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つつみしんやのひとりごと 2013年 エッセイ
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2013.1.14

春菊と菊菜

私は、食べ物に好き嫌いはない。

厳密に言うと、好んで食べるもの、

または 好んで食べないものはあるのだが、

「ピーマンが苦手」 「にんじんがダメ」 という風に

一般的な食材で、食べられないものはない。

これは、私が子供の頃、母が好き嫌いを

けっして認めず、何でも食べるよう厳しかった

おかげでもある。

与えられたものを全部食べないと、

許してもらえず、嫌いなものを泣きながら、

食べていた覚えがある。

さて、そんな私が好んで食べないものに、

春菊、菊菜、三つ葉、パクチーなどがある。

いずれもちょっと癖のある野菜だ。

もう今では、頑張って食べることはせず、

気が進まなければ残すこともあるが、

やはり積極的には食べたくないものだ。


今年の元旦、京都の旅館での夕食は、

お正月らしく、豪華なお鍋だった。

そこには当然、春菊が盛られていた。

その時、仲居さんの話で初めて、

「春菊と菊菜は同じもの」 ということを聞いた。

ということは、私の好んで食べないものが、

ひとつ減ることになる!

それはええ話や、と思い、調べてみると、

確かにウィキペディアの 「春菊」 の頁にも

 香りと葉や花の形から、
 関西では菊菜(きくな)とも呼ばれる。


と書かれている。

そうかぁ、まだまだ知らんこと多いなぁ、なんて

思って、色々調べていると

「春菊と菊菜は、違うもの」 という記述も出てきた。

例えば 「なす」 でも 「丸茄子」 と 「長茄子」 のように

地域により色んな形・大きさがあるように

「春菊」 にも種類があるようだ。

大葉種、中葉種、小葉種と品種があることは、

ウィキペディアにも書かれている。

主に関西で栽培され、関西で 「菊菜」 と呼ばれている

ものは、細かく枝分かれするタイプ で、

関東で一般的な春菊は、主枝から枝が伸びてくる

タイプのようだ。

味、香りはほぼ同じだが、太い主枝の有る無しで、

食感は違うようだ。


でも、京野菜を売っているサイトで、

「品名 : 京菊菜」 としておきながら、

パッケージの写真には、「京のやさい しゅんぎく」 と

書かれているものもあったし、

同じ料理に春菊と菊菜、両方が、お皿に載ることは

ないやろから、結論は、厳密には違うけど、

一般的には同じものということだな。





2013.2.12

あきらめない

若い頃、こんな例え話を聞いた。

ある地域に住む部族は、雨が降らない日が続くと、

雨乞いのダンスを踊る。

彼らが踊ると、必ず、雨が降るというのだ。

なぜか。

それは、雨が降るまで踊り続けるからだ。

この話は、「あきらめなければ達成できる」 ということの

例えに使われていた。

「あきらめなければ夢はかなう」 という言葉を

成功者は時々使うが、金メダルは 1つしかない。

あきらめなければ、手に入れられるほど、

世の中甘くはないだろう。

確かに成功した人は、あきらめなかった人たちだ。

それは間違いないが、あきらめなかっただけでは、

夢はかなわないと思うのは、あきらめた人間の

負け惜しみか。


昨日、たまたま観ていたテレビ番組に、

宇宙飛行士の星出彰彦さんが出演していた。

星野さんは、日本人7人目の宇宙飛行士で、

2008年と昨年と2回、宇宙へ行かれた。

昨年は、4ヶ月間の長期宇宙滞在だったようだ。

彼は、宇宙飛行士のテストに二度落ち、

三度目のテストで合格した。

そんな星野さんは、子供たちへのメッセージとして、

「あきらめずに夢を実現してください」 と言いながら、

こうも言った。

 あきらめなければ、何でもかなうわけではない。
 でも、あきらめてしまったら、そこで道は閉ざされる。


う〜む、「あきらめなければ夢はかなう」 というより、

よっぽど、重い言葉だ。


ちなみに、ウィキペディアによると、

三度目の日本人宇宙飛行士テストは、

応募者864名の中から候補者として採用されたらしい。

競争率864倍・・・。

そして、テストに合格してから、何年もの訓練があるわけで、

テストに合格した全員が宇宙に行けるわけでもないやろう。

そんなわけで、ますますこの言葉は重いのだ。

 あきらめてしまったら、そこで道は閉ざされる





