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つつみしんやのひとりごと 2011年 エッセイ
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2011.1.9

おっさんと 2人で年越し

大晦日のことだ。

妻と映画を観ようと 品川駅に着いたころ

私の携帯に留守番電話のメッセージがあることに

気がついた。

メッセージの主は、大阪時代に一緒にいくつかのバンドを

組んでいた ドラマーの F さんからだった。

「今、東京に遊びに来ているので、会いたい」 という旨の

メッセージだった。

電話をして、映画が終わったら、会うことにした。

F さんとは、東京に来たころ、電話で話した覚えがあるが、

それからは話していない。

私は、昨年の12月で東京に来て、ちょうど15年になるので、

話すのも会うのも15年ぶりだ。

携帯の電話番号も知らなかったようで、

一緒にバンドをやっていた仲間に電話をして聞いたらしい。

夜の10時ごろ、新橋で会い、

結局、深夜 2時ごろまで新橋の居酒屋で飲んだ。

F さんは、私より 6歳年上だ。

15年経っても、その人なつこい話し方は変わっておらず、

タイムスリップして、まるで 大阪の居酒屋にいるような

感じだった。


F さんとの出会いを考えると、

縁というのは、実に不思議なもんだと思う。

あれは、私が21か22歳のとき。

ネットなどなかった当時、バンドのメンバー募集は、

「Player」 という雑誌を通して行っていた。

他の音楽誌にもメンバー募集のコーナーはあったが、

「Player」 が一番、そのページが多かったのだ。

私は、「ギタリスト募集」 と書かれた、ある電話番号に

電話をかけた。

すると、すでにギタリストは見つかったらしく、

断られてしまった。

それから、しばらくしてから、知らない人から、

電話がかかってきた。

聞くと ギタリストを探しているという。

その人が、F さん だった。

F さんは、私が電話をし、断られた A さんと友人で、

ギタリストを探しているという話をしたときに、

「じゃあ、この前、電話かかってきた人いるから、

かけてみたら?」 と、A さんから私の電話番号を

聞いたらしい。

そして、それから数年間、私は F さんといくつかのバンドをした。

ギターを弾いて 初めてギャラをもらったのは、

F さんのバンドだった。

F さんを通して、ミュージシャンに限らず、

何人もの人と知り合ったが、面白いことに

そのきっかけになった人とは、一度も会ったことがない。


大晦日、まさか、F さんと2人で、年を越すとは

つい数時間前までは、想像もしなかったことになった。

おもろいこともあるもんやなぁ。





2011.1.10

夫夫

「夫夫」 または 「夫々」。

読めますか?

先日、仕事である規約文を読んでいたら、出てきた。

もちろん読める方もいるのだろうが、

私には (なんじゃこれは?) という感じだったので、

調べてみた。

「それぞれ」 と読むらしい。

「各々 (おのおの)」 は、契約書などでよく使うが、

「夫夫 (夫々)」 は知らなかった。

「それぞれ」 は、「其其 (其々)」 とも書く。

こっちの方が たまに見かけるような気がする。

こういう同じ漢字を並べる単語は意外と多いのだな。

例えば、「毎々」。

これは、そのまま 「まいまい」 と読み、意味も

毎回、度々、と同じ。

あ、「度々 (たびたび)」 も、同じ漢字ふたつやね。

「満々」 とか 「面々」 とか 「嫌々」 とか 「堂々」 とかは

普段でも使うけど、「営々」 は?

これも 読み方はそのまま 「えいえい」 で、

意味は、せっせと休みなく励むさまのことで、

「営々として働く」 という風に使うらしい。

知らんなぁ。

「僅僅」。

「きんきん」、意味は、数量が非常に少ないさま。

「燦燦」

「さんさん」。

これは、美空ひばりの 『愛燦燦』 で知られてる。

意味は、太陽などが明るく光り輝くさま。彩りなどの鮮やかで美しいさま。

「魚々」。

これは、「とと」。

昔、何かで読んだ。

知ってるくせに何も知らないような振りをする人のことを

「かまととぶる」 って言うでしょ。

これは、かまぼこが とと (魚) から作られているという

誰でも知っているようなことを 知らない振りをするところから

来てるらしいけど、ホンマかどうか保証はない。

話がそれたけど。





2011.1.19

人の不幸は密の味

「人の不幸は密の味」 なんて言葉があるように

自分に影響のない人の不幸は、

見聞きするだけで にんまりするものであるらしい。

昨日、妻が珍しく落ち込んだ表情で帰ってきた。

何があったか聞くと、携帯電話をトイレの中に

落としたと言う。

まず、それを聞いて思わず笑ってしまった。

電話は機能しなくなり、明日から仕事に支障があると、

深刻になっている本人は、私が笑ったことが

気に入らなかったようだ。


数年前、私がぎっくり腰になった。

そのため、ある約束をキャンセルしようと電話をした相手が、

私がぎっくり腰になったと聞いて笑った。

その時、(こっちがまじで苦しんでるのに、何がおもろいねん) と

不快になった覚えがる。

もちろん相手の人は、悪気はないだろうし、

きっと今では 笑ったことも覚えていないだろう。

しかし、私は (別に同情して欲しいわけではないが)、

笑われて非常に不快だったのだ。

何年も経っても覚えているぐらい。


ねえ 神様、なんで人の不幸を密の味にしたんですか?

趣味 悪いっすよ。





2011.2.15

完璧な不足

ほとんどの人が、自分のことを または 他人のことを

「これじゃだめだ」 「このままじゃだめだ」 と生きているようだ。

そして、自分を変えようと 試み、うまくいかずに

あきらめたり、何かのせいにしたり、

他人を変えようと 試み、うまくいかずに

恨みに思ったり、その人を許容できずに

避けて生きることになったりする。

これは、一般論ではなく、私の人生のことだ。

そして、私がそうであるように 人もそうであるようなので、

冒頭、「ほとんどの人が」 と書いた。

まれにあんまり、自分のことも人のことも

変えようとせずに 生きている (ように見える) 人もいる。

一方で、(そこまでせんでええのに) と思うほど、

人のことをコントロールしようとする人もいる。

どちらの人が幸せそうかというと、当然前者で、

後者はとてもじゃないが幸せそうには見えない。

(本人がどう思っているかは別として。)

