LAGUNA MOON MELLOW FLAVOR  LIVE GUITAR  LINK LYRICS



2017年 エッセイ

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2017.1.15

十三回忌

お世話になった方の十三回忌に参列してきた。
1月18日が命日で、亡くなって丸12年になる。

12年なのに13回忌と言うのは、
13年目に入るからだそうな。

法要の後の住職のお話では、
地方によっては、この13回忌(12年)で一周と考え、
とても大事にするところもあるらしい。

12年で一周と言うのは、干支がそうだし、
1年は12ヶ月だし、時計は12時で一周だし、
音楽では 1オクターブが12音だし、
なんとなく、「12」という数字が
基本になっていることが多いような気がする。

12年前のことは、いくつも鮮明に覚えているのだが、
あの12年前の延長に広がるのが、
今だと思うと 人生は不思議で神秘的だなと思う。

これから12年後のことは、
全く予想が付かないが、
この延長であることだけは間違いない。
自分が生きていようといまいとね。

ああ、あれから12年経ったのかと想いながら、
こんな日があったのかと、
今日のエントリーを読んでいるような
平和な12年後の日々であってほしい。

合掌。





2017.2.6

甘~い匂い

渋谷のカフェにて。
隣席の若いオネエちゃん2人組の会話が
耳に入ってきた。

「甘い香りのする人って
糖尿病じゃない?」

前後の話は、分からない。
どういうわけか、そこだけハッキリ聞こえてきたのだ。

冗談じゃない、そんなわけないやろ。
うちは、両親とも糖尿病だったが、
そんな匂いかいだことないぞ。

と思いつつ、念のため
「糖尿病 甘い匂い」とググって驚いた。
33,000件ヒット!
実際に「甘いに匂いがする」との記事がある。
体臭が甘い匂いになるだの、
オシッコが甘い匂いがするだのと書いてある。
私が知らなかっただけのようだ。
そして、病気が進行すると
尿や体が甘酸っぱい匂いになるという。

う~む。
「甘酸っぱい」のイメージが破壊されるような話だ。





2017.4.3

小さなこと 些細なこと

ハービー・山口のフォトエッセイ集、
『雲の上はいつも青空』に
こんな話があった。

ハービーがバイクで仕事に出かけた際、
途中でバイク便がハービーを追い越した。
その追い越しざま、バイク便のライダーが、
左手を挙げ、ハービーに礼を送って行った。
ハービーは、その小さな行為が嬉しくて、
その日、良い仕事ができたと書いている。

そして、彼はこう続けている。
「我々は日々、自分達の心を清く優しくして
くれるものを無意識のうちに探している。
そして、幸運にもそれに出会った時、
我々はひとときの生きている幸せを実感するのだ。」

この話を読んで、私はある友人のことを思い出した。
彼は、高校時代の同級生で、高校卒業後、
中型だったか大型だったかのバイクの免許を取った。

19~20歳の頃のことだ。
バイクで九州まで行って戻ってきたとき、
こんな話をしてくれた。

何時間も運転して、疲労がピークになり、
眠気も襲ってきて、運転がつらい時、
すれ違うライダーが、手を挙げて
挨拶をしてくれた。
それはライダー同士の慣習だったのかも知れないけど、
彼はその見知らぬライダーの
小さな行為が嬉しくて、力づけられ、
運転を続けることが出来たと。

すれ違いざまに、ただ、片手を挙げた。
ほんの小さなことである。


先日、車を運転していて、
2車線が1車線に合流するところで
ひどく渋滞していた。
2車線のどちらかに優先権があるわけではない。
こういう場面では1台ずつ交互に進んでいくのが、
ドライバーのマナーのように思う。

もう1本の道から来た車が私の前に割り込んだので、
当然、次は私が行くものと車を前に出した。
が、もう1本の道から来ている軽自動車が
前の車に続いて、私の前に割り込んできた。
その割り込み方がちょっと無理矢理な感じがしたので、
私は反応でそのドライバー(女性)を睨みつけた。
が、彼女は私の方を見ようともしなかった。

