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 2016年
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2016.1.12

卒 業

2011年春、友人から小学5年生の息子の
勉強を見てくれないかと依頼があった。
当時「なぜ、私に?」という思いもあったのだが、
そのK君のことを知らないわけではなかったし、
本人も希望しているというので、引き受けてみることにした。

当時の手帳を見てみると、2011年 4月 5日が
その第1回となっている。

そのK君も中学3年生になり、いよいよ高校受験となった。
ほぼ毎週の私との勉強の会は、4年9ヶ月にわたり、
今日がその 208回目だった。
(手帳に通し番号を付けているのです。)

始めた当時、10歳だった少年K君は、
15歳になり、顔にはニキビを携え、
見るからに逞しい青年になった。

ほとんど毎週会っているから、気がつかないのだが、
改めて見ると、(いつの間に・・・)と思う
成長ぶりなのだ。

中学卒業を控え、そんなK君とも、
お別れの時が近づいていた。
いくらなんでも、高校の勉強を見るのは、
私には難しくて無理だろう。

そして、受験の準備や他の塾との兼ね合いで、
今日が最終回になることは、昨年末から分かっていた。

その最終回が決まった時点で、
心の中がざわついたのを自分でもはっきりと感じた。
ただ、終わってもしないのに、そのざわついた心の
正体を突き止めるのがイヤで、その自分の心情を
見て見ぬふりをした。

今日、最終回が終わった。

手帳の今日の欄には、「#208」と書かれている。
4年9ヶ月にわたり、208回の授業を
K君と取り組んできたわけだ。

彼の勉強にどれだけ役立てか分からない。
もっと良い導き方があったかも知れない。
でも、私は私なりに考え、出来ることをやってきた。

最後の授業が終わり、K君の肩を叩き、
「受験頑張れよ」と別れたあと、
何かがこみ上げてきた。

終わった時、解放感とか達成感があるのかと
思っていた。
そんなもんはなかった。

あったのは予期せぬ得体の知れない感情だった。

奇しくも最終回にK君に出した国語の問題は、
文章から登場人物の心情を読み取る、あるいは、
文章に書いてない心情を想像するということが
ポイントだった。
その心情表現のボキャブラリーを増やすため、
自分の心の中をいつも観察して、言語化するようにと
K君に言った矢先のことだった。

自分の心の中を観察してみた。

私の中の得体の知れない感情は、
自分には想像し得なかった、
寂しさ、だった。

K君、ありがとう。
そして、私を信頼してくださったご両親に
ありがとう。





2016.1.13

記憶力 超低下

何と情けない。

1月8日、Martin Taylor, Ulf Wakenius &
Kazumi Watanabe のライヴを観に行った。
その日のエントリーに、「Ulf & Kazumi のデュオが
何だったか思い出せない」と書いた。
とあるサイトにその曲名が
書いてあったのを読んで ビックリ。
"Four On Six" だったのだ。

"Four On Six" というのは、Wes Montgomery の
曲で、Jazz Guitar に親しむ人なら知らない人は
いないというような超有名曲。
私もライヴで演ったことがある。

「情けない」と書いたのは、その曲が始まった時、
(おぉ〜 "Four On Six" やんけ!)と
ワクワクしながら聴いたにもかかわらず、
数時間後には「思い出せない」と書いている、
この記憶力のなさ。
というか、記憶力の低下か。

う〜む、大丈夫か、オレ。





2016.1.19

こんなに寒かったら

こんなに寒かったら、
家に着く前に
酔いが冷めてしまうやないか。




2016.1.21

20年と30年

1995年12月24日夜、私は知り合いの運送業者の
ドライバーとトラックに乗って東京に向かって
大阪を出発した。
家財道具やギター達と一緒に。

昨年12月は、私が東京に移り住んで、
ちょうど20年目だった。

昨年中に、そのことについて何かまとめて
書きたいと思っていたのに、気が付いたら
年が変っていた。
あらあら。

1995年といえば、阪神淡路大震災、
オウム真理教による地下鉄サリン事件の年。
それは、明確に覚えているのだけど、
他に何があったのかと調べてみると、
野茂がドジャースに入団したり、
NHKの『ためしてガッテン』が始まったり、
ミャンマーのアウンサンスーチーの自宅軟禁が
解除されたり、巨人の原が引退したり、
ゆりかもめが開業したり、PHSサービスが
始まったりした年。
テレサ・テンが亡くなり、
映画『フォレスト・ガンプ』『アポロ13』
『マディソン郡の橋』などが日本で公開された年だ。

また、1985年10〜12月の 2ヵ月かけての
アメリカ大陸横断についても 30年という節目(?)
だったので、何か書きたいなと思っていたのに
書けずじまい。

こうやって、どんどん時間が過ぎ、
実行することもないアイディアをたくさん抱えたまま
死んでしまうのかもしれない。

まあ、上に書いた2つのアイディアは、
個人的過ぎて 別に実行しようがしまいが、
どうでもええことやけど、
なんか自分の中では、区切りというか、
まとめたいという欲求があるのですわ。
そんな過去のこと、どうでもええやんという気も
同時にあるねんけど。

アメリカ旅行については、たくさん写真を撮ったものの
当時はプリントするお金がなくて、
少ししかプリントしていない。
「現像しとかんとフィルムがダメになる」と
聞いたので、現像だけはしたけど。
そのうち、プリントしようと思っている間に
30年経ってしもたわけだ。

プリントせんでもええから、
まず、デジタルデータにしてみよう。
ええ写真があるかもしれへんもんね。





2016.1.25

あっ 海だ

東急池上線は、五反田駅付近で
目黒川を鉄橋でまたでいる。
あの辺の目黒川の川幅は、20mぐらいだろうか。

先日、その池上線の電車に乗っていた時のこと。
窓から目黒川が見えた時、近くに座っていた
2〜3歳の女の子が「あっ、海だ」と言った。

お母さんが小声で訂正したのだろうか、
女の子は、すぐに「川、川」と言い直した。

私も小さい時、電車の中から
川を見て「海だ」と言ったと、
子供の頃、母に聞かされたことがある。
たぶん、本物の海をまだ見たことが
なかったんじゃないだろうか。
自分には、記憶のない頃の話だが、
その話を聞かされたことは覚えている。

と書いたが、実はそんなことは完全に忘れていた。
女の子の「あっ、海だ」という一言で思い出したのだ。
たぶん、40年ぶりくらいか。

たったその一言だけで、全く眠っていた
記憶が蘇ってくることに驚いた。
人間の記憶って、凄くて、不思議。





2016.2.6

なんぼでも寝れる

一昨日(木曜日)の夕方、眠気を感じ始めた。
夜は映画でも観ようかと思っていたけど、
帰って寝ることにした。
たぶん、9時頃には寝たと思う。

昨日(金曜日)、朝 7時40分頃、
比較的大きな地震があった。
その時は、目が覚めたのだが、
(テレビつけて ニュースを観な・・・)と思いながら、
また眠ってしまった。

次に気がついたのは、お昼の12時を過ぎていた。
スヌーズ機能付きの目覚まし時計は、
鳴りきったようで、止められていなかった。
スヌーズは 5分おきに30分ぐらい鳴り続けるのだが、
止めた覚えがない。
ずっと鳴っていたということか?
仕事のアポが入っていなくて助かった。

15時間ぐらい寝たのだが、
昨日の夜も眠たくて、やはり、
9時頃には寝てしまった。

今日は、何度か目が覚めたが、
布団から出ようとする前にまた眠ってしまい、
結局、布団から出たのは、午後 3時を過ぎていた。
15時間寝たあと、9時間ほど起きていて、
そのあと 18時間ぐらい寝たことになる。
寝すぎか?

