2024年
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2024.1.8
本年もよろしくお願いします。
年が明けて、
あっという間に
1週間が過ぎた。
元旦に能登半島の地震、
2日には羽田空港の事故と、
今年は大変な年明けになった。
被害にあわれた方に
謹んでお見舞い申し上げます。
ここに書きたいことも
たまっているんだけど
なんだかやることが多くて
気持ちばかりバタバタしていて
書けないでいる。
退職したら、
あれこれゆっくり取り組もうと
思っていたことも
しばらくはお預けだな。
当分はこんな感じだろう。
そんな私ですが
今年もお付き合いください。
2024.3.4
退職して2ヶ月
昨年12月いっぱいで、18年半勤めた会社を退職した。
私は役員だったし、小さな会社なので定年はなく、
それなりの報酬を頂いていたので、まだまだ
勤めていても良かったのに、自ら辞することにした。
ちょうどコロナ禍に突入した頃から、
色々考えるようになり、今から2年ほど前に
退職を決めた。
当初は、5年ぐらいかけて徐々に
リタイアすることを想定していたのだけど、
一昨年夏、辞めることをボスに相談したら、
早い方が良いということになり、昨年末と期限を切った。
つい数年前までは、ボス(私より14歳年上)が
働いているうちは自分が辞めるなんて
思いもしなかったので、辞めようと思い出した頃は、
自分の心持ちの変化に驚いた。
まあ、一生の愛を誓った夫婦だって、数年で離婚する
わけだから、人間の心なんて無常なんだ。
辞めてからのこの2ヶ月間は、
やめる前に予想していた暮らしではなく、
なんだか時間に追われているような気がしている。
大したことは、していないんだけどね。
考えさせられることも次々と起こるし、
一日の過ぎるスピードの速さに
自分が付いていけなくなっている気さえする。
このまま あっという間に人生は終わるのかも知れない。
生活や普段付き合っている人が変われば、
人は変わるというのを、61年の人生で
何度か経験済みだけど、仕事を辞めてこの2ヶ月、
自分でも不思議なことがある。
今年に入って、この「ひとりごと」の更新が減ったと
お感じの方もいると思う。
1月も2月も5回しか更新していない。
こんなことは、2007年に「ひとりごと」を始めて
16年間で初めてのことだ。
以前は、書くことがなくてもなんとかネタを見つけては、
書いていた時期もあったし、もう16年以上も
続けていると習慣になってしまい、数日更新しないと
気持ち悪いほどだった。
なのに、退職した途端、なんだか書く気が失せたんだ。
年が明けてしばらくは、何かとやることが多くて、
自分でもそのせいにしていたんだけど、
どうもそうではなかったような気がする。
書くネタは結構あるのに、書く気にならなかったんだ。
下書きしただけで、そのままになっているエントリーもある。
今までなら、映画を観たり、落語やライヴに行ったり、
展覧会に行ったりすれば、必ずと言って良いぐらい、
ここにその感想などを書いて来たんだけど、
今年は書いていないのが、いくつもあるんだ。
1月には、桂文枝の傘寿記念落語会、
SOMPO美術館の「ゴッホと静物画」展、
東京都写真美術館の「即興ホンマタカシ」展、
「見るまえに跳べ」展、そして、ピアノ四重奏、
五重奏のクラシック・コンサートなど、いつもなら
必ずここにアップしていたことさえ、書こうとしなかったんだ。
そのほか、1月には妻の2冊の著書
『超解釈 キルケゴールの教え』が発売された。
12月に一度、その本の発売に合わせた、
クラウドファンディングについて触れたことはあったけど、
本については、書こう書こうと思いながら書いていなかった。
16年も習慣のようにしていたことが、こんなにも簡単に
途切れてしまいそうになっていることも、
驚きであると同時に自分についての新発見でもあった。
まさに諸行無常、生々流転なのだな。
そして この数日、ようやく以前のように、
「書きたい」「書こう」と思えるようになって来たんだ。
何かがあっての心境の変化ではなく、なんだか自然に。
勝手な解釈だけど、2ヶ月が過ぎ、ようやく
退職した(以前ではない)自分になって来たような気がしている。
そういう訳で、これからは、ぼちぼち以前のように
アップしていこうと考えている。
書きたいことも溜まっているしね。
2024.3.5
全国ツアー中
もう十年以上、年明けというか1月から
3月あたりにかけて、毎年開催されてきた
「新年創作の会」というイベント(講演会)がある。
この1年をどんな風に生きるか 創作しようと、
妻達が始めた会で、講師は妻だ。
十数年続いていたのだけれど、
今年を最後にすると決まり、
全国各地(合計17回)で開催される運びとなった。
で、私も妻に付いてあちこち飛び回っている。
東京(数回)はもちろん、名古屋、岐阜、博多、
長野、大阪、高松とまるでメジャーアーティストの
全国ツアーのようなのだ。
その合間に、大阪の実家に行ったり、
妻の両親(山形)に会いに行ったりもするので、
この1月2月、2ヶ月間の外泊回数は 18回に上る。
なんと4分の1以上、家で寝ていないことになる。
その「新年創作の会」も、すでに16回がおわり、
残すところあと1回になった。
3月10日が千秋楽なのだが、仙台で開催される。
このツアー、妻は当然仕事なのだが、
私は講演会の合間に、観光したり、
写真を撮ったり、高松では美術館に行ったりと
楽しませて頂いている。
何より、地方に行く楽しみは「食」だね。
博多では、モツ鍋を3日連続で食べたよ。
これが美味かった。
高松では、もちろんうどん。
これも2日連続で食べた。
初めて香川県に行ったんだけど、
うどん、やっぱり美味いんだな。
さて、仙台では何を食べるかな。
手打ちうどん植田(高松)の
肉温玉ぶっかけにいか天とちくわ天
2024.4.13
輪島とお父さんと金沢駅と車椅子
もう3か月以上経ってしまったけど、
書いておきたいことがある。
今年元日の16時10分、能登半島を
大きな地震が襲った。
能登半島地震と呼ばれるこの地震は、
輪島市や志賀町に震度7の地震をもたらし、
大きな被害を出した。
2月29日時点の総務省消防庁の発表では、
死者244人、負傷者1,299人で、
全半壊の住宅は、約2万戸に上る。
友人Y子の実家が輪島市にあり、
一昨年は所用があってY子夫妻と
輪島を訪れ、美味しい魚をご馳走になった。
2005年にも妻とふたりで金沢へ旅行し、
レンタカーで輪島まで走ったこともある。
Y子のお父さん(91歳)が輪島の老人ホームに
入所していて、被災した。
地震後、電話は通じなくなり、安否は分からず、
無事が確認できたのは、地震から6日目の
1月7日だった。
たまたまその日にY子家族と会食があり、
その場でお父さんの無事を聞いた。
老人ホームからの電話は、無事の報告と共に
「迎えに来て欲しい」という依頼だったという。
老人ホームには、電気も水道も来ておらず、
高齢者がこれ以上 長くいるには、
難しい状況だったんだと思う。
しかし、被災地の状況をテレビのニュースで観ると、
輪島まで行けるのかどうか分からない。
救助の邪魔になるかも知れず、
東京から行って良いのかどうかも分からない。
Y子は、翌8日から輪島へお父さんを迎えに
行くという。
たまたま、金沢へ避難していたY子のいとこが
車で輪島に戻るので、金沢から車に乗せて
もらえることになったんだ。
Y子のご主人や息子たちは、翌日からの
輪島行きはスケジュールが難しく、年末で
仕事を辞めたので時間のある私が同行することになった。
1月8日の夕方、北陸新幹線に乗り、
金沢へ向かった。
金沢は、「えっ?被災したの?」と思うほど、
全く地震の影響を感じない日常のままで、
飲食店なども平常通り営業しているように見えた。
金沢駅前のホテルに宿を取り、翌朝8時40分、
Y子のいとこの車に乗り、輪島へ向かって出発した。
その日の金沢は、快晴だった。
能登半島を北へ向かう道路は、自衛隊や消防署、
救援物資を運ぶ車などで混雑していた。
七尾市あたりは、ひどい被害はないように見えたが、
北へ進むほどに傾いた家などが見られるようになった。
穴水町のコンビニは、営業をしていたけど、
断水の為、トイレは使えなかった。
輪島市に入ると、被害の大きさが見えだした。
全壊している住宅がいくつもあったし、ニュースで見た
横倒しになった鉄筋コンクリートの7階建のビルの前も通った。
被災地では、なにしろトイレが大問題。
途中、金沢で頼まれた荷物をY子の知合いの
家に届け、そこでトイレを借りた。
その家は、まだ新しい家で、地震の被害は
なかったようだが、やはり停電と断水は免れない。
トイレは、用を足すたびにペットボトルやバケツに
入れた水を流すのだが、この水が大変貴重だ。
私は、大きい方を催していたので、
ちょっと多めに水を使うことになり、
大変申し訳ない思いで一杯だった。
(ちなみにこのトイレを借りた家のご主人は、
輪島塗の関係の人で、その後、テレビの
報道番組で2回観たよ。)
結局、目的地の老人ホームに着いたのは、
15時を過ぎていた。
金沢から、7時間ほどかかったんだ。
(普段なら2時間ぐらいで着く。)
老人ホームは、建物には大きな損傷は見えなかったけど、
停電のため建物の中は暗く、屋根の雪解けの水が
破損した樋から流れ落ちていた。
ちょうど自衛隊のトラックが玄関に停まっていて、
なにか物資を降ろしている所だった。
Y子は、年末にお父さんと会ったらしいのだが、
その時は、普通に歩いていたという。
地震から1週間でお父さんは、見るからに弱っており、
自力で歩く事も困難な状態だった。
Y子が言うには、最初見たとき
お父さんだと分からなかったほどの変わりようだったらしい。
帰りは、Y子のいとこの娘さんの車を借り、
金沢まで戻ることになった。
お父さんを乗せて、金沢へ向かった。
最終の新幹線に間に合えば、その日中に
東京へ戻るプランだったが、とても間に合いそうにない。
金沢のホテルは、観光客のキャンセルが
出ていたんだろう。
当日でも、空き部屋があった。
輪島から金沢への帰り道の混み具合は、
行きほどではなかった。
しかし、暗くなってから、気が付くと前にも後ろにも
車がいなくなり、それでも走り続けると、
通行止めになっていたりして、
結局、4時間以上かかって金沢に着いた。
途中、余震が来て車を停めたり、緊張の運転だった。
往復とも、落石の為、片側通行になっていたり、
道路がひどくひび割れしていたり、隆起していたりで
徐行せざるを得ない箇所もいくつもあった。
お父さんは、疲れているのか、
ほとんどぐったりしたままで、心配な状態だった。
お父さんを金沢の駅前のホテルに降ろし、
車を返しに行って、ホテルに戻り一息ついたのは、
22時ごろだったような気がする。
翌日(10日)、9時49分金沢発東京行きの
新幹線に乗ることにした。
お父さんは、歩ける状態ではなったので、
駅まで車椅子が必要だった。
ホテルの中では車椅子が使えたので、
朝、フロントに行って「金沢駅まで車椅子を
貸し出して欲しい」と、申し出た。、
そのホテルから、金沢駅までは
ほんの100メートルほどの距離だ。
しかし、フロントのスタッフは、
「車椅子の貸し出しは館内のみです」と言った。
私は、事情を説明した。
前日、輪島の老人ホームから、友人の父親を
避難させてきたこと。
輪島には、いられないので今から東京まで
連れて行くこと。
歩けないので、車椅子がないと駅までもいけないこと。
すると、ホテルのスタッフは、責任者らしき人に
相談してくれ、快く貸出してくれることになった。
次は、金沢駅でホームまで車椅子を
借りるために駅に向かった。
駅の窓口で、気が付いた。
駅の車椅子を借りてホテルに戻れば、
ホテルに車椅子を返しに行かなくても済む。
ホテルの車椅子を借りると、お父さんを駅の
車椅子に乗せ換えたあと、ホテルに車椅子を
返しに行かなければならないのだ。
あんまり時間に余裕がないので、
駅員に掛け合ってみることにした。
「すぐそこの○○ホテルなんですけど、
そこまで車椅子をお借りできませんか?」
ホテルのフロントと同じく、
「車椅子の貸し出しは館内のみです」という回答だった。
私は、事情を説明した。
窓口の駅員は、後ろに立っている上司らしき駅員に
その事情を伝えてくれた。
が、その上司らしき駅員の答えは「ノー」だった。
私は、少し頭にきたが、冷静にもう一度
事情を説明し、車椅子を貸して欲しいと頼んだ。
ほんの100メートルのことなのだ。
窓口の駅員は、もう一度、後ろに立っている
(もう私には意地悪にしか見えない)上司に
訊いてくれたのだが、やはり「ノー」だった。
おいおい、ここは石川県だろ。
この度の地震と関係ない土地ならともかく、
石川県の県庁所在地、玄関口だろ。
それなのに、被災者をそんな扱いをするのか。
お前は、何県人だ?
JR はそんなサービスなのか?
と、声を荒げたくなったが、そんなことを
している時間はない。
結局、ホテルの車椅子で駅までお父さんを
連れて行き、ホテルに返却しに戻り、
新幹線に間に合って乗ることができた。
金沢駅では改札口からホームまでは、
駅員が手伝ってくれたし、
東京駅にもちゃんと連絡をしてくれて、
東京駅では、ホームで車椅子が待機していてくれた。
そこは、しっかりと連携があって素晴らしいと思った。
でも、その介添えの駅員も、金沢駅より東京駅の方が、
親切に感じたのは、あの車椅子貸出の一件が
あったからだろうかね。
そんなこんなで、Y子のお父さんを
東京へ連れてくることができたんだ。
大分、具合が悪かったようで、
お父さんは、そのまま数日間入院し、
その後、東京の施設に入ることができた。
あのまま、何日も輪島の電気も水道もない、
おそらく暖房も食事も十分ではなかったであろう
施設にいたら、どうなっていたか分からない。
それにしても金沢駅の対応は残念だった。
あまりにもマニュアル通りにしか対応できなくて、
血が通っていなくて、残念だ。
確かにマニュアルも大事だろう。
しかし、状況が状況なのが分からないのだろうか。
しかも、金沢駅は石川県ですぜ。
何度も言うようだけど。
なんだかひとこと言わずには気が済まなくて、
JR西日本に投書をした。
ウェブサイトに意見を送る窓口があったんだ。
一通りの事情と 残念な駅員の対応、そして、
私の失望と怒りを書いて、こう付け加えた。
「マニュアルは大事でしょうが、あまりにも
融通が利かな過ぎるのではないでしょうか?
友人は、前日の輪島往復で疲れ、
故郷である輪島の被災現場を実際に目にして
ショックを受け、そして、自力で立つことも出来ない
父親を前に動揺と不安を覚えている状態です。
この事態において、あまりにも思いやりや配慮が
ないのではないでしょうか?