2013.2.16

二郎の不思議

先日観たドキュメンタリー映画、

『二郎は鮨の夢を見る』 は、銀座の鮨店、

「すきやばし次郎」の店主、小野二郎さんを

撮ったものだった。

映画を鑑賞した日の 「ひとりごと」 には書かなかったが、

うっすらと疑問として残されたことがあった。

2人の息子さんたちがまだ子供の頃のこと。

二郎さんが朝出かける時は、子供らはまだ寝ているし、

仕事を終えて夜遅く帰宅すると、子供らはすでに

寝ていた。

子供らと顔を合わすことがあまりなかったようだ。

そんなわけで、たまの休みの日にゆっくり寝ていると、

子供らが母親にこう言ったらしい。

「知らないおじさんが寝ているよ」

二郎さんは、仕事一筋であったようだ。

私が 「うっすらとした疑問」 と書いたのは、

そんな仕事一筋の父親を見ていた子供たちが、

なぜ2人とも鮨職人になったか、ということだ。

浅はかに考えるなら、自分はもっと家族と過ごせるような、

仕事に就きたいと思うのではないだろうか。

(確かに浅はかだ)

二郎さんは子供らと一緒に過ごす時間は、

少なかったけど、非常に愛に満ちあふれていた、

ということも、もちろん考えられるわけで、

仕事熱心なお父さんが、皆、家族をないがしろに

しているわけではないだろう。

でも、テレビドラマなどで、高校生くらいになった子供

(なぜか、この場合は女子) が、

「お父さんは仕事ばかりで、私たちのことを

かまわなかったじゃないの!」 と非難するシーンは、

珍しくない。

往々にして、そういう場面で父親は、

「誰のために働いてると思ってるんだ!」 と

言ってはならない言葉を口にしてしまったりする。


昨日、ある人と話していて、

私の 「うっすらとした疑問」 が解けた。

その人は、「休日なんて要らないくらい仕事は楽しいもの」 と

いう風に生きている人だ。

その人の話を聞いていて、

仕事人間に2種類あることに気付いた。

一つは、仕事が好きで、楽しくて楽しくてしょうがない人。

もう一つは、家族のために自分が犠牲になって、

一生懸命 仕事をしている人。

後者も仕事は好きかも知れないし、

「犠牲になって」 というのは、言い過ぎかもしれない。

でも、この2つの違いは大きい。

仕事が楽しい人は、人生が楽しい。

一方は、後者の人生は、いささかつらそうだ。

人生を楽しく生きている父親の背中を見て

育った子供と、つらい人生を送っている父親の

背中を見て育った子供の、人生の選択は、

当然違ったものになるだろう。


話は、二郎さんに戻る。

彼は、「仕事は好きでなきゃ」 と言った。

そして、四六時中、鮨のことを考えて生きてきた。

もちろん、犠牲者としてなど働いていない。

息子さんたち2人は、

人生でそこまで打ち込める仕事をしている父親の

背中を見て育ったわけだ。

彼らの選択にもうなずけるのだった。





2013.2.27

見えない世界

私の知り合いには、霊が見えてしまうという人がいる。

本人は、見たくないのに見えてしまうらしい。

また、祖母が深夜に部屋に現れ、部屋の中を

正座したままフワフワと飛ぶのを見たという友人もいる。

その夜、友人の祖母は田舎で亡くなったそうだ。

さて、私はそういう体験もなく、

霊やこの世のものではない何かを見たことはない。

霊感は強い方ではないと思うのだが、

そんな、見えない私でも 感じることはある。

時々、夜1時間ぐらい家の付近を散歩することがあるが、

ある路地に差し掛かると、決まってゾクゾクッと

寒気がする。

その路地に入るまでは、全く何も感じなかったのに、

その路地に入ると、(なんか、おるな) と感じ、

その路地を抜けると、その感じはなくなるのだ。

2〜3回、そういう体験をすると、

そこは避けるようになる。

そういうのは初めてのことではなく、前の家に住んでいた時も、

同じようにゾクゾクする道があった。

不思議なことに、昼間通っても何も感じないが、

夜だと毎回決まって、そのイヤなゾクゾクがあるのだ。

住宅街なので、その路地や道路沿いにも

家は建っており、住んでいる人たちはいる。

住民たちは、何も感じないのだろうか、

それともむしろ、そこにいる何かに護られているのだろうか・・・。





2013.3.12



人間は、どこまで自分が正しいと言い張りたいんだろう。

例えば、Aさんが Bさんの些細なミスを指摘したり、

非難したりしたとする。

第三者 (私) から見て、

(そんなこと わざわざ言わんでええやん)

