2024年10月
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2024.10.1
いつかはデザイナー
友人から、東京ビッグサイトで開催される
展示会に出展するので、そのブースの壁と、
展示会でスタッフが着るTシャツのデザインを
依頼された。
私はデザインを本格的に学んだことはないのだけど、
子供の頃から、自己流でレタリングしたりするのが
好きで、ギターを弾いていなかったら、きっと
そっち方面に進んだんじゃないかと思う。
20年ぐらい前、一度デザインの学校に通おうかと思い、
調べたこともあるが、授業料の高さに諦めた。
数年前から、イラストレーターを使い始め、
今まで、Tシャツ、クリアファイル、冊子の表紙など、
依頼されて、我流でやってきたが、
今回の展示会のブースのディスプレイは、
ちょっと怖かった。
というのも、その展示会が
「働く女性の美と健康を応援する
Diet & Beauty Fair」なんだ。
ビューティーということは、化粧品などの
展示もあるわけで、当然、オシャレなデザインも多いだろう。
そんな中、私のデザインだけが、どうしようもなく
垢ぬけなくて、いなたく見えては、商談に影響が
あるかも知れない。
そんなことになっては、申し訳ないし、
取り返しがつかない。
前日、送られてきた準備中の写真を見ると、
どうも素人臭く見えて、冷汗が出たが、
最終的に、商品が陳列され、照明が当たると
それなりに見えて、一安心した。
展示会は、3日間。
その初日、行ってきたよ。
こんな感じ。
客観的に、あるいはプロの目にどう見えるのか、
想像もつかないけど。
何ごとも経験なので、
こういう機会を与えられることはありがたい。
ところで、ダイエット&ビューティ、
まあ、色んなものが出展されてたよ。
それはそれで凄い世界。
特選ハラミ
焼肉は、基本的にタレで食べるのが好きだが、
ここのハラミは塩だ。
昨日、久しぶりに訪れた大崎の焼肉店「光陽」。
いつも予約でいっぱいなのだが、
昨日は、当日の電話で予約が取れた。
目当ては、特選ハラミ 3200円。
写真は2人前。
見るからに美しい。
3人でだったけど、2人前しか注文できなかった。
限定なのだ。
限定でなければ、旨すぎてこればっかり頼んでしまいそうだ。
一緒に行ったグルメな友人に言わすと、
「東京一」だと言う。
やや厚めに切られたハラミは、適度な歯ごたえに、
肉のうま味たっぷりで、ステーキを食べているかと
錯覚するほど。
食べ終わって、しばらくして、
そ知らぬふりで追加しようとしたら、しっかり断られた。
普通のハラミが2700円で、まあまあ旨いが、
500円のことなら断然、特選だ。
そして、ここは上タン塩(2850円)も旨い。
最近は、牛タンをそんなに食べたいと
思わなくなっていたが、ここのは旨い。
そして、ホルモン(大腸/900円)、コプチャン(小腸/800円)。
特に脂の付いたコプチャンがこれまた旨いんだ。
特に「〇〇牛」というようなブランド肉ではない。
同じ牛肉なのに何が違うんだろうな。
2024.10.5
ねえちゃんのなかなおり
昨年5月、2歳年上の姉に
ステージ4の大腸癌が見つかった。
当時、姉は62歳。
現在の私の年齢だ。
見つかった癌は、すでに手術で切り取れる
状態ではなく、直ちにストマ(人工肛門)の
手術が施された。
本人は、いたって冷静であっさり(に見えた)
死期を受け入れ、治療を拒んだ。
しかし、姉の娘が懇願し、最近の大腸癌の
抗がん剤は効果が期待できるとの医師の
勧めもあり、姉は渋々抗がん剤治療を始めた。
それから1年近くが経ち、今年の4月の検査で、
抗がん剤が効かなくなって来ていることが分かった。
たまたま大阪に帰省していた私も
その時の医師との面談に同席した。
治療を続けるためには、今までのものに加えて、
もっと強い抗がん剤を投与する必要があるという。
抗がん剤というと髪の毛は抜けるイメージがあったけど、
最近の抗がん剤は進歩しているようで、
それまで投与していたものは、髪の毛は抜けなかった。
(もちろん、他の副作用はありしんどそうだった。)
追加の薬は、髪の毛も抜ける。
治療を続けたからといって、
癌が無くなる見込みはない。
医師の見立てでは、姉の余命は、
治療を始めて長くて3年だという。
3年のうち、すでに1年が過ぎていた。
治療を続けたからといって、
あと2年生きられる保証はない。
抗がん剤治療は、身体へのダメージも大きく苦しい。
治療はしんどい。
治療をしなくてもしんどい。
どちらにしても長くない命。
どちらにしてもしんどい残りの命。
姉にとっては、治療をするということは、
「治療のために生きる」ということであり、
それは苦しみを延長させることに過ぎず、
意味がなかった。
姉は、治療をやめる選択をした。
子供達ふたりも母親(姉)の選択に納得した。
今年の4月まで、抗がん剤治療は、
19回に及んだ。
癌が見つかった昨年春の時点では、
年を越せるかどうか分からない状態だった。
治療を始めてから休職していた姉は、
数ヶ月後、職場に復帰した。
復帰と呼べるほどではないぐらい、
出勤したのは、週に僅かな時間だったけど。
それは、半年以上休職すると、
解雇の対象になるので、週に少しだけでも
働かないか? という姉の勤務先の
配慮もあったけれど、治療は効いていたんだと思う。
4月に治療をやめてから、姉は痩せ始めた。
食欲もなくなっていったようで
会うたびに痩せて行った。
子供達と旅行に行ったり、
お笑いを観に行ったりしていたが、
そのうち訪問看護を受けるようになり、
8月29日に入院した。
治療のためではなく、緩和ケアだった。
9月6日に会いに行った時は、
まだベッドに腰かけて、話すことができた。
次に行ったのは、9月19日。
声が出にくくなって来ているようで、
話すことが困難なようだった。
姉は私の顔を見ると、
何かを書くような仕草を見せた。
メモとペンを渡すと
「おそい」とだけ書いた。
一週間後、9月26日。
病室に入って、ミイラのように痩せ細った
姉の姿を見た途端、涙が溢れ出した。
もう終わりだと思った。
目は開いているが、焦点は合っておらず、
声をかけても聞こえているのかいないのか、
反応がなかった。
しかし、しばらくすると、少しずつ反応し始めた。
私は、その日が最後になると思い
「いらんもんは全部おいて行きや」と声をかけた。
姉は僅かにうなづいた。
帰り際、「また来るから」と言った時もうなづいた。
あと2、3日だろうと思った。
その日が来れば、いくつか入っていた予定は、
キャンセルするしかないと覚悟した。
しかし、そんな状態で姉は生き続けた。
10月2日から4日までの3日間は、
私には何も予定がなく空いていたので、
1日の夜遅く、大阪へ向かった。
2日の昼過ぎに、病室を訪れた時、
姉は私の顔を見て、もの凄く顔をゆがめた。
一週間前と違い、意識があるのが
すぐ、はっきりと分かった。
その表情は、私には「なんで来たんや」と
怒っているかのようにも見えた。
痩せ細った顔のギョロっと大きく見開いた眼は、
何かを言いたそうだったが、言葉にならないようだった。
握った手は、握り返す力はないようだ。
時折、声を出すが何を言っているのか聞き取れなかった。
「何?」と聞き直しても答えてくれなかった。
そのうち、お腹の方に手をやったので、
「お腹が痛いの?」と聞くと
「そのことはもう言わんといて」とはっきり聞き取れた。
それから、突然思い出したかのように、もの凄く明瞭に
姉は「今日何曜日?」と聞いた。
一緒に病室にいた姪も驚くほどはっきりした声だった。
私が「水曜日、10月2日水曜日」と答えると、
曜日が分かったことに安心したかのように
「水曜日」と呟いた。
私は最後の言葉のつもりで、
「姉ちゃん、もういいよ。楽になりな」と言った。
姉はうなづいて「もういい」と言った。
夕方、近くの老人ホームに入所している母を連れて、
再び病室を訪れた。
やはり、しっかり意識はあるようで、
母のことも分かっていたようだった。
その時は、母と姉を会わせるためだったので、
私は姉とは言葉を交わさなかった。
夜、姪とふたりで、近くの居酒屋で食事をしていると、
姪っ子の携帯電話が鳴った。
病院からの電話だった。
話しながら泣き出した姪を見て、
電話の意味が分かった。
姪とふたりで、病室に駆けつけた。
姉の呼吸は止まっていた。
顔はまだ暖かかったが、手を握ると
すでに冷たかった。
私は、看護師を呼びに行ったが、
看護師はすでにそのことを把握しているようで、
「先生が来ますのでお待ち下さい」と言って
病室を出て行った。
姪は、病棟に響き渡るかのような泣き声で
「ママ!ママ!」と叫び続けた。
私達が病室に着いてから、1時間以上経って、
ようやく医師がやって来た。
医師は、姉に聴診器を当て、