自分でさえ、思うとおりに変えられないのに

人をコントロールしようとしても、うまくいくはずがない。

分かっていても、何かを変えようとしてしまうのが、

人間の性 (さが) だと思うが、そんなことに考え及ぶたびに

昔何かの本で読んだ言葉を思い出す。

こんな内容だった。


 自然を見て、何かが欠けていると思う人はいませんね。

 (ああ、もうちょっとこの空、青かったらいいのに) とか、

 草木を見て (ちょっと緑が足りないな) とか、思う人はいません。

 なぜなら、自然界にあるものは、すべて完璧だからだです。

 完璧なものを見て 何かが足りない、欠けていると思うわけがありません。

 人間も生まれたときから、完璧です。

 あなたも生まれたときから、完璧です。

 あなたは、そのままで何も欠けていないし、足りなくありません。



確かに人間が人間に対してだけ、不足を感じる。

それは、私たちは、生まれてから、足りないものを補って

大きくなる (大人になる) と勘違いしているからだ。

その勘違いも人間が生み出したものだ。

こう書くと、不足感が不幸の元凶のようだ。

確かにそういう側面もあると思うが、

人間はその不足感があるがゆえに、結果的に人生において

たくさんの学びを得ることになる。

学びは人生の非常に大きな喜び、収穫だ。

不足感が 学びの重要な要素であることを考えると、

不足を感じることさえも 完璧の一部ということか。

ふ、深いのぅ。





2011.2.27

ハゲと沈黙

先日の夜のこと。

あるお店に食事をしに入った。

そこは、カウンター席3席と、テーブルが4つの

こじんまりした店だ。

客は、私の他にカウンター席に1名、テーブル席に1名、

2人とも男性だった。

まだ30代だと思われる、髪の薄い白衣を着た調理人が

ホールに出てきて、テーブル席の客と話していた。

客は、常連なのか調理人の友人なのか、親しげだ。

そして、調理人が言った何かに対し、客が大きな声でこう言った。

「お前みたいなハゲに!」

そこまで言って、突然 黙った。

数秒 変な沈黙が流れた。

「言われたくない」 と続けたかったのだろうか。

私は食事をしていて、彼らの方を見ていなかったのだが、

あの止まり方は、客が 「ハゲに!」 と言いながら、

私の存在に気付き、思わず黙ってしまったかのように感じた。

考えすぎか?

ちなみに私は、ハゲで スキンヘッドにしているが、

「ハゲ」 と言われることに抵抗がない。

だって、本当だから。

だから、気にせんでも良かったのに。

っていうか、「ハゲに!」 で止まったから気付いたけど、

止まらなかったら、何も気付かなかっただろうに。


・・・ これ、笑えるように書こうと思ったのに、

読み返しても笑われへんな。

やっぱり、気にしてるのか、俺。





2011.2.28

妥協と許容

似てるけど、違うねんな。

妥協したのか、許容したのかは、

自分に聞けば分かる。

そして、妥協は自分を小さくし、許容は自分を大きくする。





2011.3.21

報道と良心

外務省によると、3月20日現在、合計128の国・地域と

33の国際機関から救助隊員・救援物資などの

支援申し入れがあったそうだ。

お隣の韓国からも、物資や救助隊などたくさんの支援を受けている。

しかし、地震直後、韓国では歪曲した、または、

不謹慎ともとれる報道があったらしい。

そのことを書いているのは、趙 章恩 (チョウ・チャンウン) という

ソウル在住のジャーナリストで、小学校から高校卒業まで

東京で 暮らしていたので日本にも詳しい方のようだ。

その報道の内容には、後ほど触れるとして、

私の知人で、3年ほど日本で仕事をしていたのだが、

今月18日に韓国へ帰国することが決まっていた人がいた。

彼女は、帰国1週間前に東京で地震にあったわけだが、

地震の後、韓国の両親から、もの凄い勢いで

「すぐに帰ってきなさい」 と言われたらしい。

「東京はほとんど被害がない、安全だし、18日のチケットを

とってあるからそれでいいじゃないか」 と言っても、

その勢いは収まらなかったらしい。

私が話したのは、15日だったが、

チケットの変更は、高くつく上、困難だということで、

結局 彼女は予定通り、18日に帰国することにした、と言っていた。

子供のことを心配している親としては、当然のことだろう、

と思いつつも、彼女の口ぶりから、その 「帰って来なさい」 の

勢いが尋常ではなかった感がうかがわれ、

ちょっと違和感を 覚えたのも事実だ。

その後、韓国での歪曲報道の記事を読み、合点がいった。

記事の筆者 趙 さんは、「恥ずかしい話なのだが」 と

前置きをしたうえで、

「(韓国のメディアは) 日本全土が地震による被害で

壊滅しているかのような報道をした」 と書いている。

「日本沈没」 という見出しをつけた新聞もあったという。

韓国にいる彼女のご両親は、おそらく 東京も壊滅していると、

誤解なさったのだろう。


趙 さんの記事によると、

他にも チェーンメール (デマ) の内容を一部の新聞や

ポータルサイトが表示して、韓国国民の不安をあおったり、

テレビでは、東北地方の状況や韓国人の被害などを

伝えるのではなく、今回の地震によって

「韓流ブームが打撃を受ける」、

「韓国芸能人が日本で活動する機会が減る」 といった

報道をしていたらしい。

記事には、

 これには韓国人も激怒した。
 どこで何が起きたか正確に伝えない新聞、
 安否不明者が1万人を超える大惨事が
 起きているというのに韓流ブームの心配なんかしている
 非常識な報道番組に非難が殺到した。


とある。

そして、

 どうか日本のみなさんが、心ない韓国マスコミの
 報道を許してくれることを願う。
 韓国では、東北地方太平洋沖地震で破壊された村の
 映像に涙を流し、被災地の再建のために自分も何か
 役に立てることはないだろうかと気を揉んでいる人ばかりである。
 どんな災害にもめげず乗り越えてきた強い日本である。
 これからも、学ぶべきところの多い、頼もしい隣国であり続けるに
 違いないと信じている。


と、結んでいる。

私は、

(これ書いた人、すごいな、韓国国民が怒るのはもっともな話や)

と思いながらも、韓国メディアを心の中で非難していた。

書き込まれた、記事に対するコメントも、

韓国メディアを非難するコメント、

日本のメディアも (ついでに?) 非難するコメント、

韓国人全体を非難するコメントなどが多い。

それらに混じって、心を動かされたコメントがいくつかあった。


 人目を引くために記事に過激な見出しを付けることは、
 日本の新聞でも良くあることです。
 どうぞお気になさいませんように。
 そんな記事にだまされず、過去にも現在にも山ほど
 存在する問題も棚に上げて、日本に救援隊を
 送ってくださった韓国の皆さんにお礼を申し上げます。


 日本も含め、どんな国においても、こんな時、
 2つの相反する報道内容や、国民感情が沸き起こることが、
 普通なんだと思います。
 それが、個人の表現の自由ということなのではないでしょうか。
 でも、それでも、私は韓国のみなさんが日本を一生懸命
 応援・支援してくれているという面に目を向け、
 感謝の気持ちを絶対に忘れたくありません。
 こういう気持ちが、世界を平和に導いていく
 小さな一歩であって欲しいと思います。