ぜひとも非常時のマニュアルの運用についての改善を求めます。
そして、時にはマニュアルよりも優先すべき事があるという
人間らしい職員に教育して頂きたいと思います。
この投書は、金沢駅の駅長にも送って下さい」
「人間らしい職員に教育して頂きたい」なんて
ずい分上からだけど、そこは容赦願いたい。
投書は、1200〜1300文字ぐらい書いたんだけど、
送れるのが、1000文字以内というので、
大分削らなきゃいけなかったんで、こんな文章に
なったと言い訳しておこう。
で、1週間ほどして JR から回答があった。
「このたびは金沢駅係員の対応により、
ご不快な思いをおかけいたしまして、
誠に申し訳ございません」というお詫び。
そして、「このたびのご指摘を重く受け止め、
関係係員には点呼の場などで周知させていただきます。
今後このようなことのないよう、
応対改善に努めてまいりますので、
何卒ご容赦賜りますようお願い申し上げます」
という今後の対策ね。
これ、お約束通りの文面やけど、
私は、言いたいことを送ったから、
それだけで良かった。
なのに、余計なこと書いてきたの。
「車いすの貸し出しにつきましては、
基本的には駅構内(改札からホームまで)と
させていただいております。
しかしながら、このたびは身近なホテルであったこと、
また数10分後の列車にご乗車される点を鑑みて、
ホテルまでの貸し出しを行うべきでございました」
と。
ちゃうやん。
ホテルが近いとか、数10分後の列車に乗るとか、
そこちゃうやん。
確かに駅近のホテルやったけど、そこがポイントちゃうやん。
それ書かん方が良かったのになぁ。
ほんで「車いすの貸し出しにつきましては、
基本的には駅構内(改札からホームまで)」て
書いてあるけど、たぶんどこの駅でも(金沢駅でも)
タクシー乗り場まで、使わせてくれるよね。
改札から、タクシー乗り場まで「歩いて行け」とは
言わんやろ?
だから「基本的には」と書いているんやろうけど、
あの場合も現場の判断で対応できたんちゃうかと思うのですよ。
ということで、この回答にも苦言を送りました。
「ご返信いただきありがとうございました。
ご回答を読ませて頂きましたが、
私の書き方が悪かったようで、
投書させて頂いた意図が伝わっていないようでした。
(中略)
私が言いたかったことは、被災地石川県の駅でありながら、
被災者の心に寄り添わないその非情な態度への苦言でした。
再度、乗客、特に被災者など通常ではない乗客への
『思いやり』について考えて頂きたいと思いました。
よろしくお願いいたします」
言葉が「非情な態度」とかキツなってるやん。
こうなると、相手にすれば、もうめんどくさいクレーマーかしら。
この2通目には、もう回答がないよ。
言いたいこというたから、なくて ええねんけど。
ちょっとは有事の際の対応について、
考えるきっかけになってくれたらええねんけど、
どうやろなあ。
ところで、輪島から戻って数日は、
自分で分かるほど、心が不安定だった。
輪島では、老人ホームでお父さんを乗せて
とんぼ返りだったので、時間も心も余裕がなく
Y子の実家の様子も見なかったし、
朝市の火災の跡も見ていない。
行き返りの車の中から見た被災の様子は、
目の前にある現実なのにリアリティがないという感じもした。
あれは、おそらく心が感じないように
衝撃をブロックしていたのかも知れない。
輪島から戻った翌日のこと、恵比寿のカフェで
コーヒーを飲んでいたら、その前日、前々日の
体験と 東京の日常のあまりのギャップを
心が処理しきれていないような感じで、
道行く人々の平和な光景にわけもなく
涙が出てきて、自分でも驚いた。
「ああ、あんまり分かってないけど、
深い所で、かなり衝撃を受けてるんや」と思った。
もし、朝市の焼け跡とか見てたら
もっと酷かったかもしれない。
自衛隊、消防、警察、医療関係など、
救助や支援の方々には本当に頭が下がる。
きっと、私の体験などとは比べ物にならないほど
衝撃的な光景をたくさん目にしていると思う。
そして、被災地からどこかへ避難した人も、
被災地に残る決断をした人も、
みんな心の傷を負っていることでしょう。
どんな言葉をかければ良いのかも分からない。
癒しは時間しかないのかも知れない。
それでも生きるしかない。
そして、東京にもいつ大地震が来るのか分からない。
自然の前に人間は無力だけど、
「思いやり」という力は持っていたい。
2024.6.2
2 5 年
今日は、結婚記念日。
銀婚式だ。
もう25年も経ったの?
そう思わずにはいられない。
これからの25年は長いように思うのだけど。
過ぎ去った25年は、あっという間だ。
歳と共に時間が過ぎるスピードが増している。
これから残りの人生は、瞬く間なんだろうな。
銀婚式には、「25年という年月を経ることで、
いぶし銀のような美しさを醸し出す夫婦」という
意味があるらしい。
醸し出しているやろか?
いぶし銀のような美しさ。
今日は結婚記念日であると同時に、
妻の誕生日で、彼女は60歳になった。
忘れないように、妻の誕生日に入籍したんだ。
まだ妻と個人的に知り合う前、
初めて彼女を見かけたときのことを
覚えているが、私が30歳になるかならないかの
頃で、彼女は 27歳か28歳だっただろう。
その時は、お互い大勢の中の一人で、
言葉も交わしていない。
あの時は、まさか結婚するなんて、
微塵も想像できなかっただろう。
人生は、不思議いっぱいだな。
25年だからと、特にどうということはないのだけど、
妻の明るい性格のおかげで、
結婚以来変わらず、楽しくやれている。
知的な話から、バカ話まで、何でも話せて、
そしてふたりとも健康で、楽しい日々は何よりだと思う。
世の中には不仲な夫婦もいることを思うと
私はラッキーだと思う。
たまに腹も立つし、ケンカもするけど。
あと何年続くか(生きるか)分からないけど、
このまま終わりまで続けばよいと思う。
でも、どちらかが先に逝く日が来るんだな。
まだ、想像できないし、したくないけど。
*** *** *** ***
この「ひとりごと」は、スタートして17年が経った。
始めたときは、何年やろうと思わないで始めたけど、
まさか17年も続けられるとは思わなかった。
18年目に突入だ!
2024.7.14
フルマラソン完走への道 その1
60歳から70歳まで、毎年何かやったことのないことを
やろうと決めた。
60歳の年(2022年)には、初めての写真展を開催。
61歳の年(2023年)には、100キロ・ウォークを完歩。
さて、62歳の今年は……と思っているうちに、
もう7月も半ばになってしまった。
実は、昨年10月、100キロウォークを終えた時点で、
次の目標が、ふっと閃いた。
10月27日「100km ウォーク 完歩への道 その24」には、
「さて、62歳は何をやろうかね。
って、すでに考えていることはあるんだけど、
本気でコミットしたら発表するよ」と書いた。
なのに、先日まで8か月間も決められずにいた。
タイトルに書いたように、それは「フルマラソン」だ。
100キロウォーク以上に自信がなく、
諸々の考慮もあり、決断をためらってきた。
一時は、やはりやめようとも思った。
しかし、これは避けて通れない、
これ以上先延ばしにしてはダメだと思い、
最初のインスピレーションに従うことにした。
100キロ・ウォークのときもそうだった。
あのときも、ふっと思いついて、やるしかないと
腹をくくったんだ。
さて、今年のお題。
「フルマラソン」。
一時期、妻がマラソンにハマり、ハーフ・マラソンに
出場したことがあるが、そのときでも私は
全く走りたいと思わなかった。
私のことを子供の頃から知っている人なら、
誰もが「お前に一番遠いやつやん!」と言いそうな、
長距離走「フルマラソン」。
100キロ完歩したおかげで、42・195キロは、
歩くのであれば、なんてことはない。
しかし、今度は歩くのではなく、走るのだ。
いくつかの大会の概要を見たが、
ほとんどが制限時間が6時間なんだな。
う〜む、6時間……
時速7キロで休みなしの6時間。
想像でけへんね。
100キロウォークは、何度も休憩をして歩ききった。
42・195キロを歩くのなら、休みなしで
8時間以内にゴールする自信はある。
でも、走るとなると、歩くより数倍しんどいような気がする。
もちろん、最悪、途中で少しぐらい歩いても構わないけど、
制限時間内にゴールしなければならない。
制限時間が8時間なんて大会は、日本ではなさそうだ。
ホノルルマラソンは、制限時間がないので、
円高ならそれもありだったんだけどな。
とはいえ、歩いてゴールしたのでは、
マラソン大会に出る意味がない。
元来、子供の頃から走るのが苦手だ。
いや、苦手というより、嫌いだ。
幼稚園の時、近所の年上の子(小学2〜3年生)が
取り仕切って、かけっこをさせられた。
近所をぐるっと走って競争しろというのだ。
私は参加したくなかったけど、逆らうこともできず、
仕方なく嫌々スタートした。
そして、そのコースの途中に自分の家の前を通ったので
そのまま家の中に入った覚えがある。
レースを棄権したんだ。
それぐらい、走るのが嫌いだった。
走るのも、ビリになるのもイヤだった。
幼稚園の時のことなのに結構、ハッキリ覚えているよ。
その年上の子が誰だったかも。
小中学校では運動会の徒競走は、
ビリか、ビリから2番目にしかなったことがない。
中学3年間で毎年一番イヤな日は、体力測定。
1,500メートルの持久走が、イヤでイヤで仕方がなかった。
高校の時は、確か全員が走るような徒競走はなかった。
高校3年生の時、どういう経緯か忘れたけれど、
私はクラスのリレー選手として、体育祭で走った。
あの体育祭の前の1ヶ月間ぐらいは、
毎日夜、練習で家の近所を走ったものだ。
好きだった女の子に良く思われたくて。
そのモチベーションって凄いよね。
おかげで、200メートル位かな、
ひとりも抜かれることなく、走り切った。
人を抜くことは、出来ないだろうから、
せめて順位を落とさないようにと頑張ったんだ。
何位だったか忘れたけど。
そんな話は、どうでもええ。
フルマラソンだ。
制限時間は、多くが6時間なのだけど、
なるべく長いのを探したら、
11月24日に与論島であるマラソンは、7時間だった。
でも、どうも与論島は、往復の移動が
負担になるような気がして、なんだか心細い。
それで、6時間45分以内という
富山マラソン(11月3日)にエントリーすることにした。
もう決めた。
前日、当日のホテルも予約したよ。
あと、111日。
これから、準備と練習を始めるんだけど、
さて、どうなることか。
2024.7.15
フルマラソン完走への道 その2
昨日書いた通り、11月にフルマラソンに挑戦する。
初心者がフルマラソンにいきなり挑戦するのだから、
色々と準備も大変だ。
100キロウォークのときも色々あったからな。
インターネットで調べてみると、
無料でトレーニングの方法を知ることができる。
ホンマ、便利な時代になったもんやと思うが、
だからと言って完走できるかどうかと関係ない。
話がそれるが、ギターの練習方法も、
私が16歳の時のことを思うと信じられないほどの
情報が無料で手に入る。
が、それを見たからといって
ギターを弾けるようになるわけではない。
つまり、「便利」はただ「便利」なだけで、
何かの達成や幸福に直接は関係ないんだな。
その情報を自分がどう使うかで、
達成や幸福に関わってくるわけだ。
当たり前のことやけど。
話を戻そう。
ランニングのトレーニングについて、素人なりに自分で
考えていたメニューがあったのだけど、それはやめた。
あるサイトで 良い方法を見つけたんだ。
それは「ウォーキング+ランニング+ウォーキング」。
例えば30分間なら、10分ウォーキング、10分ランニング、
10分ウォーキング、というメニューだ。
このランニングの時間を10分から、20分に、30分にと
徐々に伸ばしていく。
いきなり10分から20分にするのではなく、
徐々に増やしていけばいいんだ。
最初の目標は「30分間のランニング」と書いてあった。
30分間のランニングができるようになったら、
次の目標は60分間のランニングという風に
少しずつ時間(距離)を伸ばしていくという方法だ。
幸い歩くことには慣れているので、
ウォーキングの間にランニングを取り入れればよい。
早速始めてみた。
普段ウォーキングで、1時間2時間歩くのに
慣れているので30分ではもの足りない。
1時間ぐらいで始めようと思い、5・3キロのコースを考えた。
まず10分歩いてから、10分走ってみた。
しんどい。
思ったよりしんどい。
ほんで、めっちゃ遅い。
そらそうやな、この数十年、ほとんど走ったことない。
何かで急いでいて走ったとしても、1分か2分やろ。
10分走ったのなんか、何十年ぶりや。
帰宅してから、10分間で走った距離を見てみたら、
1,088メートル。
時速にして 6・5キロ。
遅い。
早歩きと変われへん。
でも、この速度で、42・195キロ止まらず、休憩せず
走ったら、6時間半でゴールできる。
今日は、10分で限界やったけど。
なんとか10分堪えて走った後、10分歩いたら、
また走れるような気になったので、
5分走ろうと走り始めたけど、3分でめげた。
それから、7分歩いて、もう一度3分走ろうと思ったら、
2分でめげた。
体力ないわ。
びっくりするほどない。
でも、まあこれがスタートやな。
無理は禁物。
数回は、ウォーキング中に10分間ランニングをやってみて、
それから、少しずつ 時間を伸ばしていこうと思う。
7/15 ウォーキング+ランニング 練習記録
距離 5・3キロ
時間 53分
時速 6・0キロ
ランニング最長時間 10分
2024.8.8
フルマラソン完走への道 その3
11月3日の富山フルマラソンにエントリーをし、
練習をし始めたのが、7月15日。
あの日は、10分走るのが精一杯だった。
少しずつ時間を延ばし、
4回目の練習で30分走った。
10回目で40分。
13回目で60分連続で走れるようになった。
ただし、めちゃくちゃ遅い。
時速6キロを切っている日もある。
それでも、まずは持久力を付けるために
スピードよりも長時間走れる身体作りだと思っている。
毎回、調子よく走れるわけではなく、
5分や10分でめげてしまう日もある。
自分の根性のなさには参ってしまうが、
性格なのかな、そんな時でも自分をダメだと思わず
走れない日もあるよね、無理せんでいい、と
気軽に捉えている。
ランニングというより、ジョギング。
いわゆるスロージョグというスタイルで
走っているが、大体の日は、走り出してから
10分ぐらいまでがしんどい。
20分、30分を超えると意外に楽になるから不思議だ。
調子が良いと、これならいつまででも走れそうと、
勘違いする時もあるほどだ。
だが、弱い自分が顔を出してきた時がつらい。
例えば60分走ろうと思って、45分ぐらいで
もうイヤになった日があった。
「やめたい」と思う。
マラソン出場をやめようとかではなく、
「今、走るのやめたい」なんだ。
凄く弱い。
その弱さに対して、「走れよ、60分!」と
叱咤激励する自分もいない。
ただ弱い自分だけしかいないんだ。
その日は、なんとか60分走り切ったけど、
こんな性根では、42・195キロ完走は、
難しいんちゃうかと不安になる。
しかし、10分しか走れなかった自分が
3週間で60分走れるようになった。
その小さな成功体験の積み重ねで、
100キロウォークも完歩したので、
今回もやるしかないと思っている。
反省は、もう少し早くから準備を始めるべきだったな。
本番まで、もう3カ月を切ってしまった。
あと86日。
2024.8.14
池尻大橋
東京に移り住んだのは、1995年のことだった。
年の瀬の押し迫った12月24日に 荷物を
積んだトラックに乗せてもらって東京に着いた。
