骨し、
ひとりで伯母の最期を見送った。
そのことの重さと、
命の儚さと、
ほんの2時間もかからず肉体が消滅し、
その人が、記憶の中にしか
存在しないことのアンバランスを
心が受け止めきれずに
悲鳴を上げているようだった。
11月10日、手術のための転院の日、
これが最後になるかも知れないと思った私は、
別れ間際に伯母をハグした。
そのことを4日前のお昼前、まだ意識があった時に、
伯母は「あの日、病室に来て欲しかったのに、
病室にも来ずに(ハグして)こんな最後かと
思ったわ」と不満そうに言った。
「病室には行けない」と看護師に言われたので、
廊下で別れたんだけど、なんだか私の体験と
伯母の体験は違うものだったようだ。
伯母にすれば「あんなのは最後じゃないだろう」と
言いたかったんだと思った。
そして、最後に救急車で救急病院に
運ばれた日の夜、私は伯母の病室に泊まり込んだ。
意識のない伯母のベッドの横に、
寝返りを打つとベッドから落ちてしまうほどの
幅の簡易ベッドで寝た。
あの日叶わなかったこと、伯母の希望通り、
私は「病室に入って」最後に一緒の部屋で寝た。
きっと、それが伯母の望んだことなんじゃないかと
思えてきた。
そして、
死亡の手続きや火葬は、
土日の2日間で済ませられるよう、
仕事の邪魔にならないよう、
金曜日の夜に亡くなってくれたような気がする。
その時点では、まだまだ片付けることはあったけどね。
伯母の誕生日は、4月29日で 昭和天皇と同じ。
亡くなったのは、12月8日でジョン・レノンと同じ。
中々、人の命日は覚えていられないものだけど、
これは忘れないな。
終わりに。
私は小学6年生の時、家出をしたことがある。
家出の理由は、また別の機会に書くとして、
数日前から計画をし、前日に家のお金
(新聞代とか集金に来た時に支払う用に
置いてあった)から、2千円を拝借し、
修学旅行に持って行った黄色いショルダーバッグに
着替えと教科書(!)を入れ、私は家出をした。
行先は、ずい分考えた覚えがある。
選択肢は3つ。
全部親戚の家だったけど、
その中で一番遠い伯母の家を選んだ。
その頃、伯母夫婦(最初の結婚)は、
滋賀ではなく和歌山に住んでいた。
(私は、大阪に住んでいた。)
何度か家族で遊びに行ったことがあったので、
電車の乗り換えや行き方も分かっていた。
子供一人で行くには、ちょっと遠いことが
私の家出の目的を満たすことだったんだと思う。
和歌山駅から、10分か20分か在来線に乗った先、
黒江という駅に伯母の家はあったのだけど、
和歌山駅に着いた私は、伯母に電話をした。
大人になってから伯母から聞いた話では、
私は電話口で泣きじゃくっていたらしい。
伯母にすれば、平日(学校は休んだ)の
昼間に大阪に住む小学生の甥っ子が泣きながら
「和歌山駅にいる」と電話をかけてきたら、
何ごとかと驚いたことだろう。
その日のうちに母も和歌山に来て泊まった。
母は、家出の理由を聞いて私を叱らなかった。
翌日、私は母に連れられ自宅に戻った。
家には帰りたくないと思った覚えがないので、
たぶん「家出」という行動を起こしたことで、
自分の気が済んだんだと思う。
今となっては、小学6年生の私が、
家出した行先に伯母の家を選んだことが、
伯母の最期を看取ることに
繋がっているように思えて仕方ない。
伯母が緊急連絡先を私にしていたのは、
あれから、49年経って、
「あんた、あの時、私んとこ来たんやから最期は頼むで」
ということなんだと思う。
2023年11月10日、手術の説明を聞く前に
撮影した伯母の手。
手を撮っていると伯母が言った。
「あんた変なもん撮るなぁ」
--- あとがき ---
「その1」から「その5」まで、ずい分と
長い文章になってしまった。
長文に係わらず、全部お読みいただいた方には
感謝します。
実は12月9日に「その1」をアップしたあと、
「その5」までを一気に書き上げた。
あまりに長すぎるので、5回に分けた。
「その1」をアップしてから4日間、毎日、
残りのアップする前の原稿を推敲し続けた。
3日目の夜「その3」をアップしたのだけど、
その日の昼間に、ある人と会って
一緒にランチを食べた。
色んな話をした中に、もう十数年前、
彼の母親が亡くなられた時の話が出て来た。
彼は火葬場で着火スイッチを押したのだという。
あまりのタイミングに驚いた。
そのくだり(着火ボタンの件は「その4」)も
何度も読み直していた時だったからだ。
おまけに、私は何人もの人に聞いたけど、
誰一人、喪主(遺族)が着火ボタンを押す
火葬場なんて、知らなかったのに、
そのタイミングでいきなり目の前に
着火ボタンを押したことのある人が、現れたんだから。
私は、彼に「お母さんはどこに住んでたの?」と訊いた。
もしかしたら、滋賀県かと思ったんだ。
彼のお母さんは、滋賀県ではなく佐賀県で亡くなっていた。