また、韓国マスコミの報道について言及するのではなく、

そのことを正そうとする韓国人への評価、

この記事を書いた、趙 章恩さんへの感謝と評価なども目立つ。

2001年、東京の新大久保駅で転落した人を助けようとして

死亡した韓国人留学生の話を思い出した、というコメントもあった。

昨日は、日本人の素晴らしさについて書いたが、

関東大震災では、多くの朝鮮人が流言飛語により

日本人により 虐殺された事件も忘れてはならない。

報道や、思想教育による過ちを、私たち日本人は犯してきた。

あの時代に逆戻りすることはないだろうが、

いつも、良心に則り、冷静に、大人である考え・意見を持つ人でありたい。


趙 章恩さんの記事は、こちら

(全文を読むためには、登録 (無料) が必要です。)





2011.3.23

選 択

政府は、 21日、4県 (福島、茨城、栃木、群馬) の農産物について

規制値を超える放射性物質が検出されたと、出荷制限を出した。

今後は、その4県以外の北関東、関東産の農産物にも

風評被害が起きる可能性がある。

- - - - - - - - - - - - - - - -

母親は、まだ1歳半の子供のことを想い、

「野菜は、西日本で採れたものにしよう」 と だんなに言った。

安全な食品を子供に与えたいと思うのは、

親として当然のことだ。

しかし、だんなは、

「政府が健康に影響がないと言っているのだから、

そんなことする必要ない」 と言った。

彼が、100% 政府の言うことを信じている人ではないのは、

知っていたが、私は思わず、

「政府の発表が間違っていたら、どうするんですか?」

と 訊いた。

彼は、「『俺の子供に生まれたのが、悪かったな』 と

息子に言って聞かせる」 と言った。

私は、その話を聞きながら泣きそうになった。

母親の気持ちは、全く良く分かる。

それは、母性だろう、本能だろうと思う。

そして、

「自分の子供さえ助かったら、それで良いとでも言うのか。

日本に生まれたのだから、日本人としての運命を受け入れろ。

ジタバタするな。」

という父親の考えも全く良く分かるからだ。


私は自問した。

自分はいいとしても、もし私に子供がいたら、

彼のように自分の選んだ国、自分の選んだ政府、

自分の運命を 潔く受け入れることが 出来るのだろうか、と。

  (注) 自分は日本を選んで生まれてきた、という
  立場で書いています。
  同様に、たとえ民主党に投票しようがしまいが、
  今の政府が、自分の選んだ政府です。






2011.3.24

日本人の明と暗

23日、東京都は 金町浄水場の浄水から

食品衛生法に基づく 乳児の飲用に関する暫定的な指標値を

超える濃度の放射性ヨウ素が測定されたため、

23区及び一部の多摩地域では、乳児の水道水の摂取を

控えるよう発表した。

発表には、

「この数値は、長期にわたり摂取した場合の健康影響を

考慮して設定されたものであり、代替となる飲用水が

確保できない場合には、摂取しても差し支えありません。」

と付け加えられている。

私は、「放射能入り (?) だと聞くと、あんまり気持ちの

いいものではないな」 と思いながらも、今日も水道水を飲んだ。

今夜になって、水道局は、

 本日、3月24日午前6時に採水した金町浄水場の
 浄水(水道水)について、放射能測定を行った結果、
 「放射性ヨウ素(ヨウ素131)」の測定値は79Bq/kgと、
 食品衛生法に基づく乳児の飲用に関する暫定的な
 指標値である100Bq/kgを下回っています。

 東京都水道局の水道水は、1歳未満の乳児を含め
 すべての方に飲んでいただいても問題はありません。

と発表した。 → 東京都水道局

埼玉県川口市水道局でも 一度は基準値を超えたが、

その後 数値が基準を下回ったとのこと。

しかし、新たに千葉県で、乳児の暫定基準値を上回る

放射性物質が検出されたようだ。

専門家の話では、この数値は、天候や風向きで変わるそうだ。


さて、地震以降、日本人の素晴らしさが内外で評価された。

私もそうだが、それを読んだ多くの日本人が、力づけられ、

日本人であることを誇りに思ったことだろう。

その一方で、義捐金詐欺が起こったり、

「やめましょう」 と訴えているのに 買だめをしたりする人が

後を絶たない。

「水道水は、大人は飲んでも問題ない、乳児には控えましょう」 と

いう発表だったのに、昨日今日とパニックになった (?) 人達が、

スーパーなどに押しかけたようだ。

「箱ごとよこせ!」 と怒号が飛び交っていたという報道もあった。

ペットボトルの水を買い込んでいた人たち全員の家に、

乳児がいるんだろうか。

残念ながら、そうは思えない。

たとえ乳児がいたとしても、怒号は ないだろう。

もちろんそういう人は少数だ。

ただ、そういう報道を聞くと、残念でならない。

日本人としての誇りとは、何だ。


おまけ :
(2011年3月17日午後時点の情報を踏まえて) とあるので、
現状に当てはまるのかどうかまで 私は分からないが、
興味深い記事を見つけたので 紹介。
  ↓
「退避すべきかとどまるべきか」 放射線被ばくを深く心配されている方々へ





2011.3.30

負けず嫌い

「負けず嫌い」 とはどんな人?


