LAGUNA MOON MELLOW FLAVOR  LIVE GUITAR  LINK LYRICS



2018年 エッセイ

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2018.1.9

失われつつある大阪弁

私が子供の頃は、周りに東京弁を
話す人などいなかった。
当時、大阪には四国や中国地方出身の
人はいても、関東の人は
少なかったんだと思う。
特に私が住んでいた、
大阪でも やや田舎な街には。

不思議なほどに大阪の人間は、
東京に対する敵対心というのか、
ライバル意識のようなものが強い。
(たぶん、大阪在住の者だけだけど
思うけど。)
それは、言葉による部分も多いのでは
ないかと分析している。
私の場合だけかもしれないが、
東京弁に引っかかっていたのだ。
(今は引っかからへんよ。)

20代前半の頃、東京の人と
話す機会があった。
その人の「そうなんだぁ」という
言葉が非常に気に障った。
大阪人なら「ほんまぁ」と言う場面で
その人は「そうなんだぁ」と言う。
そう言われる度に
「そうや 言うとるやろ!
何が『そうなんだぁ』や!」
と心の中でいちいち反応していた。
なんで気に障るのかは、
分からんのだけど。

明石家さんまが、東京に進出したあと、
テレビで「そうなんだぁ」と
言い出した時は、とても残念だった。
ダウンタウンの2人もそう。
東京に出てから、言葉がだんだん
変わっていってしまうのだ。

何を隠そうこの私も
東京暮らし23年目に突入し、
自分で自分の言葉を聞きながら
かなり気持ち悪い思いをしている。
今では「大阪弁で喋ろ」と
意識しないと、どうしても
東京弁が混ざってしまう。
ほとんどの単語のアクセントは
大阪弁のままだけど、
「やっちゃった」なんて
平気で言ってしまうのだ。

先日、興味深い 記事 を読んだ。
大阪でも「しちゃう」「やっちゃう」
という言葉が、普通に使われるように
なってきたというのだ。
「しちゃう」「やっちゃう」は、
大阪弁なら「してまう」「やってまう」
と言うところだ。
記事には、大阪人の中には、
「しちゃう」「やっちゃう」を
東京から来た言葉とは知らず、
そこに関西弁の「ねん」を付け、
「しちゃうねん」と言う人たちもいるとある。
そう言われれば、私も
「しちゃうねん」は、
無意識に言っているかも知れない。

大阪人は、東京に対する敵対心というか
ライバル意識が強い、それは東京弁への
抵抗から来ているのではないかと
書いたけど、30~40年に比べ、
東京と大阪の距離がかなり近くなった昨今、
もしかしたら、今の大阪の若者には
私たちが若かった頃の東京への
反発心のようなものは、
薄れていっているのかもしれないな。





2018.3.10

夢をあきらめない

3月は、卒業式のシーズン。
愛知県の70歳の大久保さんという男性が
定時制高校を卒業したニュースを
テレビで観た。

大久保さんは、事業を経営していらしたが、
66歳の時、一線を退き、残りの人生を
どうしようかと考えた時に、
どうしても高校に行きたくなったという。
学歴はどうでも良かったが、
中卒で学力がないために人生で
何度も恥ずかしい、悔しい思いを
してきたのだという。

友達は「今さら、高校に行って
何になる」と言った。
でも、それで諦めてしまえば、そこまで。
どうしても高校に行きたかった
大久保さんは、近所の学習塾に通い、
高校を受験し、見事に合格した。

それから4年経ち、
卒業式に臨む大久保さんの
晴れやかな笑顔は、
言葉で言い表せないほど
美しい人間の姿だった。
年下であろう校長先生(?)から、
卒業証書を授与される70歳の卒業生。
ニュースを見ながら思わず落涙してしまった。

ニュースでは、一部しか紹介されなかった
大久保さんの作文の全文が、NHKのサイトに
アップされていた。
素晴らしいので、ぜひ読んで下さい。

夢をあきらめない 四年生4番 大久保雅弘

年齢のせいになんかでけへんな。





2018.4.10

中国 と 日本

文化とか国民性は、「違い」こそあれ、
本来「優劣」や「善悪」は、ないと思うのだが、
人間は、自動的に「正誤」「善悪」「優劣」の
レッテルを貼ってしまう。
それが、文明を進歩させてきたひとつの
要因だろうとは思うけどね。

