2021年 エッセイ
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2021.2.16
校則問題に思う 個の発展
「頭髪は清潔な印象を与えるよう心がけること」
「パーマ・染色・脱色・エクステは禁止する」
と校則に定められていた大阪の府立高校で、
地毛が茶色だった女子生徒が、
髪を黒く染めることを指導された。
染めても不十分だと、授業への出席や
修学旅行への参加を認めないこともあったという。
その女子生徒は、校則は憲法13条が保障する
自己決定権を侵害するものだと訴訟した。
朝日新聞によると「学校側は、『染色・脱色』は、
生徒の関心を勉学やスポーツに向けさせ、
『非行防止』につなげるという教育のためで
適法だと反論」していたらしい。
非行防止?
本気か?
訴えでは、慰謝料など約220万円を求めていたけど、
今日、府に33万円の賠償を命じる判決が出た。
そういえば、以前にも東京の都立高校で
「地毛証明書」なるものを
生徒に提出させているという記事について、
ここで触れたことを思い出した。
私がこの件で思うのは、
時代が変わったなぁという感慨である。
私の中学高校時代にも、今から思うと
結構なとんでもない校則があった。
中学校では、靴下は白でなければならず、
ラインが入っている靴下は「校則違反」だった。
男子生徒は、わざわざズボンを上げ、
風紀検査という名の靴下チェックがあった。
時々、ライン入りの靴下を履いてきていた生徒は、
当然、注意を受けた。
母が、「ライン入りの靴下の方が安いのに」と
ぼやいていたことを覚えているが、
父兄だって、学校のいうことは絶対で、
学校側に疑問を唱えたり、改善を求める声はなかった(と思う)。
学校側に異を唱えるなど、
おそらく危険な事だったのだろう。
私の通った中学校は、丸刈りで、
指で挟んで髪の毛がはみ出すようであれば、
職員室に連れていかれ、バリカンをかけられた。
(散髪代、浮くやん。)
あれから40年以上の時が流れ、
日本の全中学校で丸刈り校則が廃止されているようだ。
あの当時(1978年)でさえ、大阪市内の高校に
進学すると、丸刈りではない公立中学を卒業して
来ている生徒の多さに驚いたものだ。
だって、私なんぞは日本中の中学校が
丸刈りくらいに思っていたから。
ということは、学校(or 自治体)によって、
丸刈りは非行防止にもなるし、
そんなことは、関係ないという考えもあったということになる。
前述の記事にはこんな記述もある。
↓
ある府立高校の校長は「進学校の子だと
『おしゃれ』とされる茶髪でも、勉強が苦手な
学校の子だと『ガラが悪い』と見られがちだ。
偏見がある以上、校則で髪の色を定めることは
生徒を守ることにつながる」と話す。
校長、本気か?
自分の偏見には気が付いていないのか?
仮に「ガラが悪い」と見られたとしよう。
だから、どうしたというのだろう。
守りたいのは本当に生徒か?
またウィキペディアには、こんな記載もあった。
↓
学校側は、生徒の代理人弁護士に
「たとえ金髪の外国人留学生でも、
規則で黒染めさせることになる」と説明した。
(たぶん同じ裁判。)
おいおい、本気か?