試合や勝負に負けて、悔し泣きしている子供を見て、

「この子は、負けず嫌いだな」 と思ったりすることがある。

一度負けて、二度と負けないなら、負けず嫌いと言えるが、

何度も負けて、何度も悔し泣きをしているとしたら、

それは、「負けず嫌い」 ではなく、「悔しがり」 ということだな。

つまり、「負けず嫌い」 とは、負けない人のことだ。


ちなみに、私は 「負けず嫌い」 ではない。

たま〜に 「悔しい」 ことはあるが、残念ながら、

それは次に 「勝つ」 ことには つながっていないのだ。

とほほ。





2011.4.27

塾 (?) の先生

どういうわけか、友人の子供 (小学5年生男子) に

勉強を教えることになった。

週1回、会社まで来てもらって、算数を 1時間教えている。

そのプライベート塾 (?) も 昨日で、4回目だった。

今まで、分数の問題、単位を換える問題 (キログラムをグラム

に変換等)、平均を出す問題などをやってきて、

今日は新しく、人口密度を出す問題をやった。

人口密度というと、大そうだが、

「10両で180人乗ってる電車は1両あたり何人乗ってるでしょう?」

というような問題。


私にとっては、

「大人にとって簡単だと思うことを

まだ充分に理解できていない子供に教えるのってこんなに

難しいんや」 という体験。

数問 正解して、(あ、理解したな) と思っても、

次の問題で 間違う。

分かっているのか、分かっていないのか、分からなくなってくる。

いや、本人が 「分からない」 と言うのだから、

分かってないねんな。

ほな、さっきの問題は、なんで解けたんやろ。

という感じで、全くこちらが試されているようなのだ。

でも、1週目であまり理解できていないようだった分数の問題を

毎週やっていると、だんだん 間違う率が下がっているので、

一応、やっている効果はあると観ている。


もうひとつ発見したこと。

彼を見ていると、時々、妻を思い起こす。

妻は小学生男子に似ているのだ。

いや、小学生といっても色々いるだろうから、

小学生に似ているというより、彼に似ているんだろう。

そういえば、彼の母親も 彼のことを私の妻に似ていると言ってたもんな。

子供っぽい言動、調子の良い言動がそっくりなのだ。

例えば、

「答えは?」 と訊いたら、

「大体400」 と答える。

算数の問題なのだから、「大体」 なわけない。

妻が言いそうなことなのだ。





2011.4.28

初体験

昨日、生まれて初めて ウサギ の肉を食べた。

高級イタリアンのお店で 肉料理は、「鴨かウサギです」 と

言われ、いまだかつて食べたことのないウサギに挑戦してみた。

結果。

うまい。

食感も見た目も、鶏肉に近いが、ちょっと違う。

私は、小学生のとき 飼育部で、早朝の豆腐屋へ、

ウサギのえさのおからをもらいに行った覚えもあるので、

なんとなく、あんなにかわいいウサギを食すのには、

罪の意識も伴わないではないが、哀しいかな おいしかった。

そういえば、歌にもなってるよね。

♪ ウ〜サ〜ギ お〜いし〜


・・・・・ ごめんなさい。





2011.4.30

がんばる

先日テレビで、外国の雑誌の記事が紹介されていた。

震災後、外国人が最初に覚えた日本語が、

「ガンバッテ クダサイ」 だったという。

どこの国の雑誌だったか覚えていないが、

「ガンバル」 の意味は、「我慢する」 と紹介していた。

「ガンバル」 を他の日本語に置き換えることを考えたことはなかったが、

「我慢する」 という解釈は、一理あるなと思った。

マラソンを 走っている人に 「がんばれ」 と言うのは、

「(ゴールまで) あと少しだから、(休みたい気持ちを) 我慢しろ。」

「もうちょっとだから、こらえろ」 という意味なら、良く分かる。

でも、走っている人は すでに がんばっているのだから、

がんばっている人に 「がんばれ」 と言うのは、どうなんだろうと、

かねてより 疑問だった。

いや、スポーツの声援なら、「がんばれ〜!」 と聞こえてきて、

力づけられることもあるだろう。

でも、今回の被災者に 「がんばってください」 ということが、

適切なのかどうか分からないとずっと思っていた。

なぜなら、彼らはすでにがんばっているだろうから。

いっぱい、色んなこと、我慢しているだろうから。

食べている人に、「食べろ」 というのは、

おかしいのと同じように がんばっている人に、

「がんばれ」 「がんばってください」 は 変だと思うのだが、

他にふさわしい日本語がないような気がする。

自分が被災者だったら、

「これ以上何をがんばれと言うの?」 と

言いたくなるんやないかなと思った。

それでも、その場になったら、「がんばってください」 って言うやろな。


現地の人たちの言葉に、こういのがあった。

「『前を向いて歩いていこう』 というけれど、全部なくなってしまって

どっちが前だか分からない」

「上を向いて歩いてたら、瓦礫でつまづくわ」


最近は、テレビで 「がんばろう。日本」 の他にも、

「ひとつになろう日本」 という コピー も聞くようになった。

長い歴史の中で、どんなことがあっても立ち上がってきたんやから、

今回も、ちょとずつ、ちょとずつ、復興していくんだ。





2011.5.16

老化

大体が丈夫なのだ。

何がって、私のカラダ。

今年49歳になるが、今まで入院するような

大きな病気をしたこともなければ、骨折をしたこともないし、

縫うような怪我をしたこともない。

何かアレルギーがあるわけでもない。

強いて言うなら、胃腸はそんなに強いとは思わないが、

それも薬に頼ったり、医者に通ったりするほどのことでもない。

だから、サプリメントを飲んでも劇的にその効果を

感じることもない。

ありがたいことなのだが、その分、自分の健康を

過信してしまうところが あるのかも知れない。

7〜8年前、ぎっくり腰をやって、(ああ、いよいよ若くない ) と

いうことは文字通り痛感したが、今回の首の痛みは、

(いよいよ警告だと受け取るべきか) と思った。

老化というのは、急激に始まるわけではなく、

徐々に進行するわけだろうが、この1〜2 年は、

自分の精神とカラダのギャップが、より拡がった感じがする。

数年前から、妻が あるカイロプラクティックに通えと、

うるさかった。

前述したとおり、私はどこも悪くないので、

(行ったらきっと良いのだろうな) とは思いつつ、

中々行く気がしなかったのだが、

ついにこの首の件で行くことにした。

明後日、初診。

どんなことになるのだろう。

ちなみに カイロプラクティック は初だ。


余談だが、

老化というのは、何歳から始まると思う?

色んな考え方があるだろうが、私は 「生まれたときから」 という

考え方が好きだ。

生まれたときから、(厳密には生まれる前から)

変化は始まっている。

その変化を、始めの20年ぐらいを 「成長」 と呼び、

40代 50代以降の変化を 「老化」 と呼ぶ。

生まれてから死ぬまで、ずっと、ひと時も変化は止まらない。

つまり、言い換えれば、一生 「成長」 だし、一生 「老化」 なのだ。

しかし、年老いて 「成長している」 とは、言いがたい。

でも、小さい子供を見て、会うたびに大きくなることを

「老化が進んでいる」 と解釈してみるのは、中々面白い。





2011.5.18

礼儀はどこに

新宿の地下街を歩いていたら、

女性の 「ねえ、ねえ」 という 大きな声が聞こえてきた。

振り向いて見ると 若い女性が 60代ぐらいのおじさんに

道を尋ねていた。

「ねえ、ねえ」 のあとには、「東口ってどこ?」 という

言葉が続いた。

その口調のあまりの馴れ馴れしさに知り合いに訊いているのかと

思ったが、そうでは なさそうだった。

おじさんは、ひと言ふた言 答えたあと、女性から離れて行った。

“若い女性” と書いたが、10代では なさそうだ。

服装は いかにも少女のようだが、もしかしたら、

結構 年を取っているのかも知れない。

私から少し距離があったのと、あまりジロジロ見られないので、

何とも言えない。

彼女は、東口がどこかそのおじさんからは聞けなかったようで、

歩きながら、他の人に同じように馴れ馴れしく 「ねえ、ねえ」 と

声をかけていた。

(なんか、スゴイ人見たな) って思った。

礼儀 とかないねん。

あれは、フレンドリーとかちゃうで。




カイロプラクティック

今日は、カイロプラクティックの初診日。

まず はじめに おしっこを採り、血圧を測る。

なんかイメージしてたのとは違う。

検査と治療、そしてドクターからの説明、合わせて

ほぼ2時間を要した。

そう、ドクターなのだ。

私が行った 「中島カイロプラクティックセンター」 は、

中島先生という D.C.(ドクター・オブ・カイロプラクティック) が

院長だ。

なんでも、D.C.という称号は、日本では取得できないらしく、

D.C.のいるクリニックは日本に100ヶ所もないらしい。

それはさておき、私の首の痛みは、首が原因ではないらしく、

背骨のゆがみから来ているという診断で、その背骨のゆがみを

正常にしていく治療をするらしい。

ドクターの話を聞いて ちょっとうれしかった & 安心したのは、

私の内臓は、本来 丈夫だそうだ。

丈夫なのに、背骨のゆがみから来る原因のために、

機能が低下しているという。

よくなる 下痢や便秘も そのせいだというのだ。

つまり、その原因を取り除けば、内臓もしっかり働き出すし、

首の痛みもとれる、というわけだ。

ちょっと、ほんまかいな とも思うが、まあ信じて通ってみようと思う。

明日も行きます。





2011.5.27

電話営業

会社には色んな営業の電話がかかってくるが、

時々、(失礼やな!) と思う電話がある。

今朝の電話。

「○○ (会社名らしき名称) といいますが、
 社長様いらっしゃいますか?」

「社長は、ここにはおりませんが、どういったご用件でしょうか?」

「社長さんは、いつもおられないのですか?」

「はい。いつもここにはおりません」

 ガチャッ!