シガとサガ、なんだかシャレのようだ。
1年も前のことをよくこんなに細かく覚えているなと
思われた方もいるかも知れないけど、
昨年12月の時点で、下書きというか
メモをしていたおかげで、ここまで詳細に書くことが出来た。
伯母の自宅の売却、遺産分配も年内に終えることが
出来、ほっとしている。
私たち夫婦にも、子供がいないので、
自分たちの終わり方を学ぶ機会だったと思っている。
自宅の売却の際には、私の不動産会社に勤めた
経験が、とても役に立った。
不動産の仕事をしていなかったら、
あんな風に簡単に売ることは出来なかったと思う。
そう考えると人生はなんて不思議で、
なんて完璧なんだろうと思ってしまう。
でも、残された人のために、死ぬ前に、せめて
「自分が死んだとき、知らせて欲しい人のリスト」
ぐらいは残しておこう。
あと、預金通帳の場所ね。
おわり
上原ひろみ
Hiromi's Sonicwonder
東京公演(12月19日@すみだトリフォニー大ホール)の
チケットが抽選に外れたため、一昨日、
埼玉県大宮まで聴きに行ってきたよ。
Hiromi's Sonicwonder は、昨年12月の
東京国際フォーラム公演から1年ぶり。
大宮駅を出ると大きな街でびっくりした。
埼玉だと思って(失礼)、なめてました。
もう大都会だね。
25年くらい前にデモテープの歌を唄ってくれる人を
探していたとき、紹介されたシンガーに会いに
来たのが大宮だったような気がするけど、
確かではない。
結局、彼女とは一緒に活動しなかったけど、
歌を続けているんだろうか。
名前も覚えていないけど、同棲している彼氏が
やきもち焼きで、干渉してくるので、それが
音楽活動の足かせになっているような印象だった。
そんなどうでもええことは覚えているんやな。
そんなわけで(どんな?)大宮へは、
ほぼ初めて来た感じ。
新幹線では何度も通過しているけれど。
さて、コンサート会場は、大宮ソニックシティホール。
2階席の9列目だったけど、実質3列目
(1〜6列は左右の端にしかない)で、
見やすい席だった。
ひろみは、聴くたびに毎回、進化しているような
印象を受けるけど一昨日も然り。
相変わらず素晴らしい演奏。
個人的なハイライトは『Polaris』と『UP』だな。
来年もこのメンバーで、世界中を廻るとのこと。
「そのために新曲を創りました」と披露されたのは、
ひろみとメンバー全員が大好きだというラーメンの曲。
タイトルは『イエス・ラーメン』。
ふざけているようなプレゼンだったし、
所々ちょっと中華な匂いもしたけど、
これまたハイパーな曲だった。
昨年ほどではなかったけど、
今回も数曲で睡魔に襲われ、悔しい。
十分に睡眠は取っていったのに、なんでかな。
20分ほどの休憩、アンコール2曲を入れて、
2時間20分ほどでした。
[ MEMBERS ]
Hiromi's Sonicwonder :
上原ひろみ (p, key)
アドリアン・フェロー (b)
ジーン・コイ (ds)
アダム・オファリル (tp)
@大宮ソニックシティ 大ホール
2024.12.16
辻本明子 LIVE
昨日は、昨年7月以来の辻本さんのライヴ。
今回は、ベースとパーカッションとのトリオだった。
『ホワイト・クリスマス』に始まり、
ジャズのスタンダードからポップス、ラテン、
映画音楽まで 幅広い選曲で、
アレンジも工夫があり 楽しめた。
パーカッションが入ると世界が広がるね。
会場は、神楽坂の「U-ma kagurazaka」と
いうお店で、グランドピアノがあるのは
良かったけど、ライヴ向きに作られた店では
なかったので、観客にはやや見づらい
環境だったのは残念。
カメラを持参したので、写真も撮影。
十分な光のない場所での撮影は、
ホントに難しく、まだまだ探求中。
[ MEMBERS ]
Vocal & Piano: 辻本明子
Percussion: 井谷享志
Bass, Piano: カイドーユタカ
@ U-ma kagurazaka(神楽坂)
[ SETLIST ]
1st
1. White Christmas
2. Memories Of Tomorrow
3. I Got Rhythm
4. Don't Let Me Be Lonely Tonight
5. When I Fall In Love
6. Black Bird
7. Lsdy Wants To Know
8. This Can't Be Love
2nd
1. Little Girl Blue
2. My Romance
3. Que Sera Sera
4. No More Blues
5. Melodies Of Love
6. Peel Me A Grape
7. Joker
Ec. Merry Christmas Mr. Lawrence
2024.12.17
おにいさん?