割り込んで来る時、彼女が手を挙げるなり、
ちょっと会釈するなりすれば、
引っかからなかったに違いない。

ああ、前の車の連れなのかなとか
急いでいるのかなと、
考えることもできただろう。

でも、彼女はあえてこちらを見ないように
割り込んで来ているかのようにさえ感じた。

ほんの些細なことである。

ちょっと、身振り手振りで
コミュニケーションをすれば、
気持ちよく済むことだ。

いや、そんなことでイライラするお前の
了見が狭すぎると言われればそれまでだが。


話は変わるが、先日の山下達郎のコンサートで
隣の席に座った40代ぐらいの
夫婦らしきカップルと開演前に話をした。

私の隣だった男性の方が、クラッカーを差し出し
私に「使いますか?」と訊いてきたのがきっかけだった。
クラッカーは、"Let's Dance Baby" の
「心臓に指鉄砲~」の ところで鳴らす、
観客の小道具だった。

彼らは山下達郎のファンであること、
以前は東京に住んでいたけど、
現在は高崎在住であること、
私は東京から来たこと、
その日の会場 ベイシア文化ホールは、
音が良いこと(これは達郎自身も言及した)など
コンサートが始まるまで、
おそらく5分ぐらいは会話をしたと思う。

終演後、彼らに一言あいさつをしようかと
思ったが、何も言わずに席を離れた。
彼らは、通路に出ようと立っていたのだが、
私は反対の通路が空いていることを見て、
そっちへ歩き出したのだ。

彼らから離れてから、しばらく、
何も言わずにきたことが気持ち悪かった。

もう一生会うことのない人たちだろう。
それでも、「コンサート良かったですね。
じゃあまたどこかの会場お会いすることがあれば」
ぐらいの大人の挨拶をしても良かったのに、
何も言わなかった。

大した理由などない。
シャイだと言えば聞こえは良いが、
なんかメンドクサイ+自分から声をかけるのが
苦手というだけで。

ほんの些細なことだ。
「じゃあまた」と言うだけの。

あんなに素晴らしいコンサートのあとで
そんな些細なことで、たとえ一時的にしろ
自分の心の中に何かもやもやしたものを
作りだしてしまった。


電車の中で足を踏まれて
謝られなかったり、
雨の日に傘が足に当たっても
謝られなかったり、
たったそれだけで、しばらく
気分が悪いことがある。

そんなことで不機嫌になるのは
お前の了見が狭すぎると
言われればそれまでだが。

でも、実は白状するが、
駅のホームで足を踏んでしまっても、
謝らなかったこともある。
ほんの少し当たっただけだとか、
謝るタイミングを逸したとか
後から色々言い訳をつけて。

でも、自分はいつも知っている。
謝るべき場面で謝らなかった。
礼を言うべき場面で
礼を言わなかった。

全部些細なことである。

人間は思っている以上に敏感だ。
自分が感じたことは、
相手も同様に感じているだろう。
自覚があるかどうかはともかく。

人生の質の何割かは、
その些細なことが
決めているような気がする。





2017.4.6

アルゼンチン

20代の頃、アルゼンチンに行くのが夢だった。
なぜ、アルゼンチンに行きたいと思ったのか、
もう覚えていない。
特にタンゴに興味があったわけでもない。
ただ、地球の裏側だからという
理由だったのかもしれない。
アルゼンチンのことは何も知らないし、
調べたこともない。
ただ漠然と、遠い遠い異国へ行ってみたいという
憧れだったのかもしれない。

先日、ライヴに行った Guillermo Rizzotto は、
バルセロナ在住だが、アルゼンチン出身の
ギタリストだ。

話はそれるが、先日のライヴで
バルセロナに住むことになったいきさつを
話していた。

スペインに旅行をした際、
帰りの航空券を買っていた航空会社が倒産し、
急きょ、飛行機が飛ばないことになった。
もちろん、他のチケットを取れば
アルゼンチンへ帰ることはできるのだが、
いつかは、ヨーロッパに住みたいとは
思っていたギジェルモは、
これは「帰るな」ということだと思い、
そのままバルセロナに残ったのだという。
そんな、不法(?)な滞在から始まっため、
3年間スペインから出られなかったと
言っていたけど。