こんな失礼な電話をするやつに まともな仕事ができるのだろうか?

顔が見てみたい。(見んでええけど)

電話営業で がんばっておられる方には悪いけど、

「社長様いらっしゃいますか?」 と言った時点で、

ほぼ100%不要な電話だ。

こちらの代表者の名前も知らずにかけてきているのだ。

おそらく、何の会社かも知らずにかけてきているのでは

ないだろうか。


実は、私は電話営業の会社に就職したことがある。

29歳の時 (20年前)、初めての就職先が電話営業の会社だった。

朝から晩まで、ひたすら電話をかける。

電話帳の上から順番に。

相手は、会社ではなく個人だったような気がするが、

平日の昼間にかけるわけだから、会社にもかけていたのかも知れない。

何を売るのかというと、行政書士の資格をとるための教材だった。

それこそ、相手が誰か分からずにかけているのだから、

ほとんどの人には、ただの迷惑電話だ。

中には忙しい方もいるだろう。

乱暴な言葉を吐き、電話を切る人もいる。

今朝、かけてきた無礼な営業マンは、

もしかしたら何度も電話を切られているので、

切られる前に切ったのかも知れない。

いきなり電話を切られて良い気のする人はいないもんな。

でも、そんなことすべきではない。

かけた側に、「迷惑だ」 と、どなられたり、

電話を切られたりする覚悟がなければ、やるもんじゃない。

さて、私はその電話営業の仕事が つらくてつらくて、

一週間で辞めた。

上司を見ても 同じように朝から電話をかけ続けているだけ。

しかも、部長は周りの声がうるさいので、

デスクの下にもぐって電話をかけていた。

そんな上司を見て、魅力的な職場に感じることが

できなかったのだ。

と 同時にあんまり世の中の役に立ってない感じもイヤだった。

なにしろ、仕事をすればするほど、

「迷惑だ」 「かけてくるな」 とたくさんの人に言われるのだから。

そんなこと、小心者の私には耐えられるはずがない。

ちなみに、大体の確率だが、100人に電話して、

資料を送るために住所氏名を聞きだせるのが、1人。

資料を送った先100人に、

「どうですか?」 と電話して、申込みに至るのが、1人。

成約の確率は、1万分の1だ。

残りの9999人のうち、全員ではないにしても ほとんどの人には、

迷惑電話だったような気がする。

そして、教材を買った10人のうち、実際に勉強して試験を受けるのが

5人で、そのうち1人ぐらいが合格・・・そんな感じだったように思う。

もう、会社名も覚えていないが、今でもやっているのだろうか・・・。





2011.5.28

コミュニケーションをとろう!

昨日は、20年前に1週間で会社を辞めた話を書いたが、

パン屋さんへアルバイトに来る人たちの中に

数日働いて、無断で来なくなる人が 時々いる。

店長に聞くところによると 最短 数時間で消えた人もいたそうだが、

そんなのは論外として、数日勤めてみて、

(自分には合わないな) と思ったら、

「すいません。思っていた仕事と違うので

辞めさせていただきます」 と言えば良いだろ?

それが1週間勤めて、連絡もなく来なくなる人がいるんだ。

もちろん、電話をかけても出ない。

来なくなるのは、大体、初めての休み明けが多い。

休み中にイヤになるんやろ。

私も月曜の朝、「辞めます」 電話をしたので それは分かる。

でもなんで、「辞めます」 ってひとこと 言えないんだろう?

まだ バイト料の振込先口座を聞いていないので、

その1週間分のバイト料を振り込むことも出来ない。

ちゃんとコミュニケーションを取ってやめれば、

働いた分はもらえるのに、その1週間分の

バイト料を捨ててまで、黙っていなくなるというのは、

どういうことだろう?

そして、どういうわけか、黙っていなくなるのは、

男性の方が多い。

とほほ。

しっかりしろよ、男たち!

ちなみに私は、1週間でやめても お給料もらいました。


黙って辞めるのは、男性の方が多いが、女性で私は、

こういう苦労をした。

バーテンダー時代、私は店長だった。

細かいことは忘れたが、まだ20歳ぐらいの

女性バーテンダー A子を何かのことで叱った。

その後、A子がいつまでもぐずぐず泣いているので、

「仕事をしないなら、帰れ」 と言った。

すると彼女は、中学生が授業中に友達に渡すように

手紙を書いて謝ってきた。

私が目の前にいるのに!


A子のあとに雇った B子 (やはり20歳ぐらい) は、

確か数日で 辞めたか 辞めてもらうことになったのだが、

この人も直接 (電話でも) 話すことが出来ず、

辞める際のやり取り (店の鍵を返してもらうこと等) を

なんと FAX で行った。

不思議な人たちだった。


きっと今では、手紙やFAXではなく、メールになってるんやろな。

考えてみたら、どんな状況であれ、人と直接話せない人に

接客業が務まるわけがない。

コミュニケーション能力 というものを 小学校で

身につくよう教育して 欲しいと切に願う。

って、私のコミュニケーション能力は棚に上げてるが。





2011.7.11

断捨離

「断捨離」 って、一般的な 言葉かと思っていたら、

"やましたひでこ" っていう人の登録商標だった。

知ってた?