先月89歳になった母は、
大阪の老人ホームに住んでいる。
その老人ホームの担当のNさん、
ケアマネージャーのHさんと
時々電話で話すことがある。
先日、Nさんと母について話していると、
母を「おにいさん」と呼ぶので、混乱してしまった。
(母のことなのに「おにいさん」ってどういうこと?
俺のこと? おにいさんって。いやいや、
オカンの話やんか)などと考えながら話していると、
今度は「おりんさん」と聞こえた。
(えっ? おりんさん? 誰やねん、それ。
母は施設で「おりんさん」と呼ばれているのか?
ないない、そんなわけないやん。名前 久子やで。)
その日だったか、次の日だったか、今度は
ケアマネージャーのHさんと電話で話していると
Hさんも母のことを「おにいさん」と呼んだ。
(なんやこれ。また「おにいさん」が出てきたで)
読者のあなたは、
「おにいさんって誰のことですか?」と
聞けばいいじゃないか、と思うかも知れない。
確かにそうなのだが、母の話をしているので
「誰のことですか?」と聞く状況でもないんだな、これが。
で、モヤモヤしながら話を続けていると、
再びHさんが「おにいさんが」と言った。
その時、ハタと気が付いた。
というか、初めて聞こえた。
「おにいさん」ではない。
「本人さん」だ!
そう、「本人さん」と言っているのが、
ちょっと崩れて「おにいさん」に聞こえるんだ。
「ほんにんさん」
↓
「ほーにんさん」
↓
「おーにんさん」
↓
「おーにいさん」
↓
「おにいさん」
(完成!)
そういう時、東京では「ご本人」とか「ご本人様」と
言うんだけど、大阪では「本人さん」と言うんやな。
これが聞き取れないとは、もうすっかり私は、
大阪人ではなくなっているということかも知れない。
でも、それが判明したあとでも、
「おにいさん」って聞こえるねん。
もしかしたら、言うてんのか。
2024.12.182024.12.19
エリック・クラプトン
ニューアルバム『Meanwhile』
来年4月に80歳になったエリック・クラプトンが
来日し、再び武道館のステージに立つことは
先日書いた通り。
チケットが値上がりしているし
「何日観に行くか考え中」と書いたけど、
結局、6公演全てのチケットを購入した。
完全なる大人買い。
エリックのオフィシャルサイトを見ると
発表されている来年のコンサートは、
4月の武道館の6公演以外には、
5月に英国ノッティンガムの
モーターポイントアリーナと
ロンドンのロイヤルアルバートホールの
3日間の計4公演しかない。
やはり、彼にとって日本は特別な国だということだろう。
そのクラプトンの新譜が出た。
CDは、来年1月24日発売となっているけど、
iTunes ではすでに配信が始まっているので
購入した。全14曲。
アルバム・タイトルは『Meanwhile』。
「その間」という意味だ。
すでに発表されている、ジェフ・ベックとの
『Moon River』、昨年の来日公演でも
演奏されていた『Sam Hall』なども
収録されているが、新曲も含まれている。
チャップリンの『Smile』は今までライヴ盤だけの
収録だったような気がするので、
スタジオ録音ヴァージョンは初かもしれない。
ヴァン・モリソンが3曲もゲストで参加。
全体を通してとても良い。
気に入った。
ニューアルバムが出るなんて思っていなかったので
とても嬉しい。
収録曲の詳しいことは、こちらのサイトを参考に。
コロナワクチンについて、エリックが否定的な
発言をしたときは、私も少し戸惑ったけど、
ここに書いてある米国のDJの発言には救われる。
そういう風に折り合いを付けられる大人にならなきゃ。
ところでエリックは、ライヴでは、
あんまり新曲を演らない印象なのだけどどうかなぁ。
『Old Sock』(2013) や『I Still Do』(2016) が
発売されたあとも収録されていた新曲を
演ってないような気がするんだけどどうだろう。
「プロンプターに頼るようになったら、もうやめる」という
発言が本気なら、新しい曲の歌詞を覚えられなかったら、
「演奏しない」という選択になってしまうのかも知れない。
先日私は、プロンプターを見るのは「ロック」でない、と
書いたけど、80歳ならいいよね。(はい、軟弱です。)
まあ、いずれにしろ、演る曲が多すぎて、
選曲が大変なんだろうけど。
そして、これまた最近発売された6枚組