瞼を開き眼球を見てから、時計を見て言った。
「午後11時7分、ご臨終です」
まるでテレビドラマのようなシーンだった。
私は「いやいやとっくに死んでたで」と
心の中で突っ込んだ。
午前中にいとこが見舞いに行った時、
帰り際にいとこが「また来るから」と言うと
姉は手を振ったらしい。
午後、私が訪れた時も前述の通り、
姉の意識はしっかりしていた。
夕方、母が「また来るから」と言ったときも、
姉は頷いていた。
そのわずか数時間後、病室に誰も来ていない間に、
姉はひとりで逝ってしまった。
姪との食事中にかかって来た電話は、
私は危篤の知らせだと思っていたが、
姪に後で聞くと既に呼吸をしていないという
知らせだったようだ。
昏睡状態がしばらく続いたあと、
家族に囲まれて息を引き取るんだろうと
勝手に思い込んでいた私は、
僅か数時間の急展開に驚いた。
しかし、人が死ぬ直前に意識がクリアになることは
珍しくなく、時にはそれまで食べられなかった人が
「〇〇を食べたい」と言い出し実際に食べる例もあるそうだ。
そのことを「中治り」というらしい。
もしかしたら、最後に誰かと「仲直り」する
機会なのかも知れない。
実際、「中治り」が起きた時、それまで感謝など
言ったことのない人が、善い人になっていることもあるという。
(「中治り」は英語で「last rally before death」といい
世界中で報告されていることらしい。)
姉は、私が何の予定も入っていなかった
3日間の1日目に死んだ。
そして、2日目にお通夜をして、
3日目に葬儀をして、荼毘に付した。
来週は、妻の還暦祝いの旅行に行く予定で、
場合によっては、その旅行もキャンセルするしかないと思っていた。
もちろん姉は私のスケジュールなど知らないのだが、
まるでそれに合わせてくれたかのように思えて仕方がない。
4日の葬儀には妻も参列できたが、
妻もその日しか大阪に来ることが出来なかった。
私にしろ妻にしろ、来ることが出来なければ、
来なければ良いだけの話しなのだが、
気持ちの上ではそんなに簡単なものでは済まない。
姉は、そのタイミングを選んでくれたに違いない。
見事だと思った。
最後に交わした会話の中の
「今日何曜日?」は、
きっと逝く日のスケジュールの確認だったんだと思う。
今日、大阪から戻って来て、
すみだトリフォニーホールへアビシャイ・コーエンと
新日本フィルフィルハーモニー交響楽団の
コンサートを聴きに行った。
姉の様子次第では、観に行けないかも知れないと
思っていたが、前述の通り私は何一つスケジュールを
変更せずに済んだ。
演奏を聴きながら、何度も姉のことを思った。
別離の悲しさと、生きていることの儚さと同時に
人生の素晴らしさにも思いを馳せた。
聴きながら、人生は、ひとつの曲のようだと思った。
イントロに始まり、エンディングで終わる。
終わるとさっきまで聴こえていた音楽が
どこにも存在していない。
でも、確かにその楽曲はさっきまで
その場にいる人々に存在した。
姉はいなくなった。
三日前まで確かに存在していたのに。
今は、どこにもいない。
会いに行く先もない。
「死んでも心の中に生き続けている」
なんてよく言われるが、
生き続けてなんかいない。
死んだ姉を覚えているだけで、
やっぱり、心の中にだっていない。
先日、何かで読んだ。
牛や豚は、一頭ニ頭と数える。
魚は、一尾二尾。
鳥は、一羽二羽。
それは、死んだあとに残る物だという。
人はどうか。
人は、一名二名と数える。
人が死んだあとには、頭も尾っぽも残らない。
名前だけが残るんだ。
その名前も、やがて知る人がいなくなり、
完全にこの世から消え去るんだ。
2024.10.6
アヴィシャイ・コーエン meets
新日本フィルハーモニー交響楽団
An evening with Avishai Cohen "Two Roses"
Avishai Cohen meets New Japan Philharmonic
昨日は、すみだトリフォニーホールに
アヴィシャイ・コーエンと新日本フィルハーモニー交響楽団の
コンサートを聴きに行ってきた。
アビシャイがオーケストラと共演しているのは、
CDで聴いていたし、YouTubeにも動画あるので
観たことがあるが、日本でのこのプロジェクトの
公演は、今回が初めて。
アヴィシャイ・コーエン・トリオのメンバーは、
昨年2月、今年4月の来日と同じ。
ピアノが、ガイ・モスコヴィッチ、
ドラムが、ロニ・カスピ。
ふたりとも まだ20代の若手だ。
オーケストラは、新日本フィルハーモニー交響楽団。
コンダクターは、中田延亮さん。
コンサートマスターは、5月の渡辺貞夫さんとの
共演の時と同じく、西江辰郎さんだ。
(西江さんは、上原ひろみピアノ・クインテットのメンバー。)
まずは、オケだけで15分ほどの演奏があり、
アビシャイ・コーエン・トリオの登場。
今回の私の席は、前から9列目でまあまあ良い席。
アビシャイのMC(英語)。
「このプロジェクトは、日本では始めて。
ほんまにここにいることが嬉しいねん。
これを演る理由はいっぱいあんねんけど、
一番大事なことは、それはな
あんたらがここに来てくれてるってことやで」
(つつみしんやによる意訳)
珍しく、昨日は割と良く聴きとれた。
全部じゃないけど、このくだりはほぼほぼ
聴きとれたので意味は間違ってないと思う。
アビシャイはイスラエル人。
英語は外国語なので日本人にも
聴き取り易いのかも知れない。
ヴォーカルをフューチャーした
『Puncha Puncha』、『Two Roses』
『Nature Boy』(アンコールだったと思う)
など、二度のアンコールを含んで約100分。
アビシャイのトリオのメンバーのソロの時、
オーケストラのメンバーは、ほとんどが真剣な
顔つきで聴き入っているんだけど、
コントラバスの女性奏者が、とっても嬉しそうに
ニコニコしながら聴いているのが印象的だった。
ソロといえば、ロニ・カスピ(ドラム)のソロも
結構長めにフューチャーされてて良かった。
本当に素晴らしい演奏で、会場はスタンドオベイション。
きっと録音しているだろうから、CD 出ないかな。
会場には小曽根真さんも聴きに来ていたようで、
アビシャイが「Makoto Ozone is here」と言っていた。
[ 出演 ]
アヴィシャイ・コーエン (B, Vo)
ロニ・カスピ (D)
ガイ・モスコヴィッチ (pf)
中田延亮 (指揮)
新日本フィルハーモニー交響楽団
@ すみだトリフォニーホール
AVISHAI COHEN TRIO
"BRIGHTLIGHT"
昨日に続いて2日連続で
アビシャイ・コーエンのライヴ。
アビシャイは、2019年に初めてライヴを観て以来、
来日の度に観に行くアーティストに仲間入り。
昨年は3回、今年も今日で3回目。
それだけ、素晴らしいってことね。
本日の会場は、ブルーノート東京。
ブルーノ―ト公演は、今まで数日間
行われてきたけど、今回は今夜の2公演のみ。
おそらくスケジュールの問題だろう。
昨日、今日、そして明日(山形)と
3日連続で公演して、帰ってしまうのか。
タイトだな。
さて、ライヴ。
昨日のすみだトリフォニーホールは、
パラパラ空席も見えたけど、今日は超満員。
なんだか分からないけど、演奏が凄かった。
完全にゾーンに入っていたね。
アビシャイ自身が何度も
「今日はなんや凄いで」
「こいつら(メンバーの二人のこと)ホンマに凄いやろ
びっくりするわ」
(つつみしんやによる意訳)
というようなことを言っていた。
1時間ほど演ったあとで、アビシャイがゲストが
いると言い出した。
もしかして、小曽根さんかなと思ったら、当たり。
昨日も観に来ていたぐらいだからね。
デュオで『On Green Dolphin Street』と
チック・コリアの『Matrix』をロニ・カスピも
含めてトリオで。
まさか The Amity Duet の再演が
聴けるとは思わなかった。ラッキー。
そのあとアンコールで『Summertime』。
あれ、アンコールで2曲演ったような気がするなあ。
全部で95分ぐらい演ったと思う。
ブルーノートの1ショーにしては長い。
アビシャイも凄く満足そうで、冗談で
「明日もブルーノ―トで演ろかな。
あかんあかん、誰か出演者が来るやん。
俺ら、山形行かなあかんし」
(つつみしんやによる意訳)
と言っていた。
アビシャイが何度もガイとロニのことを
絶賛していたけど、マジで凄いプレイヤー達だと思う。
アビシャイが、惚れこんだのももっともだ。
個人的にハイライトは、『Roni's Swing』。
ロニのドラムソロがワンダフル。
今日はカメラが入っていたので、
もしかしたらビデオが出るかも。
ということで、本日もスタンディング・オベイションなのでした。
明日は、山形テルサホールで、トリオのライヴ。
なんとチケット代は、5000円!
