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 2021年
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2021.1.17

信じられへん。

高校の同級生だったK君が亡くなった。
金曜日の朝、ふだん通りに出勤して倒れ、
そのまま逝ってしまったようだ。
脳ではなく、心臓だったらしい。

もう何年も前のことだけど、K君は、
私の実家の近くの市民病院に勤めていた。
彼は、医者なのだ。
たまたま診察された母は、K君のことを思い出して、
私の同級生だということが分かった。

その後、K君は整形外科医院を開業した。
それも私の実家のある市内で、実家から歩いて
14〜15分程度のところだった。

その後、母だけでなく、父や姉も
K君に診察してもらうことになった。
家族が同級生の患者になるというのが、
不思議な感じがした。

K君とは、高校2年生の時に同じクラスだった。
彼は、勉強もスポーツも出来て(ラグビー部だった)、
ちょっとやんちゃで、おまけに
リーダーシップもあり、魅力的な男だった。
彼と私は、いつも一緒につるんでいるグループでは
なかったけれど、それでも私はK君の家に泊まった
ことがあるし、何人かで悪さをして
一緒に停学処分になったこともあった。

卒業してからは、会うことはなかったけれど、
4年も浪人して国立の医大に合格したと
聞いた時は、感動せざるを得なかった。

15年前(2006年)に同窓会で25年ぶりに
再開したときには、高校の頃のやんちゃな
イメージはなく、優しい笑顔のドクターになっていた。

それから、2011年、2017年と同窓会の度に会った。
あまりゆっくり話時間はなかったのだけど、
2017年の同窓会で話した時、
「(医者は)ずっと勉強や」と言っていたのが
印象に残っている。

一昨年、妻の本を読んで感想をメールで送ってくれた。
さすがは、医者になるような頭脳の持ち主は、
書くことが違うな、と思える感想だった。
そのメールを改めて読みなおしてみた。

妻の本は、サルトルの哲学を
かみ砕いた著書なのだが、
K君の恩師にドイツの哲学者カントを専門にされていた
先生がいたらしく、その恩師のことを
「12歳年上で享年58歳」と書いてあった。
奇しくも K君も 58歳で逝ってしまった。
その先生とは、「一緒に酒を飲み、バカなことも
していましたが」とあったが、先生への尊敬が
うかがわれる文面だった。

その時のメールのやりとりで、
「大阪に帰った時に一緒に飲もう」と約束した。
正月に帰省したときは毎年自分の家族に
会うことだけで終わってしまうので、
友達に会うためだけに大阪に帰ろうかなどと
考えていたけど、去年からのコロナで
すっかり忘れていた。
そして、実現せずに彼は逝ってしまった。
こういうの、悔い 残るなぁ。

K君、
約束果たせずごめんな。
またいつかな。





2021.1.18

続・信じられへん。

昨日、高校の同級生のK君が亡くなったことを書いた。
金曜日の夕方、K君と同じ中学出身の H君から
連絡をもらったときは、にわかには信じがたく、
リアリティもなく、ショックや悲しみも
実はそれほど感じられなった。

それが、昨日、K君と今も親しい S君から電話で
どんな風に発見されて、病院に運ばれてどうだったか、
細かい事情を聞いて、K君の死が
だんだんとリアルになってきた。

そして、時間が経つほどに思っていた以上に
自分が衝撃を受けていることを感じ始めた。
今日は昨夜、自分が書いたこの「ひとりごと」を
読んでも泣けてきた。
書いてるときは、そんなことなかったのに。

数人の同級生とメールや LINE で連絡を取ったが、
皆一様にショックを受けており、
ひとつには、同級生の集合的無意識が、
衝撃を受けているんだと思った。

この、自分が思っている以上に実は応えているんだ、という
感覚を以前にも体験したことがある。
東日本大震災から数か月あとも、
自分ではどうしようもない大きな悲しみというのか、
波にのまれているような感覚があった。
それに似ている。

しかし、とても不思議で興味深い。
彼が死んだことを知らされていなかったら、
私は何も感じていないはずだ。
いや、無意識レベルで感じているけど、
自覚できないだけなのか。