『クロスロード・ギター・フェスティヴァル2023』
<4CD+2Blu-ray仕様>には、
エリックの唄う『It Makes No Difference』が
収録されており嬉しい。
(『It Makes No Difference』は、
Robbie Robertson 作の THE BAND の曲。)
最近 見つけたちょっと古い(2019年)記事。
ウド―音楽事務所の高橋辰雄さんのお話しは
エリックに係わらず、とても貴重です。
特にリッチー・ブラックモアのいたずらや、
リッチーの抜けたディープ・パープルのくだりは面白い。
↓
「苦しむクラプトン」を間近で……ツアー支えた日本人 夜遊びも一緒
渡辺香津美の今
今年2月27日、ギタリスト
渡辺香津美氏が倒れた。
脳幹出血でかなり危険な状態だったようだ。
現在は意識も戻り、軽井沢の自宅に
戻られたようだが、ギターを弾けるような
状態ではない。
要介護認定5、障害等級1級。
ギターどころか、自分で立つことも
座ることも寝返りさえもできない。
食事もできないので胃ろうだ。
奥様でピアニストの谷川公子さんの
note の記事を読んで泣いてしまった。
谷川さんの、香津美の、壮絶な状況。
書けないこともいっぱいあるだろう。
とにかく想像を絶する。
生きるってどういうことなんやろとも考えさせられ、
出口のない迷路に迷い込んでしまう。
もし、自分がそうなったら、妻がそうなったら、
という考えたくない想像も。
2024年3月31日
ギタリスト渡辺香津美の今
2024年7月11日
ギタリスト渡辺香津美の今 その2
2024年12月17日
ギタリスト渡辺香津美の今 その3
もう何を書いても、陳腐で筆が進まない。
祈るしかない。
昨年11月26日のご夫婦によるデュオ。
Castle in the Air (谷川公子+渡辺香津美)Last Live 2023
とても濃密なデュオです。
谷川さんは、2008年に乳癌を発症したけど寛解した。
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2024.3.31 渡辺香津美 緊急入院により活動中止
2024.12.21
渡辺貞夫
HOPE
Sadao Watanabe with Strings
貞夫さんの毎年恒例のクリスマス・コンサートツアー。
今年は「HOPE」というタイトルが付いた。
米国から、ピアノに ラッセル・フェランテ、
ベースに ベン・ウィリアムスを迎えての
昨年と同じカルテット。
2部では、それにストリングスが加わった。
昨日のサントリーホールの公演には
「SHISEIDO presents Christmas Gift」と
付いているので資生堂からのお土産があったんだろう。
私も何度も頂いたことがあるが、今日の
関内ホールの公演には資生堂の名前はなかった。
(おみやげもなし)
今日は、貞夫さん年内最終ライヴとのこと。
今回のストリングスは「押鐘貴之(おしかねたかゆき)
ストリングス」というグループで、ヴァイオリン、ヴィオラ、
チェロ合わせて総勢20人。
『Just Friend』のような聞き飽きたかのように
感じるメロディが、ストリングが入り、
アレンジ次第で生き返ることに
今さらながら音楽の深みを感じるのでした。
それにしても、ストリングスが加わっただけで、
演奏がクリスマスっぽく感じたのは、どういうわけだろう。
気のせいですか。
今まで何度も書いているけれど、
竹村一哲のドラムが素晴らしい。
今日の『Manhattan Paulista』における
ドラムソロは、今日のハイライトの一つ。
貞夫さん。
御年91歳とは思えぬ演奏に、今日も感激。
年齢層高めの観客にどれほどの
勇気と元気と可能性を与えていることでしょう。
「来年も会いましょう」という力強い言葉で
締めくくられた。
[ MEMBERS ]
渡辺貞夫 (as)
Russell Ferrante (p)
Ben Williams (b)
竹村一哲 (ds)
押鐘貴之ストリングス
@ 関内ホール(横浜)
[ SETLIST ](たぶん合ってると思う)
1st
1. Peace
2. Butterfly
3. One For Jojo
4. I Concentrate On You
5. Tree Tops(梢)
6. Only In My Mind