話を戻そう。
アルゼンチンだ。

ギジェルモのギターを聴きながら、
にわかにアルゼンチンへの想いが蘇ってきたので、
フォルクローレの CD をレンタルしてみたり、
「アルゼンチン音楽手帖」という
アルゼンチン音楽のディスクガイドを
買ってみたりした。

今月23日、Dominic Miller というギタリストの
ライヴに行く予定をしている。
ドミニク・ミラーは、STING の
"Shape Of My Heart" で非常に印象的な
ギターを弾いている人。

ドミニク・ミラーのことを調べていたら、
彼はアルゼンチン生まれだと知った。
(父はアメリカ人、母はアイルランド人。
現在はロンドンに在住。)

また、先日、ライヴに行った Raul Midon は、
アメリカ人だけど、父親がアルゼンチン人だ。

そんな風になぜか急に
アルゼンチンなこの頃なのです。


アルゼンチンとは関係ないけど。

Sting and Dominic Miller - Shape Of My Heart





2017.4.11

ファーストクラスの罪?

乗客同士の争いや客室乗務員を怒鳴りつけるなど
旅客機内で起こる騒ぎについて、
(ちょっと古いけど)興味深い記事を読んだ。

ファーストクラスがある旅客機に乗っている
エコノミークラスの乗客が騒ぎを起こす確率は、
ファーストクラスがない旅客機の 3.84 倍だという。

そして、搭乗時にファーストクラスの区画を通って
エコノミークラスに入った乗客が騒ぎを起こす確率は、
直接エコノミークラスに入った場合の 2.18 倍だという。

カナダのある大学の准教授が発表した論文らしいが、
「人は貧しさや不平等を感じると
行動に出る傾向が強まる」ということらしい。

私も飛行機に乗った時、
ファーストクラスを通って
エコノミークラスの座席に着いたことが
何度かあるが、その贅沢な空間や豪勢な座席に
羨ましさと妬みの混ざった何とも言えない
気持ちを感じた覚えがある。

それが無意識に、騒ぎを起こすような行動を
引き起こす要因になっているとしたら、
ちょっと怖いなと思った。

騒ぎを起こすのは、
エコノミークラスの乗客だけではない。

ファーストクラスとエコノミークラスで
それぞれ別の入り口がある場合より、
乗客全員がファーストクラスを通って登場する機の方が、
ファーストクラスの乗客が騒ぎを起こす確率が、
なんとほぼ12倍だという。

つまりは、「社会的に高い地位にある人が
自分の地位を意識すると、
反社交的で高慢な態度になり、
思いやりが薄れる傾向がある」のだという。

ファーストクラスでくつろぎながら、
エコノミークラスの座席へ向かう庶民を見て、
なんか勘違いしてしまうということやろな。

エコノミークラスの人間が
不平等感や不満を感じて、騒ぎを起こすよりも、
ファーストクラスの人間が騒ぎを起こす
心理の方が、より人間の卑しさが
滲み出ていると感じるのは、
私がエコノミークラスの人間だからでしょうか。

イタリア旅行に行った際、
12時間以上、あの狭いエコノミー席に
座り続けたのはホントにストレスだった。
今度行く時は、せめてビジネスクラスに
乗れたらなぁと思っているけど、
もし実現しても 高慢な態度にならないよう
気をつけなきゃ。


元記事
機内で暴れる乗客、ファーストクラスの存在が原因?
(CNN)





2017.8.20

免許更新

自動車免許の更新に行ってきた。
5年ぶりの更新だ。
この15年間は、優良運転者、
いわゆるゴールド免許だったので、
5年ごとの更新だった。

ゴールド免許だと更新の時、
(東京の場合)鮫洲や府中、江東の
試験場まで行く必要がない。
近くの指定警察署で手続きすることができる。

なので、5年前、10年前、15年前の更新は、
三軒茶屋の世田谷警察署で
更新することが出来た。
受けなければならない講習も
30分で済み、手数料も安い。
安全運転者の特権だな。