世界を敵にまわしても校則を守らせる気か。
こういう化石みたいな考えが、
東京五輪組織委員会会長にも
あんな発言をさせているような気がしてならない。
過去には、こんなこともあったようだ。
↓
奈良県生駒市立中の
女子生徒が黒染めは体罰だとして市に賠償を
求めた訴訟では、大阪地裁(11年)が
「教育的指導の範囲内」として請求を棄却、
最高裁で生徒側敗訴が確定した。
(元記事)
それから10年、今回の判決は意味のあるものではないだろうか。
訴訟に踏み切った元女子生徒の勇気と行動力を称えたい。
そんな人たちが、世界を変えてきたんだと思う。
高校生(厳密には、元生徒)が、
校則をめぐって、府を訴えるなんて、
私の時代には考えられなかった。
厳密には、あの時代にもそういう人はいただろうから
私の時代ではなく、私には考えがおよばなかった
世界ということだけど。
今になってこういう校則の報道に過敏に反応するのは、
当時、校則に不条理を感じながらも何も(先生に質問さえ)
しなかった自分のふがいなさが根っこにあるような気がする。
2021.2.17
高校中退に思う 個の発展
将棋の藤井聡太二冠が、高校を自主退学
(中退)したことがニュースになっている。
本人は、「将棋に専念したい」と、
その理由を述べているようだ。
彼は、3年生なので間もなく卒業なのだが、
卒業を待たずの中退に賛否の声が
あるようだが、私は「天晴れ」と言いたい。
「あと2ヶ月だから、卒業だけはしておこう」なんて、
そんなヤワな考えを持つ者は一流ではないと言いたい。
卒業目前の中退。
それでこそ、型破り。
それでこそ、自由。
それでこそ、解放だぁ!
テレビの報道番組では、マイクを向けられ、
「残念だ。高校は卒業して欲しかった」と
答えるじいさんが映っていたが、
その考えの方が残念だと言いたい。
高校を卒業したから、あるいは中退だから、
一体なんだというのだろう。
そんなこと、プロの棋士には全く関係ないだろう。
100歩譲って、仮に彼にプロとしての限界が
やってきたとしても、「中退だから」その後の人生を
生きていけないわけではないだろう。
全く何のマイナスにもならないと思う。
むしろ、プラスだ。
多くの人にとって価値ある「高校卒業」が
重要でないということは、
常人ではないという証しやからな。
こんな風に過剰に反応するのは、
専門学校に1年通って「ここは、
自分のいる所じゃない、中退しよう」と
思ったのに「卒業だけはしときなさい」という
親の言葉に従った自分のふがいなさが
根っこにあるような気がする。
あれ?
なんか昨日 書いたことと似てきたぞ。
ところで、何かのイベントで
「将棋の神様に何をお願いしたい?」という
質問された藤井聡太二冠。
他の棋士が「強くして欲しい」
「全ての対局を勝ちにして欲しい」などと
答える中、彼の答えはあまりに素晴らし過ぎる。
「将棋の神様がいるなら、お手合わせ願いたい」
フジイ!
高校なんか、やめちまえ!
あ、やめたのね。
2021.4.29
「悩む」と「考える」
今日は、妻が講師を務める「哲学塾」という
イベントに参加してきた。
哲学塾は、学校で教えているような
哲学の歴史を学ぶ場ではなく、
「誰もが哲学者」という視点に立ち、
日常生活を哲学し、自分を知り、
自分の「個」を発展していこうという塾で
毎月東京か名古屋で開催されている。
今日は、会場とZOOM合わせて、約40名ほどの参加だった。
参加者と講師のやり取りを聴いているうちに
こんなことを思い出した。
子どもの頃、母に「哲学って何?」と聞いたことがある。
たぶん小学生だっただろう。
母はこう答えた。
「人間は、なぜ生きているかを考える学問で
考えすぎると分からなくなって自殺してしまう人もいる」
そう聞いた私には、哲学は難しい学問になってしまった。
58歳の今なら、「哲学」がその人を
死に追いやったのではないことぐらいは、分かる。
たぶんだけど、考えすぎて分からなくなって死んでしまう人は、
考えていたのではなく、悩んでいたんだと思う。
とすると、疑問がわいた。
「悩む」と「考える」の区別は何だろう?
今まで「悩む」ことも その解決策を「考える」ことだと
思っていたが、そうではなさそうだ。
「悩む」と「考える」が違うのは分かるけど、
違いが言葉にできない。
講師に質問してみた。
彼女の回答。
「悩む」は、過去の追憶。
「考える」は、今の反復。
来るところが違う。
つまりこういうことだ。
「自分は、何のために生まれてきたんだろう?」
という問いがあったとする。
生きていてもイヤなことばかり、
生きていたって、何一つ良いことがない。
私は、何のために生まれてきたんだろう?