この「死」という情報のパワーと不思議さ。
本当に彼が死んだのかどうか、
自分の目で確かめたわけではない。
乱暴に言ってしまえば、本当かどうか分からないんだ。
しかし、確実に私の精神になんらかの
影響を及ばしている。
一体、これは何なんだろう。

会えないとなると、急に恋しくなるのはなぜだろう。


それから、もうひとつ。
私たちは、生、生、生、生、・・・と続いて、
最後に、死 が来ると思って生きているけど、
実は、いつもいつも、毎瞬毎瞬、生まれてから
死ぬまでずっと、生死、生死、生死、生死・・・と
生きていて、たまたま「生」なだけで、
どの瞬間にも「死」になりうるんだということを
ついつい忘れてしまう。

時々、知っている人の死に遭遇すると、
そのことを思い出させてもらうことができる。

「死」は「生」に引っ付いてくるもので、
忌まわしいものではないけど、
悲しいことには違いない。

できれば、学校の卒業を祝うように
人生の卒業を祝えるようでありたい。
悲しいけどね。
悲しみながらね。


数人の同級生と連絡を取ったと書いたが、
ひとりの友人は、高校2年の時に K君から
授業中に、「克己」という二文字を紙に書いて渡され、
真剣な目で「自分だけが唯一の敵や」と教えられたのが
強烈で忘れられないと、教えてくれた。

克己・・・。
58歳の私は、意味どころか、読み方も分からんかった。





2021.1.19

「二度としません」
「当たり前です」


先日、夜中の1時過ぎに車で帰宅した時のこと。
私は、自宅近くに駐車場を借りているのだが、
その私の駐車スペースに見知らぬ車が
駐まっていた。

以前も一度、同じように夜に帰ってきたら、
誰かが駐車していたことがあった。
クラクションを鳴らすと、駐車場の前の家に
遊びに来ていた若者が出てきた。
もちろん、すぐに動かしてもらうことができたが、
人が契約している駐車場に駐めるとはけしからん!
と思ったけど、謝っている相手に
文句を言っても仕方ないと思い、
その時は何も言わずに穏便に済ませた。

そんなことがあったので、またその家の客人かと思い、
間を開けて2度、クラクションを鳴らしてみたが、
誰も出てくる気配がない。
真夜中なので、何度も鳴らすわけには、いかない。

さて、どうしたものか。
私が、有料駐車場に駐めに行くのは
いくらなんでもアホみたいだ。
5分ほど待って、誰も出て来ないので、
これはあかんなと思い警察を呼ぶことにした。

生まれて初めて、110番に電話した。
事情を説明すると、すぐに警官が向かいますとのこと。
警官が来てどうしてくれるんやろ、と思いながら、
待っていると、10分ほどでチャリンコに乗った
若いお巡りさんがやってきた。
こういう時、ホントにありがたいね、警察って。

お巡りさんと話していると、道の向こうから、
40歳前後位の男性が「すいませ〜ん」と
言いながら、走ってきた。

(私の)車が停まっていて、警官が懐中電灯で
自分の車の中を照らしている様子をみて、
状況を瞬時に理解したのだろうな。

「すぐそこの知合いのうちに来ていまして・・・」

関係ない。
そんなもん、人の駐車場に車を駐めていい
理由にならん。

しかもだよ。
その駐車場のすぐ横に、コインパーキングが
あるんやで。
本人にしたら、ほんの数分と思ったのかも知れないけど、
(実際は、私が到着してから15分ほど経っていた)
ほんの数分なら、数百円のことなので、
コインパーキングに駐める方が、警察呼ばれるより
よっぽどええと思うねんけどな。