山形の人は観に行かんとあかんで。
それから、なんとロニ・カスピは、
ジャズポップなソロアルバムを出していて、
歌まで唄っているぜ!
[ MEMBERS ]
Avishai Cohen (b,vo)
Guy Moskovich (p)
Roni Kaspi (ds)
Guest:
Makoto Ozone (p)
@ Blue Note Tokyo
2nd show
[ 参考動画 ]
Avishai Cohen Trio - Brightlight (Live at Blue Note Tokyo - 2024)
The "Amity Duet" Makoto Ozone & Avishai Cohen - On Green Dolphin Street
Falling With You - Roni Kaspi (Live)
(2024.10.22 追記)
BLUE NOTE TOKYO ― LIVE REPORTS より SET LIST
(1st show も合わせて記載しておく)
2024 10.6 SUN.
1st
1. DREAMING
2. INTERTWINED
3. BELOW
4. EVER & EVER
5. HITRAGUT
6. RONI’S SWING
7. HUMILITY
8. CHUTZPAN
EC. REMEMBERING
2nd
1. SEATTLE
2. INTERTWINED
3. BELOW
4. EVER & EVER
5. HITRAGUT
6. RONI’S SWING
7. HUMILITY
8. CHUTZPAN
EC1. ON GREEN DOLPHIN STREET
EC2. MATRIX
EC3. COURAGE
EC4. SUMMERTIME
2024.10.7
MIKARIMBA
featuring Steve Gadd, Eddie Gomez,
Richard Stoltzman, Mika Stoltzman
& Satoru Shionoya
先週に続いてのライヴ3連チャン。
3日目は「ミカリンバ」。
熊本生まれのマリンバ奏者、ミカさんの
日米混合プロジェクトだ。
2022年8月、「SPIRIT OF CHICK COREA
BAND」として観たときは、ベースが
井上陽介さんだったけど、あれは「ミカリンバ」
ではなかったんだな。
今日は「ミカリンバ」のベース、エディ・ゴメス。
エディ・ゴメスは、この来日中に 80歳になった。
スティーヴ・ガッドも来年で80歳だけど、
今年2回目の来日で、3ヶ月後、来年1月にも
「STEVE GADD BAND」での来日が決まっている。
めちゃ元気。
1曲目は、とてもキメの多い曲で、
アドリブの部分もあるのだろうけど、かなり
細かくアレンジされているような印象。
ガッドも譜面から目を離さなかった。
印象に残ったのは、リチャード・ストルツマン
(クラリネット)とピアノのデュオで、
ソルト(塩谷)の美しいバラード『Life with You』。
それともう1曲、ソルトのゴキケンなサンバ
『あこがれのリオデジャネイロ』をピアノ・トリオで。
日本人ピアニストにとって、エディ・ゴメスと
スティーブ・ガッドとのトリオなんて
そうそう機会のあることではない。
観ている方もうれしくなる。
これは、ゴキゲンな曲だった。
昨日は、アヴィシャイ・コーエンのライヴで
小曽根さんも交えて、チック・コリアの『Matrix』を
聴いたけれど、今日もチックの名前が上がった。
チック作曲の『Japanese Waltz』と『Marika Groove』。
『Marika Groove』は、チックがミカさんのために
書き下ろしたという曲。
しかも、ミカ、スティーブ・ガッド、エディ・ゴメス、
リチャード・ストルツマンのカルテットをイメージしての
当て書きだという。
考えてみれば、昨日も今日もチックに縁のある人達が多い。
改めてチックの偉大さを感じ入ったのでした。
キース・ジャレットの『Memoris of Tomorrow』も
良かったなぁ。
キース本人に「この曲はマリンバに合うから
アレンジして演ると良い」って言われたんだって。
エディ・ゴメスの『Puccini's Walk』。
プッチーニは、エディ・ゴメスのフェイバリットだそうで、
彼の犬の名前もプッチーニだそう。
エディは、久しぶりの来日だったようだ。
アンコールは、『The Duke』(スティーブ・ガッド)。
デュークは、スティーブの息子さんの名前。
スティーブが79歳、エディが80歳、リチャードが82歳。
ミカさんとソルトが50代でこの中では若手だ!
やっぱり、その年齢にならなければ、
出せない音、音楽があるんだな。
横浜、大阪、熊本、大分、そして今夜の東京が千秋楽。
高齢者3人で移動が大変だったと、
ミカさんは冗談のように言っていたけど、マジやろな。
でもやっぱり、いくつになっても
ミュージシャンというのは、クリエイティヴだ。
ライヴ3連チャン、今日もとっても良かった。
[ MEMBERS ]
Mika Stoltzman (Mar)
Steve Gadd (Ds)
Eddie Gomez (Ba)
Richard Stoltzman (Cl)
Satoru Shionoya (Pf)
@ Billboard LIVE Tokyo
2nd show
[ SETLIST ]
1. ?
2. Japanese Waltz (Chick Corea)
3. Marika Groove (Chick Corea)
4. Life With You (塩谷哲)
5. Memoris of Tomorrow (Keith Jarrett)
6. あこがれのリオデジャネイロ (塩谷哲)
7. Puccini's Walk(Eddie Gomez)
8. ?