もうすぐ29年になる。
光陰矢の如し。
東京で初めに住んだのは、
世田谷区池尻3丁目。
東急田園都市線の池尻駅と三軒茶屋駅の
ちょうど真ん中ぐらい。
「三宿(みしゅく)」という交差点の
すぐ近くのマンションだった。
大阪(東大阪市)で6万円ぐらいの
家賃のマンションに住んでいたが、
ほとんど同じ広さで8万5千円だったと思う。
さすがに東京は賃料が高いと感じた。
三宿の交差点にあるビルの中のお店で
働くことになっていたので、すぐ近くの部屋を借りたんだ。
そのマンションに2年半ほど住んで、
三軒茶屋のマンションに引越した。
籍を入れるのはその一年後だけど妻と暮らし始めたんだ。
先日、何年振りか分からないが、久しぶりに
池尻大橋で下車して、三宿まで歩いた。
あの頃のままのお店もあれば、新しく(といっても
いつか分からないけど)出来ていた店もあった。
ティム・ドナヒューさんのギターセミナーに
行ったのだけど、会場が国立音楽院だった。
国立音楽院かどうかまで自信はなかったけど、
池尻にはなんとか音楽院があったような記憶があった。
調べてみると国立音楽院は、私が住んでいた頃には
レコード会社のフォーライフがあった所だ。
調べてみるとフォーライフレコードは、
2000年代前半に解散・清算していたんだね。
その本社ビルを国立音楽院が購入したようだ。
スタジオやホールのあるビルだから、
音楽学校にはもってこいだっただろう。
もし私の記憶にあった池尻の音楽院だとしたら、
移転したんだと思う。
写真は、私が初めて住んだ三宿の交差点近くのマンション。
ここの3階に住んだ。
今はどうか分からないけど、当時は「三宿」というと
所謂 業界人が多く、ちょっとオシャレなイメージだった。
1995年当時、三宿の交差点には、吉野家があった。
私が越して来てから、その斜向かいに松屋がオープンした。
勝手に三宿牛丼戦争なんて呼んでいたけど、
吉野家はすでに撤退したようでなくなっていたよ。
あれから、30年近い年月が過ぎているからね。
私が勤めていた BAR は、その松屋のビルの5階にあった。
三宿には、業界人が多かったと書いたけど、
実際、お客さんには、出版社、放送局、音楽業界、
ミュージシャンや役者さんなど有名な方も多かった。
あんな駅から遠い住宅街にある BAR なのに
平日の真夜中2時ごろに満席になることも
珍しくなく、大阪と東京の違いをまざまざと感じた覚えがある。
しかし、私が退職(解雇!)した数年後には、
その BAR もクローズした。
街は生き物だ。
何も変わっていないかのようで、随分と変化しているのである。
アニッチャ(無常)。
2024.8.15
フルマラソン完走への道 その4
11月の富山マラソンにエントリーし、
7月15日から練習を始めて1ヵ月がたった。
2日連続で走ったら、1日休むようにしていて
なるべく2日以上開けないようにしているのだけど、
中々そうも行かない時もある。
今週は、月曜日火曜日と2日続けて走らなかった。
昨日(水曜日)も夜、飲み会の予定があったので、
朝のうちに走ろうと思っていたが、起きたのが遅く、
11時過ぎて走ることになった。
気温はすでに 30度を超えていただろう。
60分走るのは無理だろうと、30分だけと思ったけど、
10分でめげてしまった。
10分走ったあと、数分歩いて、もう一度と思い
走ったが5分でギブアップした。
そんな気温のときに走るのは、アホである。
が、やらないと気が済まないんだ。
甲子園では、球児が野球をしているではないか、
とも思うが、高校生と一緒にしてはいかんな。
こちらは、運動経験のない 62歳である。
今日は 暗くなったころから走り始めた。
スタートはええ感じだったのだが、少し走って
右のすねが痛くなった。
ふくらはぎではなく、すねの前の部分だ。
何日か前にもそういうことがあって、その日は
10分ほど走って、練習をやめた。
今日は、8分で断念。
走り方が悪いのか、なぜにすねが痛い。
しかし、それでやめるのはイヤだったので、
4分歩いて、再び走り出したが、
やはりダメで、今度は4分で断念。
「今日もあかんか、こんなんでは完走なんか
無理やん」と思いながら、4分ほど歩き、
再度走り出したら、不思議なことに
今度は、すねの痛みがなく、15分ほどで
ええ感じにゾーンに入った。(ホンマか)
そのまま、約72分走り続けた。
今までの最長連続ジョグタイムを更新した。
スピードは相変わらず遅くて、時速6キロほどのまま。
この速さでは、42・195キロを走るのに
制限時間いっぱい7時間かかってしまうが、
すねの痛みがなくなって、記録が更新できただけでも
今日の成果としよう。
当面の目標は、2時間連続ジョグだ。
「ランニング」ではなく「ジョギング」なんだな。
このたび走り出すまで、「ランニング」と
「ジョギング」の違いさえ知らなかった。
一般的に「ランニング」は、競技や大会などの
トレーニングのことを指し、「ジョギング」は、
走るスピードも遅く、準備運動や健康増進の
ための運動を指すらしい。
その「ジョギング」の中でも、人と話しながら
ぐらいの息の上がらないスピードで走ることを
「スロージョグ(スロージョギング)」という。
今のところ、私がやっているのは「スロージョグ」だね。
ランニングより、基礎体力アップや脂肪燃焼効果がある。
確かに走り出して、ゆるやかに体重が落ち始めている。
身体に負荷がないレベルの運動なので、
健康に良いのは、なんとなくだが実感している。
何より、走った後、気持ち良い。
公園で一休みしているところに風が当たると、
ホントに気持ち良い。
この感覚を味わえるだけでも、価値があると思うほど。
心配は、ひざだな。
昨年の100キロウォークのときは、腰が問題だったけど、
長時間走るのには、ひざが大丈夫か気がかりだ。
60分ぐらい走ると傷みというほどではないけど、
少し違和感が出始める。
ひざに良いといわれるサプリメントを飲み始めたけど、
そんなのすぐには効かないだろうし。
開催まであと79日。
すぐやな。
8/15 ウォーキング+ジョギング 練習記録
距離 9・25キロ
時間 92分
時速 6・0キロ
ランニング最長時間 72分
2024.8.24
フルマラソン完走への道 その5
― 10km完走
40日前にジョギングを始めたときには、
1キロ(10分)走るのがやっとだったけど、
昨日は、10キロ以上(99分)走った。
10キロに換算すると96分で、時速6・25キロ。
ほんの少しだけどスピードも速くなった。
時速6・5キロで走れば、フルマラソンを
6時間半で完走できるので、
持久力とスピードと両方にまだまだ課題がある。
心配は、ひざだ。
昨日は8キロ手前の時点で、ひざに違和感というか
軽い痛みが出てきた。
走りながら、やめようか、9キロ走ろうか、
10キロまで走ってみようかと考えた。
練習でひざを痛めてしまっては、元も子もない。
少しずつ鍛えていく必要がある。
でも、8キロの時点で、なんとか行けそうに思ったので
走り続けたら、結局10キロまで行くことが出来た。
この4倍以上の距離と時間。
さて耐えられる身体と精神を作り上げられることが
できるんだろうか。
特に精神。
あと 70日だ。
8/23 ジョギング 練習記録
距離 10・27キロ
時間 99分
時速 6・25キロ
2024.9.3
フルマラソン完走への道 その6
― 13km完走
8月23日に10キロ(100分)を走ったことを書いたが、
それから5日後(8月28日)に 13キロ
(127分)を走った。
5日後というのは、ちょっと張り切り過ぎたかも知れない。
あいかわらずのスロージョグ。
最初の4キロほどは、1キロ9分18秒だったが、
最後の4キロほどは、1キロ9分58秒と
かなり遅くなった。
実際、犬の散歩をしている、歩いている若者に
追い抜かされたよ。
トータルでは、1キロ9分40秒というスローペースで
これだとフルマラソンは、6時間48分という計算になる。
7時間が制限時間なので、現時点では、
時間内のゴールはまだ難しい。
う〜む、どうしたものか。
もう少しペースを上げるしかないのだが、
そのためには、今よりもキツイ練習をしなければならない。
13キロ走った時点で、もう走れないほどヘトヘトかというと
それほどでもなく、まだ走れると思うのだが、ひざがやばい。
これ以上走ると、ひざを痛めるというリスクが高まり、
チャレンジできない状態でいる。
実際、13キロ走ったあとは、翌日も翌々日も
明らかにひざに疲労が残っており、3日間練習を控えた。
「3日は空けるな」というのがマラソンのトレーニングの
鉄則だとどこかで知ったので、7月15日の練習開始以来、
3日空けたことはなかったんだけど、台風の影響もあり
天候も悪かったので、3日間休むことにした。
走れる時間や距離が延びることは、
マインドにもプラスに働いており、
一度は走った距離や時間は、次も走れるという
自信に繋がっているのは間違いない。
しかし、ひざの問題とペースの遅さは、
完走することの不安要素となっている。
あと2か月、どこまでやれるかな。
ところで、マラソン業界(?)では、
走るペースを時速では言わないようだ。
1キロ何分という表現をする。
前述のように私は、1キロ9分代後半と超スローだ。
オリンピックや世界大会に出るような選手、
例えば男子世界記録(ケルヴィン・キプタム/ケニア)の
2時間00分でゴールするには、1キロを2分51秒で
走らなければならない。
これはなんと時速約21キロだ。
100メートル 17秒ですぜ。
私には 100メートルだって無理だ。
そんなのと比較する必要はないけど、
なんとか9分台前半で走ることができれば、
6時間半ぐらいでゴールできるので、頑張ろうと思う。
あと60日。
9/3 ジョギング 練習記録
距離 8・75キロ
時間 85分
1キロ 9分44秒
* * * * *
マラソンの世界記録をググって知ったんだけど、
前述の世界記録保持者、ケニアのケルヴィン・キプタムは、
2023年のシカゴ・マラソンで、2時間00分35秒という
世界記録で優勝した。
人類初の2時間切りを期待されていた選手だが、
今年2月に高速道路を運転中、交通事故で死亡したらしい。
享年24歳。
世界記録更新後は、週に250 - 280km 走るのが
ルーティンだったって。
週に 280kmって、毎日 40kmやん。
きっと2時間切れただろうに。
悔しいだろうな。
合掌。
2024.9.4
フルマラソン完走への道 その7
― 1km 7分07秒
私がエントリーした11月3日の富山マラソンは、
制限時間が7時間なのだけど、
マラソン大会では、後ろの方でスタートすると
スタートラインに行くまでに数十分かかるというのも
どこかで聞いたし、7時間ギリギリのペースで走ると
何かアクシデントがあったら間に合わなくなる。
それで、6時間半を目標にしているのだけど、
42・195kmを6時間半で走るためには、
1km9分14秒で走らなければならない。
今のところの私のタイムは、1km9分40秒程度と
とても遅い。
それも10km程度しかまだ走っていないタイムだ。
もう少し、ペースを上げる必要がある。
今までは、持続力を付けるためにと、
ゆっくりで良いから、長時間走り続ける練習をしてきた。
ようやく2時間以上、連続で走れるようになったので、
そろそろペースのことも考えた方が良いのではないかと
思い始めた。
YouTube には、たくさんのマラソン、ジョギングの
コーチの動画があるが、人によって言っていることが
少しずつ違うので、自分で取捨選択するしかない。
初心者を対象にしていても、大体が私よりレベルが高い
初心者向けで、1キロ10分近くかかる超スロー初心者を
対象にした話は少ない。
まぁ、それはしゃーない。
今日は、自分の走れるスピードで2kmは
走ってみようと、スタートした。
結局2km持たず、途中で断念。
距離は、1307mだった。
時間は9分18秒だったので、1km 7分07秒。
なるほどこれがキロ7分のペースか。
このペースで走り続けられれば、
フルマラソンは5時間でゴールできるんだな。
しかし、こんなので走り続けられるわけがない。
無理無理。
走ってみて分かったのは、普段のペースで走るのと、
足の筋肉とかより、心肺機能が足りていない、
という実感。
根性も足りてないの分かるけど、
もう全然、息の仕方が違う。
まあ、まともに運動したことない人だから、
そらそうやわなぁ。
それから、坂道(登り)をジョギング。
目黒川から JR山手線の線路までは、
結構な坂道なので、そこを走ってみた。
測ると 170m ほどなのだが、すぐに
スピードが落ちるので、100秒以上かかる。
それを3本走った。
もっとやりたくなるけど、あんまり一度に張り切らない。
「焦らない」というのが、マラソンの練習の鉄則だと
誰かが言っていた。
そのあと 軽く 30分ジョギング。
ただ、走るだけではなく、週に1、2回は
こういう練習も取り入れて行こうと思う。
あとは、100〜200mぐらいを 70〜80%の力で
数本走る「ウインドスプリント」という練習。
「LSD(ロング・スロー・ディスタンス)」という
長く、ゆっくり、距離を走る練習。
普段やってるのは、これに近いかな。
でも、距離はまだ大したことない。
「LSD」と言えるのは、やはり 15、20km 以上やな。
近いうちに、15kmを走って、
その次は、途中 歩いても良いから
21km(ハーフ)をやってみようと思う。
「歩いても良いから 21kmを3時間でゴールしたら、
42・195は完走できる」というのも YouTube で
誰かが言っていた。
しかし、21kmを180分で走るには、
1km8分34秒で走らねばならんのだよ。
今より1分以上縮めなくではならない。
う〜む。
あと 59日……
2024.9.11
フルマラソン完走への道 その8
― 15km走破
今日は、ゆっくりで良いから15キロ走ろうと
練習に臨んだ。
15・435キロメートル、2時間30分49秒。(遅)
15キロで良かったんだけど、150分という記録も
作りたかったので、少し距離を伸ばした。
10キロ以上は、3回走ったけど、
15キロは、初めて。
先週、10キロ走った時は、キロ9分24秒と
少しだけペースが上がってきたのを感じたけど、
今日は、キロ9分46秒と遅かった。
最初の3キロはたぶん9分前半だったと思うけど、
どんどんスピードが落ちていくんだな。
12キロあたりでは、自分でも歩いているのか
走っているのか分からんようなペースにまで落ちた。
そのあと、13キロ過ぎて、ちょっと持ち直した。
なんか、突然余裕が出たり、めっちゃしんどくなったり、
そういう波があるみたいやな。
走り出しの10分前後は、ほとんど毎回のように
しんどいのは、ウォーミングアップが十分でないからかも
知れない。
心配のひざ対策で、サポーターを両足に付けて走った。
おそらく少しは、効果があるのだろうと思うけど、
走り終わった今は、結構ひざに来ているのが分かる。
できればもっと練習したいと思うけど、明日は休養だ。
15キロというと、フルマラソンの3分の1以上の
距離は走ったことになる。
昨年の100キロウォークのときの練習の最長距離は、
33・4キロ(つまり3分の1)を一度歩いて、
本番に臨んだ。
本番で 60キロぐらいまでは、30キロの延長で大体
想像した通りだったが、70キロを超えて、
特に80キロ以降は、未知の世界(足の痛み)が
待ち受けていた。
マラソンは、トータルは 42・195キロと100キロの
半分以下だけど、「走る」という行為、それに加えて
制限時間という壁が立ちはだかっており、
全く予想が付かない。
いまだに「イケる」という感触はない。
どころで、7月15日に練習を始めて以来、
今日が34回目の練習で、走った総距離は、
190キロを越えている。
なのに体重がほとんど落ちていない!