7. I'm A Fool To Want You
2nd (with Strings)
1. Easy To Love
2. Just Friend
3. I Fall In Love Too Easily
4. Cycling
5. Samba Em Preludio
6. Manhattan Paulista
7. Sonho De Natal
EC1. Harambee
EC2. Por Toda A Minha Vida
2024.12.22
落語―哲学
中村 昇 (著)
哲学者が落語を説くとこんな風になるんだと
驚きながら、読み進めた。
いくつかの落語を題材に、哲学的思考を
進めているのだが、そのひとつに
「粗忽(そこつ)長屋」があった。
「粗忽長屋」は、唯一私が演じたことのある落語だ。
高校1年生の時、クラブ(アンサンブル部という
合奏のクラブ)の催し物で、隠し芸として演った。
別の高校に通う、落語研究部に属する
小中学校時代の友人Yに教えてもらったんだ。
ストーリーは、こんな感じ。
八五郎が誰かが行き倒れで
死んでいるところに遭遇する。
よく見ると死んでいるのは、同じ長屋に
住んでいる熊五郎だ。
これは大変だ、熊五郎に知らせなきゃと
長屋に戻り、熊五郎に行き倒れの一件を話す。
熊五郎も自分が死んでいるような気がすると言って、
ふたりで死体を引き取りに行くという噺。
「粗忽」というのは、そそっかしいことで
あわてんぼうのことを「粗忽者」という。
落語ではよく出てくる言葉だ。
「粗忽長屋」は全くバカバカしい噺だが、
本書を読むとそんなに深い、哲学的な
噺だったのかと、驚く。
いや「粗忽長屋」が、深い噺だったわけではない。
著者、そして哲学というコンテクストが、
このバカバカしい物語を深いものに
読み解いてしまうわけだ。
全体を通して、哲学のエッセンスが
散りばめられており、私のような哲学初心者が
読むには、ちょうど良い。
難しくてよく分からないくだりもあったけど。
「子別れ」のついて書かれた部分に
興味深いことが書いてあった。
人は、自分が生まれた時のことや
乳幼児の頃のことを覚えていない。
大人になって、子供を持って、その子の
誕生や成長を通して、自分もこうして親に
育てられたんだ、と知ることができる。
それに対して、子は、親より長生きをする限り
親の死に立ち会うことになる。
子は、親の死を通して人間の死を知り、
そのプロセスにじっくり付き合うことになる。
「つまり親は、自分の過去を子によって知り、
子は、自分の未来を親によって知る」。
なるほど。
子供のいない私たち夫婦のような場合は、
子供の誕生や成長を身近に体験することがなく、
人の誕生や成長について、知らないことだらけで、
死んで行くことになる。
その分、人生が未完成のような気もしないでもない。
まあ、だからなんだということではないが。
「涙や苦衷に染まっていない哲学は偽物である」
という言葉が出て来る。
(「苦衷(くちゅう)」は「苦しい心のうち・
つらさ・辛苦」の意。)
落語には多くの「悲哀」がつまっているが、
哲学も同じだというのだな。
著者はこういう。
「人生における苦しさや悲しさの経験から
哲学や落語が生まれたのだから、この二つは、
双生児のようなものだといえるだろう。」
そこまで言い切れるのは凄いが、
本書を読むとこの言葉にも説得力がある。
もうひとつ、古今亭志ん朝さんが、
セロニアス・モンク(ジャズ・ピアニスト)を
聴いて「これは志ん生だなと思った」という
話が出て来る。
なんだか興味深くて、モンクも志ん生も
聴きたくなった。
私は この十数年で結構な数(二千席以上)の
落語を聴いてきた。
滑稽噺なら笑い、人情話なら泣く。
そんな風に言ってみれば、浅い理解と反応で
落語を聴いていたんだと思った。
結局、世界なんてものはあっち側にはなくて、
全部こっち側(自分の内側)にしか
存在しないのだから、こっち側の、
受取るセンスしだいで人生は豊かにも
貧相にもなるんだよな。
そのセンスは、自分で磨くしかないんだな。
★★★★☆
2024.12.25
むくり鮒
先日、妻の両親に会いに山形に行った際、
道の駅で購入した玉庭名物「むくり鮒」。
一つが5cmほどの 鮒(ふな)の子の料理だ。
アップ
これが、見た目のややグロに反して、
意外に旨い。
めちゃくちゃ美味しいと