EC. The Duke (Steve Gadd)
2024.10.18
フルマラソン完走への道 その13
― 一喜一憂の日々
何かと慌ただしく、10日も更新を怠っていた。
8日から14日まで、妻の還暦と結婚25年記念の
旅行で、宮古島と石垣島に行っていた。
その旅行のレポートもしたいと思いながら、
時間ばかりが過ぎていく。
さて、フルマラソン当日まで、あと15日と迫ってきた。
前回の「フルマラソン完走への道 その12」で書いたが、
9月21日に180分、19キロを走ってから、
数日、腰の調子も良くなく、走れないほどでは
ないけど、ひざの調子が良くなくて、
練習量がガタ落ちしてしまった。
それまでは、週に30キロ前後走っていたのが、
2週連続で、7キロほどにまで落ちた。
先週は、旅行中だったけれど、3回合計22キロほど
走ったが、相変わらず5キロ以上走ると
ひざに痛みが生じてくる。
練習を始めて3ヵ月以上経過した。
走った距離は、300キロを超えたけど、
日によって、希望が湧いて 42・195キロが見える日と
無理なんじゃないかな、とへこむ日がある。
今更だけど、結局、運動経験のない私が、
フルマラソンを62歳でチャレンジするには、
3ヵ月の準備期間では厳しいということだったんだ。
やはり、半年以上かけて身体を作るべきだったんだ。
あれだけ、マラソンの練習は「がんばらない」
「張り切らない」「調子に乗らない」と知っていても
やってしまった。
あの19キロは、私にはまだ早かったんだと思う。
ただ、ひざのことを除けば、さずがに3ヵ月も走っていると
体力が付いてきたことは、自覚できる。
昨日は、8キロを71分で走った。
1キロ9分を切っているので、練習の成果はあると思う。
それでもマラソンとしては、超のろいけどね。
もう、ジタバタしても仕方ないし、
長距離(10キロ以上)の練習は危険なのでやらない。
途中歩いてでも7時間以内にゴールする気では、
いるけれど、問題はひざがどれくらい持つかだな。
オレに、幸運を祈る。
あと15日。
2024.10.19
カレーはスポーツだ! #82
やわらかチキンカレー / すき家(不動前駅西店)
★★★★☆
石原ひとみがテレビCMで、旨そうに食っている
すき家の「やわらかチキンカレー」。
ここのところ、M屋やY屋などファストフード店の
カレーにガッカリが続いたが、このカレーはまあまあ旨かった。
CMの通り、辛さは自分で調節できるように、
あまり辛くなく、辛口ソースが添えられてくる。
食べているうちにどんどん刺激が欲しくなって、
辛口ソースを足してしまうパターンにハマった。
やわらかチキンの方は、スプーンで切れるほどの
やわらかさだ。
「炭火の香りとジューシーな味わいが特長」とのことで
炭火で焼いた風の焦げ目が付いている。
切れ目が中途半端に入っていて、
どうせならちゃんとカットしてくれれば
良いのにと思ったが、何か意味があるのかな。
チキンの味は、それなりに旨かったが、
私はぬるっとした皮がちょっと苦手やねん。
790円(税込)なり。
2024.10.19
ねえちゃんのなかなおり
その弐
まるで私のスケジュールに合わせてくれたかのように
姉は10月2日に逝ってしまいよった。
死ぬ前後のことは、「ねえちゃんのなかなおり」に書いた通り。
今日は、この2歳違いの姉について書こうと思う。
記憶をたどると、私が3歳か4歳の頃、
家族4人で出かけたときのこと。
私は、まだ小さいので はぐれないようにと
父か母と手をつないで歩いていた。
姉は何か気に入らなかったのか、母に叱られて
ふてくされていたのか、手をつながずに
私たち3人の後ろを歩いていた。
人混みの中で姉と、はぐれてしまうことを
心配した私は「ねえちゃん、手つなごう、
ねえちゃん手つなごう」と後ろ振り返りながら
泣きながら、姉に手を伸ばしていたのを覚えている。
姉は、ふくれっ面で私の手など握らない。
母も「ほっとき」てなもんで、当時から心優しい(?)
私だけが心を痛めていたのである。
子供の頃は、よくケンカした。
昨年だったか実家の荷物を整理していて、
小学3年生の夏休みの日記を見つけた。
家のビニールプールで遊んだ後、私が
後片付けをしなかったので、姉が腹いせに
私が前日に作り上げたばかりのプラモデルの
戦艦大和を壊したのだ。
その事件は、日記を見つける前からよく覚えていた。
姉がプール脇にしゃがんで、大和の部品をボキボキと
壊してプールに放り込んでいる姿が目に焼き付いている。
----------------------------------
8月4日水曜日
きょう、いえの丸いプールにはいりました。
はいるまえに きのう色をぬったふねで あそんでいました。
はいろうとしたので げんかんに おいておきました。
あがってしばらくして おとうさんが
「水をすてなさい。」といいました。
ぼくは、しなかったので ねえちゃんが
「わるいで、わるいで。」といいました。
ぼくは「たたいて きすむのやったら たたき。」といった。
でも ねえちゃんは かわりに そのふねをくずした。
ぶひんは、ねえちゃんが みんな すててしまったから
つくれなかった。
ぼくは、ながいあいだ ないていました。
かんきょう(艦橋)の上のレーダーは、とられたし、
しほう(主砲)もとられた、こうかくほう(高角砲)と
三れんそう(三連装機銃)は、おられたし
クレーンは、おられ、あんてなも 水らいてい(水雷艇)もとられた。
きじゅん(機銃)は、みんなとられました。
せんかん大和にみえなくなりました。
やっぱりねえちゃんは にくたらしい。
いつも ころしたると おもいます。
(原文ママ・カッコ内は補足で書き足した)
----------------------------------
当時、私は第二次大戦中の戦艦や航空母艦、
戦車、戦闘機などが好きでプラモデルをよく作っていた。
作るだけではなく、ラッカーで色まで塗って仕上げるのが
大好きだった。
それで、戦艦の装備のことにも詳しかったんだ。
平仮名だらけで分かりにくいので漢字を書き足したけど、
主砲を「しほう」、機銃を「きじゅん」と書いているあたりが、
子供っぽい。
それはさておき。
最後の2行
「やっぱりねえちゃんは にくたらしい。
いつも ころしたると おもいます」
に当時の姉弟の関係が垣間見える。
関係が変わったのは、私が5年生か
6年生の時のことだ。
いつものようにケンカが始まり、その時は
口論だけではなく、私は姉に殴りかかった。
その日、始めて姉に勝った。
それまでは、殴り合いのケンカでも負けていたんだけど、
ついに力で勝ったんだな。
殴りながら(あれ?ねえちゃん弱いやん)と
思った覚えがある。
その日を最後に殴り合いのケンカはしなくなった。
それから、私が中学生になってからは、
よく話すようになった。
私たちには、それぞれの勉強部屋が与えられていたが、
ある日の夜、当時中学3年生の姉が私の部屋に
入ってきて話し出したんだ。
「学校、楽しない?