ちょっと落ちたかなと思うと、すぐに戻る。
戻る原因は、分かっている。
運動した分、お腹が空くのでご飯も食べるけど、
それより何より、アルコールだ。
走り出したおかげで、酒を飲む日も減っているが、
酒を飲んだ翌日の体重が物語っているんだ。
こんなに分かりやすいものなのか、というほど。
ひざへの負担も考えると、本番までに
5キロぐらいは減量したい。
走った後の爽快感や、気持ちよさは、
今まで知らなかったこと。
身体のためにも良いし、ストレスの軽減にもなり、
精神のためにも良いことが分かる。
走っていたら、向かい風や追い風、季節の風も
感じることができる。
自分の限界や、自己話も観察できる。
そんな風に考えると、酒を飲んで失っているものが
バカバカしくなってくる。
いえいえ、酒は好きですぜ。
楽しく酔っぱらって、気持ちよくなって。
でも、失っているものも多いねんな。
まあ一番は、時間やな。
酔っぱらったら、何もでけへんからな。
そして健康。
そんなこと思うと、お酒も そろそろええかな、
という気もしてくる。
断酒すると決めたわけじゃないけど、
こういう考えが始まると、大体そっちの方向に
向かい出すのが自分のパターンだ。
まあ、今はやめなくても、飲む日を減らせば
良いと思っている程度だけどね。
さて、次の目標は、ハーフ(21キロ)だな。
これは、途中歩いても良いという風に臨まないと、
張り切り過ぎるとケガすることになる。
今日も15キロ走った時点で、あと3キロぐらい
走れそうだったので迷ったけど、張り切らない、
というのが、マラソンの練習の鉄則なのでやめたよ。
全く余談だけど、先週大阪に帰省していて、
夜、実家の近所を10キロ走った。
何が驚いたって、街が暗いこと。
街灯が少ないねんな。
田舎ですわ。
調べてみたら、大阪府柏原市って、
今住んでいる品川区より、ちょっと広いねんけど、
人口は、品川区の6分の1ぐらいやわ。
1995年には、8万人以上住んでたけど、
2020年では、6万9千人を切っている。
もう過疎ですな。
品川区は、1995年は32万人だったけど、
2020年で 42万人と増えております。
そんなことより、本番まで あと、52日。
どうなるか。
9/11 ジョギング 練習記録
距離 15・44キロ
時間 151分
1キロ 9分46秒
2024.9.13
フルマラソン完走への道 その9
― ランニング・シューズ購入
フルマラソンを走るためには、ランニング専用の
シューズで走った方が良いのは分かっていたけど、
持っていた アディダスのシューズが、
割と楽で走りやすかったので、それで練習をしてきた。
調べてみたら、ゴルフシューズだったよ。(ビックリ!)
もらい物だったんだけど、走るのに全く問題ないと
思えるのは、私がランニングの素人だからかな。
それで、ようやくランニングシューズを買いに行ってきた。
ネットで調べて、アシックスの「ゲル・カヤノ」という
シューズが良さそうだと思って、原宿のアシックスまで
行ってきた。
店員さんに、初心者であること、初マラソンを走ることを
伝え、推薦されたのが、「ゲル・カヤノ 31」と
もうひとつ「ゲルなんとか」という別のモデル。
両方履いてみた感じで、「ゲル・カヤノ 31」に決めた。
色は、Steel Grey/Piedmont Grey。
20,900円也。
こんなに高い運動靴は人生で初めて。
(妻からの誕生日プレゼント)
GEL-KAYANO 31
「ゲル・カヤノ」の発売は、1993年で、
今年のモデルが31代目なので「ゲル・カヤノ 31」。
「カヤノ」というのは、初代モデルのデザイン担当者
榧野(カヤノ)さんの名前で、
30年以上売れ続けているシリーズらしい。
サイズは、28センチがちょうど良いと思ったんだけど、
アシックスの店員さんは、もう5ミリ大きいサイズを
勧めてきた。
なんでも、親指の前が1センチぐらい空いているのが、
アシックスの標準らしい。
親指の爪が靴に当たることで、爪が剥がれたりとか
するらしいので、少し大きめを履くようだ。
で、28・5センチも履いてみたけど、どうも大きすぎる
感じがしたので、28センチにしたよ。
早速、履いて走ってみた。
ランニング・シューズを履けば、もう、劇的に
楽に走れるのかと超期待していたけど、
全然そんなことはなかった。
クッションは良いし、しっかり守られてる感はある。
今日は 4・3キロほどを、間に5分ほど休憩を入れて
2回、計8・7キロを走ったのだけど、
途中で右足のかかとあたりがヒリヒリしてきた。
走り終わって見てみたら、かかとの内側が軽く
靴擦れになって、赤くなってた。
こんな所、靴擦れになるんやな。
まあ、それは靴がなじめば解決すると思う。
問題は、ひざです。
一昨日、「プロ・フィッツ ひざ サポーター」というのを
両ひざに付けて、15キロ走った。
それなりにひざがサポートされている感はあって、
まあまあ良かったのだけど、そのあと、
太もものゴムが当たる部分が、みみず腫れになって
丸2日経っても痒い。
私は、どうもそういうのに弱いらしく、ズボンのベルトを
きつく締めすぎたり、ゴムのきついパンツを履いたりすると
同様に下腹部がみみず腫れになって痒いことがある。
そのサポーターは、その前に1時間ほど使った時は、
どうもなかったんだけど、15キロの日は、3時間以上
つけっぱなしだったので、そんなことになってしまったようだ。
本番では、7時間以上つけっぱなしになるので、
これは使えないなぁ。
ふたつで 3,260円したんだけどな。
もしかしたら、もうワンサイズ、大きいのを買えば
良いのかも知れないけど、私の太ももが
サイズのちょうど境い目ぐらいで悩ましい。
次は、ゴムではなく、マジックテープで、締め付けを
調整できるものを注文したので、そちらに期待したい。
ひとつ 2,874円。
まずは、片方で試してみて 良ければもう一つ買う。
こういう小物もあれこれ試さねばならず、
その出費もバカにならない。
今日もひざが心配で、練習を切り上げた。
気持ちも体力もまだ走れると思うのだけど、
これ以上走ると、ひざが大丈夫か?と思うと
無理しない方が良いなとなってしまう。
悩ましい。
あと 50日。
9/13 ジョギング 練習記録
距離 4・375キロ ×2
時間 83分(トータル)
1キロ 9分28秒(トータル)
2024.9.15
フルマラソン完走への道 その10
― ランニング・アプリ導入
ランニング・アプリというものがあることは
少し前から知っていたけど、私はいまだにアナログな
ところが多くあり、中々導入せずにいた。
ランニング・アプリは、走った距離や時間などを
記録できる便利なもの。
で、そろそろ使ってみようかという気になってきた。
無料のものも多くあるのでどれにしようかと
迷ったが、「Runtrip」という無料アプリを
スマホにダウンロードした。
「Runtrip」は、YouTube の動画観たことが
あったので、良いかなと思って。
今日は、12km 走って、そのあと4キロほど
続けて 歩くつもりでスタートしたが、
途中で 雨が降り出したので 4・7kmで中止。
アプリの走った記録の地図を見たら
めちゃ正確でビックリ。
スタート地点も走るのをやめた(記録をストップした)
地点もまさにその通りだった。
おまけに1キロごとの平均ペースも出る。
1km 8'15"
2km 9'07"
3km 8'57"
4km 8'55"
5km 9'08"
最後の 5km は、4・7km のラスト 700mのことだ。
2kmでペースが落ちているのは、目黒通りの
長い登り坂を走ったからだ。
分かりやすい。
トータル 4・7kmでは、41'58" で、
キロ 8’52” といつもより速い。
今日が特別速かったとは、思えないので、
今までの計算(というより距離の測り方)が
間違っていたか、このアプリが間違っているのかな。
今日の距離は、キョリ測では4・477km、
グーグルマップで測ると4・5km、
Runtripでは、4・73km。
もしかしたら、Runtrip は少し長めに測ってしまうのかも。
それなら、計算上 ペースが速まったのも分かる。
キョリ測やグーグルマップを基準に計算すると
キロ 9'20" から 9’22” だから。
でも、まあ速い方が、気持ちも上がるので、これからは
Runtrip の数字を基準に記録することにするよ。
さすがに、ランナー向けのアプリだから、
いい加減だったら、クレーム来るだろうしね。
9/15 ジョギング 練習記録
距離 4・7キロ
時間 42分
1キロ 8分52秒
2024.9.21
フルマラソン完走への道 その11
― 180分 19キロ
今日の練習は、コースも何キロ走るかも決めずに
スタートした。
最低10キロ以上は、走るつもりでいたけど。
スマホにランニング・アプリを入れたおかげで
予めコースを決めておかなくて、気ままに
走っても良くなったので楽になった。
ただ、記録の地図を拡大して見て
GPSの誤差が結構大きいことを発見した。
例えばこんな風。
これは先日、山手通りを走ったときの記録だが、
実際には、片側の歩道を走ってたのだけど、
画像のように、ジグザグに走ったことになっていた。
別の道もこんな感じだ。
このふたつは、特に極端な部分をピックアップしたので、
全部が全部、そんなに酷いわけではないけど、
アプリでは、実際に走った距離より数パーセント
長く走ったことになっているように思われる。
そのことで、ペースもこれまでの記録より
速いことになっているんだと思う。
一昨日は、11キロを98分で走った。
これは1キロ9分を切っているので、
急にそんなに速く走れるわけないだろうと思って、
アプリを見ていて、地図を拡大して気付いたんだ。
まあ、細かいことはよしとして、今後は
このアプリで記録を取ることにした。
実際より、ちょっと盛ってる記録になるけど、
その方が気持ちも上がるし、
キョリ測でコース作るの(嫌いじゃないけど)
結構時間使ってたからね。
話を今日の練習に戻すと、走っていると
なんだか調子よくなってきて、途中で180分に
チャレンジする気になった。
走りながら、ひざはやっぱり気になってはいるけど、
軽い痛みなので、走れないほどではない。
空腹時に走り出したので、90分ぐらいで
めちゃくちゃお腹が空いてきた。
普通の空腹感ではない。
これがエネルギー不足なのかな。
今までもそれぐらいの距離は走っているけど、
感じたことのない空腹だったので、
コンビニによって、in ゼリーとミネラル水を補給。
走りながら、そういうものを食べたり飲んだり
することも練習しておいた方が良い、と
先日観た YouTubeの動画で言っていたわ。
で、コンビニでゼリーを探すのに手間取ってしまい、
2分ぐらい経ったので、182分をゴールにした。
そのへん、真面目というか細かいなと自分でも思う。
結果は、19・2キロで 182分30秒。
1キロ9分30秒。
180分の時、スマホを見たら19キロだったので、
あと2キロでハーフ(21キロ)行けるやんと思ったのだけど、
マラソンの練習は「張り切らない、頑張らない、
焦らない」だと思い直し、21キロは次の機会に見送った。
フルマラソンには、30キロの壁とか 31キロの壁と
いうものがあるらしい。
昨年の100キロ・ウォークに例えると
70キロの壁だろうか。
70キロを超えてから、人生未経験の足の痛みが
始まったからね。
80キロを超えてからは特に凄かった覚えがある。
マラソンでも、30キロ、35キロを超えると
「何が起こるか分からない」ということも聞いた。
なので、全く油断はできないのだけど、
今日はようやく、42・195キロが射程距離に
入ってきた感じがしたよ。
今日のペースだとフルマラソンは、6時間41分。
今日は走っていて、気が付いたら、
フルマラソンでゴールしたあとのことをイメージしてた。
これはとても良い傾向だ。
ほぼほぼ現実化するパターン。
まだまだなめたらあかんのは分かってる。
人間て凄いなと思う。
2ヵ月前は、10分しか走れなかった62歳の
おっさんが、3時間走れるようになるんやもん。
何ごとも継続こそが力やな、と改めて思うのでした。
あと42日。
これ(コース紹介動画)を観て、イメトレしよう。
9/21 ジョギング 練習記録
距離 19・2キロ
時間 182・5分
1キロ 9分30秒
2024.9.25
フルマラソン完走への道 その12
― 侮るなかれ
4日前に初めて180分 約19キロ走った。
その日、起きたとき少し腰に痛みがあったけど、
そんなに気にするほどではなかった。
寝ていた姿勢が悪かったかな、ぐらいに思った。
走るときも走っている最中も気にならなかったし、
当日のエントリーを読むと、まだ走れそうな
ぐらいに書いている。
実際、その時はそうだったんだけど。
翌日は、さすがに全身に疲れがあり、
とても走れる状態ではなった。
もちろん19キロも走ったのだから、
1日2日は休息するつもりでいたけど。
その次の日は、妻が走ると言い出したので
その付き合いで少しだけ走った。
約1時間走ったり歩いたり、約6キロ。
身体中が固まっているような印象なので
近所の整体に行って、1時間ほぐしてもらったら
大分ましになった。
ひざもかなりくたびれている感じがしていたが、
整体師が言うには、股関節が硬いのではないかという。
うーむ、やはり股関節か。
YouTubeで色々見ていると、股関節や足首の
関節が硬いとそのシワ寄せがひざに行くのだという。
股関節は360度、足首は前後(というか上下)
だけではなく、左右にも少し曲がるので
多方向に動くけど、ひざは一方向にしか曲がらない。
股関節や足首が硬いと、ひざが本来曲がらない方向へも
ストレスがかかってしまうというわけだ。
つまり、十分な柔軟が大事ということなんだな。
身体も心も柔らかい方が良いわけだ。
そして、ひざだけではなく、腰にも来ている。
7月15日に練習を始めて以来、腰に痛みが
出たのは初めて。
あの走った日に走る前にすでに違和感があった上に
3時間も走ったのだから、ちょっと無理があったのかなと思う。
まあ、日常生活に支障があるような痛みではないけど。
あんまり練習の間を開けたくないのだけど、
今日明日ぐらいは休養して様子を見ようと思う。
無理して本当にケガをしたら元も子もない。
YouTubeには、実際のマラソンの様子も
たくさんアップされているけど、30キロ、35キロを
過ぎると歩いている人も多い。
そのあたりで歩いている人は、
6時間7時間でゴールする人たち。
私も間違いなくその仲間だけど、
「完走した」というためには、
できれば最後まで歩きたくない。
でも、難しいだろうなぁ。
4日前に「ようやく、42・195キロが射程距離に
入ってきた」と書いたけど、
また射程距離から遠のいた感じ。
甘くないなぁ。
あと38日。
2024.9.262024.10.1
なんだろね
今日、日帰りで大阪に行って来た。
12:31 新横浜駅発の のぞみのチケットを買って、
車内で食べる弁当を買い、
12:25 ぐらいにホームに上がった。
列車が来るまで、少し時間があるので、
ベンチに荷物を置き、立ったまま読みかけの
本を読み出した。
しばらくして、ふと視線を上げると、
ちょうど列車が動き出したところで、
時計を見ると12:32だった。
げっ!
やってしまった!