「春眠暁を覚えず」というが、
まだ春やないし、春としてもこれは関係ないやろ。
身体がおかしくなっているのではないかと
思うほどに眠れる。
どうなっているんでしょうか。

年をとると睡眠時間が短くなると聞くが、
私には全く当てはまりません。
この2日間は、ちょっと異常やけど、
普段でも結構 眠れます。





2016.2.11

私と音楽

音楽に取り憑かれたのはいつのことだろう。

父が若い頃、ヴァイオリンを弾いており、
職業音楽家には成れなかったものの、
私が物心着いた頃には、家に足踏みオルガンがあった。

昭和40年代、日本でピアノがたぶん一番売れた時代だろうけど、
うちにあったのは、ボロい足踏みオルガンだった。
足でペダルを踏み続けないと音が出ないタイプね。
電子楽器に取って代わり、最近では見ることがなくなったけど。

そのオルガンのおかげで、私は随分と幼い頃に鍵盤上の
「ド」の位置を知っていた。
そんなことも私の音楽への影響は大きいと思う。

父が某大学のオーケストラの事務の仕事をしていたことあって、
2歳上の姉が小学3年生になった時に
たて笛(ソプラノ・リコーダー)を習い始めた。
電話もない、白黒テレビの、貧乏な家だったのにね。
ピアノではなく、たて笛。
もっとも、ピアノなんて買えなかっただろうし、
家に置く所もなかったけど。

2歳年下の私は、そのレッスンを母と見学する羽目に
なったのだが、自分でも たて笛を吹きたくなり、
一年生の時に、自分のたて笛を買ってもらった。
当時は、1年生はハーモニカで、2年生からたて笛を
習うのがカリキュラムだった。
私のたて笛は、学校で皆と一斉に買ったものでは
なかったので、一人だけ色が違ったのが、
何か特別な感じがして、ちょっと嬉しかった覚えがある。

不思議なもので、習っている姉より、
レッスンを横で聞いていた私の方が、
たて笛を上達した(ように思う)。
それが後々、中学の吹奏楽(器楽)部入部へとつながるわけだ。

ちなみに姉は、中学でコーラス部に入学する。
器楽より声楽を選んだのだな。

小学2年生の時には、たて笛を使って作曲を始めた。
一番最初に作った曲は、今でも覚えている。
ちゃんと楽譜も書いた。
実家を探せば、出てくるかもしれない。
曲といっても、12小節だけの短い
モチーフのようなものだ。
16小節ではなく、12小節というのが、
今となってはシブいと思うのだが、どうだろう。

たて笛を吹いたこと、自然に作曲をしたことが、
音楽の始まりだったような気がする。

その後、ギターにも目覚め、
小学5年生でギターを買ったけど、中学に入ると
吹奏楽部(最初はトロンボーンでスタート)に入った。

当時のことはよく覚えている。
自分のスケベ心は、明確にギターに向いてた。
でも、吹奏楽部を選んだ。
「ギターは、一人でも出来るけど、
管楽器はクラブに入らないと出来ない」
それが、軽音楽部(ギターのクラブ)に入らずに
吹奏楽部を選んだ理由だった。
それぐらい、音楽(というか楽器演奏)に対して
貪欲だったとも言える。
(その割に、練習はあまりしなかったけど。)

当時に限らず、私はいつだって音楽に貪欲だった。
その証拠に、ろくに聴いていない CD、
まだ観ていない DVD、買っただけで終わっている
ギターの教則本などで家の中は、いっぱいだ。
それ、貪欲って言えへんか。
妻に「片付けろ」と言われ続けているもんね。

あれ?
何を書きたかったか、分からんようになってしもたぞ。

音楽の趣味嗜好や感じ方は、時と共に変わり続けるので、
絶対的なことは言われへんのだけど、
最近、感じていることを書こう。

上原ひろみ(Pf)
トミー・エマニュエル(A.Gt)
デレク・トラックス(E.Gt)

ちょっと面白い組み合わせだが、
最近、この3人を聴いていて、ある一つの
共通点を感じている。

彼らは限界を超えているということ。
神がかりと言っても良い。

彼らの演奏を聴くと自分のちっぽけな
既成概念を突きつけられる。

楽器奏者にとって、難しいことを
いとも簡単そうに(というか、簡単とか難しいとか
そういうの関係なく)演奏している点で、
この3人は今の私には、共通している。

そして、彼らの演奏を聴くと、
もっとギターを弾きたくなる。

もちろん、彼らの足元にも及ばないことは、
百も千も承知だが、彼らはその演奏を通して、
「やれ!」と私に囁きかける。

そんなわけで、53歳の私は、「もしかしたら」
まだ何か出来るんちゃうか、
もうちょっと出来るんちゃうかと、
ギターを弾くのでした。





2016.3.20

歯が痛い!

水曜日の深夜 1時頃、布団に入ったのだが、
右の奥歯が痛くなりだして、眠れそうにない。
痛風発症以来、いつも持ち歩いている痛み止め薬、
「ロキソニンS」を飲んだ。
20〜30分で薬が効きだすと思っていたら、
一向に痛みが治まらないので、2時頃だったか、
もう1錠飲んだら、眠ることができた。

翌日木曜日の朝、歯医者に電話をしてみたが、
予約でいっぱいなので、来ても
応急処置しかできないと言われた。
ここで、私は判断を誤った。

応急処置でもいいから、診てもらえば良かったのだが、
何故か「いつなら空いていますか?」と訊き、
次の予約を入れることにした。

週末は、3連休で火曜日まで予約が取れなかった。
とりあえず、火曜日の予約を入れ電話を切った。
その時は、前夜の痛みはなかったのだ。

翌、金曜日、少し痛む。
痛み止めを飲んで過ごす。

そして、昨日、土曜日。
昼頃から、痛み出す。
痛み止めを飲むが1錠では効かず、
2錠飲むとなんとか治まった。

夕方から再び痛み出す。
今度は、薬を飲んでも痛みが治まらない。
かなり、痛い。

「ロキソニンS」の服用量は1日2錠までと
なっているが、結局この日は、5錠か6錠飲んだ。
それでも効かず、冷水を口に含むと、
痛みがましになるので、ずっと冷水を
口に含んでいた。

冷水を口に含んだままでは、寝られない。
夜中、眠たくなり、うとうととしてしまい、
口から水がこぼれ目が覚める、
そんな繰り返しで、朝まで眠れず過ごした。

これでは、火曜日までもたないと思い、
ネットで日曜日でも診察している歯科医を探した。

今朝、7時頃になってようやく
痛みがましになってきて、眠りについた。

11時頃に起き、日曜日診察となっている歯科医に
数件電話をするも、どういうわけかつながらない。
(なんでやろ?)と考えて気がついた。
今日は日曜日だけど春分の日、祝日だったのだ。

今度は、祝日診察の歯科医を探し出した。

やはり、「予約でいっぱいで応急処置しか
できません」と言われたが、応急処置だろうと
なんだろうと、とにかくこの痛みをなんとかしたい。
藁をも掴む思いだ。

レントゲンを撮って、診てもらう。
痛みの原因は、虫歯ではなく、2〜3年前にも経験のある、
歯茎の炎症だろうと思っていたら、違った。

なんと、歯が割れているというのだ。
しかも3つぐらいに。

どうも、私の歯は硬いらしく、
硬いと割れていしまうことがあるというのだな。

今日は、歯が当たった時の痛みを和らげる程度に
軽く削ってもらい、「ロキソニンS」より
強力だという痛み止めをもらった。
この薬のおかげでようやく食事をする気になった。

今現在。
薬の効き目が切れたのか、先程から痛み出した。
薬を飲んだが、まだ効いてこない。
ああ、憂鬱。


今回の教訓。
1.応急処置でもなんでも医者に診てもらうこと。

もうひとつ。
実は、この数ヶ月間に食事の際に痛みを感じたことが
数回あったのだが、痛みが継続しないために、
放っておいた。
この時に診てもらっていれば、こんなに痛い目に
合わなくて済んだかもしれない。