ねえちゃん、めっちゃ楽しくて、毎日、学校行くの
楽しみやねん」
ちょっとした衝撃だった。
それまで私は学校に行くことが楽しいと思ったことなど
一度もなかったからだ。
学校は、面白くない勉強や、やりたくない体育を
やらされるところでしかなかった。
もちろん、友達と遊ぶことは楽しかっただろうけど、
それは学校に行かなくても出来たからね。
で、「学校に行くの、楽しない?」と聞かれ、
初めて「あ、言われてみれば、楽しいなぁ」と思ったんだ。
その時、学校に対する印象が変わったのを覚えている。
それからは、姉は友達のことなど、私によく話してくれた。
覚えてないけど、きっと私も自分のことを話していたんだと思う。
兄や姉、年上の兄弟がいる人は、その兄弟からの
影響を受けるのは、よくある話。
やはり、私も中学から高校にかけて、姉が買ってきたり、
友達から借りてきたレコード(カーペンターズから
ディープ・パープル、中島みゆきから山下達郎まで)を
聴いて、音楽に詳しくなっていった。
高校生になった姉は、アルバイトをし始めた。
近所のお蕎麦屋さんだった。
姉は、自分が稼いだバイト代の中から、
何度か私に小遣いをくれたことがある。
自分に弟や妹がいたとしても、ケチな私には
考えられないことだが、とても気前の良い人だった。
中学を卒業した春休み。
私の初めてのロックコンサートは、
大阪フェスティバルホールでの原田真二だったけど、
そのチケットも姉が買ってくれてふたりで出かけた。
姉は女子高だったけど、男子校の生徒と
ちょっと背伸びしたパーティがあった時も
私を連れて行ってくれた。
たぶん、その男子校の生徒の誰かの
一人住まいのアパートだったような気がする。
私は、まだ高校に入りたてで、坊主頭の毛が
伸びていないような時期だったと思うけど、
2歳年上の姉の友人たちが、ずいぶんと
大人に見えた覚えがある。
まだディスコになんて行ったことのないガキだったが、
照明を薄暗くして、レコードをかけて、姉の友達と
チークダンスを踊り、その人の胸のふくらみを自分の胸に
はっきり感じてなんだかドギマギしてしまった覚えがある。
初心(「うぶ」と読んでね)である。
ああ、そういえば、ふたりで映画を観に行ったこともある。
松坂慶子と真田広之の出演する『道頓堀川』。
ラストが悲しくて、ショックだったなぁ。
1982年だから、私はまだ学生で、姉は勤めていた。
そんなわけだから、周りからは仲の良い姉弟と
言われていたが、自分では他に兄弟がいないし、
それが当たり前だったので、自覚はなかったな。
姉は、弟の私が言うのもなんだが、結構美人だった。
周囲から「姉が美人」と言われるのは、悪い気はしなかった。
私の友達の中でも、マジで交際を申し込んだヤツもいたよ。
1983年、姉が23歳になる年の春頃。
私の部屋にやってきて、「話がある」という。
何ごとかと思ったら、妊娠しているという。
当時付き合っていた人との間に子供が出来たんだ。
それで、結婚しようと思うので、両親にどう話したら
良いかという相談だった。
両親、特に母の気質を考えると、結婚前に
妊娠したなどというのは、大事件だと思った。
私はまだ20歳で、ろくな相談相手ではなかったと思うが、
姉はその年に無事、挙式、入籍をした。
姉が嫁いでからは、会う機会がめっきりと減った。
私も20代前半で一番活発な時期。
そして、1985年に23歳で実家を出てひとり暮らしを
始めてからは、年に数回会う程度で、
ゆっくり話すことも少なくなっていった。
姉は、結婚から3年ほどで離婚。
ふたりの子供は、父親の顔を覚えていない。
それから数年後、姉は再婚するが、
その結婚も数年で破綻した。
その頃には、私はもう上京していて、
以前のような話し相手でも相談相手でも
なくなっていたと思う。
姉が人生で一番つらかったであろう時期に
私は姉の人生に無関心で、何の力にもなれなかった。
あんまりいい弟ではなかったと、
今になって気付いたが、ねえちゃんは何とも思っていないだろうな。
大人になってからは、この5〜6年が、一番姉と話した。
高齢になった両親のことや、父の死、母を施設に入れる件、
そして姉の病気のこと。
それでも、十分に話したと思えない。
いや、話したと言うより、
十分に聴いたと思えない。
何を聴いていないか分からないけど、
もっと聴けば良かったと思う。
母の愚痴や、子供たちの愚痴をきくのがストレスで、
大切に聴かなかったと思う。
ケンカになって話の途中で電話を切ったこともあった。
次に話した時にそのことを謝ると、姉は全くに
気にしていない様子で、驚いたこともある。
救いは、姉が明るい人だったこと。
ストマ(人工肛門))になったことも
お腹にできた新しい肛門(切られた腸の末端)が、
梅干しのように赤いので、「梅ちゃん」と名付け、
ストマの様子を「今日は梅ちゃんが〇◇▽#☆」と話してくれた。
癌になったことも、人工肛門になったことも
ショックなのかどうかも分からないほどだった。
普通は、中々受け入れがたいと思うんだけど。
まだ癌が発見される前、2年前の私の還暦の誕生日。
妻とふたりで予約したレストランに入ると、
姉、姪、甥、甥の嫁4人が全員、黄色やピンクの
カツラを被って席についていた。
大阪から4人でやって来たんだ。
姉が仕組んだサプライズだった。
後になって思うとその日妻がやや挙動不審だったのは、
バレないようにと頑張っていたんだね。
被りもんやパーティグッズが好きで、毎年正月には
そんなものを身に付けては、皆を笑わせていた。
よく息子と即興の漫才もしていた。
最後になった今年の正月は、芸人あぁ〜しらきの
コスプレで、「人工肛門」と書かれた紙のふんどしを
身に付けて、そのふざけた格好で
さだまさしの『奇跡〜大きな愛のように〜』を唄った。
「僕」を「ママ」に替えて、子供たちへの
強力なメッセージだった。
あの格好で、あの歌。シュールだったなぁ。
死ぬまでの1ヵ月、やせ細った姉は、
祖母(父方)に似てると思った。
また違う日には、昨年12月に亡くなった伯母
(母の姉)に似ていると思った。
いずれも一度も似ているなんて思ったことはなかった。
そんな風に血が、昇華していくのかなと思った。
亡くなる一週間前に会った時、
「いらんもんは全部おいて行きや」と声をかけた。
「いらんもん」というのは、来世まで引きずって欲しくない
恨みや苦しみのことだ。
死んでしまってから、姪に聞いたが、姉は、
「●の分も◆の分も(子供ふたり)眞也(私)の分も
いやなもんは全部持って行ってあげる」と言っていたらしい。
姉5歳 私3歳
姉20歳 私18歳(高校3年生の文化祭ライヴのあと)
フルマラソン完走への道 その14
― 筋膜リリースガン
ふた月ほど前、筋肉リリースガンなるものを
ネットで見つけて購入した。
マラソンの練習後の筋肉をほぐすために
買ったが、これが中々良い。
手軽に筋肉をほぐすことができる。
↓
uFit RELEASER Mini(筋膜リリースガン ミニ)
フルマラソン完走のための肝は、私の場合
ひざだと何度も書いてきた。
試しに筋肉リリースガンをひざに使ってみたら、
効果があった。
数年前にふくらはぎの肉離れを起こしたとき、
「ゆらし」という治療法で、みるみるうちに
改善した覚えがあって、もしかしたら似たような
効果があるのではないかと思い、ひざの皿の
下あたりに数分間、軽く当ててみたんだ。
そうすると、触ると痛かったひざの痛みがなくなった。
そして、走っているときの痛みも明らかに軽減した。
本来の使い方ではないだろうから、
注意深く使わないといけないけど。
今日で、本番2週間前。
これからはあまりハードなトレーニングは危険。
今日は、10キロ走った。
本番まで10キロ走るのは最後にしようと思って
走ったが、筋膜リリースガンのおかげで
ほとんどひざのことを気にせずに調子よく走れた。
もしかしたら、これで乗り切れるかもしれないと、
希望が湧いてきたよ。
あとは、本番で初めて体験する