ゴールド免許の条件は、
5年間、無事故無違反であることだ。
前回の更新以降、私は2回も
自分の不注意からくる違反で
捕まってしまった。
1回の違反なら「一般」という区分の
更新だったのだが、2回も違反を
してしまったために「違反」という
区分になってしまった。

そういうわけで、今回は警察署での
更新は出来ず、鮫洲の試験場で更新の
手続きをしてきた。
(1回の違反でも警察署での更新は
できない。)

法定講習は、2時間。
それでも宅建取引士の講習に比べれば、
大したことないけど。
あれは、1日だから。

講師は、おばちゃんだった。
いや、もしかしたら同年代かもしれないから、
おばちゃんと呼んでは失礼か。
交通事故をなくすという使命感溢れる
講習だった。
おばちゃんの本気さのおかげで
全く眠くならなかったよ。
あんなに力のこもった講習なのに
終わった時の受講者の拍手が
少ないのに私は不満だった。
一生懸命拍手したよ。

内容も興味深いものが多かった。
道路環境の整備、
自動車の安全性の向上、
交通安全運動の成果であろう。
昭和45年には、16,000人だった
交通事故死者数は、平成28年には、
3,904人に減少した。
3千人台になったのは、
昭和24年以来だという。
凄いことやね。
一方で高齢者の運転による事故の増加という、
新しい問題も出てきているのだけど。

この交通事故死者数というのは、
事故発生から24時間以内に亡くなった
人の数ということなので、
事故が原因であっても
数日後に亡くなった場合は、
カウントされていないことになる。
つまり、実際に事故が原因で亡くなった
人の数は、もっと多いということになる。

講習では、この数年に改正された
法律も取り上げられた。
てんかんの発作が原因で、
死傷事故があったことは、
私にも記憶があったが、そういう事故を
きっかけに法改正の声が上がり、
法律が改正されていく。

今回の更新では、申請書に健康に
関するチェック項目があり、
ウソを書いた場合には
罰則があるとのことだった。

講習の最後には、さだまさしの
『償い』という曲が流れ、
モニターには、歌詞が映し出された。
私はこの曲を知らなかった。
(いや、聞いたことがあっても
憶えていなかった可能性の方が強い。)
さだまさしの声が若かったので、
ずい分前の曲だろうと思ったら、
1982年の曲だった。

歌詞の内容は、こんな感じだ。

交通事故で人を殺してしまったゆうちゃんは、
毎月毎月、被害者の奥さんに
お金を送り続ける。
事情を知らない周りの人からは、
貯金が趣味のしみったれと笑われても
ゆうちゃんは、ニコニコしているだけ。
事故から数えて、7年目に初めて
その奥さんから返事が来た。
「もうお金は送らないで欲しい。
あなたの文字を見るたびに
主人を思い出して辛い。
どうかあなたご自身の人生を元に
戻してあげてほしい」
その手紙を抱きしめながら、
ゆうちゃんは泣いていた。
神様、彼は許されたと思っていいのですか。

こんな内容だが、この歌は、
実話を基にさだまさしが作ったらしい。
フォークソングとはいえ、
ヘビーな曲だ。

こういう曲を講習の最後に流すということに
ちょっと驚いたけど、被害者になっても
加害者になっても、一生その悲しみを
背負わなければならない、交通事故という
ものを少しでも理解してもらいたいという
意図なのだろう。

ところで、前述の通り、
私は鮫洲運転免許試験場で
更新の手続きをしてきたのだか、
鮫洲へ行くのは10数年振りだった。
東京に出てきて、1回か2回は、
鮫洲に更新に行った覚えがあるが、
ほとんど20年ぶりに近い。
で、驚いた。
めちゃくちゃキレイなのである。
そして、ずいぶんと機能的に考えて
造られているように感じた。
調べてみると、鮫洲運転免許試験場は、
2013年にリニューアルしていたのだった。



さて、今度の免許証は、
ゴールドではないので、
次の更新は3年後だ。
最後の違反が平成26年8月だったので、
この3年間、無事故無違反なら
再びゴールド免許を
手に入れることが出来るわけだ。
気を付けよう。