教訓
2.少しでも異変を感じたら、めんどくさがらずに
早めに手を打つこと。

肝に銘じます。





2016.3.21

歯が痛い! 2

結局 昨夜は、激痛でかなり苦しむことになった。
今までの人生で一番ひどい痛みだったかも。
と言っても、痛みというのは過ぎてしまうと
分からなくなる(忘れてしまう)ものなので、
比較のしようもないのだけど。
喉元すぎればなんとやらと言うしね。

昨日もらった痛み止め「ボルタレン」10錠は、
昨夜のうちに 9錠を飲んでしまった。
それぐらい昨夜も激痛に悩まされたのだ。

昼前に最後の1錠を飲み、昨日診てもらった歯科医に
電話をすると、予約でいっぱいだが、
3時45分なら診られるという。
それまで痛み止めが持たないので、
午前中に薬だけもらいにいくことにした。

医院に着き、薬をもらいに来たと受付に伝えると、
診察室に案内された。
どうやら、診てもらえるようだ。

予約の合間を縫って、治療をしてもらった。
歯が割れたことによる歯髄炎だという。
「これは痛かったでしょう」と言われると、
なんとなく救われたような癒されたような
気持ちになるのは自分でも不思議だった。

麻酔を打ち(これはこれで痛い)、
神経(歯髄?)を抜いた。
「これが痛かったんですよ」と見せてくれたのは、
数ミリの黄色い物体だった。

1週間後の次回の予約を入れ、
これからはそんなに痛まないでしょう、と
痛み止めを6錠もらって帰宅した。

2時半頃だったか、麻酔が切れると同時に
痛み出した。
そんなに痛まないだろうと先生は言ったけど、
昨夜のピーク時ほどではないが、かなり痛い。

今日、治療を始めたのは、右下の奥歯だったが、
どうも右上の奥歯が痛い。
えっ〜?上の歯やったん?
いやいや、そんなはずはない。
下の歯が割れていたんやから。
けど、上が痛いぞ。
これ、別の痛みか?
痛み止めは6錠しかない。
この2日間の経緯を考えると、
すぐに使いきってしまう。

不安になり、もう一度診てもらえないかと
医院に電話を入れた。
先生が、電話口に出てくれたのだが、
「上の歯はどうもなかった、
もう少し様子を見て欲しい」と言われた。

そりゃそうだろう、予約でいっぱいなのに
一日2回も予約外の人を診るのは大変だろう。

で、様子を見ることにした、というより
(夕方から)とにかく眠ることにした。
何もする気がないし、とにかく時間が過ぎて
欲しいのだ。
薬が効きだすと眠れるが、
見事に3時間ごとに痛みで目が覚める。
薬を飲むがすぐには効かないので
しばらく痛みに耐えていると、
そのうち眠ってしまう。
そんな繰り返しだ。

現在、深夜25:40。

今度の痛みは、一昨日と違って、
氷水を口に含んでも痛みが治まらない。
もう、対処のしようがない。

なんで、こんなことになるんやろう。
何のためにこんな痛みを体験しているんやろう
神様は、なんでここままで痛い仕組みを
作ったんやろう。
こんなに痛くせんでもええのに。
いや、これぐらい痛くせんとちゃんと治療せえへんからか。
などと、考えても仕方のないことに
思いを巡らせ、ただただ痛みに耐えているのでありました。





2016.3.23

歯が痛い! 3

月曜日の診療で、先生に
「もうこれであまり痛まないでしょう」と
言われたにも関わらず、その夜の痛みはかなりもので、
もらった痛み止め6錠は、
夜中の2時には飲み終えてしまった。

翌火曜日の朝、歯科医に事情を説明し11:30の予約を入れる。
診てもらうと、患部が腫れているという。
できれば歯は抜かずに治療したいところだが、
この歯は割れてしまっているので、
今回治療しても何年持つかわからないという。
1年かもしれないし、5年かもしれない。
でも10年や20年は持たないだろうというのが
先生の見解だ。
この機会に抜いてしまうというのも一つの手だ。

そんな話をしながら、思いきって抜くことを決断した。
この3日間の苦しみを考えると、
もう抜いて楽になりたい、という気持ちになったのだ。
抜いたら抜いたで、抜いた痛みが数日続くが、
それは過去に親知らずの抜歯で経験済みだし、
先の見えない痛みに耐えるよりは、いいだろう。

ということで、歯茎に麻酔を注射。
これがまた痛い!
完全に麻酔を効かすため、4〜5回に分けて
いろんな箇所に麻酔を入れるのだが、
これは痛い。かなり痛い。
形容のしようがない痛みだ。

で、麻酔を打ったあと、抜歯の準備を進めていると、
大量の膿が出てきたようで、先生が
「この膿を全部出したら、痛みが収まって、
抜かなくても済むかもしれない」と言い出した。
そうならそれに越したことはない。

もう、麻酔の痛さで心が折れていた私は、
ほとんどどうして良いか分からない状態だったが、
「痛みが収まるかもしれない」という言葉に
賭けてみることにした。
2日続けて、先生の見立ては外れたのだけど、
そのことをずい分と丁寧に詫びられたし、
先生もこれ以上のミスは犯したくないだろうし。
膿を全部出し、その日の治療は終了。

医院を出て1時間ほどして、なんとなく
気持ち悪くなりだしたので、夕方のアポイントまで、
家に帰って横になることにした。

タクシーに乗って、すぐ尋常じゃない悪寒が襲ってきた。
これは、まずい。
普通ではない。
とにかく寒い。
熱があるようではない。
麻酔の影響だろうか。

アポイントは、キャンセルし、
帰宅し毛布をかぶってひたすら寝たのでした。

抗生物質をもらったので、それを飲むために
夜起きたが、歯の痛みはほとんどない。
悪寒もないが、なんというかしんどい。
頭痛がするし、気力がない。

結局、今日水曜日も仕事を休みことにし、
一日中寝ていた。
夕方、患部の消毒してもらう予約をしていたので、
なんとか起きだして、行ってきた。

まだ、頭痛がするし、気力はないが、
歯は快方へ向かっているようだ。





2016.5.29

痛風物語 10
〜 気になる尿酸値 〜


昨年の 5月16日に2度目の痛風を発症したが、
今のところ、3度目の発症はなく1年が過ぎた。

時々、患部が疼くことがあり、
3度目の発症の兆候ではないかと、
ヒヤヒヤ びくびくすることもあるが、
尿酸値を下げる薬は飲まずに、サプリメントと
食生活に気をつけるだけで、なんとか1年が経ったのだ。

4月の終わりごろ、健康診断を受けた。
気になるのは、尿酸値。

昨年7月、8.0 以上が続いていた尿酸値が、
7.4 に下がった。(その時のエントリー
あの時は「7.0 を切るまで、やるぞ!」と息巻いていたが、
7月から9ヶ月間、尿酸値を測っていなかった。
今回の結果は、7.0 を切っていなくても、
7台後半ぐらいか、と思っていたのだが、
なんと 8.3 という嬉しくない高得点!
(尿酸値は、7.0 を超えると異常。)
「要精密検査」と書かれてしまった。
がっかりですわ。

そう、全く下がってないねん。
それでも、1年間発症しなかったのは、
(おそらくだけど)アルコールの量を減らし、
肉の量を減らし、効いているのかどうか
分からないサプリメントを飲み続け、
これまた効果があるのかどうか分からない
バナジウム入の水を飲んでおかげだと思う。
しかし、油断は禁物だ。

そして、あい変わらずコレステロール値が
良くない。
昨年は、正常値内だった中性脂肪も
2年ぶりの異常値を示している。

やはり、もう数キロ痩せるしかないのやろな。
う〜ん。





2016.6.1

ひとりごと 9周年

早いものでこの「ひとりごと」を書き始めて
今日で丸9年だ。
今では、自分自身の備忘録としても
大変に役に立っております。
始めた当時は、そんなこと思いつきもしなかったけど。
まあ、日記のような面もあるからね。

今さらだが「ひとりごと」とは我ながら
良く付けたもので、「ひとりごと」なので
何を書いても良いことになっている。
「ひとりごと」なので、
誰かに向けて書いているわけではないようだが、
実は、読んで欲しいと思っているという
このパラドクスが、自分でも愛らしい。
変?