と思うようなレベルのことだ。

Aさんの言い分は、もっともかもしれないが、

(べつにどっちでもええやないか) というようなことだ。

だが、Aさんは、意図的にか無意識にか

自分の正当性や正義を言葉にする。

おそらく無意識だろう。

それを見ていた私は、とたんに Aさんに対し

言いたいことが出てくる。

忠告、と言えば聞こえはいいが、

実際には非難だ。

(Aさん。そんなこと言う必要ないでしょ。

あなただって、そういうミスをすることもあるだろうし、

そんな小さなこと一々言うことないでしょ!)

と。

いや、実際の心の中の言葉は、

もっと汚く、ひどい。

ほとんどの場合、実際には口に出さないが、

そんな 「反応」 が自分の中に起こる。

その反応のさ中にいる時、

私は自分を 「正しい」 と 思っている。

「思っている」 と書いたが、実は 思ってなどいない。

思ってなどいないぐらい、思っている 。


しかし、一息つくとその自分の 「正しい」 意見、

言い分が、ついさっき Aさんが Bさんに向かって

言ったことと同レベルであることに気付く。


そして、自分のエゴに辟易する。





2013.3.14

Oh My God!

言葉は、生き物だ。

どんどん、新しい言葉・言葉遣いが 生まれていく。

それらを生み出すのは、決まって 子供や若者だ。

週一で勉強をみている、小学6年生の K君が、

言った。

「やべぇ。オーマイガァ した。」

彼が発明したのかどうかは知らないが、初めて聞いた。

私の少し前の世代なら、

「失敗した」 「間違った」 と言っただろう。

私の世代なら、

「ミスした」 か 「ミスった」 かな。

「ミス」 という英語が 「ミスる」 という日本語動詞に

なったわけだ。

K君のお兄ちゃん (中1) は、ちょっと違う。

そういう場面では、

「しくった」 という。

これは、推測するに 「しくじった」 が、

短くなったものだろう。


私のような中年は、若い人が使う言葉の中には、

抵抗のあるものもある。

例えば、「ハンパない」 なんていう言葉は、

どうも嫌いだ。

テレビでタレントが使っているのを聞くと、

不快な感じがする。

でも、「オーマイガァ した」 は、面白い。

「Oh My God」 を 「オーマイガァする」 と

動詞にしてしまうという発想が良い。

外人が、失敗した場面で 「Oh My God!」 と

言っているのを聞いて生まれた言葉なんだろうと思うが、

実は この 「Oh My God」 、酷い目に遭った時だけでなく、

良い時にも使うようだ。

「Oh my God, You are like so cool!」
(うわぁ、お前、めちゃかっこええがな)





2013.4.3

こんなこともあるんや 〜 世界は狭い 〜

近所のよく行くお寿司屋さんの常連さんに

H さんがいる。

H さんは、見るからに (音楽) 業界ぽく、

実際、その業界の人だ。

たまにだが、その店で、音楽やその業界の話をすることがある。

H さんは、かつて大阪にも住んでいたことがあり、

そういう面でも共通の話題があったりする。

昨日、久しぶりにお話しする機会があった。

なんだかんだと話しているうちに、

H さんが大阪の音楽家 F さんの名前を出した。

私は、何か記憶の奥の方で、その F さんという

名前にひっかかっかた。

で、H さんに 「その人、何ていう会社の人ですか?」 と

訊いてみたら、これがビックリ!

大阪梅田にある、A という会社だという。

私は、今から26〜27年前、23〜24歳の頃、

大阪で、ある音楽家の写譜 (楽譜書き) の

アルバイトをしていたことがある。

その音楽家が、F さんで、F さんが代表を務めていた

会社が、A 社なのだ!