全ての中国人がそうではないのだろうが、
日本の報道や実際に目にする中国人には、
日本人(というか私だけど)から見ると、
マナーがない人が多いように思う。
テレビで何度か観た、禁止されている区域での
潮干狩りや釣りなど、きっと日本人にも
やっている人がいるのだろうけど、
日本人に比べ、中国人は、堂々とやっている
(ように見える)ところを観ると彼らは
どうも悪いこととは思っていないかのようだ。

彼らのマナーの悪さは、世界中(?)に知れ渡って
いるようで、数年前イタリアを旅行した際にも
私たちのガイド(日本人)が、順番を守らない
中国人観光客を率いるイタリア人のガイドに
抗議をしたところ、そのガイドが、
(この人達、言うこときかないんです)とでも
言うように両手の平をあげて
「お手上げ」ポーズを取った。

良識のある中国人は、そういう自国民の
態度を「恥ずかしい」と思っているという報道も、
時折 目にするので、そういう人もいるんだなと
いうことが、少しの救いに思える。

そんな中国も最近は、変わってきたようで、
中国メディアが、日本と中国の違いを
書いている記事を読んだ。

日本人はこうやって子どもを育てていた・・・ためになる!
=中国メディア


恨んでばかりいても意味がない!
われわれと日本との間には「シンガポール10個分」
もの差がある!=中国メディア



この記事を書いている「東方網」というメディアが
どれくらいの規模なのか分からないし、
この記事を読む限りでは、
「だから日本をお手本にしよう」とは書いていないし、
これを読んだ中国人が、どう思うのかは分からない。

それでも、こういう記事を読むと、
中国の変化を感じるし、
中国を理解する助けになる。
また、外国からの視点でこそで分かる、
日本が浮き彫りになって興味深い。

どちらの国にも反応的に
相手国に対する嫌悪を露わにする
人たちは少なからずいる。
私もマナーの悪い人を見ると、
反応を露わにこそしないものの
やはり良い気はしない。
そこから先へ進むためには、
やはり、理解が必要だと思う。
と、理性では分かっているけど、
中々出来ないのも人間。
そのためには、自分の反応を知り、
自分が正しいのではないと知ることか。

これは、身近な人間関係でも同じやな。





2018.6.29

サッカーW杯


私は、サッカーファンではない。
今行われている W杯の日本代表選手の
名前だって数人しか知らない程度だ。
だから、試合があるからといって
早く家に帰ってテレビに釘付けに
なるようなこともないし、ましてや
スポーツ・バーで試合を観戦することもない。
そういうレベルの人間だということを
前提に昨夜の試合のことを書く。

昨日は、日本対ポーランドの試合を観た。
23時開始ということで、なんとなく
観始めたら、最後まで観てしまった。
たぶん、人生で最初から最後まで観た
初めてのサッカー試合だったと思う。

で、日本は 0-1 で負けた。
が、決勝トーナメント(以下、決勝T)への
進出を決めた。
決勝Tへ進めるかどうかは、
1次リーグ3試合の総合で決定する仕組みらしい。

日本は、ポーランドに引き分けても、
自力で決勝Tへ進める状態であったようだが、
もし、ポーランドに負けると、
同じ時間に別会場で試合をしていた、
コロンビア対セネガルの試合結果も
日本が決勝Tに進めるかどうかに
大きく関わっていた。
コロンビアがセネガルに勝てば、
日本はポーランドに負けても
決勝トーナメントに進めるという状態で
あったらしい。

日本は後半にポーランドに
1点を取られた。
同点以上を目指す試合なのだから、
最後まで、全力で攻撃に出るものだと
思っていたのだが、日本は後半の終りと、
アディショナルタイムの3分間、
合計約10分間、パスを回して時間を過ごした。
コロンビアがセネガルに1-0で
リードしていたので、そのままコロンビアが
勝つことを見越して(期待して?)の
作戦だったわけだ。