Wikipedia によると、「断捨離」 とは、

 ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方を応用して、
 人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、
 モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を
 手に入れようという考え。
 単なる片づけとは一線を引くという。

 断=入ってくる要らない物を断つ
 捨=家にずっとある要らない物を捨てる
 離=物への執着から離れる


とある。


さて、かねてより物への執着を手放したいと思っている私だが、

これが 中々できない。

捨てるときには、結構 思い切って捨てたりもするが、

家の中の物は、いっこうに減らない。

妻に言わせると、ほとんどが私の物だそうだ。

妻に言わせなくても、ほとんどが私の物だが。

増え続ける物の中に、CD や DVD がある。

時々、BOOK OFF に持って行ったりするが、あまり減らない。

最近は、CD を買わず、アルバムごとダウンロードすることも

増えてきた。

また、レンタル CD も利用する。

そうすると、データだけ持っていて、CD は持っていないことになる。

それが OKなら、持っている CD を PC に取り込めば、

CD 自体は処分しても良さそうなのだが、

ここに 執着があるのだ。

好きな アーティストの CD や、好きな楽曲の入った CD、

思い出の CD などは、持っていたいのである。

別に CD を持っていようがいまいが、

普段、i−Pod で音楽を聴くのだから、関係ない。

でも、持っていたいのである。


昨日、少し CD を減らそうと、まだ データ化していない CD の

中から、BOOK OFF へ持って行っても良さそうなものを

数枚選び、PC へ取り込みながら、聴いていた。

すると、(えっ、こんな曲入ってたんや) とか、

(これ、ええやん、へぇ、ギター、マイケル・ランドウかぁ) とか

まるで、その CD を 初めてのように聴いている自分がいて、

とたんに、手放したくなくなるのである。

今まで、持っていたことも覚えてないような、

たぶん、買って1回 聴いたか聴いてへんかぐらいの CD に

とたんに執着が生まれ、(処分するのは今回でなくてもええか) と

いうことになってしまうのだった。

言い訳がましいが、CD を手放したくない理由のひとつに

ミュージシャンのクレジットがある。

(このドラム、ええなぁ、誰 叩いてるんやろ?) などと、

思ったときに、データ化し、CD を処分してしまった楽曲では、

ミュージシャンの確認のしようがない。

そんなこと大したことじゃないのだが、

これが結構、楽しみだったりするのね。

というわけで、私の断捨離の道は、険しいのである。

いつか、ダウンロードした音楽データに、演奏したミュージシャンや、

録音したスタジオのデータなども、含まれるようになれば良いな。

そうすれば、もう、CD なんか要らない。

ジャケットの写真も PC で見られるしね。

いっこも、断捨離ちゃうけど。





2011.7.12

断捨離 2

「断捨離」 について、ネットで いくつか読んでいたら、

こんな文章に出会った。


 その都度、自分にとって最適の量。
 その都度、自分にとって最高の質。
 その都度、自分にとって最良の関係。

 それが、モノへの感謝の念をも、育むのであります。



最適の量、最高の質、最良の関係、

これらは、人生全てに問えることだ。

自分に対し、いつも、この質問を持ち続けるだけで、

人生の質が変わりそうな、そんな言葉である。





2011.7.14

性格の不一致

某役者さんが、奥さんを相手に、離婚するために

裁判を起こしている。

ご本人は、その理由のひとつに 「性格の不一致」 を

挙げている。

「性格の不一致」。

つまり、「ウマが合わない」 「相性が悪い」 ということなのだろうが、

この表現はなんとかならないだろうかと、聞くたびに思う。

辞書によると 「一致」 とは、

 二つ以上のものがぴったり一つになること。
 くいちがいなく同じであること。
 合致。


とある。

つまり、「性格の不一致」 とは、「性格が違う」 と

いうことになる。

当たり前だ。

一致した方が、おかしい。

私と妻の性格は、「全く違う」 と言ってよい。

つまり、完全なる 「性格の不一致」 だ。

それでも、夫婦仲は良く、離婚はしないのは、

簡単に言うと 「ウマが合う」 ということなのだろう。

違う言い方をすれば、「価値観が同じ (近い) 」 だったりする。

たぶん、求めていることと、与えられることのバランスなんだろう。

家庭的な奥さんを求めている男に、社会に出てバリバリ活躍する女性は、

合わないだろうし、夫を支配したい女性に、自由に生きたい男は、

合わないだろう。

だから、「性格の不一致」 ではなく、「性格が合わない」 という

表現にするべきやと思うのだが どうか。

「性格の不適合」 とか、「性格の不調和」 とか。

または、「価値観・考え方の不一致」 かな。

どうやろ?





2011.8.20

分かりやすい文章を!

今回は、小学校の先生の書く文章への批判だ。

4月から始めた友人の息子 (小学5年生) のひとり塾は、

ほぼ毎週 続いていて、先日で16回目だった。

大体は算数をやっているのだが、ここ数回は、夏休みの宿題の

読書感想文や絵日記を一緒に書いたりしている。

私は、文章というものは、誰が読んでも同じ理解ができるように

書くべきだと思っている。

もちろん厳密には、読む人によって 解釈は異なるのだが、

普通に考えられるレベルでは、読み手が混乱しないように、

誰が読んでも同じ解釈をするように書くことを心掛けている。

そう思っている私が、小学5年生向けに書かれたプリントを読んで、

理解に苦しむことがある。

教科書ではなく、先生が作成したプリントだ。

教科書にも もしかしたら分かりにくい表現があるのかもしれないが、

さすがに教科書は、第三者のチェックを通っているので、

分かりにくい文章は、少ないだろう。

(教科書は あんまり読んでいないので分からない。)

が、先生が書いた問題文の中には、子供に質問されて、

「これって、こういうことやろな」 と推測しなければ

ならないものもあり、困ってしまう。

例えば、先日やった国語の読解問題で、

「それは、どんな建物ですか?」 という問題があった。

答を見ると、問題文の中にあるその建物の説明が正解なのだが、

子供は、「どんな建物ですか?」 と訊かれると

「古い建物」 と答えた。

「古い建物」 は、間違いではない。

問題文を読むと、古い建物だということが分かるからだ。

正解を見なければ、私は 「古い建物」 でも正解と思っただろう。

が、それでは テストだと正解にならないかもしれない。

もし、答にある正解を答えさせたいのなら、質問の仕方が

間違っていると思う。

例えば、

「その建物について説明されている部分を書き抜きなさい」 とあれば、

子供は問題文の中から、答えになる文章を探すだろう。

だが、「どんな建物?」 と訊かれれば、

「古い建物」 と答えても当然だ。

そして、テストで正解にならなくても、それは間違いではない。


次に、夏休みの宿題を書いたプリントを例に挙げよう。

 ・ 絵日記5日分
  → 1日分はエコ日記の内容で書く。残りは心に残る1日


全くもって分かりにくい。

「残りの4日は、心に残ったことを書きましょう」 とかなら

分かるが、文章が完結さえしていない。

子供は私にこう質問した。

「1日分はエコ日記、1日分は心に残る1日、

残りの3日は何書くの?」


次は、分かりにくい文章と言うわけではないが、不思議な文章。

 ・ 体力トレーニング
  →運動会の 「組体操」 に向けて体力増強をお願いします。


なんで、「お願いします」 なんだ?