20数年ぶりに、F さんや A 社の名前を聞き、

興奮する私。

一方で、なぜか全然、驚いていない様子の H さん。

それはさておき、私は F さんには、もちろんお世話に

なったのだが、F さんを紹介してくれたのは、

その A 社の (たぶん) 役員でもあった S さんだ。

私は、半ば恐る恐る、H さんに訊いてみた。

「もしかして、その A 社にいた、S さんもご存知ですか?」

ゲゲゲゲェ〜!

知ってた!!!

超ビックリの私。

それでも、ビックリした様子のない、H さん!


私の思い違い、記憶違いでなければ、

大阪というか、関西でメジャーな音楽の仕事を

されていた F さんは当時、自分の右腕というか、

後継者を探されていた。

そこで、やる気があるならと、私に写譜をしながらの、

音楽の勉強の機会を与えてくださった。

でも、F さんの仕事ぶり見ているうちに、

私は、自分には才能がない、出来ない、と思うようになり、

そのうち、写譜のバイトも やめてしまった。


今でも、たまに私の書いた譜面を褒めてくれる人がいる。

「読みやすい」 「きれいだ」 と。

その譜面の書き方を教えてくれたのは、F さんなのだ。

H さんの話によると、F さんは一昨年、亡くなったとの

ことだった。

家に帰って、F さんの名前を検索すると、

トップにあったのは、彼の訃報を知らせるニュースだった・・・。

R.I.P.





2013.4.12

「でしょ?」って言いたい

A さん、B さん、そして私の3人で話す機会があった。

A さんのある発言について、ちょっとがっかりしたというか、

否定的な感情を持った。

で、その会合のあとで、A さんのことをよく知る B さんに、

「A さんの、あの発言についてどう思いますか?」 と

訊こうと思った。

B さんは、どう受け取ったのか、知りたいと思ったのだ。

その日は、B さんと2人で話す機会がなかったので、

翌日、訊こうと思った。

一晩経って、訊くのをやめた。

なぜか。

私は、「B さんがどう思ったのか」 を知りたいのではない、

私は、「私が思ったことに Bさ んに同意・共鳴して欲しい」

だけだということに気付いたからだ。

つまり、B さんにも 「あれは、がっかりしたなぁ」 と

言って欲しいのだ。

そうすれば、「そうでしょ、やっぱり」 と言うことができ、

それは、私の思い・反応が 「正しい」 ことの証明になる。

そして、「あんな発言をした A さんは未熟者だ」 という、

自分の中の A さん批判を ますます正当化できる。

そう、私は、A さんへの批判を したいだけなのだ。

そのことに、気付いたら、B さんに訊く気が

失せてしまった。

いや、純粋に、「B さんは どう感じたのか」 に

全く興味がないわけではない。

でも、「俺もがっかりしたよ」 「別に気にならないなぁ」

「そんなこと、どっちでもいいじゃない」 と、

B さんの回答が、どうであっても、

それで何かが変わるわけでもなく、大したことではない。


人間は、どうして、"自動的に" 「自分は正しい」 と

言いたいのだろうか。

しかも、どっちでもええようなことでさえも。

「それが、人間ぞ」 と言われてしまえば、それまでだが、

もうちょっと 俯瞰的でいたいものだ。





2013.4.19

最近聞いた本当の話 1

銀行へ行くと、いまだに 「振り込め詐欺」 への

注意を促すアナウンスやポスターを見ることがある。

(へぇ〜、これだけ話題になったのに、

まだ騙される人がいるの?) と、ちょっと

不思議な感じがしていた。

先日、銀行員の方からこんな話を聞いた。

警察主催で、高齢者対象に振り込め詐欺防止の

講習を開いているらしい。

その講習に参加すると、

「振り込め詐欺防止アドバイザー」 (みたいな名前の)