観客からは、ブーイングが上がっていた。
当然だ。
目の前で真剣に戦わない(ように見える)
試合を見せられているのだ。

今日のテレビでは、この日本の戦術に
賛否両論の意見が飛び交っていた。

肯定的な意見はこうだ。
・野球にも「敬遠」があるし、
これは、決勝Tに進むための作戦だから、
なんら非難されることではない。
・(アンフェアだという意見に対して)
ルールの中でやっているのだから、
アンフェアではない。
これは、フェアな戦い方だ。
・攻撃に出ると、弱点も生まれるが、
完璧に守りに徹するのも一つの戦い方だ。
・1次リーグ3試合でひとつの試合だと
考えればこういう作戦も当然「あり」だ。
・何よりも決勝Tに進まなければ、
終わってしまうのだから、決勝Tに進むという
結果を得たのだから、なんら問題がない。

どれも、なるほどね、と思える意見だ。
一方、否定的な意見は、
「最後までベストを尽くすべき」と言った
ピュア(?)なものだった。

決勝T へ進むための、
苦渋の選択だったのは分かる。
選手にとっても監督にとっても
不本意だっただろう。
攻撃に出たことで、ミスを犯し
さらなる失点につながっていれば、
今度は「あのまま何もしなければ、
決勝T に進めたのに」と言うヤツが出てくる。

しかしだ。
私の感想は、ひとこと、
「おもろない」だ。
こんな試合は、観ていておもろない。
ロシアまで行って、こんなもん観せられたら、
たまらんやろうと思う。

お金を取って、客を入れている以上、
エンターテイメントでもあるんやないか。
最後まで諦めない姿に観客は、
感動するんやないか。
それがスポーツマン・シップちゃうか。

決勝T に進むことは、それほど重要なことで
お前は分かっていない、と言われれば
そうかもしれないが、
私は、ベストを尽くして負ける方が、
まだいいと思う。

あと、野球の敬遠とは、一緒に出来ない。
野球では敬遠と引き換えに、
打者を一塁に歩かせるわけだ。
その打者に決勝点を獲られるかもしれない
リスクを負っての敬遠だ。
サッカーのパス回しのリスクは、
試合後の世間の批判ぐらいだろう。

というわけで、別の意味で、
サッカーに熱くなった私でした。





2018.8.30

国際スピード郵便

アメリカ在住の友人から、
日本の大手メーカーの浄水器の部品を
送って欲しいとメールで依頼が来た。
アメリカでは、売られておらず、
また通販では日本国内の住所でしか
発注できないので、私がいったん入手し、
アメリカに送って欲しいというのだ。

知らせてきた購入先の URL は、
日本人なら誰もが知っている P 社の
オンラインストアのものだった。

早速、購入し、届いたので
郵便局へ発送のため出向いた。

EMS(国際スピード郵便)で送ろうとしたら、
郵便局の窓口で、航空危険物は
送れないという説明を受けた。
浄水器の部品なので、
ガスや火薬ではないことは分かっていたが、
バッテリーが入っているかどうか
自信がなかった。
バッテリーも「危険物」として扱われるのだ。
中身を確かめるという手もあったのだが、
もう梱包してしまっていたので、
開けるのは面倒だ。

入っていたとしてもボタン電池だと思ったので、
それぐらいなら、大したことはないだろうとは
思ったけど、送るためには
「危険物ではありません」という書面に
サインをしなければならない。
万一、危険物が入っていた場合、
罰せられるような文言もあったので、
メーカーに確認してからにしようと、
その場でオンラインストアに書かれていた
フリーダイヤルへ電話をかけてみた。

まず最初につながったオペレーター(1人目)に
事情を話すと、「別の部署に転送します」と
電話を回された。
その人(2人目)と話しても答えを得られず、
別のフリー・ダイヤル番号を伝えられ、
そこにかけることになった。
3人目の人に事情を話したが、
その人も答えられず、「専門のスタッフが
電話中なのでおりかえします」と言う。
「今、郵便局の窓口なので、すぐ答えが欲しい」と
言ってつながるまで待つことにした。
つながった4人目の人は
「その商品は海外では使えません」と
訊いてもいないことを言い出し、
もう一度、最初から説明をしなければならなかった。
すると「調べますので少々お待ちください」と
またもや保留にされた。