いうわけではないが、見た目と鮒という
印象から考えると旨いと思う。
味は、ちょっと違うけど、
イワシの味醂干しに近い。
今では山形の内陸部でも海鮮物も
食べられるようにだったけど、
昔は日本海側でしか
食べられなかったんだろう。
妻の実家のある地域は、
海から遠いので、鯉や鮒などを食べる
食文化が発展したのではないかと思う。
スーパーなどで売っている、お惣菜の
中くらいのパックで、1,005円(税込)。
けして安くはない。
珍しい鮒(ふな)の郷土料理だが、
妻の話しによれば、子供の頃には
売っていなかったらしい。
そう言われれば、お土産物屋には
鯉の煮付けたものは、以前から売っていたけど
これは以前にはなかったような気がする。
もしかしたらだけど、一部の家庭では
食べられていたけど、そんなにメジャーな
ものではなかったのかも知れない。
「玉庭名物」の「玉庭」は、
妻の故郷の近くの地名で、
そこに住んでいた妻の叔母さんは
通称「玉庭のおばさん」で、もう故人だけど
私も何度かお会いしたことがある。
2024.12.26
答え合わせ
石田 明 著
お笑いコンビ「NON STYLE」の、
ボケ担当、石田明の著作『答え合わせ』。
表紙には「この1冊で NSC 1年分の
価値ありますけど逆に大丈夫ですか?」
という、令和ロマンの高比良くるまの言葉がある。
漫才の分析は、なるほどと思いながら
読んだけど、これは専門家やお笑いを目指す
若者にとっては、ためになる本だろう。
しかし、私のようなお笑いファンは、
その漫才がなぜ面白いかを解説された
ところで、そこにはあんまり興味がなかった。
しかし、本書を読んで「NON STYLE」の
漫才が特別好きではなかった私は、
石田への見方が変わってしまった。
読後に、改めて「NON STYLE」の
漫才を観ると、印象が違っているんだ。
彼らの漫才が、妙に深く見えだした感じ。
中高生のときにオタクのように漫才を
聴いていたけど、プロになろうなんて
思っていなかった石田。
自分は面白くない人間だと
決めつけていた石田。
父親が板前という理由で、父親に
認められたくて、板前の道に進んだ石田。
そんな石田が、友達に誘われて出場した
お笑いのオーディションで目覚め、初めて
自分で自分の人生を歩みだすくだりは
感動的でさえある。
しかし、吉本に入ったあとも、
うつ病になるほど苦しむことになる。
そういう経歴を経て、今の石田、
NON STYLE があるのだなと
漫才を観ながら、感慨深い心持になった。
彼の漫才への愛、相方・井上への信頼も
素晴らしいと思う。
★★★★☆
2024.12.28
東京交響楽団 特別演奏会
『第九』 2024
今年最後のコンサートは、『第九』。
ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付」だ。
人生で一度くらいは、年末の『第九』を
生で体験しようと、今日はサントリーホールでの
演奏会に行ってきた。
『第九』は、日本では年末の風物詩とまで
言われるが、62歳になった今まで、
年末に『第九』を聴きに行ったことがなかった。
いや、年末でなくても『第九』を
生で聴いたことはなかった。
第4楽章の『歓喜の歌』の部分だけなら
何かで聴いたこともあっただろうけど、
交響曲としては一度も聴いていないんだ。
レコードでも通しで聴いたことがあるかどうか
記憶がなかったけど、今日聴いていて、
第1楽章や第2楽章のテーマにも聞き覚えが
あったので、中学生か高校生の頃にレコードで
聴いたことがあったのかも知れない。
オーケストラは、東京交響楽団。
指揮は、ジョナサン・ノットというイギリス人。
私と同じ年(62歳)だ。
このジョナサン・ノットの指揮する姿、所作、
手の動きが素晴らしかった。
芸術的で、情熱的。
そして何よりも美しい。
見惚れるような動きだった。
もちろん演奏も素晴らしかった。
席は、後ろの方だったけど、真ん中だったので
ステージ全体が良く見えて良かった。
世界中で愛され親しまれている『第九』の
メッセージは、全世界の平和。人類皆兄弟。
第4楽章の合唱の部分は、フリードリヒ・シラーと
いう人の「歓喜に寄す」という詩にべ―トヴェンが
メロディを付けた。
第1楽章から短調の重い感じで始まるが、
第4楽章でバリトンが唄い出す歌詞は
「おお友よ、こんな音楽はもうやめよう!