「体力増強すること」 あるいは 「体力増強してください」 で

いいじゃないか。

それまで、例えば、国語のプリントのところには、

  雑な字、いいかげんなやり方の人は、全てやり直しです。

と、強気に書いていたのに、そこだけ なんで 「お願い」 に

なるのか、理解に苦しむ。

父兄宛に書いているのならまだしも、児童向けのプリントだ。


こんな風に反応する私は、もしも親ならモンスターと呼ばれてしまうのやろか。



分かりやすい文章を書くことは、何かを表現する者、

他人に何かを伝えたい者にとっては、大変重要だ。

次の例を考えてみてほしい。

  「5歳になる和子さんの息子」

とあったら、息子が5歳だと思うよね。

でも、

  「65歳になる和子さんの息子」

とあったら、65歳なのは和子さんか息子か分からない。

これは、分かりやすい (分かりにくい) 例で、

多くの場合、それまでの文脈で、どちらが65歳なのか

読者は、知っている。

でも、もし、文脈なしにどちらが65歳か分かるように

書くとしたら、どうだろう。

和子さんが65歳の場合

  「和子さん (65歳) の息子」
  「65歳になる和子さん、その息子」

息子が65歳の場合

  「和子さんの65歳になる息子」

という風に (明確にするための) 工夫が必要になってくる。

書き手はもちろんどちらが 65歳か分かって書いているので、

無意識に 「65歳になる和子さんの息子」 と書いてしまうことも

あるだろう。

だが、誰が読んでも 迷いなく読める文章を書かなければ、

書き手の意図と違う風に読まれてしまうことも起こりうる。

それは、望ましくないことだ。


小学生は、先生に向かって、

「この文章、分かりにくいですよ」 とは、言わないだろう。

また、先生はいちいち他の先生に

「この文でおかしくないですかね?」 なんて、

チェックを求めないだろう。

だからこそ なおさら、先生には明確な文章を書く能力が

必要だと思うのだ。





2011.8.24

島田紳助引退

紳助の引退は、大きなニュースになっている。

一部では、「逮捕」 という噂もあるようだが、

ただの噂であってほしいものだ。

私は、今は 特別 彼のファンというわけではないが、

紳助が 「芸能人の中で一番友達になりたい人」 だった時期がある。

今から、20年くらい前、彼が30代の頃だ。

ちょうど、彼が映画 『風、スローダウン』 を監督した頃だ。

この映画は、家で一人でビデオで観たのだが、

かなり、泣いた覚えがある。

今観たら 泣くかどうか分からないが、

あの頃には、ど真ん中の青春映画だったのだ。

(もしかしたら、あの映画を観て彼のこと、好きになったのかも知れない。

もし、すでに好きだったら、映画館に観に行ってるはずだから。)

映画も素晴らしかったし、

テレビを観ていても、本当に頭の良い、おもろい人だと思っていた。

でも、いつの間にか 「一番友達になりたい人」 では、

なくなっていた。

何かがあったわけではないので、なんで冷めてしまったのか、

自分でも覚えがない。

それは、さておき、引退の理由がイマイチ納得がいかないという

報道が多いが、ホンマのことは分からん方がええんちゃうか。

会見で言うたことが引退の理由でないのなら、

引退せなあかんほどの何かがあったんやろう。

そんなん本人も言いたないやろう。



紳助さん

あんまり いい辞め方とは思えへんけど、

今まで いっぱい、笑わせてもらいました。

長いこと お疲れ様でした。





2011.9.8

自分が悪人になる瞬間

昨日、家賃 (店舗) を滞納している借主に、

滞納家賃の催促と、今後も契約を続けたいなら、

新たな契約をする必要があるため、その条件を

提示しに行った。

会いに行く前、先月、8月23日付けで、

8月末で 滞納家賃と9月分家賃を支払わない場合、

契約を解除する旨、異議がある場合は、

当方へ連絡をする旨を内容証明郵便で送った。

(内容証明郵便を利用したのは、何度電話をかけても、

電話に出ない上、留守番電話にメッセージを残しても

コールバックもないため、この2ヶ月ほどは、

電話をかけることを やめたためでもある。)

しかし、8月末日まで 何の連絡もなかった。

もちろん 先方は、家賃を滞納していること、

その連絡をこちらにしていないことに、自覚があったはずだ。

そして、8月末に入金がなかったため、9月1日付けで、

契約解除と物件の明け渡し請求を内容証明郵便で 送った。

その後、先方から 電話がかかってき、昨日、会うことになったのだ。

私は、今年、家賃滞納者を相手取り、裁判をした経緯もあり、

被害を最小に抑えるべく、対処をしたのだが、

相手にとってみれば、それは ひどい、慈悲のない仕打ちで、

挙句の果てに ヤクザ呼ばわりされた。

彼女 (借主は50代女性) が、感情的になり、

私を非難しだした瞬間、

(ああ、この人にとって、私は悪人なのだ) と感じた。

彼女は、自分が家賃を滞納していること、そのことについて、

連絡をしなかったことへの謝罪もなく (謝って欲しいわけではないが)、

私を ひどい人 として、扱いだした。

私は、自分のビジネスをしているだけで、

自分のことを 非道だとは思わない。

ヤクザ呼ばわりされるような、言動もとっていない。

(そんなこと、私にできるはずがないだろ?)

自分の会社の権利、利益を守ることは当然のことだし、

そのために誰かを傷つけているわけでもない。


それにしても、

人間てスゴイな、と思った。

自分の正当化のためには、自分が契約不履行なのに、、

そのことは棚に上げ、相手を悪者にしてしまう。

客観的に見れば、全て自分が招いた結果なのに、

(自分は悪くなく) 相手がひどい人なのだ。

自分も人生のどこかで、そんな風に生きていないか、

ふと心配になった。





2011.9.14

勝負作

先日、ヒカル君の写真をアルバムにするのに、

写真を絞りきれず、当初1ページ1枚のつもりだったのに、

1ページに複数の写真を載せるページが出来てしまったことを

書いた。 (→ これ

結果的には、それでも良いページもあったのだが、

いずれにしろ、当初の予定通りには作れなかった。

その 「写真を絞りきれない」 ということが、

あることに似ていると 気付いた。

それは、私がミュージシャンになりたかった頃のデモ・テープだ。

デモ・テープは、1曲で勝負すべきなのだが、

「これを聴けば (私のこと) 分かります!」 という 勝負の1曲が

なかったために、「こんなんもあります」

「他には、こういうタイプの曲も、あります」 と、

ついつい、たくさんの曲を入れてしまうのだった。

1曲 聴いて、興味を持たれれば、

「他のも聴かせて」 と先方が言ってくるだろう。

それぐらいでなければ、通用しないだろう。

なぜなら、プロは 1曲で勝負している。

例えば、テレビの歌番組で 1曲だけ、しかも、CD より短めに歌い、

ファンを獲得しなければならないのだ。

有線でかかったその1曲で、

「これ、誰の曲?」 と興味を持ってもらわねば ならないのだ。

「これ、気に入らんのやったら、他の 聴いてください」 は、

ないのだ。


写真集の場合、1枚で勝負ということはないが、

コンクールやコンテストなら、やはり 1枚だ。

勝負の1枚を選ばねばならない。

と いっても、

コンクールやコンテストに応募する予定はないねんけどな。





2011.9.28

ちょっと早いんちゃうの?