10年目に突入。
これからもよろしくね。




痛風物語 11
〜 3度目の発症! 〜


つい3日ばかり前に「痛風物語10」と称して
1年間発症していないけど、4月の健康診断で
尿酸値が 8.3 という結果だったと書いたばかりだが、
昨夜遅くから、右足の親指付け根あたりが、
いや〜な感じで疼き出した。

この1年間、数回そういうことがあったのだが、
昨夜は、ちょっと違う感じがした。
えぇ〜? いよいよ発症?
なんか、ちょっとワクワクな私。
あほか。

寝ている間も、痛みで眠りが浅い感じ。

朝起きてみると、痛い。
完全に痛い。
間違いなく、やっちまったって感じ。

でも、前回や前々回の発症のように
我慢できなくて、痛み止めを飲むほどではない。

出かけるのに靴を履こうとしたが、
それはやっぱり痛い。
履くときに患部が当たって痛いし、
履いたら靴で締め付けられるねんな。
普段は、フィットしているというのやろうけど。
それでも、なんとか履いて出かけた。

痛くて、さっさと歩けない。

測ってないけど、平常時の倍以上の時間がかかって
駅に着いた。

でも、痛み止めを飲むほどではない。
ちなみに私のカバンの中には、
1年半前から、常時ロキソニンが入っております。

激しい痛みはないが、
昨年の、痛み止めも効かない強烈な痛みを思い出し、
不安がよぎる。
これから段々と痛みがひどくなっていくのかなぁ。
明日は、妻の誕生日&結婚記念日で
高級中華を予約してあるのに、食べられるかなぁ。
土曜日の撮影実習に行けるかなぁ、などなど。

しかし、1日を終えてみて今のところ、
悪化はしていないようで、痛みも軽く痛い程度で、
痛み止めは服用していない。
歩くのはゆっくりになってしまうけど。

これがピークで治まってくれるとありがたいなぁ。

昨年の2回目の発症時に「油断していたのが原因」
「自業自得」と書いたけど、この3回目の発症も
完全に油断です。
もう、はっきりと思い当たる節があるねんもん。

この1カ月間を振り返ってみても、
昨年5月の発症以降、食べないようにしていた、
とんかつ、エビフライ、チキン南蛮など、
食べた覚えがあります。
ええ、ええ、食べましたよ、確かに。
ちょっとぐらいええやろと思って。
おまけに、発症前日、一昨日には、
ず〜っと食べていなかった、焼き鳥も食べましたよ。
そして、鴨すき食べて、結構飲んで、
へべれけでしたよ。
そうですよ、暴飲暴食ってやつですよ。
ばちが当たったとでも言いたいのでしょ。
そうですよ。
当たったんですよ。

あ〜あ。

人間って、いや、私は弱い人間ですよ。
グスン。





2016.6.2

痛風物語 12

今朝は、ちょっと歩くのが辛かったけど、
おかげ様で、夕方からは昨日より痛みがましで、
夜は靴を履いて出かけることができた。
今回の発症は、軽めのようだ(今のところ)。





2016.6.3

痛風物語 13

昨夜、「今回の発症は、軽めのようだ」と書いたけど、
夜中に、布団が乗っているだけで痛いほどに悪化した。

おまけに寝ている最中に、
痛風発症中の右足の ふくらはぎがつる始末。
まいったなぁ。

そういうわけで、発症3日目にして、
痛み止め(ロキソニン)を服用した。

薬が効かないほど強烈な痛みではないが、
薬を飲んでも完全に痛みが消えるわけではない。
困ったもんや。




54年目のカラダとの付き合い


今年の誕生日がくると 54歳になる。
あらためて考えてみると
54年も生きてきたのかと 驚かされる。
半世紀である。

生きたかったけど、54歳まで生きられなかった人が
どれほど沢山いるだろうかと考えると、
こうして生きていることは
奇跡と呼べるし、感謝しかない。

あまり自分のことを歳をとったと思っていないのだが、
50年も生きていると、身体のあちこちが痛んでくる。

昨年10月には中耳炎になった。
同じ頃から、左肩が痛くなり始め、
左腕が上がらなくなった。
今年3月には、歯にヒビが入り歯茎が膿み
人生最高ではないかという痛みを体験した。

厄年でもないだろうに、なんでしょか、これ。

そして先日、3回目の痛風発症。
痛風は、老化とは関係ないかもしれないけど、
もしかしたら代謝が落ちていることと関係が
あるのかも知れない。

左肩の痛みは、3〜4月頃にはほとんど治まったけれど、
動く範囲がかなり狭まってしまった。
左手で自分の頭を触ることができないのだ。
横には45度ぐらいしか上がらない。
何かしないと このままではあかんなぁと
思っていた 4月後半のある日、
会社の近くで配っていたチラシをもらってみると、
整骨院の広告だった。

見てみると会社から歩いて 5分ほどの近さだ。
このタイミングで、このチラシを手にしたということは、
「ここに行け」っちゅうことやなと思い、
5月の連休明けから通い始めた。

初診の時、先生に「元通りになりますか?」と
訊いたら、非常に明確に力強く「はい」と
答えられたので、とにかく 2〜3ヶ月は通って
みることにした。

4週間で 11回通った。
毎回、施術のあとは身体が軽く、
スッキリした感じがあるのが良いのと、
少しずつだが、左肩の可動範囲が広がってきた。

一番ひどかった時の可動範囲が 3割だとしたら、
今は 7割動く感じだ。
睡眠中の姿勢(左肩を下にしてしまう)によって
夜中に痛くて数回目が覚めていたのだが、
整骨院に通い始めて、3週目あたりから、
そんなこともなくなった。
大分、先行きが明るくなった。

3月のえげつない歯の痛みは、
その後も週一で歯科医院に通院し続け、
一昨日、ようやくかぶせ物をして
治療が完了した。
あと 1回、2週間後に経過観察に行くだけだ。
3月20日から通いだしたので、
70日ほど かかったことになる。
どうも、かぶせ物をしても歯の中で
膿んだりしないように徹底的に消毒を
繰り返していたようだ。

治療が完了したといっても、
割れた歯の上にかぶせ物をしたので、
「何年持つかわかりませんよ」と釘を刺されている。
数年のうちにヒビが酷くなったり かぶせ物の下で
悪くなったりすると抜歯することになるかもしれない。

最悪の時期は、脱したような感じだが、
54年目のカラダ、
もっと大切にしなければ。





2016.6.6

痛風物語 14

先週の水曜日に発症した三度目の痛風。
二度あることは三度あるとはよう言うた。

今回は、1〜2日目は、薬を飲まなかったが、
3日目からは痛みが激しくなり、
痛み止めを飲み始めた。
前回も3日目からしばらくが、
結構痛かった覚えがある

ところが今回は、4〜5日目はそれほど
痛くなかった。
4日目というのは、土曜日で撮影実習の日だった。
前日には、もしかしたら行けないかもと
思っていたけど、朝起きてみると
それほど痛くなく、痛み止めを飲んで、
靴を履いて出かけることができた。