結局、バッテリーは入っておらず、
問題なく送ることができたのだが、
「航空便で送れますか?」
たったこれだけの質問に4人と話した。
所要時間は、15分ぐらいだっただろうか。

不思議とイライラせずに、4人目まで
話したのだが、さすがに(私にとっては)
とんちんかんなことを先方(4人目ね)が
言いだした時はちょっとイラッとしたね。

もともと、海外で使用することを
目的に作られた製品ではないこともあって、
こうなるのは、仕方がないことかもしれないけど、
天下の P 社でもこうなのかとちょっと驚いた。
いや、天下の P 社だから、ええかげんな
回答をしないということなのかもしれないな。

ちなみに。
帰ってから調べてみると、リチウム電池は
どうやら送っても OK のようだった。
ボタン電池は、リチウム電池が多いと思うのだが、
水銀電池なんていうのもあるので、ややこしい。

EMS ご利用の際は、事前調査を。





2018.9.13

夏祭り

幼稚園に通う子を持つ人から、
最近、聞いた話なのだけど、
酒を飲みながらのことだったので、
詳細は覚えていない。
大体、こんな感じの話。

幼稚園で「夏祭り」と称するイベントがあった。
何だったか忘れたけど、職員が食べ物か飲み物を
子供たちの人数分用意したのだが、
配り終わると数が足りなくなったらしい。
職員は、園長にそのことを訴えた。
「人数分、準備していたのに数が足りません。
誰かが人の分まで取ったようです」と。

さて、自分が園長の立場だったら、
どうするだろうか。
即座に「一人一つずつです。
二つ以上取った人は、返してください」と
アナウンスするなり、
「問題解決」のために動くだろうと思う。

ところが、その園長先生(女性)は、
何と言ったか。

「不思議なことが起こるのが、夏祭り。」

これで終り。
犯人探しも、対策もなし。

この話をしてくれた人は、
園長先生のそのひと言に甚(いた)く
しびれたようで、
「ステキな話だろ?」と話してくれた。


この話を読んで、「食べ物が当らなかった
子供はどうなるの?」と思う人もいるかも
知れないが、ポイントはそこではない。

起きたことの全てを受け入れる器があれば、
問題なんて何もないのだ。





2018.10.18

世界に文句はない

「世界に文句はない。」
Kさんと話していた時に
何気なく 彼が言った言葉だ。

これは、「私は 世界に対して、
文句(不平不満)がない」
という意味ではない。

「私が 誰か(何か)に対して、
抱いている文句は、私の頭の中以外、
世界のどこにも存在しない」
(つまり大したことではない)という意味だ。

まるで真実のように思っている文句は、
自分の頭の中にしかない。
考えてみると確かにそうだ。

しかし、そのナンセンスなことに
人間は強烈に執着して生きている。

「世界に文句はない」ということを
概念的に理解しても役に立たない。

今ある文句は、自分の頭の中だけにしか
存在していないと、思ったところで
文句が消えるわけではない。

その文句が「大したことではない」と
心から思えることがポイントだ。
自分の頭の中以外、世界のどこにも
存在しないほど、くだらないことなんだと
心底掴むことが重要なのだろう。

さて、どうしたら、自分の思いや感情に
執着しないで生きられるようになるのだろう。

人間には、これは中々難しい。
ほとんどの人は、時には命より大事なほど
自分の考えが正しいと思い込んでいる。

私にはKさんは、
あまり腹が立たない、
小さなことに拘らない、
器の大きい人に見えるのだが、
ご本人の話だといちいち表現しないだけで
内面の反応は相当あるらしい。
(まあこれは、人と比較出来ることでは
ないのだけど。)

先ほど「どうしたら、自分の思いや感情に
執着しないで生きられるようになるのだろう」と
書いたが、Kさんが、あんまり文句のない、
なんでも受け入れられる人に見えるのは、
どうやら、何かのトレーニングの末、
そういう自分を手に入れたからではなさそうだ。