彼はまさか警察沙汰になるとは
思っていなかったようで、
私に対し、絵にかいたような平謝りで
「二度としません」と言うので
「当たり前や」と言っておいた。

こんなん、ややこしい人に当たってたら、
金巻き上げられることになるよ。
自分で言うのもなんだけど、
私で良かったと思うよ。

たったこれだけのことでも、110番した以上、
私も名前や住所を控えられた。

夜遅かったので、私は相手に
「警察の取り調べを受けてください。
私は帰ります」と言ったら、
お巡りさんは、笑っていた。

あの後、彼はお巡りさんにしぼられたかもね。
法律的にどういう扱いなのか分からんけど、
まあ、あの程度なら注意だけだろう。
そうすると、彼は本当に二度としないのだろうかね。





2021.3.2

死について

今年の1月15日に高校の同級生のK君が亡くなった。
突然死だった。
彼の死について、二日に渡ってここに書いた

そのエントリーに
「卒業してからは、会うことはなかった」と
書いたけど、思い出したことがある。
あれは、私が20歳になる年のこと。
高校を卒業して2年目の5月。
K君と同級生数人で、一度だけサーフィンに
行ったことがある。
今となっては恥ずかしいが、
私は 19〜20歳の頃、中古のサーフボードを買って、
何度かサーフィンをしに、和歌山の磯ノ浦や
三重の伊勢に行ったことがある。
なぜ恥ずかしいかというと、私はほとんど泳げないのだ。
波のないプールなら25メートルぐらいは泳げただろうけど。
そんなヤツが海に入って良いわけなかろう。

今思うと命知らずなアホな若者だったのだが、
それはさておき、K君を含め確か同級生4〜5人で
伊勢に行ったように記憶している。

サーフィンは、朝早くに海に着くように
夜中に出発する。
出発したのは、1982年5月13日の夜で
波乗りをしたのは、5月14日だ。
なぜ、日付まで覚えているかというと、
(覚えているわけではない)
サーフィンから帰ってくると、自宅に
(母方の)祖母が亡くなったのですぐに ××× に
来なさい、という母の書置きがあったのだ。

その時、その日の早朝、サーフボードに
ワックスをかけていて、そのワックスを落としたところ、
どこに行ったのか見つからなかったことと、
祖母の死がなぜか関係あるように思ったことを
覚えている。

祖母は、明治41(1908)年生まれだったので
74歳だったのだが、今の74歳からは
考えられないほどの老人だった。

たぶん、亡くなる1〜2ヵ月前に
母に促されて、入院中の祖母を見舞いに行った。
母にすれば、最期なので会っておきなさい、という
意味だったのだろう。
それまで私は、身内の死を体験したことがなかった。
祖母の死についても深く考えることもなく、
リアルでもなく、見舞いも母に言われて、
半ば仕方なくであったと思う。

しかし、病室に入った私は、それまでの人生で
受けたことのない衝撃を受けることになる。

ベッドに横たわる祖母は、
もう生きているとは思えないほど
骨と皮だけだった。
がい骨、そんな表現がピッタリなほど。
人間って、死ぬとき、こんな風になるんやと思った。

記憶が定かではないが、祖母はもうその時、
意識がなかったのではないかと思う。

股の間から出ている管が、
彼女が自分では何も出来なくなっていることを
物語っており、私は「人間の最期」を見たと思った。

その衝撃で、涙が止まらなくなり、
病室で、嗚咽を漏らし続けた。

私は、祖母とゆっくり話したこともない。
一緒に住んだこともないし、
彼女が、どんな人間であったか、
母から聞いた以外に何も知らない。

祖母に死が近づいていることよりも
私には、人間の最後を見たという体験が
ただただ強烈だった。


ここからは、もしかしたら余談かも知れない。

私は、祖母が亡くなる数カ月前に
19年の人生で最大の失恋をした。
そのことと祖母の死は、何の関係もないと
思っていた。

それから、9年後、私は28年の人生で
最大の失恋をした。(ちょくちょく失恋してます)
今度は、結婚式の日取りも決まっていたのに、
婚約破談という イタイ失恋だった。
その時、父方の祖母(92歳)が入院中だったのだが、
(不謹慎だが)「あ、逝くな」と思った。
すると、祖母はその4カ月後に亡くなった。