ちなみに犯した2つの違反は、
一時停止違反と進路変更禁止違反。
どちらも軽微といえば軽微だが、
万一事故につながっていたら、
軽微では済まされないわけだ。





2017.8.23

「観る」とは

「観る」の「観」は、
「観賞」「観察」の「観」。

「観賞」は見て味わうこと。
「観察」とは辞書を引くと

事物の現象を自然の状態のまま客観的に見ること
物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること
事物や現象を注意深く組織的に把握する行為


などとある。
また、仏教では、

智慧によって対象を正しく見極めること

という意味があるようだ。

さて、この観察という行為は、
簡単なようであって、意外に難しい。
「観賞」は主観で楽しむもんだろうけど、
「観察」には客観性が求められる。

特に観察する対象が人間である場合、
それが他人であれ自分であれ、
いちいち心の中に反応が起こり、
客観的でいることが困難であるからだ。
その反応は、批判、嫌悪、怒り、悲しみ、
羨望、称賛、善悪のジャッジなど様々だ。

しかし、生きている限り反応しない
わけにはいかない。
反応は、自然なことで
反応することが悪いわけでもない。

そこで、観察している自分をも観察する、
俯瞰的な観点が必要になってくる。

観察には、訓練がいる。

20年以上前だが、あるトレーニングに
参加した際、コーチは私に向かって、
「笑っている」と指摘した。
私は真面目に参加しているつもりで、
笑ってなどいない。
「笑っていません」というと
「顔が笑っている」というのだ。
何を言いがかりを、と思ったのだが
ふと自分の顔の表情に微妙な薄笑いを
浮かべていることをキャッチした。
「あ、ホンマや、笑ってる」
その瞬間、私の顔からその変な薄笑いが
消えたことをはっきりと自覚することが出来た。

自分が変な薄笑いを浮かべているかどうか
分からない、それぐらい無意識であったのだ。

動揺の最中にいるとき、
いかに自分の中に、自分を観察する別の自分を
維持し続けられるか。
それが、覚醒していることの目安かも知れない。

昨日、ある小冊子にこんな言葉を見つけた。


「観る」とはすでに一定しているものを映すことではない。
無限に新しいものを見いだして行くことである。
和辻哲郎(倫理学者)





2017.8.25

にぎり鮨の食べ方

先日、新宿の回転寿司のカウンターで、
若い外国人男性2人組の隣に座った。
彼らは、英語を話していたし、
見た目はアメリカ人ぽい感じだったが、
どこの国の人か分からない。

にぎり鮨を箸で挟み、
シャリの底にしょう油を付け、
そのまま口に運び食べていた。

その食べ方では、にぎり鮨は旨くない。
なぜなら、しょう油に浸かったシャリが
まず最初に舌に触れることになるからだ。
しょう油の味がした後に
ネタの味が来ることになってしまう。

それにシャリにしょう油を付けると、
シャリが崩れてしまうこともある。
しょうゆ皿にご飯粒が散乱しているのは、
見た目にもよくない。

旨い食べ方は、まずにぎり鮨を皿の上で横に倒す。





にぎり鮨の上下を箸で挟み、



半分ひねってネタにしょう油を付ける。





そのまま、ネタが下になるように口に入れる。

やってみると簡単だ。
こういう風に食べると
口に入れて最初の味が、
しょう油付けのシャリではなく、
ネタの味になる。

もう何年も前になるが、
初めてこの食べ方を知った時は、
衝撃的だった。
全然、にぎり鮨の味が違うのである。
もし、ご存じでなかったら、
ぜひ試してほしい。

おそらく、箸を使わずに
手づかみでにぎり鮨を食べる人は、
自然とそういう風に食べているだろう。

でも、日本人でも箸を使ってにぎり鮨を
食べる人で、前述の食べ方をしている人は、
意外と少ない。
立ち食い寿司や回転寿司で見ていると
シャリの底にしょう油を付ける人が多い。
そうでなければ、ネタをいったん外して
しょう油を付ける人もいる。
当然そういう人たちは、にぎり鮨の上下を
逆にしてネタが舌の上に乗るようにと
食べたりはしない。
ちなみにネタを外して、
しょう油を付けるのはマナー違反だ。