という問いと
人は何か目的を持って生まれてきたとしたら、
自分に生まれてきた使命があるとしたら、
私は、何のために生まれてきたんだろう?
このふたつは同じ「何のために生まれてきたんだろう」
という問いであっても、来るところ(質問の背景)が、
全くが違う。
「何のために」の対象が違うので、問いの本質が違うわけだ。
前者は「悩む」であり、後者は「考える」だ。
後者は「創作」と言っても良い。
来るところが違うと、同じ文言の問いであっても、
欲しい答えも違う。
そして、どちらの問いにも正解がない。
なるほど、「悩む」と「考える」が区別できると、
悩んでいる最中に「これは考えているんじゃなくて
悩んでいるんだ」と気付く可能が出てくる。
本来「悩んでも仕方がない」と思っているので、
自分が「考え」ではなく、「悩み」に陥っていると
自覚出来たら、悩むことをやめられるかもしれない。
悩みの種は、死ぬまでなくならないとしても、
悩まなければ、それはもはや悩みの種ではなくなるぞ。
まあ、そんな簡単やないやろけど、
試してみる甲斐はありそうだな。
2021.5.26
えせ社会派ですが。
自分が死亡した後、まだ使える眼球の角膜を
角膜移植待機している患者に提供する仕組みがある。
日本アイバンク協会は、角膜移植とアイバンクの
啓発、普及のための公益法人だ。
27~28年前だけど、大阪在住の頃、
あるセミナーに参加中に集まったグループで、
プロジェクトを立ち上げた。
それはセミナーの課題でもあったわけだが
私がメンバーを集めたバンドでライヴをし、
アイバンクの登録者を募ろうというものだった。
どういう経緯で、アイバンクと結びついたのかどうか
全く覚えていないが、当日は100名ほどの
お客さんを集め、日本アイバンク協会からも
人を招いてお話をしていただいた記憶がある。
確か「愛」と「eye」をかけて、
「愛eye プロジェクト」とかそんな名前だった。
今の妻の仕事が「アイアイ」という言葉に
代表されることを思うと不思議な感じだ。
それはさておき、そのイベントが新聞に
小さな記事で取上げられたことで
グループのメンバーの一人が、私のことを
「社会派ミュージシャン」と言った。
もちろん、本気で言ったのではなく、
からかって言った言葉だった。
私は、ふだん全く社会派ではない。
でも、そんな私に「社会派」という響きは、
妙に心地よかった。
何かの度に「つつみは、社会派やからな」と
言われると、社会派の意味も良く分からないくせに、
「そうそう、オレ、社会派やからな」という
やり取りを楽しんだ。
この「ひとりごと」をずっとお読みくださってる読者なら
私が社会派ではないことは分かるだろう。
そんな私でも、この場に及んでの
オリンピックの開催には反対の立場だ。
もう一度、延期でも構わない。
とにかく今年開催するのは、
余りにも無理があると思っている。
ここへきて、代々木公園に大規模な
オリパラのパブリックビューイング会場を作るために、
公園に植えられている木々の枝を切る
作業が始まったという報道を観た。
密を避けろ、人流を減らせ、と言っているのに
パブリックビューイング会場?
何を考えているんだろうか。
そんなことだから、緊急事態宣言でも
効果があまり出ず、内閣の支持率も
下がっているのではないか。
パブリックビューイング会場は、
内閣の管轄ではないのかもしれないけど、
政府にしろ、東京都にしろ、組織委員会にしろ
もうちょっと考えても良いのではないか。
どこの責任かよく分かってないのに
こんなこと書くのもどうかと思うけど。
そんな風に持って行き場のない憤りを感じたので、
思わず「代々木公園の木々をオリンピックから
守りましょう」というキャンペーンに賛同したよ。
↓
代々木公園の自然を破壊する、東京五輪2020
ライブサイト計画の中止を求めます
関連記事:「自然破壊」と批判殺到。
代々木公園で東京五輪関連会場建設へ、樹木の剪定作業が始まる。