関係ないかもしれない。
でも、この二つの話を、
祖母が彼女との縁を切ってくれたんだよ、と
言う人もいた。
その人も、大きな失恋の後に、
祖母だったか祖父だったかが亡くなっていた。

実際には、関係あるかないか分からない。
そんなこと関係あるわけないやろと言う人が
ほとんどだろう。
私もそう思う。

でも、実際は、私たちはそのことについて、
知らない。
何も知らない。

死んだらどうなるか、
生まれる前、どこにいたのか、
それともいなかったのか、
ほんとに何も知らない。

分かっていることは、
全員、間違いなく死ぬってこと。


K君の葬儀に弔電を送った。
先日、その礼状のハガキが届いた。
会ったことのない、初めて見る、奥さんの名前に
今までとは また違うリアリティを感じずにはいられなかった。





2021.3.4

内視鏡検査レポート

考えてみれば、昨日と同じ日はないのだから、
人生は毎日初体験の連続ということになる。
というわけで、本日の初体験は、
鼻の穴からの内視鏡検査と、
お尻の穴からの内視鏡検査。

鼻の穴からの方は、胃の検査。
2009年に原因不明の腹痛に悩まされ、
その時初めて、内視鏡検査を受けたが、
口から直径1センチ程度の管を入れる検査で、
結構辛かった覚えがある。
あの頃にも鼻から入れる内視鏡はあったのだけど、
当時は胃の中を観るだけでポリープや組織の切除は、
口から入れる内視鏡でなければならなかった。
あれから12年。
技術の進歩は、身体に優しく、今では鼻からの
内視鏡でもポリープや組織の切除が出来るようなっていた。

そして、お尻の穴から検査は、大腸。
これは、全くの初めて。

実は、一年ほど前から時々、胃の調子が悪かった。
膨満感というのかな、ちょっと胃が張っている感じ。
市販の胃薬を飲めば、数日で症状が
改善するのだけど、この数ヶ月、
その頻度が上がってきた。
明らかに何かが、起きている。
我慢できない痛みではないので、
緊急性はないように思うけど、
胃の調子が悪いと、食事が嬉しくない。
このまま放置して悪化し、ドクターストップで
アルコールが飲めなくなるなんてことになるのは、
絶対に避けたい。
なので、意を決して検査を受けることにしたのだ。

どうせなら、大腸も同時にやっておこうと思い、
ふたつの検査を申し込んだ。
胃だけなら、それほど大変な準備はないのだけど、
大腸を調べるとなると、大腸の中を空っぽに
にしておかなければならない。
そのために昨夜 21:30 頃に下剤3種類を服用。
約3時間後あたりから、トイレ通いが始まった。

今朝は、水1.8リットルに下剤を溶かし、
それを2時間かけて飲む。
6:45 頃から、14〜15分おきに200cc

前日夜の下剤でトイレに行くこと、5回。
朝の下剤では、家を出るギリギリまで、
トイレに行ったり来たりで8回。
横浜(鴨居)のクリニックで検査を受けたのだが、
小一時間かかるので、移動中に催すことを
考えると不安だったが、仕方がない。

途中電車の中で、油断していた。
ピッともれた。
瞬間的に止めたので、幸い下着が汚れるほどではなく、
ギリギリセーフ。
危なかったなぁ。
もうこの時点では、完全に水しか出てないので、
ひとつ間違ったら、ズボンにまで染みてしまう。

最後に鴨居駅のトイレでもう一度、放出。
下剤の説明書には、5〜8回便が出ると
書いてあったけど、合計9回目だった。

10:30にクリニックに着き、受付を済ませると、
すぐに検査が始まった。

「寝てる間に終わった」なんて聞いていたけど、
説明によると、麻酔するのではなく、
鎮静剤なので、受け答えができると書いてあった。
寝てる間に終わる方がいいなぁ、と思っていた。

お尻側の開いた専用のパンツに履き替え、
小さな紙コップの何か(たぶん鎮静剤)を飲んで、
鼻の穴から鼻の痛みを緩和する麻酔(?)を
吸い込んで、ストレッチャーに横たわり、
いよいよ検査室へ運ばれた。