30キロの壁とかいうやつだな。
昨年の100キロ・ウォークで体験した
80キロを超えたときの足の痛みぐらいのことは、
覚悟しているけど、また違うのかな。
あと13日。
10/20 ジョギング 練習記録
距離 10・0キロ
時間 91・6分
1キロ 9分09秒
2024.10.21
ねえちゃんのなかなおり
その参
一昨日にアップした「ねえちゃんのなかなおり その弐」
には、珍しく数名の方から、反応があった。
中学時代のクラスメートで、当時の姉のことも
知っている友人からは、「良い姉弟やったね」との
コメントをもらった。
それを読んで、「良い姉弟だったんじゃなくて、
良い姉だったんだ」と思った。
その日のエントリーに書いたように私は自分が
あまり良い弟であったとは思えないんだ。
姉の友人や知合いの中には、両親の相談を
まともに聞いてくれない、男兄弟がいる人も
いたようで、時々、姉は「眞也が弟で良かった」と
言ってくれた。
私にすれば、親の相談を姉弟でするのは
当たり前のことだと思っていたから、
姉からの電話が来れば、話は聞いてはいた。
でも、姉が私にたびたび電話することは
遠慮していたことも知っていたのに、自分からは、
電話をしたり、LINEを送ったりすることも少なかった。
前回のエントリーに、まだ私達が小さかった頃、
人混みの中で、私が姉に「はぐれるから手をつなごう」と
言っても 姉はふてくされていたことを書いた。
姉の不機嫌の対象は、母だったと思う。
娘と母親の確執による不仲は、珍しくない。
それだけ、娘と母親の関係は難しいんだろうと思う。
私の母親は、毒親と言われるような酷い人ではなく、
私は、母に恨みはない。
もちろん、子供の頃から何度もぶつかったことはあるけど、
それはどんな親子にでもあるレベルだろうと思う。
基本的に自由に生きさせてくれたし、
丈夫な体に生んでくれたことも、
こんな自分に育ててくれたことにも感謝がある。
姉は、ティーン・エイジャーの頃から、たびたび母に
「眞也には甘い」と自分への扱いの厳しさに
反発をしていた。
そのたびに母は「眞也は男の子だから」を繰り返した。
「女の子は、厳しく躾けなければならない」という
母にすれば「正しい」思い込みがあったんだろう。
それが、娘の将来のためであると信じていたんだと思う。
それは、場合によっては、娘の人生に好影響を
及ぼすこともあるだろうが、別の視点で見ると
母親の「思い通りにしたい」というコントロール下に
置かれた反抗期の娘には、理不尽で、自分勝手で、
納得のできない言い分だったと思う。
こんなことは、全て私の勝手な解釈に過ぎないけど、
22歳で「できちゃった婚」などという、母の価値観では
許されないであろうことをやってのけたのも、
姉の母に対する反抗の表現だったようにも思える。
その証拠というわけではないが、母は姉のその妊娠を
「裏切り」と言ったことがある。
「そんな娘に育てた覚えはありません」ということだろうか。
奔放に生きることで、姉は母に対し、母の理想ではなく
「そのままの自分を愛して欲しい」と訴えていたように思えてくる。
私が小学4年生で、姉が6年生だったある日、
家に空き巣が入った。
第一発見者は、夕方、下校してきた姉だった。
明らかに部屋の中に異常を感じた姉は、
母の職場に電話をした。
母の職場は、自宅から自転車で10分程度の所だ。
まだ、泥棒が家の中に隠れているかも知れず、
姉にすれば怖かったに違いない。
母に「すぐに帰ってきて」と訴えたが、
仕事の終業までまだ時間があった(たぶん数10分か
1時間程度だったと思う)。
途中退社すると皆勤に響く(皆勤手当てがもらえない)
ことを気にした母は、すぐには帰らず、仕事が終わってから
帰るので、それまで待っているように姉に伝えた。
「お母さんは私のことより、自分の仕事、皆勤を優先した」
大人になってからも、何度かこの時の話が出たことがあるが、
このことは、姉に深い傷を残したようだった。
何十年経ってもその時のことを赦せていないかのようだったのは、
母が自分より仕事を優先した怒りと悲しみと同時に
自分は十分に愛されていない、と意識の奥深いところで
決めてしまったのかも知れない。
6年生の女の子が、家の中に泥棒が隠れているかも
知れない恐怖と共にいたんだから。
当時は、マイホームを買ったばかりで、母はその返済のために
残業する日も少なくなかったし、それに「皆勤」ということは
母の価値観には、とても重要なことであったように思う。
母は、その空き巣事件から数年後、15年皆勤で表彰された。
本人はそのことを誉に思っていたようだ。
話はそれるが、29歳で初めて就職した私が
勤めた会社には、1ヵ月間 無遅刻無欠勤だと
皆勤手当てが出る仕組みがあった。
たぶん数千円だっと思う。
私はその会社に4年間以上勤めたが、
その皆勤手当てをただの一度ももらったことがない。
4年間、遅刻のなかった月がなかったんだ。
それぐらい朝起きるのが苦手だった。
(安心してください。今は起きられます。)
15年皆勤で表彰される親に、4年間一度も
皆勤手当てをもらえない息子が育つんだよ。
別に反抗していないけど。
ついでに言うと父は、自動車運転について
20年だったか25年だったか、無事故無違反で
交通安全協会から表彰されていたよ。
そんな親にも、何度も反則切符を切られ、
免許停止にもなったことがあるような息子が育つんだよ。
別に反抗していないけど。
話を戻そう。
22歳で結婚した姉は、電車で二駅となりの街に住んだ。
3年ほど経って、離婚後、実家には戻らなかったが、
歩いて数分のすぐ近くに住んだ。
子供ふたりがまだ小さかったので、母に子供らの面倒を
みてもらうことも出来たので、実家の近くに住むことは、
助かったことだろうと思う。
しかし、時折、私には姉と母の折り合いは、
悪いように見えた。
ある程度、子供が大きくなってからのことだが、
姉と母がうまく行かないので、私は姉に言ったことがある。
「そんなにイヤやったら、近くに住まんと離れたらいいやん」
私は、実家から30分ほど電車に乗らないといけない街で
ひとり住まいをしていたおかげで、親と顔を合わすことも
年に数回程度で、親子げんかすることもなくなっていたので、
姉にもその方がいいんじゃないかと提案したつもりだった。
が、姉の回答に驚いた。
「わたし、お母さん好きやで」
あんなにケンカばかりしている(ように見えた)のに
母を好きだと言うことに私は閉口した。
20年ぐらい前、姉は地元に居酒屋をオープンした。
もともとお酒も好きだし、わいわい楽しいことが
好きな人だったので、性に合っていたんだと思う。
その店の名前が「久(ひさ)」だった。
母の名前が「久子」なので、そこから取ったんだ。
姉は本当に母を好きだったんだと思う。
そんな姉が母をおいて、先に逝った。
(つづく)
2024.10.22
ねえちゃんのなかなおり
その四
姉が40代でオープンした居酒屋「久」には、
一時期は母も手伝いで店に出ていた。
父は、お客さんの相手が出来るような
性格の人ではないが、週に何度か掃除をして、
姉からバイト料をもらっていたようだった。
その店を数年前にクローズし、姉は大手スーパーの
店員として働き出した。
しかし、大した給料はなかったんだと思う。
経済的なこと、両親の高齢化も鑑みて、
実家に戻り両親と住むことを決断した。
2017年か18年のことだったと思う。
それからが また大変だった。
一緒に住み始めたはいいが、
母とうまく行かなんだ。
姉が実家に戻って間もなくの頃、
母は薬の副作用だと思われるが、
記憶が時々飛んでいたり、正気なら言わないような
ことを口にしたりしていて、姉にもずい分と
酷いことを言ったようだ。
私は姉に何度か家を出るように進言した。
少しぐらいなら経済的に援助するとまで言ったが、
姉は「私が家を出るということは、私は親を捨てる、
縁を切るということやねん。
その覚悟で(実家に)帰ってきたら」と言って