乗るはずの のぞみ、出てしもた。
参ったな。
数年前、品川駅でも同じミスをしたよ。
その時は、妻とふたりでホームで読書してた。
次の のぞみは、16分後だ。
自由席に乗るしかないが、
新横浜からだと座れない可能性がある。
立ったままでは弁当が食べられない。
迷っている暇はない。
16分あれば弁当は食べられるので、
ホームのベンチに座って食べたよ。
カツ丼弁当。
帰り道、新大阪まで JR の「おおさか東線」という
路線に乗った。
新大阪まであと2駅というところで 電車が
止まってしまい、新大阪に着いたのは45分遅れ。
おかげで、これまた指定席を買っていたのぞみには、乗れず。
なんとか自由席に座れたけど、
座れずに立ったままの乗客も何人もいたよ。
そう言えば、3週間前もこの「おおさか東線」に
乗っていて、止まったよ。
そのときは、新大阪より随分手前だったので、
違うルートで新大阪に行けたけど、
やっぱり当初の予定の のぞみには、乗れなかった。
なんだろね。
なんでもないよね。
そういうこともあるよね。
いつかはデザイナー
友人から、東京ビッグサイトで開催される
展示会に出展するので、そのブースの壁と、
展示会でスタッフが着るTシャツのデザインを
依頼された。
私はデザインを本格的に学んだことはないのだけど、
子供の頃から、自己流でレタリングしたりするのが
好きで、ギターを弾いていなかったら、きっと
そっち方面に進んだんじゃないかと思う。
20年ぐらい前、一度デザインの学校に通おうかと思い、
調べたこともあるが、授業料の高さに諦めた。
数年前から、イラストレーターを使い始め、
今まで、Tシャツ、クリアファイル、冊子の表紙など、
依頼されて、我流でやってきたが、
今回の展示会のブースのディスプレイは、
ちょっと怖かった。
というのも、その展示会が
「働く女性の美と健康を応援する
Diet & Beauty Fair」なんだ。
ビューティーということは、化粧品などの
展示もあるわけで、当然、オシャレなデザインも多いだろう。
そんな中、私のデザインだけが、どうしようもなく
垢ぬけなくて、いなたく見えては、商談に影響が
あるかも知れない。
そんなことになっては、申し訳ないし、
取り返しがつかない。
前日、送られてきた準備中の写真を見ると、
どうも素人臭く見えて、冷汗が出たが、
最終的に、商品が陳列され、照明が当たると
それなりに見えて、一安心した。
展示会は、3日間。
その初日、行ってきたよ。
こんな感じ。
客観的に、あるいはプロの目にどう見えるのか、
想像もつかないけど。
何ごとも経験なので、
こういう機会を与えられることはありがたい。
ところで、ダイエット&ビューティ、
まあ、色んなものが出展されてたよ。
それはそれで凄い世界。
2024.10.5
ねえちゃんのなかなおり
昨年5月、2歳年上の姉に
ステージ4の大腸癌が見つかった。
当時、姉は62歳。
現在の私の年齢だ。
見つかった癌は、すでに手術で切り取れる
状態ではなく、直ちにストマ(人工肛門)の
手術が施された。
本人は、いたって冷静であっさり(に見えた)
死期を受け入れ、治療を拒んだ。
しかし、姉の娘が懇願し、最近の大腸癌の
抗がん剤は効果が期待できるとの医師の
勧めもあり、姉は渋々抗がん剤治療を始めた。
それから1年近くが経ち、今年の4月の検査で、
抗がん剤が効かなくなって来ていることが分かった。
たまたま大阪に帰省していた私も
その時の医師との面談に同席した。
治療を続けるためには、今までのものに加えて、
もっと強い抗がん剤を投与する必要があるという。
抗がん剤というと髪の毛は抜けるイメージがあったけど、
最近の抗がん剤は進歩しているようで、
それまで投与していたものは、髪の毛は抜けなかった。
(もちろん、他の副作用はありしんどそうだった。)
追加の薬は、髪の毛も抜ける。
治療を続けたからといって、
癌が無くなる見込みはない。
医師の見立てでは、姉の余命は、
治療を始めて長くて3年だという。
3年のうち、すでに1年が過ぎていた。
治療を続けたからといって、
あと2年生きられる保証はない。
抗がん剤治療は、身体へのダメージも大きく苦しい。
治療はしんどい。
治療をしなくてもしんどい。
どちらにしても長くない命。
どちらにしてもしんどい残りの命。
姉にとっては、治療をするということは、
「治療のために生きる」ということであり、
それは苦しみを延長させることに過ぎず、
意味がなかった。
姉は、治療をやめる選択をした。
子供達ふたりも母親(姉)の選択に納得した。
今年の4月まで、抗がん剤治療は、
19回に及んだ。
癌が見つかった昨年春の時点では、
年を越せるかどうか分からない状態だった。
治療を始めてから休職していた姉は、
数ヶ月後、職場に復帰した。
復帰と呼べるほどではないぐらい、
出勤したのは、週に僅かな時間だったけど。
それは、半年以上休職すると、
解雇の対象になるので、週に少しだけでも
働かないか? という姉の勤務先の
配慮もあったけれど、治療は効いていたんだと思う。
4月に治療をやめてから、姉は痩せ始めた。
食欲もなくなっていったようで
会うたびに痩せて行った。
子供達と旅行に行ったり、
お笑いを観に行ったりしていたが、
そのうち訪問看護を受けるようになり、
8月29日に入院した。
治療のためではなく、緩和ケアだった。
9月6日に会いに行った時は、
まだベッドに腰かけて、話すことができた。
次に行ったのは、9月19日。
声が出にくくなって来ているようで、
話すことが困難なようだった。
姉は私の顔を見ると、
何かを書くような仕草を見せた。
メモとペンを渡すと
「おそい」とだけ書いた。
一週間後、9月26日。
病室に入って、ミイラのように痩せ細った
姉の姿を見た途端、涙が溢れ出した。
もう終わりだと思った。
目は開いているが、焦点は合っておらず、
声をかけても聞こえているのかいないのか、
反応がなかった。
しかし、しばらくすると、少しずつ反応し始めた。
私は、その日が最後になると思い
「いらんもんは全部おいて行きや」と声をかけた。
姉は僅かにうなづいた。
帰り際、「また来るから」と言った時もうなづいた。
あと2、3日だろうと思った。
その日が来れば、いくつか入っていた予定は、
キャンセルするしかないと覚悟した。
しかし、そんな状態で姉は生き続けた。
10月2日から4日までの3日間は、
私には何も予定がなく空いていたので、
1日の夜遅く、大阪へ向かった。
2日の昼過ぎに、病室を訪れた時、
姉は私の顔を見て、もの凄く顔をゆがめた。
一週間前と違い、意識があるのが
すぐ、はっきりと分かった。
その表情は、私には「なんで来たんや」と
怒っているかのようにも見えた。
痩せ細った顔のギョロっと大きく見開いた眼は、
何かを言いたそうだったが、言葉にならないようだった。
握った手は、握り返す力はないようだ。
時折、声を出すが何を言っているのか聞き取れなかった。
「何?」と聞き直しても答えてくれなかった。
そのうち、お腹の方に手をやったので、
「お腹が痛いの?」と聞くと
「そのことはもう言わんといて」とはっきり聞き取れた。
それから、突然思い出したかのように、もの凄く明瞭に
姉は「今日何曜日?」と聞いた。
一緒に病室にいた姪も驚くほどはっきりした声だった。
私が「水曜日、10月2日水曜日」と答えると、
曜日が分かったことに安心したかのように
「水曜日」と呟いた。
私は最後の言葉のつもりで、
「姉ちゃん、もういいよ。楽になりな」と言った。
姉はうなづいて「もういい」と言った。
夕方、近くの老人ホームに入所している母を連れて、
再び病室を訪れた。
やはり、しっかり意識はあるようで、
母のことも分かっていたようだった。
その時は、母と姉を会わせるためだったので、
私は姉とは言葉を交わさなかった。
夜、姪とふたりで、近くの居酒屋で食事をしていると、
姪っ子の携帯電話が鳴った。
病院からの電話だった。
話しながら泣き出した姪を見て、
電話の意味が分かった。
姪とふたりで、病室に駆けつけた。
姉の呼吸は止まっていた。
顔はまだ暖かかったが、手を握ると
すでに冷たかった。
私は、看護師を呼びに行ったが、
看護師はすでにそのことを把握しているようで、
「先生が来ますのでお待ち下さい」と言って
病室を出て行った。
姪は、病棟に響き渡るかのような泣き声で
「ママ!ママ!」と叫び続けた。
私達が病室に着いてから、1時間以上経って、
ようやく医師がやって来た。
医師は、姉に聴診器を当て、
瞼を開き眼球を見てから、時計を見て言った。
「午後11時7分、ご臨終です」
まるでテレビドラマのようなシーンだった。
私は「いやいやとっくに死んでたで」と
心の中で突っ込んだ。
午前中にいとこが見舞いに行った時、
帰り際にいとこが「また来るから」と言うと
姉は手を振ったらしい。
午後、私が訪れた時も前述の通り、
姉の意識はしっかりしていた。
夕方、母が「また来るから」と言ったときも、
姉は頷いていた。
そのわずか数時間後、病室に誰も来ていない間に、
姉はひとりで逝ってしまった。
姪との食事中にかかって来た電話は、
私は危篤の知らせだと思っていたが、
姪に後で聞くと既に呼吸をしていないという
知らせだったようだ。
昏睡状態がしばらく続いたあと、
家族に囲まれて息を引き取るんだろうと
勝手に思い込んでいた私は、
僅か数時間の急展開に驚いた。
しかし、人が死ぬ直前に意識がクリアになることは
珍しくなく、時にはそれまで食べられなかった人が
「〇〇を食べたい」と言い出し実際に食べる例もあるそうだ。
そのことを「中治り」というらしい。
もしかしたら、最後に誰かと「仲直り」する
機会なのかも知れない。
実際、「中治り」が起きた時、それまで感謝など
言ったことのない人が、善い人になっていることもあるという。
(「中治り」は英語で「last rally before death」といい
世界中で報告されていることらしい。)
姉は、私が何の予定も入っていなかった
3日間の1日目に死んだ。
そして、2日目にお通夜をして、
3日目に葬儀をして、荼毘に付した。
来週は、妻の還暦祝いの旅行に行く予定で、
場合によっては、その旅行もキャンセルするしかないと思っていた。
もちろん姉は私のスケジュールなど知らないのだが、
まるでそれに合わせてくれたかのように思えて仕方がない。
4日の葬儀には妻も参列できたが、
妻もその日しか大阪に来ることが出来なかった。
私にしろ妻にしろ、来ることが出来なければ、
来なければ良いだけの話しなのだが、
気持ちの上ではそんなに簡単なものでは済まない。
姉は、そのタイミングを選んでくれたに違いない。
見事だと思った。
最後に交わした会話の中の
「今日何曜日?」は、
きっと逝く日のスケジュールの確認だったんだと思う。
今日、大阪から戻って来て、
すみだトリフォニーホールへアビシャイ・コーエンと
新日本フィルフィルハーモニー交響楽団の
コンサートを聴きに行った。
姉の様子次第では、観に行けないかも知れないと
思っていたが、前述の通り私は何一つスケジュールを
変更せずに済んだ。
演奏を聴きながら、何度も姉のことを思った。
別離の悲しさと、生きていることの儚さと同時に
人生の素晴らしさにも思いを馳せた。
聴きながら、人生は、ひとつの曲のようだと思った。
イントロに始まり、エンディングで終わる。
終わるとさっきまで聴こえていた音楽が
どこにも存在していない。
でも、確かにその楽曲はさっきまで
その場にいる人々に存在した。
姉はいなくなった。
三日前まで確かに存在していたのに。
今は、どこにもいない。
会いに行く先もない。
「死んでも心の中に生き続けている」
なんてよく言われるが、
生き続けてなんかいない。
死んだ姉を覚えているだけで、
やっぱり、心の中にだっていない。
先日、何かで読んだ。
牛や豚は、一頭ニ頭と数える。
魚は、一尾二尾。
鳥は、一羽二羽。
それは、死んだあとに残る物だという。
人はどうか。
人は、一名二名と数える。
人が死んだあとには、頭も尾っぽも残らない。
名前だけが残るんだ。
その名前も、やがて知る人がいなくなり、
完全にこの世から消え去るんだ。
2024.10.18
フルマラソン完走への道 その13
― 一喜一憂の日々
何かと慌ただしく、10日も更新を怠っていた。
8日から14日まで、妻の還暦と結婚25年記念の
旅行で、宮古島と石垣島に行っていた。
その旅行のレポートもしたいと思いながら、
時間ばかりが過ぎていく。
さて、フルマラソン当日まで、あと15日と迫ってきた。
前回の「フルマラソン完走への道 その12」で書いたが、
9月21日に180分、19キロを走ってから、
数日、腰の調子も良くなく、走れないほどでは
ないけど、ひざの調子が良くなくて、
練習量がガタ落ちしてしまった。
それまでは、週に30キロ前後走っていたのが、
2週連続で、7キロほどにまで落ちた。
先週は、旅行中だったけれど、3回合計22キロほど
走ったが、相変わらず5キロ以上走ると
ひざに痛みが生じてくる。
練習を始めて3ヵ月以上経過した。
走った距離は、300キロを超えたけど、
日によって、希望が湧いて 42・195キロが見える日と
無理なんじゃないかな、とへこむ日がある。
今更だけど、結局、運動経験のない私が、
フルマラソンを62歳でチャレンジするには、
3ヵ月の準備期間では厳しいということだったんだ。
やはり、半年以上かけて身体を作るべきだったんだ。
あれだけ、マラソンの練習は「がんばらない」
「張り切らない」「調子に乗らない」と知っていても
やってしまった。
あの19キロは、私にはまだ早かったんだと思う。
ただ、ひざのことを除けば、さずがに3ヵ月も走っていると
体力が付いてきたことは、自覚できる。
昨日は、8キロを71分で走った。
1キロ9分を切っているので、練習の成果はあると思う。
それでもマラソンとしては、超のろいけどね。
もう、ジタバタしても仕方ないし、
長距離(10キロ以上)の練習は危険なのでやらない。
途中歩いてでも7時間以内にゴールする気では、
いるけれど、問題はひざがどれくらい持つかだな。
オレに、幸運を祈る。
あと15日。
2024.10.19
ねえちゃんのなかなおり
その弐
まるで私のスケジュールに合わせてくれたかのように
姉は10月2日に逝ってしまいよった。
死ぬ前後のことは、「ねえちゃんのなかなおり」に書いた通り。
今日は、この2歳違いの姉について書こうと思う。
記憶をたどると、私が3歳か4歳の頃、
家族4人で出かけたときのこと。
私は、まだ小さいので はぐれないようにと
父か母と手をつないで歩いていた。
姉は何か気に入らなかったのか、母に叱られて
ふてくされていたのか、手をつながずに
私たち3人の後ろを歩いていた。
人混みの中で姉と、はぐれてしまうことを
心配した私は「ねえちゃん、手つなごう、
ねえちゃん手つなごう」と後ろ振り返りながら
泣きながら、姉に手を伸ばしていたのを覚えている。
姉は、ふくれっ面で私の手など握らない。
母も「ほっとき」てなもんで、当時から心優しい(?)