翌日、日曜日(5日目)は、明らかに足の腫れが
引いているのが分かるほどで、痛み止めを
飲まなくても良いぐらい改善していた。
出かけるときに念の為に飲んだけど。

そして、今日(6日目)。
朝、見てみると、昨日腫れが引いていたと思ったのに
また腫れていて、昨日より痛む。
が、痛み止めは飲まずに出勤。
歩くと、あい変わらず痛くてゆっくりしか歩けない。
不便。
仕事中、昼過ぎからだんだんと
痛みが増してきた。
ちょっとシャープな痛みになってきた。
3時に痛み止めを服用。
今夜は、靴は履けない状態。

う〜ん、昨日はもうこれで回復かなと
思ったのだが、甘かったか・・・。





2016.6.11

痛風物語 15

今日で、発症11日目。
昨日の朝は、痛み止め薬を飲んでいても
結構痛みがあり、まだピーク時の感があったのだが、
夜遅くになると、患部の腫れが引いてきて、
痛み止め薬が切れる時間になっても、
ほとんど痛みが発生しなかった。

もしかしたら、これで快方へ向かっているのかなと
思ったけど、今回は症状に波があったので、
まだ油断はできないなと思って寝た。

今日になってみると、
足の親指を動かせるぐらいに回復している。
ピーク時は、全く動かせないほど痛かったのだ。
軽い痛みはあるので、完治とは言えないが、
ほぼ回復と言えそうだ。
これなら靴も履けそうだ。
良かった、良かった、一安心。

奇しくも今日、こんな記事が出た。

痛風、お酒に強いほうがリスク高い?
遺伝子の変異影響(朝日新聞)


記事には、
「飲酒時のアルコール分解で働く遺伝子が
痛風の発症にかかわっている」とある。
お酒に強い人の方が、
痛風発症のリスクが高いという研究結果だが、
お酒に強いとたくさん飲むので、
アルコールが分解される時に発生する
尿酸の量が増え、必然的に発症リスクが上がるだろう。

遺伝子云々は、専門的な分野では意味の
あることなんだろうけど、
私には、あんまり新しい発見のように
感じられず、参考にならなかった。
この研究の延長で、痛風を発症させない何かが
解明されると嬉しいけどね。

同じような食生活をしていても発症する人と
しない人がいるというのは、
記事にあった遺伝子変異の有無も含めて、
体質の問題なんだろうなと
素人なりに考えている。
ネットにある痛風に関する色んな記事を読むと、
痛風発症に食べ物はそれほど重要じゃないような
考え方もある。
とはいうものの、とりあえず出来ることは、
サプリメントも含めた食生活の改善と
運動ぐらいしかない。
ま、そのためには考え方を
変える必要があるねんけどね。





2016.6.16

電信柱

近所に3人兄弟の子供がいる。
一番下の子が5〜6歳で腕白そうな男の子だ。
うちの家の前は、私道で行き止まりになっているので、
車が通らない。
それで、よくその兄弟が家の前の道で遊んでいる。
ボール遊びをしたり、アスファルトの道に
チョークで線路を書いたり、この頃はあんまり
見なくなった光景を見ることができる。

昨日、私が仕事からもどると、その男の子が、
電信柱に抱きついていた。
「何をしてるの?」と声をかけると
男の子はこう答えた。
「これ、持ち上げようと思って。」
「そんなん、持ち上がって倒れたら大変やで。」
「あ、今、(ちょっと持ち上がって)グラグラした。」
少し離れた所で孫の様子を見ていたおばあちゃんが、
「やめて〜」と叫んでいた。

なんか、ええ時間やった。





2016.6.17

宅地建物取引士 更新 都知事

通称「宅建主任」と呼ばれていた
「宅地建物取引主任者」は、昨年 4月 1日より、
「宅地建物取引士」へ名称変更された。

私は仕事上、この資格が必要なので、
10年前に取得したのだが、
5年ごとに更新のために
法定講習を受けなければならない。

今日は、10時から5時過ぎまで、その講習に出席してきた。
某不動産協会のビル内の会場で、
出席者は、200〜250人ぐらいかな。
弁護士2人、一級建築士、税理士による 6コマの講義で、
退屈かなと思っていたら、結構面白かった。

と、ここまで書いて、5年前はどうやったんやろと、
前回の法定講習のエントリーを読んでみたら、
同じように「面白くないだろうと思っていたら、
意外と面白かった」と書いてあった。
おまけに「途中、ちょっと睡魔に襲われたけど」と
いうところまで、今回と同じや。

今回、特に面白かった(興味深かった)のは、
不動産絡みの紛争事例。
このことは、あらためて書きたい。

ところで、宅地建物取引士証は、
東京都知事の名前で発行されるのだが、
ご存知の通り、都政は混乱の最中で、
一昨日、舛添都知事は辞表を出した。
そういう状況なので、講習会の開始前、
担当者からこんな内容の説明があった。

「たくさんのお問合せを頂いておりますが、
本日お渡しします取引士証は、
舛添都知事の名前となります。
舛添都知事は、辞任を表明されましたが、
21日迄は、舛添さんが都知事です。
これは東京都からの通達ですので、
お問合せは、東京都の方へお願いいたします。」

私は、全く無頓着だったので、
問合せがあったと聞いて、
そんなことを気にする人がいるのかと驚きだった。
取引士証に記載される知事の名前で、
何か仕事に支障があるわけがない。
ところが、1人のおじさんが、
質問があると言って喋り出した。
どうも、舛添都知事の名前が記載されることが不満らしい。

担当者が説明した通り、東京都からの通達なので、
この場で何を言っても全くどうしようもないことは明白だ。
この講習は、不動産協会が都から委託を受けて、
開催しているものなので、この件について、
協会の人が何か答えられるはずがない。

しかし、質問したおじさんは、
よほど何かが気に入らないらしく、
強い口調で担当者に迫った。
質問の主旨は、わからんかったけど。

私の後ろの席のおっちゃんが、
「くだらない」とつぶやいた。
私も(どうでもええがな、そんなこと)と思った。

おじさんは、担当者に2、3度食いついたが、
何を言っても担当者の回答は、
「これ以上のことは、東京都にお問合せ下さい」という
当然のものであった。

色んな人がおるもんや。
おじさんに聞いてみたかったな。
「ほな、なんて書いてほしいの?」って。
「東京都知事 舛添要一(辞職予定)」?
それとも
「東京都知事 未定」?

むしろ私は、舛添都知事の辞任が決まった後に
発行された、希少な取引士証として、
話のネタになるぐらいだと思っている。
大して面白くもないが。



今日まで持っていた、5年前に発行された、
取引士証(当時は取引主任者証)は、
石原慎太郎都知事の名前だった。
記念に欲しかったけど、
自動車運転免許証やパスポートのようにはくれないのだ。





2016.6.20

痛風物語 16
〜 四度目? 〜


6月 1日の未明に三度目となる痛風を発症した。
今回は、昨年 5月の二度目の発症時より、
期間も痛みも、いく分軽度な印象で、
10日の夜に急に回復へ向かい出した。

それから10日が経過。
今朝起きた時には、なんともなかったのに
昼ごろから、患部が痛み出した。
えっ?
まさか!
って感じなのだが、痛風以外考えられない痛みだ。

昼間の痛みが一時的であればと思っていたが、
夜になっても痛みが引くことはなく、
右足の親指を動かすのが困難な程度に痛い。
まだ痛み止め薬を飲むほどではなく、
今のところ、本発症という感じではないが、
今までの経験だと、
このあとじわじわ痛くなる可能性が高い。

一度目は、発症と同時にピークの痛みだったが、
二度目、三度目は、発症した日より 3日目、
4日目の方が重症だったのだ。

6月1日以降、野菜しか口にしない日もあり、
肉も魚もかなり控えており、
お酒は、6月2日にワインをグラス 1杯、
13日にワイン 3杯程度、16日に焼酎 2杯程度と
覚えているぐらいしか飲んでいない。
体重も 1〜2キロ落ちた。