そんな食べ方の人たちを見るにつけ、
私はいつも、(もっと旨い食べ方あるのになぁ、
教えてあげたいなぁ)と思っているのだった。

話を戻そう。
私は急にその外国人2人組に、
旨い寿司の食べ方を教えてあげたくなった。
せっかく日本まで来たのに、
まず感じる味が、しょう油メシではもったい。

英語に自信はないが、変な日本人として
彼らの旅の思い出になっても構わない。
どうせ、二度と会うことはない。

そう思い、おもむろに彼らに向かい(英語で)
「おいしい食べ方教えたるわ」と言った。
(たぶん めちゃくちゃな文で。)
そして、あとは 何も喋らずに
実際にやって見せた。
本当は、なぜこうやって食べた方が
おいしいのかを説明したかったけど、
全く言葉が出てこなかった。
すると、一人が私のマネをして、
にぎり鮨を一貫食べ、ウンウンと頷いた。
私は、「な?全然違うやろ?」という
意味を込めて自信たっぷりに
「Different!」と言った。

しかし、通じなかった。
3回か4回「Different」と言って
ようやく彼が「Oh, Yeah」と言った。

その後、「君らはどこから来たんや?
仕事か?観光か?日本はどないや?」などと
訊きたかったのだが、結局、無言で終わった。
なんか、情けないけど、初めて
外国人に旨いにぎり鮨の食べ方を
教えてあげることが出来たので、満足。

ところで、すしには「寿司」と「鮨」、
2つの漢字がある。
先日行った鮨屋の板前さんによると
もともとは「鮨」で「寿司」は
当て字とのこと。

友人の A ちゃんは、
旨い店は「鮨」、
それほどでもない店は「寿司」
不味い所は「スシ」と分けていると言っていた。
なるほどなと思った。
「寿司」より「鮨」の方が、旨そうだ。
そういう思いもあって、今日は
「にぎり鮨」と書いてみた。
これも「握り鮨」より「にぎり鮨」の方が
食欲が増すような気がするのだが、どうだろう。





2017.10.8

オットー・ネーベル展
OTTO NEBEL


Bunkamura ザ・ミュージアム(渋谷)で
昨日から開催されている
「オットー・ネーベル展」に行ってきた。



オットー・ネーベル(1892-1973)という
画家のことは、このたび初めて知った。
ドイツ生まれだが、1933年にナチスからの
芸術家に対する迫害から逃れるために
スイスに亡命した。
その後、1952年になってやっとスイスの市民権を
獲得している。

ネットでこの展覧会のことを知り、
作品数枚を一目見て、これはナマで観たいと思った。
今回の展覧会は、日本初の回顧展ということだ。







ご覧のようにとてもポップな印象で、
絵画というよりは、イラストとか
デザイン画のようだ。

展覧会では、いくつかの時期に分けて、
作品が展示されていたが、
私は1930年代にイタリアへ滞在していたころの
色彩とタッチが好きだ。



『イタリアのカラー・アトラス(色彩地図帳)』と
呼ばれるスケッチブックには、
その街々の色彩をネーベルが感じたままに
言ってみれば、色の見本帳のようにまとめたもの。
作品として、作ったものではないのだろうが、
これがまた素晴らしい。



チラシやポスターに使われているこの
カラー・アトラスは、ネアーペル(ナポリ)の
11月の空と地中海の青を表している。

こちらはポンペイ。



ネーベルが影響を受けたという、
パウル・クレーや友人であった
ワリシ―・カンディンスキーの作品も
同時に展示されていた。
作風が似ていないこともないが、絵のタッチは、
全くネーベルの方に深みがあると思った。
それは、物凄く時間のかかる、
繊細な描き方をしているからだろう。
ネーベル自身が自分の作品リストを
細かく整理していることからも
その細かい几帳面な性格がうかがい知れる。