私だけが心を痛めていたのである。
子供の頃は、よくケンカした。
昨年だったか実家の荷物を整理していて、
小学3年生の夏休みの日記を見つけた。
家のビニールプールで遊んだ後、私が
後片付けをしなかったので、姉が腹いせに
私が前日に作り上げたばかりのプラモデルの
戦艦大和を壊したのだ。
その事件は、日記を見つける前からよく覚えていた。
姉がプール脇にしゃがんで、大和の部品をボキボキと
壊してプールに放り込んでいる姿が目に焼き付いている。
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8月4日水曜日
きょう、いえの丸いプールにはいりました。
はいるまえに きのう色をぬったふねで あそんでいました。
はいろうとしたので げんかんに おいておきました。
あがってしばらくして おとうさんが
「水をすてなさい。」といいました。
ぼくは、しなかったので ねえちゃんが
「わるいで、わるいで。」といいました。
ぼくは「たたいて きすむのやったら たたき。」といった。
でも ねえちゃんは かわりに そのふねをくずした。
ぶひんは、ねえちゃんが みんな すててしまったから
つくれなかった。
ぼくは、ながいあいだ ないていました。
かんきょう(艦橋)の上のレーダーは、とられたし、
しほう(主砲)もとられた、こうかくほう(高角砲)と
三れんそう(三連装機銃)は、おられたし
クレーンは、おられ、あんてなも 水らいてい(水雷艇)もとられた。
きじゅん(機銃)は、みんなとられました。
せんかん大和にみえなくなりました。
やっぱりねえちゃんは にくたらしい。
いつも ころしたると おもいます。
(原文ママ・カッコ内は補足で書き足した)
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当時、私は第二次大戦中の戦艦や航空母艦、
戦車、戦闘機などが好きでプラモデルをよく作っていた。
作るだけではなく、ラッカーで色まで塗って仕上げるのが
大好きだった。
それで、戦艦の装備のことにも詳しかったんだ。
平仮名だらけで分かりにくいので漢字を書き足したけど、
主砲を「しほう」、機銃を「きじゅん」と書いているあたりが、
子供っぽい。
それはさておき。
最後の2行
「やっぱりねえちゃんは にくたらしい。
いつも ころしたると おもいます」
に当時の姉弟の関係が垣間見える。
関係が変わったのは、私が5年生か
6年生の時のことだ。
いつものようにケンカが始まり、その時は
口論だけではなく、私は姉に殴りかかった。
その日、始めて姉に勝った。
それまでは、殴り合いのケンカでも負けていたんだけど、
ついに力で勝ったんだな。
殴りながら(あれ?ねえちゃん弱いやん)と
思った覚えがある。
その日を最後に殴り合いのケンカはしなくなった。
それから、私が中学生になってからは、
よく話すようになった。
私たちには、それぞれの勉強部屋が与えられていたが、
ある日の夜、当時中学3年生の姉が私の部屋に
入ってきて話し出したんだ。
「学校、楽しない?
ねえちゃん、めっちゃ楽しくて、毎日、学校行くの
楽しみやねん」
ちょっとした衝撃だった。
それまで私は学校に行くことが楽しいと思ったことなど
一度もなかったからだ。
学校は、面白くない勉強や、やりたくない体育を
やらされるところでしかなかった。
もちろん、友達と遊ぶことは楽しかっただろうけど、
それは学校に行かなくても出来たからね。
で、「学校に行くの、楽しない?」と聞かれ、
初めて「あ、言われてみれば、楽しいなぁ」と思ったんだ。
その時、学校に対する印象が変わったのを覚えている。
それからは、姉は友達のことなど、私によく話してくれた。
覚えてないけど、きっと私も自分のことを話していたんだと思う。
兄や姉、年上の兄弟がいる人は、その兄弟からの
影響を受けるのは、よくある話。
やはり、私も中学から高校にかけて、姉が買ってきたり、
友達から借りてきたレコード(カーペンターズから
ディープ・パープル、中島みゆきから山下達郎まで)を
聴いて、音楽に詳しくなっていった。
高校生になった姉は、アルバイトをし始めた。
近所のお蕎麦屋さんだった。
姉は、自分が稼いだバイト代の中から、
何度か私に小遣いをくれたことがある。
自分に弟や妹がいたとしても、ケチな私には
考えられないことだが、とても気前の良い人だった。
中学を卒業した春休み。
私の初めてのロックコンサートは、
大阪フェスティバルホールでの原田真二だったけど、
そのチケットも姉が買ってくれてふたりで出かけた。
姉は女子高だったけど、男子校の生徒と
ちょっと背伸びしたパーティがあった時も
私を連れて行ってくれた。
たぶん、その男子校の生徒の誰かの
一人住まいのアパートだったような気がする。
私は、まだ高校に入りたてで、坊主頭の毛が
伸びていないような時期だったと思うけど、
2歳年上の姉の友人たちが、ずいぶんと
大人に見えた覚えがある。
まだディスコになんて行ったことのないガキだったが、
照明を薄暗くして、レコードをかけて、姉の友達と
チークダンスを踊り、その人の胸のふくらみを自分の胸に
はっきり感じてなんだかドギマギしてしまった覚えがある。
初心(「うぶ」と読んでね)である。
ああ、そういえば、ふたりで映画を観に行ったこともある。
松坂慶子と真田広之の出演する『道頓堀川』。
ラストが悲しくて、ショックだったなぁ。
1982年だから、私はまだ学生で、姉は勤めていた。
そんなわけだから、周りからは仲の良い姉弟と
言われていたが、自分では他に兄弟がいないし、
それが当たり前だったので、自覚はなかったな。
姉は、弟の私が言うのもなんだが、結構美人だった。
周囲から「姉が美人」と言われるのは、悪い気はしなかった。
私の友達の中でも、マジで交際を申し込んだヤツもいたよ。
1983年、姉が23歳になる年の春頃。
私の部屋にやってきて、「話がある」という。
何ごとかと思ったら、妊娠しているという。
当時付き合っていた人との間に子供が出来たんだ。
それで、結婚しようと思うので、両親にどう話したら
良いかという相談だった。
両親、特に母の気質を考えると、結婚前に
妊娠したなどというのは、大事件だと思った。
私はまだ20歳で、ろくな相談相手ではなかったと思うが、
姉はその年に無事、挙式、入籍をした。
姉が嫁いでからは、会う機会がめっきりと減った。
私も20代前半で一番活発な時期。
そして、1985年に23歳で実家を出てひとり暮らしを
始めてからは、年に数回会う程度で、
ゆっくり話すことも少なくなっていった。
姉は、結婚から3年ほどで離婚。
ふたりの子供は、父親の顔を覚えていない。
それから数年後、姉は再婚するが、
その結婚も数年で破綻した。
その頃には、私はもう上京していて、
以前のような話し相手でも相談相手でも
なくなっていたと思う。
姉が人生で一番つらかったであろう時期に
私は姉の人生に無関心で、何の力にもなれなかった。
あんまりいい弟ではなかったと、
今になって気付いたが、ねえちゃんは何とも思っていないだろうな。
大人になってからは、この5〜6年が、一番姉と話した。
高齢になった両親のことや、父の死、母を施設に入れる件、
そして姉の病気のこと。
それでも、十分に話したと思えない。
いや、話したと言うより、
十分に聴いたと思えない。
何を聴いていないか分からないけど、
もっと聴けば良かったと思う。
母の愚痴や、子供たちの愚痴をきくのがストレスで、
大切に聴かなかったと思う。
ケンカになって話の途中で電話を切ったこともあった。
次に話した時にそのことを謝ると、姉は全くに
気にしていない様子で、驚いたこともある。
救いは、姉が明るい人だったこと。
ストマ(人工肛門))になったことも
お腹にできた新しい肛門(切られた腸の末端)が、
梅干しのように赤いので、「梅ちゃん」と名付け、
ストマの様子を「今日は梅ちゃんが〇◇▽#☆」と話してくれた。
癌になったことも、人工肛門になったことも
ショックなのかどうかも分からないほどだった。
普通は、中々受け入れがたいと思うんだけど。
まだ癌が発見される前、2年前の私の還暦の誕生日。
妻とふたりで予約したレストランに入ると、
姉、姪、甥、甥の嫁4人が全員、黄色やピンクの
カツラを被って席についていた。
大阪から4人でやって来たんだ。
姉が仕組んだサプライズだった。
後になって思うとその日妻がやや挙動不審だったのは、
バレないようにと頑張っていたんだね。
被りもんやパーティグッズが好きで、毎年正月には
そんなものを身に付けては、皆を笑わせていた。
よく息子と即興の漫才もしていた。
最後になった今年の正月は、芸人あぁ〜しらきの
コスプレで、「人工肛門」と書かれた紙のふんどしを
身に付けて、そのふざけた格好で
さだまさしの『奇跡〜大きな愛のように〜』を唄った。
「僕」を「ママ」に替えて、子供たちへの
強力なメッセージだった。
あの格好で、あの歌。シュールだったなぁ。
死ぬまでの1ヵ月、やせ細った姉は、
祖母(父方)に似てると思った。
また違う日には、昨年12月に亡くなった伯母
(母の姉)に似ていると思った。
いずれも一度も似ているなんて思ったことはなかった。
そんな風に血が、昇華していくのかなと思った。
亡くなる一週間前に会った時、
「いらんもんは全部おいて行きや」と声をかけた。
「いらんもん」というのは、来世まで引きずって欲しくない
恨みや苦しみのことだ。
死んでしまってから、姪に聞いたが、姉は、
「●の分も◆の分も(子供ふたり)眞也(私)の分も
いやなもんは全部持って行ってあげる」と言っていたらしい。
姉5歳 私3歳
姉20歳 私18歳(高校3年生の文化祭ライヴのあと)
フルマラソン完走への道 その14
― 筋膜リリースガン
ふた月ほど前、筋肉リリースガンなるものを
ネットで見つけて購入した。
マラソンの練習後の筋肉をほぐすために
買ったが、これが中々良い。
手軽に筋肉をほぐすことができる。
↓
uFit RELEASER Mini(筋膜リリースガン ミニ)
フルマラソン完走のための肝は、私の場合
ひざだと何度も書いてきた。
試しに筋肉リリースガンをひざに使ってみたら、
効果があった。
数年前にふくらはぎの肉離れを起こしたとき、
「ゆらし」という治療法で、みるみるうちに
改善した覚えがあって、もしかしたら似たような
効果があるのではないかと思い、ひざの皿の
下あたりに数分間、軽く当ててみたんだ。
そうすると、触ると痛かったひざの痛みがなくなった。
そして、走っているときの痛みも明らかに軽減した。
本来の使い方ではないだろうから、
注意深く使わないといけないけど。
今日で、本番2週間前。
これからはあまりハードなトレーニングは危険。
今日は、10キロ走った。
本番まで10キロ走るのは最後にしようと思って
走ったが、筋膜リリースガンのおかげで
ほとんどひざのことを気にせずに調子よく走れた。
もしかしたら、これで乗り切れるかもしれないと、
希望が湧いてきたよ。
あとは、本番で初めて体験する
30キロの壁とかいうやつだな。
昨年の100キロ・ウォークで体験した
80キロを超えたときの足の痛みぐらいのことは、
覚悟しているけど、また違うのかな。
あと13日。
10/20 ジョギング 練習記録
距離 10・0キロ
時間 91・6分
1キロ 9分09秒
2024.10.21
ねえちゃんのなかなおり
その参
一昨日にアップした「ねえちゃんのなかなおり その弐」
には、珍しく数名の方から、反応があった。
中学時代のクラスメートで、当時の姉のことも
知っている友人からは、「良い姉弟やったね」との
コメントをもらった。
それを読んで、「良い姉弟だったんじゃなくて、
良い姉だったんだ」と思った。
その日のエントリーに書いたように私は自分が
あまり良い弟であったとは思えないんだ。
姉の友人や知合いの中には、両親の相談を
まともに聞いてくれない、男兄弟がいる人も
いたようで、時々、姉は「眞也が弟で良かった」と
言ってくれた。
私にすれば、親の相談を姉弟でするのは
当たり前のことだと思っていたから、
姉からの電話が来れば、話は聞いてはいた。
でも、姉が私にたびたび電話することは
遠慮していたことも知っていたのに、自分からは、
電話をしたり、LINEを送ったりすることも少なかった。
前回のエントリーに、まだ私達が小さかった頃、
人混みの中で、私が姉に「はぐれるから手をつなごう」と
言っても 姉はふてくされていたことを書いた。
姉の不機嫌の対象は、母だったと思う。
娘と母親の確執による不仲は、珍しくない。
それだけ、娘と母親の関係は難しいんだろうと思う。
私の母親は、毒親と言われるような酷い人ではなく、
私は、母に恨みはない。
もちろん、子供の頃から何度もぶつかったことはあるけど、
それはどんな親子にでもあるレベルだろうと思う。
基本的に自由に生きさせてくれたし、
丈夫な体に生んでくれたことも、
こんな自分に育ててくれたことにも感謝がある。
姉は、ティーン・エイジャーの頃から、たびたび母に
「眞也には甘い」と自分への扱いの厳しさに
反発をしていた。
そのたびに母は「眞也は男の子だから」を繰り返した。
「女の子は、厳しく躾けなければならない」という
母にすれば「正しい」思い込みがあったんだろう。
それが、娘の将来のためであると信じていたんだと思う。
それは、場合によっては、娘の人生に好影響を
及ぼすこともあるだろうが、別の視点で見ると
母親の「思い通りにしたい」というコントロール下に
置かれた反抗期の娘には、理不尽で、自分勝手で、
納得のできない言い分だったと思う。
こんなことは、全て私の勝手な解釈に過ぎないけど、
22歳で「できちゃった婚」などという、母の価値観では
許されないであろうことをやってのけたのも、
姉の母に対する反抗の表現だったようにも思える。
その証拠というわけではないが、母は姉のその妊娠を
「裏切り」と言ったことがある。
「そんな娘に育てた覚えはありません」ということだろうか。
奔放に生きることで、姉は母に対し、母の理想ではなく
「そのままの自分を愛して欲しい」と訴えていたように思えてくる。
私が小学4年生で、姉が6年生だったある日、
家に空き巣が入った。
第一発見者は、夕方、下校してきた姉だった。
明らかに部屋の中に異常を感じた姉は、
母の職場に電話をした。
母の職場は、自宅から自転車で10分程度の所だ。
まだ、泥棒が家の中に隠れているかも知れず、
姉にすれば怖かったに違いない。
母に「すぐに帰ってきて」と訴えたが、
仕事の終業までまだ時間があった(たぶん数10分か
1時間程度だったと思う)。
途中退社すると皆勤に響く(皆勤手当てがもらえない)
ことを気にした母は、すぐには帰らず、仕事が終わってから
帰るので、それまで待っているように姉に伝えた。
「お母さんは私のことより、自分の仕事、皆勤を優先した」
大人になってからも、何度かこの時の話が出たことがあるが、
このことは、姉に深い傷を残したようだった。
何十年経ってもその時のことを赦せていないかのようだったのは、
母が自分より仕事を優先した怒りと悲しみと同時に