ここからはもっと快い喜ばしい音楽を
始めようようではないか」
この部分は、ベートーヴェンの作詞。
唄うのはソロの4人と合唱には、
100人ほどいたんじゃないだろうか。
力のみなぎる、結構な迫力の合唱だった。
知らずにコンサートのチケットを取ったけど、
なんと初演(ウィーン)が、1824年だった!
今年は、発表されてから
ちょうど 200年の節目だったんだ。
人類は、ずっと世界平和を唄っているのに、
いまだに戦争がなくならないのはどういうわけかね。
オーケストラの配置は、チェロ、コントラバスは
通常、ステージ上手だと思うのだけど、
今日は、下手から第1ヴァイオリン、
コントラバス、チェロ、第2ヴァイオリン、
ヴィオラという並びだった。
これは、合唱付きと関係があるのかな。
アンコールは、年末らしく『蛍の光』。
とってもドラマチックな『蛍の光』で、
ハミングの上に「2024年も終わろうとしてます」
みたいなアナウンスを入れたくなったわ。
『蛍の光』は、元はスコットランド民謡で
閉店や卒業式の歌なのは、
日本語歌詞のせいのようだ。
ところで、ベートーヴェンと言えば
耳が聞こえなくなった作曲家として有名だが、
この『第九』の作曲時には、ほとんど聞こえて
いなかったらしい。
高校1年生の夏休み、研究課題か何かで、
ベートーヴェンの本を2冊読んで、感想だか
レポートを書いたことを思い出した。
内容は何も覚えていないけど、
ベートーヴェンの人生に感動したことは覚えている。
[ 出 演 ]
指揮:ジョナサン・ノット
ソプラノ:安川みく
メゾソプラノ:杉山由紀
テノール:宮里直樹
バリトン:甲斐栄次郎
合唱:東響コーラス
合唱指揮:辻 博之
東京交響楽団
[ 曲 目 ]
ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 Op.125 「合唱付」
(アンコール)蛍の光
@ サントリーホール 大ホール
鳴りやまぬ観客の拍手に応えるため、
何度目かの再登場のジョナサン・ノット
『第九』が、なぜ年末の定番となったか等、
第九豆知識は こちらを参照。
2024.12.29
さとしん ライヴ
今年は、時間があってライヴもできるかなと
思ったけど、結局、12月になってようやく
今年最初で最後のライヴとなった。
昨年は「マンディ・マット・ライブ」と
銘打って 月曜日に何度か演れたけど、
それもフェードアウトしてしまった。
今日は、年末の忙しい時期にも関わらず、
大勢の方が来場してくださった。
ありがとうございます。
久しぶりの人にも会えて楽しかった。
演奏の方はというと、練習時には、
もう大丈夫やろと思うのだけど
本番では、いまだに練習した通りに
弾けなくて悔しい情けない思いだ。
この修業は、死ぬまで続くのだろうな。
ただ、アレンジのアイデアは、
中々良いだろうと自負している。
今回は『飾りじゃないのよ涙は』は
中々カッコ良いと思う(自画自賛)し、
『また逢う日まで』のゆったりボサ風も
割と気に入っている。
ギターは、ライヴで使うのは初の
VG のエレガット、EAR-01 NC Nylon 。
[ SETLIST ] カッコ内はオリジナル・アーティスト
1. カサブランカ・ダンディ(沢田研二)
2. メロディ(サザンオールスターズ)
3. 夜空ノムコウ(SMAP)
4. ディープ・パープル(五十嵐浩晃)
5. 街角トワイライト(ラッツ&スター)
6. Don’t Let Me Down(The Beatles)
--- 休憩 ---
7. 傷だらけの天使のテーマ [ソロ・ギター](井上堯之バンド)
8. よろしく哀愁(郷ひろみ)
9. また逢う日まで(尾崎紀世彦)
10. 初恋(村下孝蔵)
11. 君は薔薇より美しい(布施明)