今朝、マフラー巻いてる人(女性)見た。





2011.10.3

自分新聞

小学5年生の男子に算数 (時々国語) を週に一度

教えていることは、何度か書いた。

そして、先生がプリントに書いた文章への批判も ここ に書いた。

私は、自分が “過剰に反応しているのではないか”

“ちょっと理屈っぽ過ぎるんじゃないか” と

思いつつも、またまた ここに疑問を投げかけたい。


その子供は、たいてい 「自分新聞」 というものを持ってくる。

それは、今日の宿題、明日の予定や持ち物などを

書くプリントで、毎日配られているようだ。

忘れ物をしないよう、また、宿題が何か一目見て分かるためには、

良いアイディアだと思う。

そして、そこには先生が書いたテーマについて、

短い文章を書く欄がある。

今日、彼が持っていた 「自分新聞」 には、このように書かれていた。

  今日の特集 運動会

  去年と今年の運動会を比べると
  自分にとって何かちがいはありますか?
  自分の成長を感じることはありますか?
  また、運動会の練習や係活動でがんばっていること、
  学んだことなどもあれば書きましょう。



私は、あんまり勉強が好きではなかった。

特に小学生の頃は、作文や読書感想文など、

文章を書くことが苦手というより 嫌いだった。

出来ることなら、書きたくない。

そんな私が、今、小学生に戻って、この 「今日の特集」 に

何かを書くとしたら、こうなるだろう。

  去年と今年の運動会を比べると
  自分にとって何かちがいはありますか?

   ↓
  ありません。

  自分の成長を感じることはありますか?
   ↓
  ありません。

  また、運動会の練習や係活動でがんばっていること、
  学んだことなどもあれば書きましょう。

   ↓
  ありません。

これでは、先生の意図は満たされないだろうが、

質問には答えているし、指示には従っているだろ?

「ありますか?」 と訊かれたので、「ありません」。

「あれば書きましょう」 なので、「ありません」。

もちろん、教えている子供はそんなことは書かずに、

「初めて 組み体操をやります」 とか、去年との違いを

探して書いていた。

「ありません」 なんて書く子供は、

ひねくれた、かわいげのない子供だ。


ここで、ちょっと飛躍するかもしれないが、思いついたことがある。

仕事の現場で 質問に答えない人は多い。

こちらは、イエスかノーかを 聞きたいのに、

質問を受けた人は、こちらが 「聞きたいこと」 ではなく、

自分が 「しゃべりたいこと」 を話し出す。

相手によっては、その話を遮断して、

「イエスか ノーか、どっち?」 と 訊くこともできるが、

誰にでもそんな風に言えるわけでもない。

たいていは、その (聞く必要のない) 話が終わるのを待つか、

長くなりそうだったら、うまいこと 話に割り込んで

こちらが聞きたい回答を 相手が答えるように

もう一度質問を投げかける。

いずれにしろ、時間がかかる。


 去年と今年の運動会を比べると
 自分にとって何かちがいはありますか?


この文章を書いた先生の意図は、

「何かちがいがあるか、ないか」 を聞き出すことではないだろう。

子供たちに去年と比べて何が違っているかを観察させ、

その違いを文章に表現させることだろう。

つまり、先生は、質問と違うことを答えさせようとしているように

見えるのだ。

先ほど、「飛躍するかもしれないが」 と書いたのは、

私たちも子供時代に 先生とそのような やりとりを繰り返して

きたのだとしたら、その弊害が、大人になっても

現れているんじゃないか、と 思ったからだ。

小学生の時に、質問に (訊かれたことに) ストレートに

答える訓練をすれば、大人になって、仕事の会話は

もっとシンプルにスピーディになるんじゃないだろうか。

そういう、私も 妻に時々、

「質問に答えてないよ」 と言われてしまうのだが・・・。


話を戻そう。

先生の意図が、子供たちに去年と比べて何が違っているかを観察させ、

その違いを文章に表現させることだとしたら、質問の仕方が間違っている。

 去年と今年の運動会を比べると
 自分にとって何がちがうか書きましょう。(書きなさい)

こうあれば、子供らは、「何がちがうか」 を観察し、

考えるだろう。

しかし、私には、この先生の質問文は、「ありますか」 と

訊いておきながら、あるなしではなく、ちがいを書かせようと

しているように見える。

実際には、子供は 「ありますか?」 の質問には答えずに

「違い」 を書いていたので、先生の意図は

満たされているとも言えるが、そうすると、

「先生は、訊きたいことと違う質問をし、

子供は、訊かれたことと違うことを答えている」 という

なんや分からんことが繰り広げられていることになる。


「『何かちがいはありますか』 という質問は、

あるかないかを訊いてるんじゃなく、何かちがいを書けってことですよ。

それくらい、言わなくても分かるでしょ。」

という声も聞こえてきそうだ。

分かるよ。

けど、おかしいだろ?

確かに 「言わなくても分かる」 人もいる。

でも、「言わないと分からない」 人もいる。

そして、「言っても分からない」 人もいる。

これからの国際社会では、「言わなくても分かるでしょ」 は、

通用しない。

だから、なおさら、先生は明確な文章を子供に提供する必要が

あると思うのだが、これ、過剰反応かなぁ?


長々と書いたことは、私の考えすぎで、

先生は そんなこと訊いてなくて、文面どおり、

ただ 違いのあるなしだけを訊いてたりして・・・。





2011.11.27

悲しき父親

昨日 (土曜日) の昼間、地下鉄に乗った時のこと。

車内は、比較的すいていて、所々空席があった。

私が座った席の正面に 両親と娘だろうと思われる

3人組が座っていた。

娘は中学生か、もしかしたら高校生かも知れない。

私から見た左側に父親 (らしき人)、真ん中に娘、

右側に母親 (らしき人) が座っていた。

父親が、娘に何やら話しかけた。

その時、父親は娘に寄りかかるように、

顔を近づけた。

娘は、露骨に嫌な顔をして、身体を遠ざけた。

その様子を見ていた私に気付いたのか、父親は、

ちらりと私の方を見たが、娘に顔を近づけたまま

話し続けた。

私は、見てはいけないものを見たような気がして、

気付かぬ振りをして、下を向いていたが、

視界には入っているので様子はうかがえた。

父親の問いかけ (?) に娘は、父親を避けるように

身体を遠ざけたまま、ひと言ふた言答えると、

立ち上がって、空いていた母親の右隣に席を替えた。

父親と母親の間にポカンと空席ができた。

少しして、父親は ばつが悪そうに席を詰めた。

母親は、その娘の態度に全く無頓着に見えた。

私はイヤフォンで音楽を聴いていたので、

父親と娘が何を話したのか、分からない。

イヤフォンをしていなくても、

雑音で彼らの会話は聞こえなかったかもしれない。


次の駅に着いて 3人は降りていったが、

私は、なんともやりきれない気持ちになった。

あんな風に 娘に嫌われた父親って、

どんな心境だろう。


それとも問題は、父親の口臭や加齢臭かな。







ひとりごと  ひとりごと