自分は十分に愛されていない、と意識の奥深いところで
決めてしまったのかも知れない。
6年生の女の子が、家の中に泥棒が隠れているかも
知れない恐怖と共にいたんだから。
当時は、マイホームを買ったばかりで、母はその返済のために
残業する日も少なくなかったし、それに「皆勤」ということは
母の価値観には、とても重要なことであったように思う。
母は、その空き巣事件から数年後、15年皆勤で表彰された。
本人はそのことを誉に思っていたようだ。
話はそれるが、29歳で初めて就職した私が
勤めた会社には、1ヵ月間 無遅刻無欠勤だと
皆勤手当てが出る仕組みがあった。
たぶん数千円だっと思う。
私はその会社に4年間以上勤めたが、
その皆勤手当てをただの一度ももらったことがない。
4年間、遅刻のなかった月がなかったんだ。
それぐらい朝起きるのが苦手だった。
(安心してください。今は起きられます。)
15年皆勤で表彰される親に、4年間一度も
皆勤手当てをもらえない息子が育つんだよ。
別に反抗していないけど。
ついでに言うと父は、自動車運転について
20年だったか25年だったか、無事故無違反で
交通安全協会から表彰されていたよ。
そんな親にも、何度も反則切符を切られ、
免許停止にもなったことがあるような息子が育つんだよ。
別に反抗していないけど。
話を戻そう。
22歳で結婚した姉は、電車で二駅となりの街に住んだ。
3年ほど経って、離婚後、実家には戻らなかったが、
歩いて数分のすぐ近くに住んだ。
子供ふたりがまだ小さかったので、母に子供らの面倒を
みてもらうことも出来たので、実家の近くに住むことは、
助かったことだろうと思う。
しかし、時折、私には姉と母の折り合いは、
悪いように見えた。
ある程度、子供が大きくなってからのことだが、
姉と母がうまく行かないので、私は姉に言ったことがある。
「そんなにイヤやったら、近くに住まんと離れたらいいやん」
私は、実家から30分ほど電車に乗らないといけない街で
ひとり住まいをしていたおかげで、親と顔を合わすことも
年に数回程度で、親子げんかすることもなくなっていたので、
姉にもその方がいいんじゃないかと提案したつもりだった。
が、姉の回答に驚いた。
「わたし、お母さん好きやで」
あんなにケンカばかりしている(ように見えた)のに
母を好きだと言うことに私は閉口した。
20年ぐらい前、姉は地元に居酒屋をオープンした。
もともとお酒も好きだし、わいわい楽しいことが
好きな人だったので、性に合っていたんだと思う。
その店の名前が「久(ひさ)」だった。
母の名前が「久子」なので、そこから取ったんだ。
姉は本当に母を好きだったんだと思う。
そんな姉が母をおいて、先に逝った。
(つづく)
2024.10.22
ねえちゃんのなかなおり
その四
姉が40代でオープンした居酒屋「久」には、
一時期は母も手伝いで店に出ていた。
父は、お客さんの相手が出来るような
性格の人ではないが、週に何度か掃除をして、
姉からバイト料をもらっていたようだった。
その店を数年前にクローズし、姉は大手スーパーの
店員として働き出した。
しかし、大した給料はなかったんだと思う。
経済的なこと、両親の高齢化も鑑みて、
実家に戻り両親と住むことを決断した。
2017年か18年のことだったと思う。
それからが また大変だった。
一緒に住み始めたはいいが、
母とうまく行かなんだ。
姉が実家に戻って間もなくの頃、
母は薬の副作用だと思われるが、
記憶が時々飛んでいたり、正気なら言わないような
ことを口にしたりしていて、姉にもずい分と
酷いことを言ったようだ。
私は姉に何度か家を出るように進言した。
少しぐらいなら経済的に援助するとまで言ったが、
姉は「私が家を出るということは、私は親を捨てる、
縁を切るということやねん。
その覚悟で(実家に)帰ってきたら」と言って
耳を傾けなかった。
私にはなんだか理解できない決意のようなものを感じた。
私は、母はとても愛情のある人だと思っていたが、
姉の語る子供時代の母は、まるで違う母親の
話のように聞こえた。
それだけ、姉弟でも受け取り方が違ったんだ。
もちろん、母は姉に厳しかったということも大きいと思うけど。
もしかしたら姉は、子供の頃、満たされなかった思いを
高齢の母の面倒をみることで取り返そうとしていたのかも
知れないなどと、勝手な想像をしてしまう。
一緒に住み始めて数年間は、
まだ父が生きていたので、姉は父を心のより所に
出来たと思うけど、2021年春に父が他界してからは、
姉と母のふたり暮らしが始まった。
姉は母と暮らしてみて、
「父が無口だった訳が分かる」と言っていた。
母の若い頃、というか50代60代ぐらいまでは、
そんなに難しい人ではなかったが、やはり高齢に
なってきて、80歳前後ぐらいから、ちょっと人が
変わってきたんだな。
あまりに緩やかな変化で、数年私も気付けなかったけど、
振り返ると、70代後半ぐらいから、そういう兆候が
あったことが思い出される。
そんなわけで、母とのふたり暮らしは
姉にはきつかったと思う。
2年前 2022年10月始め、母(当時86歳)が家の中で転んだ。
念のため病院で検査してもらったらしいが、
異常は認められなかった。
その日の夜、また転んだらしい。
母は2階にいて、姉は1階の部屋にいたらしいが
大きな音がするので、2階に上がってみると
母が倒れていて、意識はあるが立ち上がれない。
姉は、救急車を呼んだ。
ここまで書いて思った。
だんだん、姉の話ではなく、姉と母の物語になってきた。
うーむ。
ちょっと書くことが憚れるような内容に触れそうになってきた。
いったん、筆を置くことにしよう。
続きは、書ける時が来たら。
2024.10.23
フルマラソン完走への道 その15
― スポーツようかん
今まで縁がなかったので知らなかったけれど、
ランニンググッズには、こんなものまであるのかと
関心するほど色々充実している。
そんな中の一つ、ランニング中の
エネルギー補給のための食品。
その名も「スポーツ ようかん」。
味は、あずきとカカオがあって、
作っているのは、あずきバー(アイス)が
人気の井村屋。
あずきとカカオ、両方食べてみた。
走りながらじゃないけど。
味は特筆するほどではない。
袋を破らなくても片方を強く押すと中身が
出て来るようになっていて手を汚さない。
いくつか食べた中のひとつが、封が強かったのか、
先からではなく横のつなぎ目が開いて中身が出てきたよ。
「片手で食べられる」と書いてあったので
ランニング中のカロリー補給にいいなと思い
買ったのだけど、注意書きに
「スポーツ・アウトドアでお召しあがりいただくときは
同時に水分を補給をおすすめします」って書いてある。
確かに水分が欲しくなる。
走りながらやと、あかんやん。
そうか「ランニング中」とはどこにも書いてないわ。
早とちりした。
森永製菓のウインダ―インゼリーは走りながらでも
食べやすい(飲みやすい)が、走りながら
あの小さな蓋を開けたあと、落としそうで面倒。
もともと運動中を想定して作られていないからな。
味の素のアミノバイタルのアミノショットは、
運動中の摂取用で、ちぎった切れ端部分が
本体と離れないしくみで、うまく考えてある。
まあ、私のようなランナーの場合、1分1秒を
競っているわけではないので、立ち止まるか
歩いて飲めばええねんけどな。
2024.10.30
フルマラソン完走への道 その16
― いよいよ今週末
富山マラソン本番まで、あっという間に
あと3日と迫ってきた。
結局、十分練習したとは言えないまま、
本番を迎えることになる。
7月15日に練習を開始して以来、3カ月半で
走った距離は、合計で 360キロほど。
マラソンの練習としては、月に100キロでは
十分ではない。
それに、走ったと言っても1キロ9分台で
本当に遅い。
今日も7・5キロほど走ったが、もっと走りたく
なるところをぐっと堪えてやめた。
練習を始めた頃には、考えられなかったことだけど
この頃は、走っていて数十分経つと楽になって
もっと走りたくなるようになった。
ひざは、7・5キロくらいなら軽く痛い程度で
問題ないけど、これが30キロ 40キロ走ったとき
どうなるかは見当もつかない。
リタイアするとしたら、ひざかひざ以外のどこかが
痛くなって走れなくなり、心が折れた時だろう。
あるいは、痛くても歩いてでも続ける気があったとして
制限時間内にチェックポイントを通過できなくて
失格になるかだな。
目標は、6時間30分だけど、たぶん無理だね。
予想は、6時間45分から7時間ギリギリで
とにかく ゴールできたら、御の字だ。
マラソンは、成功する競技じゃなく、
失敗しない競技だと誰かが言っていた。
練習でもケガをしないよう、無理をしないで、
本番前に走り過ぎないよう、食べ過ぎないよう。
当日は、体調管理から、ペース配分まで、
とにかく失敗しないように気を配るスポーツなんだな。
本番は、11月3日(日)の9時スタート。
ゴールは、16時頃だな。
前日に受付をしなければならないので、
前々日(1日)に富山入りすることにした。
天候が気になるところだが、今の予報では、
3日当日は曇りのち晴れ。
別の天気予報では、雨のち曇り。
前日は、当日に疲れを残さないよう走らないで、
受付に行くだけにしよう。
どうせ雨の予報だし。
(天気予報によって、降水確率 80−100%)
前々日の1日は、少しだけ走ろうと思うが、
天気予報によって、降水確率20%、60%、
80%とまちまち。
時々雨が降るかもな。
当日、走り終わったら、美味いもんを食べようと
思って、お店を調べて数軒予約の電話をしたけど、
当日休みか満席か電話が繋がらないかで
予約は取れていない。
マラソンの影響もあるかもな。
何しろ、マラソンの部が13,000人、ジョギングの部が
1,000人で、合計14,000人(+車椅子マラソン
30人)が参加する。
きっと、あちこちから参加者が来るだろう。
まあ駅前の居酒屋でもいいや。
2週間アルコールを断っているので、飲むの楽しみ。
あと3日。
さて、どうなるか。
富山マラソン 公式サイト
2024.11.4
フルマラソン完走への道 その17
― 完走したぞ!
作日開催された富山マラソン。
フルマラソン初挑戦で、無事完走した。
記録は、6時間44分14秒。
数日前に「予想は、6時間45分から
7時間ギリギリ」と書いたけど、
予想通りのタイムとなった。
終わってみての一番の感想は、「足が痛い」。
達成感や満足がないわけではないけど、
走り切った感動とかはない。
あるのは安心感ね。
もしリタイアしたら、もう一度チャレンジしないと
気が済まないだろうから、
もうやらなく良いという安心感。
「足が痛い」と書いたけど、
昨年の100キロ・ウォークに比べると
それほどでもない。
足の痛さで言えば、100キロ・ウォークの方が
断然 痛かった。
あれは、味わったことのない痛みだった。
でも、翌日の身体は、今回の方が痛い。
100キロ・ウォークの翌日は、
嘘みたいに筋肉痛もなく平気だったけど、
今回はそこそこ痛い。
やはり走るという行為は、歩くより
ハードなんだなと思う。
当たり前か。
それでも足にマメができたりということは
今回もなかったので、良かった。
6時間44分14秒は、自分で測ったんではなくて、
大会側の計測。
ゼッケンの裏にチップが貼り付けてあって、
それで計測してるんだな。
5キロごとにセンサーが設けられていて、
通過すると「ピッ」って鳴ってたから、
5キロごとの記録もあるのかも知れない。
13,000人以上のデータを管理しているわけだから、
すごいシステムだ。
前日、前々日は結構な雨だったのだけど、
当日は嘘のように晴れたよ。
気温も最高で 20度を超えていただろう。
日差しも強く、日焼けのあとがくっきり残ったよ。
Tシャツの袖をまくっていたものだから、
日焼けした肩も痛い。
マラソンにエントリーしたは、14,950人。
当日、何人が走ったのか分からないけれど、
14,000人前後は走ったんだろうと思う。
申込み時に予想タイムを書いたので、
おそらくタイム別にブロック分けされていたんだと思う。
私は、Kブロックで、一番後ろのグループ。
前に1万人以上の人がいるわけだ。
先頭が9時ちょうどにスタートして、
私がスタート地点を通過したのは、9時14分だった。
1万人がスタートするのに14分もかかっているわけだ。
この14分のロスは、チップが計測しているおかげで、
ちゃんと差し引かれる。
スタート前に並ぶランナー
スタート地点を通過
走る前の一番の心配は、ひざのことだったけど、
スタート直前になって、走り出してから、
うんこがしたくなりそうな気がしてきた。
もちろん途中でトイレに行けるだろうけど、
ちょっと憂鬱な感じのスタートとなった。
案の定、走り出して5分ほどで、催してきた。
我慢して走っていたけど、いつまでも我慢できない。
9時35分ぐらいだったと思う。
最初のトイレ(仮設トイレ)に飛び込んだ。
スタートから、私はいつも通りのペースで
ゆっくり走っていたから、その時点で結構 大勢の人に
抜かれていたけど、それでもまだ後ろに数百人はいたと思う。
ところが用を足してトイレから道路に出て、びっくりした。
誰もいないんだ。
後ろにも前にも誰も見えない。
きついタイツを履いていたことや、
お腹の調子のこともあり、用を足すのに
5分ほどかかったとは思うけど、まさか誰もいないとは。
まるでキツネにつままれたような気がした。
沿道では、地元の方々が並んで声援を送ってくれる。
その中を私、ひとりきりで走った。
たったひとりのために沿道両側に並んだ
大勢の方が、「頑張ってー」「ファイトー」と
声援を送ってくれるんだ。
しかも、私のペースが超遅い。
もう、恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがなかったよ。
そうこうしているうちに、私の数十メートル後ろに
車が走って来ていることに気がついた。
大会の車で、最後の走者の後ろを走る車だ。
(げっ!やばい、ホンマにベッタや)
焦ったところでペースが上がるわけではない。
そのうち、前を走るランナーが見え始め、追いついてきた。
そして、後ろから数人のランナーが私を抜いていく。
自分がベッタだと思っていたけど、どうやらまだ後ろいたらしい。
よく分からないけど、スタート時刻に間に合わず
遅れてスタートした人だろうか。
そして、後ろにいた車も見えなくなっていたので一安心。
5キロ過ぎに折り返しがあり、7キロぐらいで、
対向車線を走るその車とそれに続くリタイア者を
乗せるバスとすれ違ったけど、バスにはすでに
おじさんがひとり乗っていたよ。
マラソン・コースには10箇所の関門ポイントが
設けられており、それぞれ閉鎖時刻前に
通過しなければ、失格になる。
第1関門は、スタートから9・4キロの地点で、
閉鎖は10時43分。
いつものペースで走れれば通過できると思っていたので、
あまり気にしていなかったのだけど、
第1関門が目に入った時には、
時計は 10時42分を過ぎていて、
「あと45秒!」という係りの人の声が聞こえて来た。
(えっ?やばい!)