12. 飾りじゃないのよ涙は(中森明菜)
EC. 愛燦燦(美空ひばり)
さとしん:
さとし(vo)
しんや(gt)
@ MAT COFFEE(渋谷)
2024.12.30
小学校
〜それは小さな社会〜
今年最後の映画は、ドキュメンタリー映画
『小学校〜それは小さな社会〜』。
イギリス人と日本人のハーフである、
山崎エマ監督は、小学校は大阪の公立、
中高はインターナショナルスクール、
19歳で渡米し、ニューヨーク大学
映画制作学部を卒業。
彼女は、ニューヨーク暮らしで、自身の強みは
小学校のときに培われた責任感や勤勉さに
由来していることに気付いたという。
映画のコピーにはこんな言葉がある。
「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、
12歳になる頃には、日本の子どもは
“日本人”になっている。すなわちそれは、
小学校が鍵になっているのではないか」
監督のその思いが、この映画の制作の
背景にはあったらしい。
映画では、1年生と6年生の1学期から
3学期まで、6年生は卒業式まで、
1年生は、2年生になって新1年生を
迎え入れるまでの1年間を追っている。
東京都世田谷区立塚戸小学校で
1年間、150日、700時間を撮影。
監督が現場で過ごした時間は、
4,000時間という。
編集にも1年を要した作品だ。
日本の教育は何かと遅れているかのように
言われている印象があるのは、
私だけではないと思うのだけど、
興味深いことに、この作品は、海外で
大きな反響を呼んだらしい。
フィンランドでは、1館上映から
20館の拡大公開で4カ月もの
ロングランヒットになったという。
おそらくは日本人には、それほど珍しくない
小学校の光景が収められたこの作品。
例えば、児童による教室の掃除。
日本の小学校では、当たり前のことだが、
アメリカでは子供たちは教室の掃除をしない。
また、脱いだ靴をきれいに揃えることなんて
特に海外ではないだろう。
そんな勉強とは別の分野(特別活動)で、
日本人は協調性や秩序を学ぶ。
電車を待つホームで並ぶ日本人、
震災のような災害時でさえ、
順番を守り、秩序を守る日本人。
これらを小学校で身につけているというわけだ。
そして、この日本式の教育
「TOKKATSU(特活)」をエジプトでは、
8年前から取り入れだしたという。
国学院大学の杉田洋(ひろし)教授は
そのエジプトでのプロジェクトにも関わっておられるが、
映画の中で、杉田教授が教師向けに
講演するシーンがある。
そこで彼はこう言う。
「日本の集団性の強さ、協調性の高さは
世界が真似たいことの一つだけど
実はこれは諸刃の剣であることを
よく知っておく必要がある」
そう思う。
何ごとも、プラスとマイナス、明と暗が
あるのは当然で、避けられないけど、
この映画で描かれているのは、
日本式教育の「明」の部分だ。
監督が、日本の教育のよいところを
映画にしたくて作ったんだから当たり前だけどね。
もし、「暗」の部分ばかり、取り上げて
映画を作ったら「日本は小学生にとんでもない
教育をしている」と評されるだろう。
教師は子供をきつく叱ることも出来なく
なってきていて、社会に出てやっていける
人間を育てることが出来るのか。
教育というのは、本当に難しい事業だと思う。
映画の中でも教師がそういうことに
言及するシーンがある。
正解がないから、ずっと考え続け、
やってみるしかないんだろうな。
私が小学校に入学したのは、55年も前。
本作を観て一番驚いたのは、
生徒が帰った後、ルンバが教室を
掃除していたことね。
★★★★☆
映画 オフィシャルサイト
[ 参 考 ]
映画『小学校〜それは小さな社会〜』公開記念特別対談
〈杉田洋先生×山崎エマ監督〉「TOKKATSU(特活)は教育を変える」