講座修了の証明書がもらえるそうだ。

で、その証明証をもらった、あるおばあちゃんが、

「もう、これで、私は騙されることはない」 と

自分のことを過信してしまったらしい。

その後、息子だか孫だかから、会社で130数万円の

穴を空けてしまったという電話を受け、

困っているだろうからと、ちょっと多めに150万円

振り込んだそうな。

もちろん、詐欺だった。


私に限って騙されるわけがない、というのは、

一番 スキがあるということのようだ。


そういえば、「自分は交通事故など起こさない」 と

思っている人ほど事故を起こすと、何かの本で

読んだことがある。

(自分は事故を起こすかも知れない) と

思っている人は、慎重な運転をするが、

(自分は事故は起こさない) と思っている人は、

驕りがある分、不注意になるということなのだ。

同様に、自分はいつ人を殺すか分からない、と

思っている方が、人殺しはしない、ということも

書いてあった。

なぜなら、人は、人を殺して人殺しになるのではなく、

すでに人殺しだから、人を殺せるのだ。





2013.4.20

最近聞いた本当の話 2

ある夫婦の話。

ご主人を訪ねて、仕事関係の人が家に

来たときのこと。

ちょうど、ご主人は ○○ (どこだったか失念) が

痛いと病院へ行っていて 不在だった。

奥さんが、そのことを客人に伝えると、

「どうせ大したことないのに、××さん (ご主人の

こと) は、医者が好きだねぇ」 と言った。

それに対して、奥さんはこう答えたそうな。

「あの人が好きなのは、医者でなく、

看護婦よ。」





2013.4.24

正しい日本語

言葉は、生き物だと以前もここに書いた。

言葉は、どんどん変化していく。

そんなことは、百も承知だが、

やはり、その変化についていけていないこともある。

先日、ニュース番組にも出ている (いた?)、

某アイドルグループの S が、自分たちのグループの

番組 (バラエティ番組) で、

「俺だけ、テンション 違く ない?」 と言った。

ちょっとビックリ。

一応 (?) 報道番組に出てんねんで。

正しい日本語を使おうや。

「俺だけ、テンション違わない (ですか)?」 あるいは、

「俺だけ、テンション違ってない (ですか)?」 でしょう。

どうしても 「く」 を使いたかったら、

「テンション高くない (低くない) (ですか)?」 でしょう。

「違う」 という動詞は、「違く」 とは、

活用しない。

試しに、PC で 「ちがく」 と打ってみると、

「地学」 には、変換されるが、けして 「違く」 などとは

変換されない。

今の若者は、違和感なく、そんな風に

使っているのかもしれない。

だとすれば、おじさんが時代についていっていないだけだ。

でも、どうだろう。

そんな活用、まだまだ教科書に載らへんぞ。

(たぶん。)


影響力が大きいねん。

やっぱり、テレビに出ている人には

言葉に気をつけて欲しいもんやなぁ。





2013.4.26

4月28日

4月28日は、何の日かご存知か?

私も知らなかったが、1952年4月28日、

サンフランシスコ平和条約が発効し、

日本が国権を回復した日だ。

「日本の独立記念日」 という人もいるようだ。

しかし、沖縄では同じ 4月28日を 「屈辱の日」

と呼ぶという。

4月28日は、奄美諸島・琉球列島が、

日本から切り捨てられた日でもあるのだ。

1953年12月に奄美諸島は本土復帰が

実現したが、沖縄が日本に復帰するのは、

1972年5月15日のことだ。

沖縄にとっては、その後のアメリカの軍事支配下が

決定的になった日が4月28日なのだ。

その4月28日を阿部政権が、

「主権回復の日」 として 「主権回復・国際社会復帰を

記念する式典」 を行うという。

4月25日の 「沖縄タイムス」 には、こう書かれている。

 サンフランシスコ講和条約が発効した
 4月28日を「主権回復の日」として政府が
 開催する「主権回復・国際社会復帰を
 記念する式典」 で、政府は23日までに、
 天皇陛下の「お言葉」 を式次第に
 盛り込まないことを決めた。
 内閣府の式典準備室は 「天皇陛下が
 出席する式典の全てで、お言葉を述べる訳ではない。
 政府が、式典の趣旨や目的など総合的に
 判断した結果、お言葉はないことになった」 と
 説明している。
 式典は国会近くの憲政記念会館で開かれ、
 天皇、皇后両陛下も出席。
 お言葉がないことについて式典準備室は
 「両陛下のご臨席で式典の趣旨は
 理解されると考えている」と説明した。
 政府主催の式典に対しては、
 4月28日を日本と 切り離された「屈辱の日」として
 沖縄から反発の声が上がり、両陛下が
 出席することにも「天皇の政治利用だ」と
 懸念する指摘もある。



さて、皆さんはどう思うか?