痛風は飲食物だけのせいじゃないことは、
分かっているが、つまりは、気を付けているのだ。

しかし、一昨日土曜日の妻の会社のイベントの
打ち上げで、かなり飲んでしまった。
ワイン 1本とはいかないまでも、
この頃にしては、結構な量を飲んでしまった。
おまけに鶏の唐揚げを 3〜4切れ食べた。
この日の食生活は、ツーフーアウトであるが、
そんなことが一回あったぐらいで即発症と
いうわけはないはずだ(と思っている)。

これが四度目の発症ではないことを祈る。
明日の朝には、治まっていてね。





2016.6.23

痛風物語 17

やっぱり、四度目の発症だったなぁ。
月曜日の昼ごろから痛み出し、
火曜日の朝は、結構痛みがあったものの、
夕方にはいったん痛みが緩んだ。
水曜日の朝は、比較的痛みも軽かったが、
夕方から、やや痛み出した。
その夜は、結構足が腫れていた。
そして今日(木曜日)は、どちらかというと
症状が軽い。

そんな風で、日によって症状にかなり波がある。
朝と夜とでもずい分と差があるのだ。
痛み止め薬の効き具合にも波がある。
が、相対的にこの四度目の発症は、
今のところ、四回の中では一番軽症だ。
「今のところ」と書いたのは、
まだ4日目なので、今後どのように
展開していくのかが、読めないのだな。





2016.6.29

痛風物語 18
〜 外反母趾も? 〜


6月1日に発症した 3度目の痛風は、
11日にほぼ治まりを見せた。
しかし、その10日後の20日、
再び地味に再発症をしたのだ。
これで4度目。

「地味に発症」と書いたのは、
4回の中では一番軽症で、ほとんど
痛み止めを飲むほどでもなかったからだ。
びっこを引かなければ歩けない時はあったけど。

そして今回は、症状が軽いだけではない。
痛みもほとんどなく腫れも引いたので
もう治ったのかと思っていたら、翌日には、
腫れていて軽い痛みを伴う日があったりと
日によって症状が違う。
3度目の発症時も少しそういう傾向があったが、
これほどではなかった。

昨日は、ほとんど痛みを感じることもなかったのに
今朝は、チクチクと痛みがあり、
患部を見るとやや腫れていた。
そんなわけで、スッキリしない日が続いている。

食事は、油断せぬよう心がけているつもりだが、
気が付くと「ちょっとぐらいええやろ」という
悪魔のささやきに負けている自分がいる。
これは、自分とのゲームだと思って
楽しむことにしたよ。

ところで、患部が赤く腫れているのだが、
どうも外反母趾のようにも見える。
痛くない方の足と見比べると
明らかに出っ張り始めている。

肩の治療で通院している整骨院の先生に訊くと
確かに外反母趾だが、これぐらいなら心配ないという。
ただ、歩くときに親指で地面を蹴って歩くことを
意識するように言われた。

「外反母趾」で検索するとこんな記事があった。

外反母趾本当の原因
外反母趾の原因をひと言で表現するのならば.
【足の指を使って生活していないこと】
と言えるでしょう。
具体的には・・・
1. 足指を動かしていない.
2. 足指に体重を乗せて立っていない.
3. 足指に体重を乗せて歩いていない.
というたった3つの、実はとてもシンプルなものです。
外反母趾研究所


踵にばかり体重をかけていてはいけないようだ。
これは、興味深い。
「足の指で地面をつかみながら歩け」というのも
どこかで聞いたような覚えがある。
ところが、上記のサイトには、こんな文言が。

ご注意ください!
『指を使う歩き方』とは巷で
言われているような
『指で地面を蹴るように歩く』
『指で地面を掴むように歩く』
ことではない!
今まで悪い歩き方をしていた方がこのように歩いてしまうと、
かえって症状を悪化させてしまいます!


参ったなぁ。
「必ず専門家の指導を受けてください」だと。
まあ、今の私のレベルではそこまでではないやろけど。

私の場合、痛風の痛みがある場合は、
特に痛い方の足の指は、ほとんど動かしていない上に
体重もかからないように歩く。
痛みがない時は、どんな風に歩いているかなど
全く観察したことがないので、
これからは、意識して歩くことにしてみよう。
って、これが意外と難しいねんけどね。
足の指の体操もしよっと。





2016.7.6

痛風物語 19


う〜ん、これはどういうことだろう。
6月 1日に 3度目の発症をし、
一旦は治まったものの 6月20日に 4度目の発症。
この 4〜5日は、もう回復したかのようだったが、
昨日の夕方から痛み出した。
軽くびっこをひかなければ歩けない程度。
今朝になっても治まらず、
夕方から、本痛みのようになってきたので、
痛み止めを服用した。
見たところ軽く腫れている。

これは、4度目の発症が続いているのか、
それとも慢性化し始めたとでもいうのか。
激痛ではないが、参ったなぁ。
やっぱり、尿酸値を下げる薬を飲むしか
ないのだろうかねぇ。
いやいや、まだ負けないぞ。

色々調べていると、高尿酸値になるのは、
食事だけが原因ではないようだ。
生きている限り、尿酸は体内で生み出される。
その尿酸を上手く排出できないと、
血中尿酸値が高くなってしまい、痛風を発症するわけだ。

ある記述によると、食事による尿酸は、
全体の 2〜 3割で、残りの 7〜 8割は、
食事によらないものだという。
なので、暴飲暴食はいけないが、
そんなに食事制限をする必要はないという
考えもあるようだ。

ここからは、私の素人考え。
尿酸を体外に排出する力は、
そんなに簡単に上げられないだろう。
もちろん、水分を多く摂るとか、
尿をアルカリ性に向ける食事を摂るとか、
尿酸値を下げる(と言われている)サプリを
摂るとか、出来ることはある。
でも、それだけでそう簡単に尿酸値は下がらない。
仮に食事由来の尿酸値が 25%だとしよう。
尿酸値が「8.0」の場合、25%は「2.0」だ。
プリン体に気をつけること、飲酒を控えることで、
この「2.0」を半分の「1.0」に下げることができたら、
尿酸値は「7.0」になるわけだ。
そう思って、肉や魚、アルコールを
かなり控えているのだが、甘いでしょうか。

ちなみに、ヒト以外には痛風はないようだ。
というのも、ヒト以外の哺乳類は、
体内で尿酸を別の物質に分解してしまう
酵素を持っているのだという。
なので、肉ばっかり食ってるライオンや虎が、
痛風で足を引きずっていることはないわけだ。
「ヒト以外」と書いたけど、
猿などの霊長類もその酵素を持っていないらしい。
でも、猿はお酒も飲まないし、肉もそんなに食わないから、
尿酸値あんまり高くないのかもね。





2016.7.10

幻のフィルム

先日、31年前のアメリカ旅行の写真を初公開した。
これこれ

7月5日のエントリーに
「旅行の写真は、全部でフィルム25本 809枚」と
書いたが、実はもう 1本、幻のフィルムがある。

私は、1985年12月25日にニューヨークを
出発して帰国した。
その日、12月25日は、Christmas Day で、
アメリカは祝日だった。
朝 9時頃、荷物はフロントに預けたまま、
ホテルをチェックアウトした。

夜のフライトまで最後のニューヨークを
どうやって過ごそうかと思って外に出ると
祝日のニューヨークはガラガラで、
マクドナルドまでが休業していた。
車も走っていない、人気(ひとけ)のない、
ニューヨークの通りのど真ん中に立ち、
写真を撮った。
こんな写真、見たことないぞとワクワクしながら。