私が気に入った、1930年代の作品は、
すでに描かれてから、80年の時を
経ているわけだ。
勝手な想像だが、もしかしたら描かれた直後は、
もっと鮮やかな色を放っていたような
気がするのだがどうだろう。





2017.10.16

便利さと失われるもの

自転車や歩行者が誤って高速道路に進入する
トラブルがこの数年増加しているという 記事 を読んだ。

そう聞いて、認知症の高齢者などによる誤侵入
だろうと思ったら、そればかりではない。
2011~16年度の合計数を年代別に見ると
最も多いのは20代だというのだ。
記事によると
20代 3345件、70代 3101件、60代 1649件、
10代 1580件、30代 1542件 ということだ。

なんで20代が?と思ったら、原因(の一部)は
スマホのナビアプリだという。

車を運転していて、ナビに案内されたら、
思わず誤侵入してしまうのも、
あり得ないことではないと思ったけど、
歩いていて、または 自転車で、
高速道路に侵入するだろうか。

記事によると「(誤侵入の)半数は歩行者で、
原付きバイクが約3割、自転車が約2割を占める」
とある。
半数が歩行者・・・。

いくら、ナビが示したとしても
歩いていたら、気が付きそうに思うのだが、
それだけ、スマホに頼りすぎているということなのか、
注意力が低下しているということなのか、
理解に苦しむ。

私も車の運転にナビに頼るようになってしまい、
すっかり地図を読む能力が
失われてしまったように感じる。
いや、地図を読む能力だけではなく、
運転中のドライバーの勘のようなものも。

便利になると引き換えに
人間は色んな力を失っている。

先日、30代後半男性の話を聞いたが、
彼は、女性とデートするのに着ていく服装まで
検索した結果(ジーパンはNGとか
襟のあるシャツを着て行けとか)に
振りまわされているように私には見えた。
最初のデートでは、彼女と向かい合って
座ってはいけないとか、ネットに書かれた
そういうことをまるで真実であるかのように
信じているように見えた。

経験が少なく、
「どうしていいいのか分からない」
というのは、分かる。
しかし、「検索」というツールを手に入れた私たちは、
安易に正解を求めるようになった。
もともと失敗が怖かったところに、
すぐ答えが見られるようになってしまったのだ。

本当は、答えなんかないのだけど。

そういう私も何かをググらない日はないほど、
検索する人になってしまった。

便利になると引き換えに
人間は何かを失っている。





201710.31

日本の接客

先日は、外国人に分かりやすくしようとするあまり、
日本人には分かりにくくなっている
道路案内標識について書いた

今日は、日本の接客について書きたい。
スーパーで1リットルの牛乳の紙パックを購入した。
レジが空いていたので、レジ係の人が
袋に入れてくれた。
その時、
「牛乳を横に倒してもよろしいでしょうか?」
と訊かれた。
ほかにも買ったものがあったので、
レジ袋の中で 牛乳パックを横に倒し、
その上に入れる方が安定していて良いとの
判断だったんだろう。
私は「はい」と答えた後、
そのレジ係にこう訊いてみた。
「わざわざ訊かれるということは、
こんなことで怒るお客さんがいるのですか?」
レジ係は、ベテラン風の女性だったが、
こう答えてくれた。
「いえ、(牛乳を倒すことを)嫌なお客様も
いらっしゃるかもしれませんので。」

なるほど。
確かに「牛乳を倒さないで」というお客さんが
いないとは限らない。
ほとんどいないと思うけど。

たぶんだけど、世界中でこんなことを
レジ係が客に訊く国は日本ぐらいでは
ないだろうか。
これが世界の人が感心する、
日本の接客、おもてなしなのだろうと思う。

そう思う一方で、
ちょっと気を使い過ぎな感じが
しないでもない。





2017.12.29

欲があるから困るんだ

今日、ボスに言われた。
「欲があるから困るんだ」

確かに「金が欲しい」も、
「人に良くみられたい」も
自分の欲。

言い換えれば、ただのエゴ。
欲を手放せれば、人生 何も困らない。



ひとりごと