耳を傾けなかった。
私にはなんだか理解できない決意のようなものを感じた。
私は、母はとても愛情のある人だと思っていたが、
姉の語る子供時代の母は、まるで違う母親の
話のように聞こえた。
それだけ、姉弟でも受け取り方が違ったんだ。
もちろん、母は姉に厳しかったということも大きいと思うけど。
もしかしたら姉は、子供の頃、満たされなかった思いを
高齢の母の面倒をみることで取り返そうとしていたのかも
知れないなどと、勝手な想像をしてしまう。
一緒に住み始めて数年間は、
まだ父が生きていたので、姉は父を心のより所に
出来たと思うけど、2021年春に父が他界してからは、
姉と母のふたり暮らしが始まった。
姉は母と暮らしてみて、
「父が無口だった訳が分かる」と言っていた。
母の若い頃、というか50代60代ぐらいまでは、
そんなに難しい人ではなかったが、やはり高齢に
なってきて、80歳前後ぐらいから、ちょっと人が
変わってきたんだな。
あまりに緩やかな変化で、数年私も気付けなかったけど、
振り返ると、70代後半ぐらいから、そういう兆候が
あったことが思い出される。
そんなわけで、母とのふたり暮らしは
姉にはきつかったと思う。
2年前 2022年10月始め、母(当時86歳)が家の中で転んだ。
念のため病院で検査してもらったらしいが、
異常は認められなかった。
その日の夜、また転んだらしい。
母は2階にいて、姉は1階の部屋にいたらしいが
大きな音がするので、2階に上がってみると
母が倒れていて、意識はあるが立ち上がれない。
姉は、救急車を呼んだ。
ここまで書いて思った。
だんだん、姉の話ではなく、姉と母の物語になってきた。
うーむ。
ちょっと書くことが憚れるような内容に触れそうになってきた。
いったん、筆を置くことにしよう。
続きは、書ける時が来たら。
2024.10.23
フルマラソン完走への道 その15
― スポーツようかん
今まで縁がなかったので知らなかったけれど、
ランニンググッズには、こんなものまであるのかと
関心するほど色々充実している。
そんな中の一つ、ランニング中の
エネルギー補給のための食品。
その名も「スポーツ ようかん」。
味は、あずきとカカオがあって、
作っているのは、あずきバー(アイス)が
人気の井村屋。
あずきとカカオ、両方食べてみた。
走りながらじゃないけど。
味は特筆するほどではない。
袋を破らなくても片方を強く押すと中身が
出て来るようになっていて手を汚さない。
いくつか食べた中のひとつが、封が強かったのか、
先からではなく横のつなぎ目が開いて中身が出てきたよ。
「片手で食べられる」と書いてあったので
ランニング中のカロリー補給にいいなと思い
買ったのだけど、注意書きに
「スポーツ・アウトドアでお召しあがりいただくときは
同時に水分を補給をおすすめします」って書いてある。
確かに水分が欲しくなる。
走りながらやと、あかんやん。
そうか「ランニング中」とはどこにも書いてないわ。
早とちりした。
森永製菓のウインダ―インゼリーは走りながらでも
食べやすい(飲みやすい)が、走りながら
あの小さな蓋を開けたあと、落としそうで面倒。
もともと運動中を想定して作られていないからな。
味の素のアミノバイタルのアミノショットは、
運動中の摂取用で、ちぎった切れ端部分が
本体と離れないしくみで、うまく考えてある。
まあ、私のようなランナーの場合、1分1秒を
競っているわけではないので、立ち止まるか
歩いて飲めばええねんけどな。
2024.10.26
立川談春芸歴40周年記念興行
「立川談春独演会2024」
談春の芸歴40周年記念興行、
3月、5月、8月に続いて、4度目。
それだけ、良かったということだけど。
この興業(東京公演)は、1月から10月まで
毎月2回(合計20回、昼夜合わせて40公演)の
開催で、今日が最終日だった。
開演前、弟子の小春志のアナウンスが会場に流れる。
演目「人情八百屋」の予定が変わったというお詫びだった。
珍しいな。
何でだろう? と思った。
談春ご本人の話しっぷりでは、どうやら演目を
勘違いしていたかのようだったが、真相は分からない。
「『人情八百屋』聴きたいですか?
5分で演りましょうか?」と言って、本当に
5〜6分でまとめたのには驚いた。
登場人物の名前を覚えていなかったりしたので、
本当に準備していなかったのかも知れない。
代わりに「火事息子」。
始まって5分ほどで強烈な睡魔で気絶。
直前に夕食を食べたのがいけなかったかも知れない。
休憩中も爆睡。
二席目は、「居残り佐平次」。
これは、しっかり起きて聴きました。
2017年に初めて談春の独演会に行った。
その時の演目が「天災」と、この「居残り佐平次」だった。
それを聴いて、すっかり談春のファンになってしまったんだ。
7年ぶりだったわけだけど、「居残り佐平次」って
こんなに面白かったっけ? と思うほど
今回も素晴らしかったよ。(7年前と同じ感想)
いやぁ、やっぱりいいなぁ談春。好きだな。
そういえば、いつも三席なのに今日は
「お楽しみがありません」とアナウンスがあり、二席だった。
(「お楽しみ」というのは、ネタ出し〈演目を予め
発表している落語〉に対し、演目を発表していない落語。)
今日も足が痛そうだったし、
もう疲れ切っているのかも知れないな。
三席演ると3時間になってしまうしね。
[ 演目 ]
「火事息子」
--- 仲入り ---
「居残り佐平次」
@ 有楽町朝日ホール
夜の部
写真OKタイム
風景との対話
東山魁夷 著
初版は1967年。
私が購入したものは、2023年の57刷りだ。
オビには原田マハさんの推薦文が記載されている。
「本書は若かった私に進むべき道を示してくれた。
いま、私はその道を歩んでいる。」
60年近く読み継がれている名著なのだ。
昭和の時代には、こういう文章が多かったのかも
知れないが、この情報過多の時代には、
とてもゆったりした文章に感じられる。
読み始めてすぐに 2年前に読んだ 鬼海弘雄 著の
『眼と風の記憶 写真をめぐるエセー』を思い出した。
『風景との対話』は、東山魁夷の私的な独白で、
戦争でどん底を味わったころから、戦後、
魁夷が画家として、どのように美と向き合っていたか、
その旅の記録であり、実際の旅行の随筆も多い。
印象に残った一節を備忘録として記しておこう。
【p.109】
絵になる場所を探すという気持を棄てて、
ただ無心に眺めていると、相手の自然のほうから、
私を描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出会う。
その、何でもない一情景が私の心を捉え、
私の足を止めさせ、私のスケッチブックを開かせるのである。
【p.116】
「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」
(このふたつの文は、写真家ソール・ライターの
言葉を思い出させてくれた。)
【p.146】
人間が造った街であるのに、人間が住みにくくなるとは
どういうことだろう。
【p.174】
(村上華岳〈むらかみかがく〉の手記より)
岸にせせらぎの音を立てて流るる河水よ、
お前は休みなしに何処へ行く、
「私は海へ行く」
海へ去ってそれからどうする、それで終いではないか。
「私は水蒸気となり雨となりまた河と流れ、
斯くの如くまた海にそそぐ」
水よそれは何のためであるのか、徒らなことではないか、
「私は何のためだか知らない、
唯こうやって居るのが私の悦びである」
(いいなぁ。この文。
村上華岳は、大正から昭和の日本画家。
「徒ら」読めなかったよ。「いたずら」です。)
【p.269】
中学生の頃、作文に「希望」という課題が出た時、
軒下をきれいな水が流れる小さな町で、
こぢんまりした本屋を営み、可愛らしい奥さんを
貰って、平和に暮したいという意味のことを書いて、
受持の先生に叱られたことがある。
(それは、受持の先生が間違っている!)