目の前に大きなモニターがあった。
ああ、ここに胃や大腸の中が映し出されるねんな、
と思った。
先生が現れて、一言二言話したら、
そのあとの記憶がない。

鼻に内視鏡を入れられたことも、
肛門に内視鏡を入れられたことも、
知らない。
先生が、内視鏡を動かしながら何かを言い、
腹の中で内視鏡が動いている感じが
したことを かすかに覚えているが、
覚えていると言えるほどリアルではない。
気が付いたら、全てが終わっていた。

終わってからも、鎮静剤のせいで
かなり意識が朦朧としている。
検査の日は、自動車の運転は出来ないと
言われたが、当たり前だ。

しばらく横になって休憩した後、
先生から説明を受けた。

胃は、軽度の胃炎という診断で、
赤くなっている部分の組織を採取したので、
顕微鏡で検査をするとのこと。

大腸は、ポリープを2つ切除。
これも顕微鏡検査で、どういうタイプの
ポリープか調べる。
そして、大腸にも赤い部分があったので、
組織を採取、これも顕微鏡検査。

大腸は、3箇所 傷を付けたことになるので、
それから、何度か血が出た。
尻から血が出るのは、初めてだけど、
気持ちの良いものではないね。
ポリープを切除した傷は、完治するのに
3週間もかかるそうだ。
まあ、一応手術だもんな。

今日から、1週間程は、食事も制限があり、
アルコールは、5日間禁止だ。
今日は、風呂もシャワーも禁止。

後日、検査の結果を聴きに行く。

このクリニックは、内視鏡検査では
先進的なようで、院長の内視鏡検査数は、
国内ダントツ1位だという。
その段取りや、看護師の連携も素晴らしく、
無駄な時間がほとんどなかった。
これは、患者の待ち時間を減らすべく、
工夫を重ねてきた結果だという。

1年後にまた検査を受けるようにと
もらった紙には書いてあった。
検査自体は、本当に知らないうちに
終わっていたという感じでストレスなし。
これは、本当に素晴らしいと思う。

大腸検査のためには下剤を飲まなければならない。
下剤を飲むこと自体は、なんてことはないが、
やはり、トイレに行く回数が多くなるので、
そこは悩ましいな。
今日は、6:45 から下剤を飲みだしたが、
9時すぎの家をを出るギリギリまで
トイレに行ったり来たりで、
移動中もやばかった。
次回は、もっと早く下剤を飲み始めようと思う。
あるいは、午後の検査にすれば、楽かもな。





2021.3.27

超音波検査

先日、胃と大腸の内視鏡検査をした。
その日のエントリー
気になっていた胃は軽い胃炎のようで、
検査の結果は特に異常なしだった。
大腸には、2つのポリープがあったのだが、
いずれも良性でこちらも問題なし。

胃薬を処方してもらい、服用しているが
検査結果を聴きに行った時点では、
なんとなく胃がまだ本調子でない感じがした。
そのことを先生に話すと、お腹の中は
胃だけではなく他の臓器もあるから、
調べてみましょう、ということになり、
昨日、超音波検査をしてきた。
お腹に何やら器具をあて、超音波を当て
エコー(反射波)を読み取ることで
内臓の状況を診る検査だ。

超音波検査を決めてから、2週間近く
経っており、なんとなく胃の調子も戻ってきたような
感じもしていて、もう検査せんでもええかな、と
いう気もしていたのだが、まあせっかくだし、
この際調べておこうと思い直し、検査を受けてきた。

結果は、やはり(?)特に異常なし。
胆のうにちょっと固まりかけの泥みたいなものが
あるらしいが、まだ石(胆石)には なっておらず、
手術するほどでもないとのこと。
石になるといけないので、1年後に
超音波検査を受けなさいと言われた。
それと、やや脂肪肝と言われた。
脂肪肝をググってみると、食べ過ぎ飲み過ぎ、
運動不足が主な原因らしい。