雪がぱらついており寒い。
映画でも観ようかと思ったが、
昼過ぎからしかやっていない。

どうしたものかとブロードウェイを
歩いていると、ポルノ映画館が開いていた。

それまでは、ポルノを見ることなど
思いもしなかった。
どんな客がいるか分からないし、
なんとなく危険な感じがしていたからだ。

でも、もう最後だし、話のネタに入ってみようと
そのポルノ映画館に入った。

館内は、混んでおらずガラガラだった。
なるべく出口に近い席でと思ったが、
通路側の椅子が破れていて、
クッションがはみ出していたので、
その席一つを開けて、座った。

しばらくすると、ヨットパーカーの
フードをかぶった大柄の黒人が、
隣の席に座ったり立ったりしながら、
私の様子を伺っているようだった。

やがて、隣に座り「今何時だ?」と
訊いてきた。(もちろん英語で。)
時計を見せてやると、ごちゃごちゃ言い始めた。
「I have a gun」と言って、
自分の股間を指差している。
なんやこいつ、ホモか?
自分の「ガン」をどなえぞしてくれと
言うてんのんか?と思った私は、
英語の分からないふりをした。

今考えると「No understand」
「I can't speak English」って、
英語で「英語わかりません」って言うてんねんから、
これもおかしな話だ。

「I have a gun」の「gun」は、
本当にピストルのことだったと分かったのは、
その黒人が、ナイフを取り出した時だ。
ピストルなんて高いもの、
そのへんのチンピラは持ってないのね。
なので「I have a gun」はハッタリ。

男は、ナイフを私の太ももに当て、
「動くな、大声出すな、金を出せ」と
言っている。
「いやいや、今日、日本に帰るとこで、
お金持ってませんねん」という私に、
(英語通じてるやん)
今度は、ナイフを首に付けてきた。
不思議と刺されるという恐怖はなかったが、
ちょろっと切られたら痛いやろな、と思った。

大声出すぞ、と言いたいが、
英語でなんと言うのか分からず、
「Big voice!」と言ってみたが、
どうも通じていないようだ。
(間違っています。)

ポケットに 1ドル札紙幣 4枚があった。
「これで全部や」と差し出すと、
今度は、そいつの仲間が反対側に座った。
黒人 2人に挟まれたわけだ。
(ひとつ席を空けて座ったことが失敗でした。)

「まだ持ってるやろ」
「カバンを開けろ」と言う。
ご丁寧にショルダーバッグを
膝の上に置いていたのだ。
(これは観光客がやってはいけない行動。)

「いやいや、なんにも入ってませんて」と
抵抗したが、ナイフがあるのでどうしようもない。
仕方なくカバンを開けると、彼らは中にあった
カメラと(ラジオ付きカセット)ウォークマンを
持って立ち去った。

続いて、私も追いかけた。
窓口のおばちゃんが、
「なんとかかんとか Police!」と
叫んだところを見ると、
出て行った犯人たちが悪いことをしたことは、
分かっていたようだ。

盗られたカメラには、数時間前に数枚、
人気のないニューヨークを撮っただけの
36枚撮りのフィルムが、入っていた。

ウォークマンは、友人からの借り物で、
ニューヨークで FM を録音したご機嫌な音楽の
カセットテープ(帰路の機内で聴こうと
思っていた)が入っていた。

通路側の席をわざわざ一つ空けて座ったり、
膝の上にカバンを置いて座ったりと
旅行中、そんな無用心なことをしたことは
なかったはずなのだが、帰る日ということで、
完全に油断していたとしか言いようがない。

60日に及ぶアメリカ横断旅行は、
最後の最後にイタイ目にあった。
当時は、ああすれば何も取られずに済んだんちゃうか、
こうすれば良かったんちゃうかと、
ずい分と悔しかった覚えがあるのだが、
今となっては、命があっただけ良かったのだと思う。
観光に行った地で、しょうもない理由で
殺された日本人は、何人もいるのだから。

そんなわけで、アメリカ旅行のフィルムは、
もう 1本存在したのだった。
あの人気(ひとけ)のないマンハッタンの写真、
見たかったなぁ。

きっと、カメラとウォークマンは、
ハーレムかどっかのその手の店で金に替えられ、
フィルムは、捨てられてしもたんやろなぁ。
グスン。


(あとがき)
31年も前のことをよくこんなに詳細に
覚えているな、と思われたかもしれない。
この度、このエントリーを書くにあたって、
当時の旅日記を読み返してみた。
すると、私の記憶とは違っていることも、
全く覚えていないこともあった。
そら、31年も経ってたら、
頭の中で勝手に記憶が
作り変えられていることもあるだろう。
そんなわけで、当時の手記を基にしたので
ドキュメンタリーです。


写真を2枚。(クリックで拡大)



NY、地下鉄構内で写したキース・へリングのアート。
もうこの頃には、キースは有名になっていたと思うのだが、
まだ、地下鉄構内に書いていたということだろうか。
キースは、1990年エイズで没。
享年31歳。




セントラル・パークの近くのジョン・レノンの自宅だった
Dakota Apartments。
1980年12月8日、この建物の玄関先で、ジョンは撃たれた
1985年当時で既に100年以上の歴史を持つ古いビル。





2016.9.11

痛風物語 20

6月1日に3度目、20日に4度目の痛風を
続けて発症した。

昨年7月の尿酸値は、7.4 だったのだが、
今年4月の健康診断では、
尿酸値は 8.3 に上がっていた。
昨年5月の2度目の発症から時間が経ち、
油断とともに尿酸値も上昇したのだろう。

4月の時点では
「8.3 に戻っても再発症せえへんやん」と
ますます、なめてしまった。
そのせいで、6月の連続発症へとつながったのだと思う。

6月の発症から、また気をつけるようにし、
8月22日に二次検査を受けてみた。
その結果が届いたのだが、尿酸値は、7.7。
4月の 8.3 からは、0.6 下がっているので、
努力の成果は現れているが、
まだまだ足りない。
尿酸値は、7.0 を超えていると
高尿酸値症なのだ。

痛風発症直後は、その痛みの激しさゆえに、
アルコール類を飲もうとは思わないし、
肉や魚への食欲も半減するのだが、
ひと月ふた月と経つうちに
だんだんと麻痺してくるのが分かる。
食欲が戻り、酒も飲みたくなり、
(これぐらいええやろ)が始まるのだ。
う〜ん、こんな調子では、
そのうちに5度目の痛風になりかねない。
痛風は痛いだけだが、合併症が怖い。

年下だけど痛風先輩の T ちゃんは、
数年前から痛風外来に通っている。
彼は尿酸値を下げる薬を飲んでいるのだが、
彼の話によると、尿酸値を下げる薬は、
利尿作用のためらしい。
尿酸は、おしっこで出ていくのだが、
痛風になる人は、その排出力が弱い。
なので、利尿作用を使って、
尿酸を排出するらしい。
薬を飲んでいると、かなり楽なようなので、
魅力的なのだが、その話を聞いて、
水も飲むけど、お茶も飲むようにしている。

コレステロール値も異常なので、
「コレステロールを下げる」と宣伝している
特保のお茶やトマトジュースだ。
飲み始めて間がなかったためか、
今回の検査では、そちらの成果は現れなかったが、
しばらく続けて様子を見てみようと思う。
尿酸代謝、血液脂質、両方に働くと良いのだが。

[ 尿酸値&痛風 記録 ]
2011/06/04 尿酸値 9.7
2013/09/04 尿酸値 8.0
2014/05/26 尿酸値 8.2
(2014/10/18 痛風発症 1回目)
2014/10/18 尿酸値 8.2
2015/02/01 尿酸値 8.3
(2015/05/16 痛風発症 2回目)
2015/07/02 尿酸値 8.4
2015/07/17 尿酸値 7.4
(2016/06/01 痛風発症 3回目)
(2016/06/20 痛風発症 4回目)
2016/04/25 尿酸値 8.3
2016/08/22 尿酸値 7.7