さすがにこの時ばかりは少しペースがあがつたよ。
なんとか 10時42分30秒に第1関門を通過。
あと30秒ですぜ、危ない所だった。
うんこしてたために、第1関門(10キロも走ってない!)で
アウトなんて、笑えるけど、勘弁して欲しい。
それからもペースを変えることなく淡々と
走り続けていると、10キロを過ぎた辺りから、
歩いている人達が現れ出した。
そういう歩いている人達を抜きながら、
とにかく歩かず走り続けようと思った。
20キロ近くになると、もうほとんど人が歩いている。
いや、走っている人達は、とっくに先を行っているんだ、
私のペースで抜かれるような人達は、
マラソン初心者に違いないだろう。
できれば最後まで歩かずに走り続けたいと思ったけど、
さすがに新湊大橋の登り坂は、数百メートル歩いたよ。
新湊大橋(2018年5月の旅行時の写真)
ここは、ほぼ全員歩いてたね。
橋の全長は、3・6キロ、橋げたの高さは47メートル。
この新湊大橋の真ん中辺りが、21キロ(ハーフ)。
あ、それと最初の方の橋の登りも少し歩いた。
でも、全部で1キロも歩いていない。
たぶん歩いたの全部で500〜600メートルぐらいだと思う。
新湊大橋の真ん中、21キロ
第2関門以降は、閉鎖時刻の大体3分から5分前に通過。
まあ、これもギリギリやわな。
何かトラブルが起きたらアウトですわ。
マラソンには、30キロの壁があるとか言われているけど、
35キロを超えた辺りで、足が痛くなってきた。
(あぁ、これのことだな)と思ったけど、
前述の通り 100キロ・ウォークの時の
あの70キロ 80キロの足の痛みに比べれば、
大したことないので、100キロを経験しておいて
良かったと思った。
あの時は、もうやめたいと弱気な自分が出て来たけど、
今回はそんなこと一度も思わなかったからね。
ただ、走っているといっても、超スローで、
目の前をい歩いてる人を中々抜けないということも
何度もあったよ。
つづく
2024.11.5
フルマラソン完走への道 その18
― 完走したぞ! その2
記録は、オンラインで見られるようになっていて、
完走証もオンラインからダウンロードする仕組み。
完走証には、記録(グロスタイム)として
「6時間58分39秒」とネットタイムとして
「6時間44分14秒」の両方が記載されている。
グロスの方は、大会は9時スタ―トだったので、
9時からゴールした時刻までのタイム。
でも、昨日書いた通り、私がスタート地点を通過
したのは、9時14分を過ぎていたので、
その分を差し引いたのがネットタイムというわけだ。
完走証には、5キロごとのタイムも記載されているし、
ネットでは、速報(参考記録)としてだが、
5キロごとのラップまで表示されている。
計測ポイント スプリット ラップ Start 00:14:25 5km 01:03:31 0:49:06 10km 01:47:26 0:43:55 15km 02:33:28 0:46:02 20km 03:21:56 0:48:28 中間 03:33:01 25km 04:09:43 0:47:47 30km 04:58:04 0:48:21 35km 05:47:20 0:49:16 40km 06:37:14 0:49:54 Finish 06:58:39 0:21:25
最初の5キロに49分かかっているのは、
昨日書いた通り、「魔のうんこタイム」に
5分ほど使ったからだ。
実際には次の5キロ同様44分程度だっただろう。
しかし、そのあと見事にペースが落ちて行っている。
20キロが 25キロより遅いのは、
新湊大橋の登り坂のせいだろう。
35キロ以降は、ほぼ1キロ10分だ。
ゴール間際の私を妻が撮影してくれた動画を見たが、
どう見ても 走っているとは言えないような、
情けないスピードとフォームだった。
それでも、自分としては歩いてはいないんだけどね。
横を歩いている見知らぬランナーと同じスピードだったよ。
それから、 完走証には、順位も記載されている。
種目順位(男子マラソン)では、10139位。
総合順位では、12765位。
うーむ、分かっているけど遅い。
でも、きっとうんこ直後からは、
2千人近く抜いたということか。
もらったマラソンのパンフレットによると
マラソン、ジョギング、車椅子マラソンの
合計エントリー者数は、16,122人!
マラソンは、14,950人。
都道府県別に見ると東京から1,021人が参加。
富山県の次に多い。
富山県の人は、9,704人とあるから
6千人以上の人が全国から集まって来るんだな。
外国人も90人以上エントリーしている。
年齢別で見ると60代は 1,748人。
結構な数だ。
70代が 300人、80代が 12人、90代が 1人。
(マラソンの部じゃなく ジョギングの部かも知れないけど。)
男女比で見ると、男性が 12,194人に対し
女性が 3,928人と3分の1程度なのはなぜだろう。
それにしても、このパンフレットを作るだけでも
大変なことだろうなと思う。
それだけ、多くの人が関わり、多くのお金が
動くということだ。
大会の準備の凄さも感心した。
まず1・5〜2キロぐらいごとにトイレが設置されている。
給水は、13箇所もあるので自分で水を持っていなくても
心配なかった。
給食もおはぎ・アンパン・かまぼこ・いなりずし・飴・
チョコレートなどなど充実してたよ。
それも食べながら、事前に準備していたゼリー類も
食べながら走ったので、エネルギー的には
全く不足なく走れたよ。
つづく
2024.11.7
フルマラソン完走への道 その19
― 富山入り
初めてのフルマラソン、結果はすでに書いた通りだが、
富山に入った前々日、前日振り返ってみたい。
富山マラソンの受付は、当日ではなく、
前日に済ませなければならない。
なので、前日には富山に入っている必要が
あったのだが、どうせなら少し観光や撮影もしようと、
前々日に富山入りすることにし、ホテルを予約した。
最後の練習は、前々日に軽く富山市内を
走るつもりでいたのだが、あいにくの雨だった。
仕方なく、昼間に東京で5キロほど走った。
東京は、雨が降っていなかったんだ。
なんだかんだで、家を出たのは17時。
電車に乗ってから、スマホで新幹線を
予約しようとすると、18:24発「かがやき」の
指定席は売り切れ。
仕方なくグリーン席を取ろうとしていると
手続中にそれも売り切れてしまった。
18:04発「はくたか」は、各駅停車なので
到着時間は、18:24発の「かがやき」よりも
40分程遅い。
20分も先に出発するのに。
(「はくたか」は途中で「かがやき」に抜かれる。)
しかし、それに乗らないと東京駅で 19:24まで
待つことになるので、18:04の「はくたか」に乗ることにした。
こちらも指定席は売り切れで、グリーン席しかなかった。
北陸新幹線は、東海道新幹線に比べて
本数が少ない上、三連休前の金曜日の夜だから
混んでいたのかも知れない。
富山駅に着いたのは、20:53。
当初、夕食は富山で美味いもんをと思っていたけど、
結局 駅弁で済ませたし、あとは寝るだけやん。
これやったら、前々日に来んでも、
前日の富山入りでも良かったやん、とひとり思う。
富山は、天気予報通りの雨。
翌日、マラソンの受付へ。
受付会場は、ホテルから徒歩10分ほどの
富山市総合体育館。
ほんの10分ほどの距離なのに、傘を差していても
ひざから下がびしょびしょになるほどの雨。
天候が良ければ、イベントが予定されていたんだろう。
通りにテントが張られているが、あいにくの雨で
中止だった。
受付会場には次々とランナー達がやってくる。
ゼッケンや、Tシャツなどをもらう。
会場では「富山マラソン EXPO2024」と称して、
イベントが組まれている。
ステージではトークショーなどがあり、出展ブースでは、
地元の自治体や企業、スポーツ用品の販売などが
行われていて、結構盛況だった。
本番中の栄養補給用のゼリーを持って行ってだけど、
思わず「フルマラソン完走6点セット」を購入。
気のもんだから。
スタート1時間前、30分前、10キロ、20キロ、
25キロ、30キロにエネルギーを補給するように
6種類のゼリーなどが、セットされているんだ。
あと、テープも持って行ってたけど、
「KTテープ」というテープを購入。
なんとなく効きそうだし。
気のもんだから。
受付後、翌日まで時間はたっぷりあるけど、
雨でどこへも行く気がしない。
駅ビルなどを少し散策した後、
ホテルに戻り大人しくしていることにした。
受付でもらったTシャツにゼッケンを付けてみる。
受付でもらったパンフレットには、出場者全員と
思われる人たちの名前が記載されていたよ。
もちろん私の名前もあったよ。
フルマラソン完走への道 その20
― 色々
走っていて感じたことなど。
沿道の地元の方々の応援は凄かった。
家の前に出て、ただ見ているだけではない。
ほとんどの人が声を出し、うちわなどを振ったり、
なかには飴やチョコレートなどをくれる人もいた。
その応援の人の多くが、私の目を見て、
「がんばれー」「ファイトー」「ナイスラン」と
声をかけてくれているように感じた。
「ナイスラン」ってなんやねん。
それから、団体の応援。
中学や高校の吹奏楽部、ダンス部、応援部、
チアリーディング部、町の曳山(山車)など
数時間にわたりやるわけだから大変だったと思う。
スタート時には、富山県警察音楽隊の演奏があった。
私のスタート待機地点からは、
スピーカーからの音しか聞こえなかったけど。
ランナーの中には、着ぐるみの人もいた。
あんなので最後まで走れるんだろうか。
きっと本人カッコ悪いと思てるやろな、と思ったのは
「ぜったい歩かない」とプリントされた Tシャツを着て、
歩いていた若者。
走っていてイヤだったのは、給水ポイント。
コカ・コーラがスポンサーの一社のようで、
水(ミネラルウォーター)とスポーツドリンク
(アクエリアス)が紙コップに入れられて、
テーブルに並べられているんだけど、
走りながら紙コップで飲むの難しいんだな。
だから皆、地面にこぼす。
水のところはいいけど、アクエリアスのコーナーは、
もうアスファルトがベタベタで、そこを通過すると
しばらく靴の裏が、地面にベッタベッタと
引っ付いて、気持ち悪かった。
やはり 42・195キロは、過酷なんだと思ったのは、
途中で車椅子に乗っていた人や
しゃがんで吐いていた人を見た時。
また、30キロあたりだったか、救急車が待機しているのを
見たけど、あれは念のための待機だったのかな。
妻は、ゴール前で1時間ほど私のゴールを
待ってくれていたらしいけど、その間に担架に
載せられて運ばれるランナーも見たらしい。
幸い私は、件のうんこ以外は、何ごともなく、
心配だったひざの痛みも大したことはなく最後まで持った。
ひざに対しては、サポーターを付けて走ろうか
どうしようかと直前まで迷ったけど、
テーピングした上にタイツを履くことで対処したが
それで十分だったようだ。
バルセロナ五輪で銀、アトランタ五輪で銅メダルの
有森裕子さんがゲストだった。
ゴール前で待ち受けてくれてて、凄い応援を
してくれてた。
ゴール前に有森さんとハイタッチしたよ。
100キロ・ウォークの後は、一歩も歩きたくないほど
足が痛くて、ゴールからタクシーで自宅へ帰ったが、
マラソンの後は、ホテルに戻ってシャワーを浴びて、
食事に出かけたよ。
2週間ぶりのアルコール。
寿司食いながら、ビール、日本酒ね。
あいにく、お店が予約できず、駅ビルのフードコートの
寿司だったけど、さすがは富山、美味しかったよ。
値段もそれなりね。
本番の翌日は、ゆっくりしか歩けないほど
身体が痛かったけど、その翌日には
全く回復していて自分でも驚いた。
走れるほど、普段の状態に戻っていて
もう筋肉痛もなかった。
もしかしたら、めちゃくちゃ頑丈な身体ではないかと
思ったけど、一応、マッサージに行って
身体をほぐしてもらった。
太もも、背中と腰が固まっていると言われた。
スタート地点の壇上の一番右側で両手を振り上げている有森さん
スタート前、男子トイレに並ぶ列
コース終盤の応援ののぼり旗
ゴール直前(時計は 6:58:31)
結局、制限時間が7時間だったから完走出来た。
6時間だったら、アウト(失格)だもんね。
でも、日本のマラソンの多くが制限時間6時間で
開催されているんだ。
マラソンのためには、道路を通行不可に
しなければならないので、特に都会では
そんなに長時間、道路を止めるわけには
いかない事情があるんだと思う。
そんな初心者に優しい大会だから、
大勢の初心者が参加しているのかも知れない。
ただ1万人定員と発表しておいて、
抽選や先着にせずに1万4千人も
エントリーさせるのは、どうしてなのかな。
参加者が多ければ多いほどお金(参加費)が
集まるのは分かるけどね。
(参加費は 1万3千円)
ひとつ残念だったのは、スタートして数分で
道が急に細くなるところがあって、そこで
ランナーが渋滞してほんの少しの時間だけど
停まってしまったこと。
あれは、どうにかならないかな。
それ以外は、私は他の大会に出たことがないので、
比較できないけど、概ね快適で良く準備されていた
大会だったと思う。
リピーターが多い(と聞いた)のも頷ける。
ただ大会のアンケートサイトを見ると、
結構厳しい意見も散見される。
「風が強い」とか、そんなん大会の運営側の
責任ちゃうと思うけど、だからコースを変えろと
いうものもあったよ。
再度フルマラソンに参加するかどうかは、
今は分からないけど、ハーフなら出ても良いと思う。
せっかくだから、ジョギングは続けたいし、
目標がある方がやりがいがあるからね。
ということで、「フルマラソン完走への道」は、
完了とします。
あー とにかく 完走出来て良かった。
さて、来年は何にチャレンジするかな。
2024.11.16
PROTEIN
プロテイン
マラソンを完走する身体つくりのために
2ヵ月ほど前からプロテインを摂り出した。
肉を食べていれば、食べただけタンパク質は
摂れていると、何の知識もなく、
調べたこともなく、思っていたが違うんやな。
例えば、ステーキを100グラム(焼く前)
食べたとして、含まれるタンパク質は、
約20%、つまり20グラムだ。
しかし、そのステーキに脂身が20グラム
付いていたとすると赤身は80グラムなので
タンパク質は、16グラムということになる。
毎日毎日、1ポンドのステーキを食べるわけには
いかないし、脂質の問題もある。
高タンパク低カロリーと言われる食品
(鶏のささみ、胸肉、魚類)などを
普段から摂取していても、そんなに毎日食べるのは
現実的ではないので、タンパク質は中々足りていないようだ。
で、プロテインを1日に30〜40グラムほど
摂り出して2ヵ月ほど経ってあることに気づいた。
筋肉も少しは付いたのが分かるけど、
それはトレーニングの成果が大きいだろう。
でも、何もしていないのにプロテインを
食べているだけで変わったことがある。
それは、爪。
私の爪は、とても柔らかくギターを弾くときも
注意しないとすぐに割れてしまうのだけど、
ちょっと硬くなっていることに気づいた。
それは、爪を切るときの音と手ごたえで気づいた。
割れなくなったわけではないだろうけどね。
ナイロン弦のギターだと気が付かなかったけど、
昨日、久しぶりにスチール弦のアコギを弾いたら、
感触が違う感じがした。
明らかに爪のせいだ。
なるほど爪も髪の毛もタンパク質だというのは、
聞いたことがある。
待てよ、するとこれから毛が生えて来るのか?
ないない。
それはない。
スキンへッドにして30年。
むしろ、髪が増えてきては面倒だ。
ところで、プロテインには大きく3種類あるようだ。
ホエイプロテインは、牛乳のタンパク質から抽出されたもの。
カゼインプロテインも、牛乳由来だが種類の違うタンパク質。
そして、ソイプロテインは大豆由来のタンパク質。
それぞれに特徴がある。
吸収の早いのが、ホエイプロテイン。
緩やかに吸収されるのが、カゼインプロテインと
ソイプロテイン。
ソイプロテインは水に溶けにくいので、
やや飲むのが面倒だ。
ホエイとソイと両方買ったけど、ついつい
簡単に溶けるホエイを飲んでします。
また、これがカフェオレの味が付いていて飲みやすい。
REYSというメーカーのものだが、カフェオレ味を
飲み切ったので、ミックスベリー風味を
買ってみたら、あんまり好みの味ではなかったわ。