来年60歳なので、今まで以上に、
健康に注意する必要がありそうだが、
飲み食いが好きなので困ったもんだね。
大分、食べる量は減ったのだけど。





2021.4.14

父が死んだ。(1)

4月10日、父が死んだ。
何から書こうか。

「父が亡くなった」と書くところを
あえて「父が死んだ」と書いた。
「亡くなった」の方が聞こえは柔らかいが、
「死んだ」の方が、直接的で迫りくるものがある。
逃げ場がない感じがして、リアルだ。

享年 90歳と9か月と4日。
長生きやったな。

昨年11月30日に大阪で両親と住んでいる
姉から電話があった。
父に肝臓癌と胃癌が見つかり、
余命3ヶ月から半年という内容だった。
思った以上に冷静に聞く自分がいた。

電話をもらったのが昼前だった。
電話を切ってから食堂に入り、
昼飯の注文をした。

昼食を食べ終え、
コーヒーを飲んでいる最中に気が付いた。
私は、姉との電話を切った後、
「何の迷いもなく」食堂に入り、
注文をし、食事を済ませた。

90歳だからいつ何があってもおかしくないと、
日ごろから思ってはいたものの、
こういう時でもメシを食う気になる自分に驚いた。
親の余命を聞かされても食欲に
影響がないことに、驚きとともに
うまく言葉にできないけど、
妙な充足感のようなものを感じた。
「生」と「死」はいつも同じ世界にあり、
それは特別なことではなく「日常」なんだと思った。

正月まで持つかな、正月に会えたら
それが最後になるだろうな、と思った。

正月の帰省。
結局、そのあとにも会うことが出来た。

年が明けてから、段々と弱ってきた父は、
2月の終わり頃、実家の近所にある
市民病院の緩和ケアに入院した。

一般病棟だとコロナのせいで面会も
出来なかったところだが、
緩和ケアだったおかげで面会は自由だった。
一応、一回30分と決められていたけど。

入院後、食事もどんどん食べなくなり
弱って行く様子を姉から聞き、
いよいよかなと思い、3月21日に会いに行った。

会ってすぐは、父の痩せ細った身体を見て
長くないんだと思ったけど、話していると
頭はすごくしっかりしているし、
身体もまだ動くので、もう少し大丈夫だろうと思えた。

私達が面会に行ったその翌日には、
一時帰宅までしたというから、
まだ体力もあったんだと思う。

それから日に日に弱っていったようで、
2週間後、4月3日に再び面会に
訪れた時は、目を開けたものの私のことが
分かっているのかどうかもわからない感じだった。

でも、帰るよと言ったら、手を出したので
分かってたんだろうな。
そして、最後になぜか
「あわてるな」と言ったのが、
父の私への最後の言葉となった。

その2週間前の別れ際の握手は、
しっかり握り返してきたけど、
その日はもう握る力もなかった。


(続く)





2021.4.15

父が死んだ。(2)

4月10日は、Char さんのライブの日。
2019年は80本以上のライヴを観にいったけど
昨年は25本しか観られなかった。
今年は、この Char さんで3本目。
でも、父のことがあったので、もしかしたら
行けないかもと思っていた。
その日も姉からの LINE で父の様子を聞いて、
ライブ会場の日比谷野音に向かった。

あとから、思えばその日の姉からの LINE には、
それまでにはなかった父の行動が書かれてあり、
ことの終わりを思わせる内容だった。

定刻の 17:30 を少し過ぎて、ライブはスタートした。
3曲目だったか4曲目で、電話が鳴った。
見ると姉からだ。
仕事中の姉に病院から電話があり、
すぐ来て下さいと言われたという。
いよいよだなと思った。

すぐに大阪に向かおうか、でも間に合わないだろう。
ライブが終ってから大阪へ向かおうか、
喪服取りにいったん家に帰らなあかんか、
などと考えながら、落ち着かない心持ちで
演奏を聴いていた。
どうしたものかと思ったけど、
ジタバタしても仕方ない。
その時は、すぐに思いつかなかったけれど、
父の最後の言葉「あわてるな」は、
この時のためだったのかも知れない。