2011年6月の尿酸値は、
「9.7」とえげつない数値だが、
翌7月から 2012年の2月までかけて
ダイエットに取り組み、
15キロの減量に成功した。
この頃の検査結果がないのだが、
おそらく減量とともに尿酸値も下がり、
そのおかげで、9.7という数値まで
上がっていたにも関わらず、
発症しなかったのではないかと思う。
その後、じわじわと体重が上がり、
2013年には尿酸値が、8.0を超えたのだと思う。





2016.9.20

ジレッタント
DILETTANTE


ギターに関しても、写真に関しても、
何に関しても、
私は習うことがあまり好きではない。
ちょこっと、表面的にヒントを得ては、
我流でやろうとする。
だから、どの分野にも絶対的師匠を持っていない。

先日の「黒白写真 暗室基礎講座」に
参加をしていて、
自分を観察せざるを得なかった。
習うことが面倒なのだ。
ちょっとやると「もうええやん」
「どっちでもええ」と基本を学ぶことに飽き、
自分流にやりたくなるのだ。

「守破離(しゅはり)」という言葉がある。
調べると「日本での茶道、武道、芸術等における
師弟関係のあり方の一つ」とある。

「守」
まず師匠に言われたこと、型を
「守る」ことから修行は始まる。

「破」
その型を守ることで習得したら、
次はその型を「破る」ことで
個性を発展させる。

「離」
その流派から「離れ」、独自の新しいものを
確立させる段階。

私の場合、「守」が欠如していて
いきなり「破」なので、
独自のものを確立する「離」までに
至らない。

こういう人のことを「ジレッタント」と
呼ぶらしい。

「趣味で学問・芸術を楽しむ人」
「好事家(こうずか)」
「芸術や哲学などの学問が大好きだけれども
芸術家や学者ではないという、その道のアマチュア」
ということのようだが、
「本気の意志もなく活動を行い、
心得があるふりをする素人」
とか
「素人のくせに知識をひけらかして偉そうにしている人」
のようにあまり良い意味では使われないようだ。

簡単に言うと、
「浅く広く、深みがない」ということか。

でも、そういう自分なので、
どうしようもない。
開き直りと取られても仕方がないが、
改める気もないのである。

そういう自分なりに
それなりに精進していくしかない。





2016.9.30

呑んべいの会。

「呑んべいの会」という名で、
年に数回開催している飲み会がある。
メンバーは5人。
全員、高校(大阪です)の同窓生。
私とF君は同級生だが、残りの3人は、
一学年先輩という5人。
その高校の東京支部の
同窓会がきっかけで 何故かその5人の
飲み会が始まったのが、2009年。
今年でもう8年も続いているのだ。
今日はその会で、2009年5月の
第1回から数えて第27回だった。

この会の不思議さは、同級生のF君と私は、
高校時代、同じクラスになったことはなく、
一度も話したことさえなかった。
また、1学年先輩の3人とも高校時代に
面識はかった。
(先輩3人は、高校在学中から、
親交があったのかもしれない。)
そんな5人が、「同じ高校出身」という
キーワードだけで、年に数回集まり
飲んでいるのだ。
全く不思議な縁だと思う。

会が始まった時には、40代だった5人も
「還暦」「定年」「孫」といった
単語が出てくるようになってしまった。

そして、いつかこのメンバーが一人ずつ
欠けていくんやな、というような
意識が芽生えだした。

人生は、いよいよ後半に
差し掛かったのだなと思う。





2016.11.6

ぎっくり腰か?

昨日のこと。
歯を磨いていた。
身体は少し前かがみな姿勢だった。
何の前触れもなく、突然腰に痛みが走った。
小さな爆弾が腰の中で爆発したかのような衝撃で、
思わず洗面台に手をついた。
しばらく、手をついていないと
立っていられないほどだった。

今から10年以上前、確か厄年だったような
覚えがあるので、42歳の時か、
ぎっくり腰になって大変な思いをしたことがある。
歩けないほどの痛みで、
あの時は、琵琶の葉のお灸に通い治した。

昨日の衝撃は、
今までに経験したことのないもので、
ホントに突然体の中で何かが
爆発したかのようでびっくりした。

最初は、腰の痛みだとは思えず、体内で
何か大変なことが起こったのではないかと
思ったけど、時間が経つと腰の痛みだと
分かってきた。

そのあと、コンサートに出かけた。
曲によって観客が立ったり座ったりするのだが、
内心、(立たんといてよ〜、
もう、今日は座って観ようや)と思いながら、
ぎこちなく立ったり座ったりしていた。

痛みがあるとはいえ、立ったり座ったり
出来るぐらいなので、前回のぎっくり腰に
比べると軽症だが、今後悪化するとも限らない。

今日の時点では、ゆっくりしか動けないが、
それほど深刻な状態ではないようで一安心。

ようやく左肩の痛みが治まり(可動範囲は
7〜8割に狭まってしもた)、最近は
右肩が痛くなり、不自由していたのだが、
その上に今度は腰ですか。
じじいか、ホンマ。

やはり運動不足でしょうかねぇ。
思い当たるのは、左肩が痛くなってから、
約一年、動きにくくなったせいで
腰に良いと何かで紹介されていた体操を
しなくなっていた。
そのことと関係あるのかどうか分からないけど。





2016.12.20

痛風物語 21

お待たせしました。
久しぶりの「痛風物語」です。
誰も待ってないよな。
知ってます。

今朝、起きた時から、痛風患部に軽い痛みがあった。
痛み止め薬を飲むほどではないし、
靴を履けないほどでもないが、
足早には歩けない程度。

う〜ん、これ、再々々々発症(5回目ね)なのか。
今日は、昼間 出かけていて いつもより
歩いたせいもあるのかもしれないが、
夜になると、痛みが朝より強くなっている気がする。

やはり、痛風なのか。
って、それしかないわな。

心当たり?

うむ。

ないことはない。

あるっちゅうことか。

前回の発症以来、アルコールの量も肉の量も
かなり減らしたのだが、ここんとこ、
少し気が緩んでいたことは否めない。

しかし、「これぐらいで?」
という程度の心当たりだ。
それだけ、シビアな状況ということなのか。

今年6月の発症時(3〜4回目)のエントリーを読むと、
まるで今日のことのようで、明日からが怖い。

明日は仕事関係の会食、
しあさってには、ライヴと打ち上げ、
その翌日は、妻とのクリスマス・ディナー(?)を
控えている。

そして、年末年始か・・・。





2016.12.21

痛風物語 22

昨日、地味に発症した痛風の痛みは、
悪化することも快方へ向かうこともなく、
今日一日、昨日と同レベルの痛みだった。

今朝、写真を撮ったのだが、
ご覧のように右足の親指付け根辺りが
はっきりと腫れている。



この状態では、腫れているというよりは、
出っ張っていると言った方が良いかもしれない。
もっと本気で腫れると、
うっすらと見えている血管が見えなくなるほど
足全体が腫れて膨れてしまったように
見え痛々しい状態になる。
なんとか、このままこれ以上悪化することなく、
治まってくれればよいが・・・。

そんな状況にも関わらず、
今夜は、新宿の「馳走風々」で会食。
カラスミ、ウニ、タラの白子、カニの内子&外子、
牡蠣、カモとフォアグラ、と笑ってしまうほど
プリンティなお料理。
だ、大丈夫なのか。
その他、タイ、ヒラメ、コチのお刺身や
蒸し鮑、などなど。
シメは、なんとか貝(失念)と「むかご」の
炊き込みご飯。

むかご、見ても何か分からなかった。
初めて食べたと思う。
山芋の茎に出来る実で、やはり芋の味がする。
皮ごと一緒に炊いてるので独特の風味がある。

「むかご」は漢字で「零余子」または「珠芽」と
書くようだが、晩秋が旬ということだ。

やはり、たま〜にこういう食事をするためには、
普段、本当に節制した食生活を
送っておかねばならないと思ったのでした。



 ひとりごと