全くの素人考えだが、陛下は沖縄への

配慮で コメントを控えられたのではないか、

と感じた。


なぜ、やらなくてもよいことを わざわざやって、

沖縄の人たちを刺激するんだろうな。





2013.5.11

雨男脱却か?

以前にも書いたが、私はこの数年の旅行で

ほぼ100%に近い確率で雨に降られている。

例えば、昨年だけをとっても、

秋田、箱根、千葉、沖縄と4回の国内旅行全てで、

雨にあった。

不思議なことに、山形 (妻の実家) と

大阪 (私の実家) への帰省の際には、

雨は少ない。

幸い旅行中、ずっと雨ということはないのだが、

最低でも一度は、小雨にあうし、

ひどければ じゃじゃ降りにあう。

天候のせいで、飛行機が飛ばず、

延泊になったこともある。(二度も)


が、しかし!

今回のゴールデンウィークの宮城旅行では、

雨に降られなかったのだ!

ついに、雨男脱却か!?

いよいよ、運気が変わってきたのか!?





2013.7.30

何に注意があるのか

自分が何に注意があるのか、

どっちを向いて生きているのかは、

ほとんど無意識で、自覚しにくい。

例えば、あるホテルの社長にこんな話を聞いたことがある。

新しいホテルを作るときに、支配人にどうかという人を

紹介されたらしい。

その人は、過去にホテルの支配人を数年間務め、

定年退職された方らしい。

その新しいホテルは、リゾート地に建てる計画だった。

支配人候補の初老の男性は、社長に向かって

こう言ったらしい。

「社長、ホテルが出来たら、 いつでも来て下さい。

いつ、来られても泊まれるように、

一番良い部屋を空けておきますよ」 と。

社長は、(この人に支配人は任せられない) と

思ったと言う。

支配人の仕事は、売上を上げることだ。

いつ行くか分からない自分のために、部屋を売らずに

空けておくなんて、言語道断というわけだ。

もっともな話だと思った。

しかし、何十年もホテルに勤めてきたその支配人候補は、

もちろん、良かれ (社長に喜んでもらおう) と思って

そう言ったわけで、それで自分の評価が下がるなどとは、

夢にも思っていなかっただろう。

どっちを向いて仕事をしているかは、

仕事の成功には重要なポイントだが、

自分自身では無意識すぎて、

キャッチすることが難しい。

この人の場合、売上を上げることより、

社長に気に入られることに注意があったようで、

実は、それこそが自分自身の足を引っ張っていたのだ。


先日、ある件でボスと話していた時、私は自分の事務仕事が

ストレスなく円滑に進むことを優先しようとしていたが、

全くそのことに無自覚だった。

「そんなことより、重要なのは、キャッシュフローを

上げることだ」 という ボスの言葉で、ハッとしたのだった。

これが、雇われ人と起業家の決定的な違いなのだと

痛感した。

まぁ、自分が起業家でないことは、

当然 とっくに知っていることで、

そのことには何の新鮮みもなく、

また、そのことを卑下することもないのだが、

起業家と自分の 「何が違うか」 は、

中々興味深い。

向いている方向が、決定的に違うのだ。





2013.8.19

はだしのゲン

小学生の頃、週刊漫画誌で

「はだしのゲン」 を読んだ。

「はだしのゲン」 は、著者の 中沢啓治 自身の

原爆の被爆体験を元にした漫画だ。

小学生の私に、けっして楽しい面白い読み物では

なかったが、以前ここにも書いたように、

小学生の頃の私は、第2時世界大戦の

戦車や戦艦などの兵器に興味があったことと、

私の誕生日 (8月7日) が、広島に原爆が

落とされた日の翌日ということもあって、

何か興味を持たずにいられないということもあった。


小学6年生の時、地元の市民会館で アニメ映画

「はだしのゲン」 を上映することになり、

担任の先生がチケットの希望者を募った。

その時、手を挙げたのは クラスで私一人だった。

観に行った映画の内容は、覚えていないけど、

クラスで自分だけが手を挙げたことが、とても印象的だった。


さて、「はだしのゲン」 は、その後、10ヶ国語以上の言語に訳され、

世界中で 戦争と核兵器の恐ろしさを訴えているようだ。