【p.273】
(作品「冬華」について)
私は迷ったが、作品の強さというものは、
決して色調とか、構図とか描き方に在るのではなく、
その画面の中に籠る作者の心の強さに
あることに気づき、これを私の表現しようとする
内容にしたがって、白とグレーの画面に仕上げた。
【p.274】
展覧会も生きものであるから。その傾向も
変化してゆくのは当然である。
しかし、毎年、今年の傾向は、などと云われるのが
不思議でないところを見ると、ファッション・ショーに
近くなりすぎているように思われる。
たしかに、世界の変転は目まぐるしいが、
作家の仕事は、一般的傾向とか、
自分以外の作家の傾向に煩わされないところに
価値があるのではないだろうか。
【p.297】
(自分の作品を指して)
芸術作品は、それを生んだ作家のいとおしみや、
それを迎えた世間の好意のすべてを
剥ぎ取った後に、その真価を問われる運命を持つものだ。
その厳しさに耐え得る作品があっただろうか。
しかし、これからだとも云える。
魁夷は、1962年(私が生まれた年)、54歳の時、
デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、
フィンランドをめぐる写生旅行に出ている。
彼は、1930年代にドイツに留学した人であるが、
その頃にもデンマークへ行ってみたいと思っていたようだ。
しかし、西洋美術の勉学のためとなると、どうしても
イタリアやフランスのような国に足が向ていいたのだという。
後半の北欧を描いた作品に付けられた、短いエッセイを
読んでいて、初めてデンマークに行ってみたいと思った。
魁夷の観た60年以上前のデンマークとは、
大きく様変わりしてしまっているかもしれないけれど。
★★★★☆
2024.10.29
大塚国際美術館
パブロ・ピカソの「ゲルニカ」は、縦・約3.5m、
横・約7.8mもの巨大な作品だが、
そのほぼ原寸大の陶板複製作品が、
東京駅近くの丸の内オアゾに展示されており、
無料で観ることができる。
これを制作したのは、大塚オーミ陶業という会社で、
その陶板複製作品1000点以上が、
展示されている徳島県鳴門市にある
大塚国際美術館に行ってきた。
一昨日の日曜日、妻の会社が企画した現地集合・解散の
イベントで、全員で16人だったかな。
東京から私たち夫婦以外にも10名以上の人が
参加していたよ。
絵画作品は、どうしても経年劣化が免れないが、
陶板複製は半永久的な耐久性を持つらしい。
見た目も原画の所有者からお墨付きをもらうほどだと
いうので、楽しみに行って来た。
美術館は、徳島空港から車で30分ほど。
とても良いところにある。
四国と淡路島の間にある大毛島(おおげじま)で、
紀伊水道に面している。
今では、橋を通って、淡路島、本州と繋がっている。
まず、この美術館、そして作品を作った、
その労力×時間×費用(=情熱)に感動する。
そこに至る素晴らしいストーリーは、公式サイトに
大塚国際美術館初代館長 大塚正士の言葉
「一握りの砂」として残されているので、
ぜひお読みいただきたい。
↓
一握りの砂
美術館ではあるが、アミューズメント・パークというか
テーマ・パークというか、よりアートを身近に
楽しんでもらおうという企画がたくさんあり、
日曜日ということもあってか、多くの来場者で
にぎわっていた。
開業は、1998年とあるから今から26年前。
私は観ていないのだが、2018年大晦日に
米津玄師(徳島県出身)が、「NHK紅白歌合戦」に
出演した。
大塚国際美術館内のシスティーナ・ホールから
生中継だったらしい。
システィーナ・ホールは、ミケランジェロが作成した、
バチカンのシスティーナ礼拝堂を
原寸大に立体再現したというもの。
大塚国際美術館は、その放送をきっかけに、
全国的に有名になり、来場者が増えたと、
地元の方に聞いた。
そして、その米津のイラスト(CDシングル『Limon』の
ジャケット)も陶板になり展示されていたよ。
陶板複製作品は、確かに素晴らしいと思ったが、
ゴッホやピカソ、ルソーなど実物を観たことのあるものも
あったので、それらの実物を見たときの印象と比較すると
やはり実物にはかなわないと思った。
まあ。当然かもしれないけれど。
なんだろう、あえて言葉にするなら、
この複製品を作った職人たちの魂は感じるのだけど、
元の絵を描いた画家の魂は宿っていない、という感じかな。
記憶にある印象より、色が、少し淡く感じたこともある。
(作品によるけどね。)
ただ、経年劣化がないというのは、
もしかしたら数百年後、実物はもの凄く色あせていたり、
朽ち果てて見られなくなっていても、この陶板は
変わらずにあり続ける可能性がある。
それは、アートの歴史にとって凄いことだと思う。
初代館長の言葉にもある通り、若者・学生がここで
作品を鑑賞したことが、その将来、実物を観ることに
繋がればそれは素晴らしいことだと思う。
ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の修復前と修復後が
同じ部屋に向い合わせに展示されていた。
印刷でしか観たことがなかったが、驚くほど でかかった。
ちょうど、部屋に入った時、美術館のスタッフだろうか
作品の解説をしているところだった。
あの作品は、過去の修復で上塗りがされていていた。
その上塗りを水で剥がして、オリジナルに戻すのに
20年もかかっているのだという。
そして、その上塗りの絵具の下に「最後の晩餐」の
真実が隠されていたという、ミステリーのような話だった。
その解説がとても面白く、「最後の晩餐」にも
興味が湧いたよ。
ゴッホのコーナー
2024.10.30
フルマラソン完走への道 その16
― いよいよ今週末
富山マラソン本番まで、あっという間に
あと3日と迫ってきた。
結局、十分練習したとは言えないまま、
本番を迎えることになる。
7月15日に練習を開始して以来、3カ月半で
走った距離は、合計で 360キロほど。
マラソンの練習としては、月に100キロでは
十分ではない。
それに、走ったと言っても1キロ9分台で
本当に遅い。
今日も7・5キロほど走ったが、もっと走りたく
なるところをぐっと堪えてやめた。
練習を始めた頃には、考えられなかったことだけど
この頃は、走っていて数十分経つと楽になって
もっと走りたくなるようになった。
ひざは、7・5キロくらいなら軽く痛い程度で
問題ないけど、これが30キロ 40キロ走ったとき
どうなるかは見当もつかない。
リタイアするとしたら、ひざかひざ以外のどこかが
痛くなって走れなくなり、心が折れた時だろう。
あるいは、痛くても歩いてでも続ける気があったとして
制限時間内にチェックポイントを通過できなくて
失格になるかだな。
目標は、6時間30分だけど、たぶん無理だね。
予想は、6時間45分から7時間ギリギリで
とにかく ゴールできたら、御の字だ。
マラソンは、成功する競技じゃなく、
失敗しない競技だと誰かが言っていた。
練習でもケガをしないよう、無理をしないで、
本番前に走り過ぎないよう、食べ過ぎないよう。
当日は、体調管理から、ペース配分まで、
とにかく失敗しないように気を配るスポーツなんだな。
本番は、11月3日(日)の9時スタート。
ゴールは、16時頃だな。
前日に受付をしなければならないので、
前々日(1日)に富山入りすることにした。
天候が気になるところだが、今の予報では、
3日当日は曇りのち晴れ。
別の天気予報では、雨のち曇り。
前日は、当日に疲れを残さないよう走らないで、
受付に行くだけにしよう。
どうせ雨の予報だし。
(天気予報によって、降水確率 80−100%)
前々日の1日は、少しだけ走ろうと思うが、
天気予報によって、降水確率20%、60%、
80%とまちまち。
時々雨が降るかもな。
当日、走り終わったら、美味いもんを食べようと
思って、お店を調べて数軒予約の電話をしたけど、
当日休みか満席か電話が繋がらないかで
予約は取れていない。
マラソンの影響もあるかもな。
何しろ、マラソンの部が13,000人、ジョギングの部が
1,000人で、合計14,000人(+車椅子マラソン
30人)が参加する。
きっと、あちこちから参加者が来るだろう。
まあ駅前の居酒屋でもいいや。
2週間アルコールを断っているので、飲むの楽しみ。
あと3日。
さて、どうなるか。
富山マラソン 公式サイト
2024.10.31
山形中華そば
麺や一球
ラーメンはそれほど好物ではなく、
年に数回しか食べないんだけど
今年の夏、武蔵小山にオープンして、
気になっていた「山形中華そば 麺や一球」に
行って来た。
「スープは山形県の名店『金ちゃんラーメン』で
修行を積んだ店主が作るキレのある黄金スープ」
との記事をネットで読んだが、
ラーメンに詳しくない私は、この「金ちゃんラーメン」が
どういうものなのか知らないんだ。
ただ、自家製麺、自家製スープ、自家製チャーシュー、
自家製ワンタン、自家製メンマということで
店主のこだわりが伝わってくるお店だ。
(若い爽やかな兄ちゃんがラーメンを作っていたけど、
あの人が店主だろうか。)
「山形中華そば」は、880円なのだけど、
「チャーシューが旨かった」というレビューも
読んだので、「自家製チャーシュー麺」1,300円を注文。
メニューを見ていると、「炙りチャーシュー丼」300円も
「食べてよん」と誘ってくるではないか。
うむ、空腹だ。両方食そう。
スープは、しつこくなくどちらかというとあっさりめ。
チャーシューは旨い。
麺はちぢれ麺。
店内には、製麺室なるものがあったので、
ここで作っているんだろう。
ラーメンというより、確かに中華そばだ。
(感覚的な話です)
「炙りチャーシュー丼」は値段が300円ということからも
分かる通り、小さめ。
普通のご飯茶碗ぐらいだな。
炙ったチャーシューに卵黄が合います。
値段は、全て税込。
次回は、限定30食の「自家製煮干し中華そば」を
食べてみたい。