話を聴いているうちに分かってきたのは、
いつもいつも、自分の頭の中の文句を
手放し続けている、ということだった。

もちろん、トレーニングは必要だが、
トレーニングのためのトレーニングではなく、
日々、人生がトレーニングで本番。

今日の文句を手放すことが、
明日へのトレーニングということかな。
そのうち、段々、許容が大きくなって
いくんじゃないかと思った。

これ、死ぬまで続くよね。





2018.12.25

逸 脱

もうホットな話題ではないけど、
(ホットな話題という言い方、もう死語やん)
日野皓正(ジャズ・トランぺッター)が、
コンサートの本番中に中学生ドラマーから
スティックを取り上げ、ビンタをした事件。
もう1年以上前の事件やねんけど、
今さらだが、この件についてちょっと書きたい。

私が知る限り、これに対して大きく分けて
2つの考えがあった。

ひとつは、和を乱したのだから、中学生は
叱られて当然だという考え。
その中にはあれは、ビンタされても仕方ない、
という考えもあった。

もう一つは、ジャズは「逸脱」の音楽だから
勇気を持って「逸脱」した少年は賞賛こそされても
叱られるようなことはしていない。
日野さんの方が間違っているという考え。

ただし、その考えを主張している人も、
「逸脱」だけして「回復」出来なかった点においては、
中学生が未熟であり叱られても仕方がないとしている。
(ジャズは「逸脱」したら「回復」するのが前提での話です。)
しかし、私はこの意見はおかしいと思っている。
なぜなら、中学生は「回復」出来たかもしれないのに、
日野さんに途中で止められてしまったからね。
「回復できなかった」と決め付けるわけにはいかないだろう。
もう一つ言うと、「回復」できなかったことを
叱られて当然とする考えにも疑問がある。
まあ、それは、置いといて。

当初、私は日野さん擁護派だったのだけど、
この「ジャズは逸脱だから、中学生は
間違っていない」という意見を読んでから、
ちょっと考えてしまった。

先に書いたようにその人の意見は、
一部突っ込みどころがあるにしても、
「ジャズは逸脱」に対しては概ね同意できるからだ。

「概ね」と書いたのは「逸脱」の定義が
人によって違うと思うからだ。
「逸脱」を辞書で引くと
「本筋からそれること」
「本筋や決められた枠から外れること」
とある。
「あやまって抜かし落とすこと、抜けること」と
いうのもあったけど、この場合には該当しないだろう。

「逸脱」といっても、なんでもかんでも
めちゃくちゃやればジャズになるというものではない。
「逸脱」という言葉に矛盾するかのようだが、
ちゃんと「逸脱」の型のようなものがある。
そして、「逸脱」したことが、
カッコ良くなければ、その意味がないのだ。
そして、誰も見せたことがないような「逸脱」ほど
価値があるように私には思える。
みんながやっていることは、
もう「逸脱」とは呼べないからね。

中学生の行動は「約束、予定にない身勝手な行動をし、
和を乱した」という解釈も可能だが、
「決められた枠から外れた」わけだから、
ジャズ的に「逸脱」していた、とも言えるわけだ。

事件は、ビンタに焦点が当たっていたけど、
ここでは、ビンタの是非は問わないことにして、
日野さんが、中学生のドラムソロを止めたことに
ついて、ジャズとしてどうなのか考えてみたい。

こんなもの正解はないのだろうけど、
どうも私はこの「逸脱」という言葉が登場したことで、
迷路に入ってしまった。

なぜなら、中学生はジャズ的に「逸脱」していたけど、
日野さんが叱ったことも尤もだと思っていたからだ。
そうすると、どうしても矛盾してしまう。
ジャズの大家なのに、ジャズの精神とも言える
「逸脱」を止めるとは、一体どういうことだ?