その被爆国である日本の、島根県松江市教育委員会が

市内の小中学校に学校図書館で、「はだしのゲン」 の

子どもへの閲覧や、貸し出しを中止するよう要請していることがわかり、

「自由に読めるように戻してほしい」 と求めるネット署名が

2日間で6000人分集まったという。

本作品に首を切ったり、女性に乱暴したりする描写があり、

小中学生には過激であるというのが、

松江市の貸し出し中止の理由のようで、

貸し出しのためには教師の許可が要るという。

つまりは、誰もが自由に読めないわけだ。


日本は、言論や表現の自由が認められたという

大前提の上で、世界唯一の被爆国という過去を

背負っている。

戦争は、「小中学生には過激である」 どころか、

大の大人にも “過激でえげつない” ものである。

未来を背負う子供たちに、本当のことを伝えないで、

何が教育か!

その過激な描写を子供たちに説明する責任を

負わずして何が教育者だ!

と、私は腹が立った。


私は、大人になってから、子供の頃読んだ、

「はだしのゲン」 の作者が、本当の被爆者だと知り、

衝撃を受けた。

あれは、フィクションではなかったのだと。


松江市教育委員会は、もう一度、

考え直して欲しい。

真の平和を築きたければ、徹底的に戦争の

恐ろしさと愚かさを 教えるべきだ。


ところで、

私は間違いなく小学6年生の時 (1974年) に

市民会館で映画を観たように記憶しているのだが、

ウィキペディアを見ても、1974年前後に

アニメ映画が公開された記述がない。

どういうことやろな?

1976年の実写版と勘違いしているのか?

いや、そんなはずはない。

小6の時の担任の先生が、教壇に立って、

「『はだしのゲン』 を観に行く人〜?」 と

訊いていた場面を覚えているのだ。





2013.8.22

4000 より 8000

イチローが、

ついに日米通算4000本安打を達成した。

米大リーグでも、4000本以上打った選手は、

なんと、2人しかいないらしい。

ということは、大リーグでも 3位ということだ。

歴代最多の4256本の ピート・ローズ という

選手の記録を超えられるんちゃうの!

と思うのは、早計か?

さて、今回、私が書きたかったのは、

4000本安打に対する、イチロー自身のコメント。

「4000本打つために、

8000回は悔しい思いをしています」

というものだ。

きっと、そうでしょう。

単純に4000本を喜ぶだけじゃないところに

私は、イチローらしさを感じる。

というほど、イチローのこと、知らんねんけどな。





2013.9.24

酒井雄哉 大阿闍梨 逝去

今年春、千日回峰行に興味を持ち、

塩沼亮潤 阿闍梨 (あじゃり) 、

酒井雄哉 大阿闍梨の本を読み、

ゴールデンウィークには、

仙台の慈眼寺 (塩沼亮潤 阿闍梨のお寺)にも

行ってきた。

ここのところ、そのことを話題にする機会も

なかったのだが、昨日、久しぶりにその話を

知り合いにした。

彼は、千日回峰行のことを知らなかったようだが、

興味を持って聴いてくれた。

話の内容は、主に塩沼 阿闍梨のことだったのだが、

塩沼 阿闍梨が千日回峰行をやるきっかけとして、

酒井 大阿闍梨の話も出た。


今朝、彼からのメールが届いた。

酒井 大阿闍梨が亡くなったという内容だった。

私も驚いたが、彼も、昨日、

そんな話を聞いたところだったので、

そのタイミングに驚いているようだった。


酒井 大阿闍梨は、87歳だったので、

亡くなられてもおかしくない年齢だ。

でも、普段、話題にしない人のことを

久しぶりに話したら、その日にその人が、

亡くなったというのは、当の本人たちにとっては、

どうも不思議だ。


それはさておき、酒井 師。

特攻隊員として終戦を迎え、

戦後、ラーメン屋を開業するも火事に遭い、

職を転々とし、結婚2ヶ月目に妻が自殺。

40歳で出家。

そして、千日回峰業を2回満行。

2度の回峰行を満行した者は、千年を越える比叡山の

歴史の中でも3人しかいないという。

そんな酒井 大阿闍梨が、

人生最後に思ったことは、何だったのだろう。





2013.10.21

誰のせい?