この件に「逸脱」を持ち出した人は、日野さんが、
中学生を怒ったことを「不当」とバッサリ切っていた。
(この人は、たまたま読んだブログの筆者で、
個人的に議論する気はないので
ここでは、リンクも張りません。)

が、私はそんな単純なことに思えなかった。
なぜなら、その後、この件でマスコミに
マイクを向けられた日野さんは、
「君たち、ヒマなの?」みたいな
大人な対応から大きく『逸脱』した言葉を発したからだ。

日野さんにとっては、世間が大騒ぎするほどの
ことではなかったんだろう。
その考えも昨今の「暴力」や「パワハラ」に関する
世論からは、大きく外れて(逸脱して)いるように見える。

釈然としなかったこの件をたまたま思い出した私は、
サルトル先生に質問してみた。

妻が今年7月に『超解釈サルトルの教え』という本を
出版したのだが、それ以来彼女は、
「サルトル塾」というものを開いている。
「サルトル塾」は、塾生の人生の悩みや問題に
サルトル先生になりきった妻が答えるという
いわば悩み相談のようなものなのだ。
私は数回参加してみたが、
毎回、妻の突飛とも言える答えが面白い。
よくもそんな発想が湧くなぁという回答をするのだ。

で、先日、何気なくこの「日野さんと逸脱」に
ついてどう思うか、訊いてみたのだ。

彼女の答え。
まず、中学生は「逸脱」している。
そして、
日野さんも「逸脱」している。

なるほど。
そのアイディアは浮かばなかった。
私は何かスッキリした。
そうか、2人とも逸脱してるんや、と。

数年間に、東京ジャズで日野さんのステージを観た。
ご本人やファンの方には申し訳ないが、
私には全く良さが分からず楽しめなかった。
それぐらい日野さんの音楽は、「逸脱」していた。
私の好みではない方向に。

その日のエントリーに私は、
「正直、(何やってるのか分からん) って感じで、
あんまり楽しめなかった。
普通に演奏することに飽きると (?)、
あんな風にやりたくなるのだろうか。
ずっ~と不協和音が鳴ってるような感じ」と
書いている。

つまり、そんな人が中学生の「逸脱」を
怒るとは思えなかったのだ。
私の勝手な解釈だが、
中学生が試みた「逸脱」は、
自分のバンドでやるべきことだったのかも知れない。
日野さんにすれば、
「お前、百年早いぞ!」ということだったのかも
知れない。
気に入らないことには、観客の前でも
ビンタを食らわすぐらいの人だ。
これを「逸脱」と言わずしてなんという。

「逸脱」は、練習してするものでもないし、
さあこれから「逸脱」するぞ!と言って
するものでもない。
そんなものは、予定調和の一部だ。
だから、中学生も日野さんも「逸脱」していたと
言えると思う。

もしかしたら「日野さんは間違っている」と
書いている人は、
「逸脱」は音楽の上のことであって、
「社会的に『逸脱』しても良いわけじゃない」と
反論するかもしれない。
日野さん(いわば監督)が、口頭で止めても、
暴走する中学生を社会的な「逸脱」とせず、
音楽的なことというのなら、
口頭で注意しても止めなかった中学生を
実力行使で止めた日野さんだって、
ご自分の音楽の舞台だったのではないか。
ええ、ええ、分かってるよ。
ここに「暴力」という要素が加わるために、
この言い分には、無理があることは。


断っておくが、この件に正解はない。
日野さんの怒りを当然だという人と
不当だという人との意見は、
どこまで行っても平行線だろう。

そして、「逸脱」しているかどうかも、
何が「逸脱」かも、人によってその解釈が
違うだろう。

しかし、私のモヤモヤは晴れたので
良しとすることにした。

この事件を思うとどうしても
映画『セッション』のことを思い出してしまう。

2015年にアカデミー賞3部門他、
多くの受賞をした作品で、3年前に観た時には、
何がそんなに評価されたのかよく分からなかった。
名門音楽大学の生徒 (ドラマー) と
鬼教授の物語なのだが、あまりに狂気で
物語に着いていけなかったというのが本音。
一緒に観た妻はとにかく大絶賛だったのだけど。

日野さんのビンタ事件の私なりの落とし所が
見えたところで、もう一度この映画を観てみた。
(Amazon Prime Video 便利やねぇ。)

すると、なんとも痛快な作品だった。
最後には、感動してウルウルしてしまったよ。
自分でもビックリ。
★5つに昇格。
やっと、教授の言っていることが聞こえた感じ。
まさに「逸脱」の映画です。
教授も生徒もね。



ひとりごと