一昨日、中学生の野球の試合を観ていて、

気になったことがある。

それは、相手チームのキャッチャーの身内だと思われる

大人の観客の声援だ。

例えば、ピッチャーが暴投をして、

キャッチャーがボールを取り損なったとする。

ボールが、転がっている間に1塁ランナーが

2塁へ走った。

その時、その人は、キャッチャーに対して、

「○○(キャッチャーの名前)、お前は悪くないぞ。

お前のせいじゃないぞ」 と声援 (?) を送っていた。

他の場面でも何度か、「お前は悪くない」

「お前のせいじゃない」 と言うので気になった。

果たして、野球の試合で、失点したり、

負けたりするのは、「誰かのせい」 だろうか?

あるとすれば、「せい」 ではなく 「責任」 だろうが、

その責任は、監督にあり、ひいてはチーム全員の責任だろう。

けして、「誰かのせい」 にするもんではないだろう。

あの 「お前のせいじゃない」 と声援 (?) を送っていた人は、

誰のせいだと言いたかったのか?

もし、私がピッチャーだったら、

「お前のせいだ」 と聞いてしまうかも知れない。

声援に (?) を付けたのは、あまりに個人的で、

チームへの声援には なっていないと感じたからだ。

私の考え過ぎかな?








2013.12.9

自分の器を感じるとき

私の友人にレコーディング・エンジニア

(録音技師) をしているK彦がいる。

以前、ライヴの PA (音響) を

手伝ってもらった時のことだ。

一度、機材のセッティングを済ませたあと、

出演メンバーの一人が、セッティングを変える

提案をした。

私もその変更の手伝いをしなければならない立場なので、

その時、私は心の中で

(え〜、めんどくさいなぁ、これでええやん) と

思った。

が、K彦は、嫌な顔一つせず、

「やってみよう」 と、さっさとセッティングの変更を始めた。

その結果がどうだったかは、覚えていない。

やっぱり、元に戻したのか、

その変更したセッティングの方が、

環境が良くなったのかは覚えていないのだが、

私は、その時のK彦のフットワークの軽さと

妥協のなさに感銘を受けた。

後日、この話をK彦本人に話したが、

彼は全く覚えていなかった。

彼の仕事なら、そんなことは、

日常茶飯事なのだろう。

エンジニアになる人は、

(めんどくさい) なんて思わへんのだ。


前書きが長くなった。

ここ数年、7月と12月には、

まりあさん (Vo) のライヴのお手伝い (伴奏) をしている。

今年もクリスマスのライヴが近づいてきたので、

数週間前から、まりあさんと音合わせをしている。

今回は、アニメ・ソングのメドレーをやることになった。

9曲のアニメのテーマ・ソングをつなげて演奏するのだ。

アレンジは私がし、今回もベースとドラムを入れてやるので、

彼らのためにも譜面を書く必要がある。

で、順番も決め、楽譜も書き終えたあと、

まりあさんが、一部を変更しようと言い出した。

その時の私の反応は、

(えっ〜!せっかく譜面書いたのに 書き直すの〜?

めんどくさぁ〜) だった。

かなり長い時間、わたしはこの反応と一緒にいた。

なんとかその変更をしないで済ませられないかと考えた。

が、その変更に反対する理由が、

「譜面を書き直すのがめんどくさい」 以外に

ないことに気がついた。

そして、それが演奏家としては、

あまりにもくだらない理由であることも。

良い音楽を創るためとか、より良い演出のためとか、

そういうことではなく、「めんどくさい」!

なんということだ。

なんて妥協だ!(バイきんぐの小峠風に)

ああ、これが私の器なのだ。

これが私の限界なのだ。

そう思い、めんどくさいことを受け入れることにしたのだった。





2013.12.12

Wake Up

人は変えられない。

人生は思い通りにはならない。

そんなことは、百も承知だ。

思い通りにしようなどという気はない。

そんな風に生きているつもりでも、

気がつけば、まんまと罠にはまり、

なんとかしようとしている自分がいる。

なんともならないのに。


選ぶ道は、その思い通りでない、

その気に入らない相手や状況を 受け入れるしかない。

相手や状況をコントロールすることは、

けっしてできないのだから。

ただできることは、不平不満を言うか、

大声を出すぐらいで、それでは何一つ解決しない。

否、解決すべき何かなど 元々ないのだ。

そのことに、いつも気付いていなさい。オレ。







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