結果的には、ライヴ鑑賞中に父は逝った。
妻(私の母)と娘(私の姉)と孫達(姉の子供達)に
見守られて静かに眠るように息を引き取った。
残念ながら、私はその場に立ち会えなかったけれど、
両親の住む大阪を離れて東京に住むということは、
そういうことでもあったわけだ。

自分は、立ち会えなかったものの、
父が皆に見守られて静かに旅立てたことは、
家族にとって本当に良かったと思う。
特に、父を大好きで、最後まで父の面倒を見てくれた
姉が父の最後に立ち会えたことには、
本当に良かったと思う。

結局、その日に大阪に行っても、遺体は霊安室に
預けられていて、父には会えないと分かり、
翌11日に大阪へ向かうことにした。

翌日、葬儀会場で対面した父は、
まるで縮んでしまったかのように
小さくなったように見えた。

ドライアイスに包まれているせいで、顔は冷たい。
やせ細った顔は、ミイラのようにも見える。
前日、息を引き取ったあと、
姉や孫たちで身体を拭き、
着替えをさせて、髭を剃ったのだという。
そういうことをさせてもらえることは
弔いの意味でも、別れを完了するためにも
とても大切だと思う。

姪っ子が「髭が伸びている」と言った。
もしかしたら、死んでからも多少は伸びるのかも知れない。

夕方、葬儀会場に棺桶が届く。
係の人が旅装束を着せ、一緒に棺に納めた。

大阪はコロナの感染が増えていることもあり、
通夜も葬儀も家族(7人)だけと決めた。

父は、神道系の教会の生まれだったが、
正月に会ったときに、葬儀はどうして欲しいかと
尋ねると「なんでも良い」というほど、
特に宗教にこだわりを持っていない人だった。

私も特に信仰を持っていないので、
どうしたものかと思ったが、
やはり葬儀は、セレモニーらしい方が
良いかなと思い、近所のお寺にお経を
あげてもらうことにした。

誤解を恐れずに書くと、結果的には、
場所だけ借りて、家族だけで、
父の想い出を語るだけで良かったと思っている。
来てくださったお寺さんのお経が悪かったわけではない。
でも(私にとっての)父は、お経がなくても成仏する人だ。
(「お経がなくても成仏」ってもしかしたら凄く変かも。)
私が、お寺さんに頼むことにしたのは、
父のことを考えてではなく、先に書いたように
どこかで儀式らしくしなければと思ったからだった。
その儀式を、自分で創作するのではなく、
すでにどこかにある形式に頼ってしまったのだ。

その証拠に当日のお経は初七日分も含めお願いしたが、
ふた七日や、み七日、四十九日などは、
お願いしなかった。
お寺さんにしても中途半端な発注で戸惑ったかもな。

まあ、何事もやってみて初めて学ぶ、というか
分かることがあるねんな。

ああ、父のことから話がそれてしまった。


(続く)





2021.4.16

父が死んだ。(3)

通夜の後、近くの居酒屋で家族で食事した。
コロナのせいで、店は9時閉店だ。
仕方なく 実家に戻り、飲み直し。
甥っ子たちは、最終電車で帰り、
母も12時頃だったかに寝たが、
姉と2人で朝6時まで飲むことに。

葬儀は、10時スタート。
9時半には来てくださいということだったので、
2時間ほどの睡眠で葬儀会場へ。

「途中で寝てしもたら、どうしょう、
オレ、喪主やねんけど」としょうもない
心配をしたが、幸い眠くならずに済んだ。
さすがに緊張感があったのかしら。

葬儀後、地元の山の中にある火葬場へ。
いよいよ父の肉体ともさよならだ。

行く前は、絶対泣くやろな、と自分のことを
思っていたが、葬儀でも火葬場でも意外なほど
涙が出なかった。
最初に遺体と対面した時に、
少しウルウルしたけど、そのあとは、
母が泣こうが 姉が泣こうが、
不思議なほど冷静だった。

思うに、父の90歳という年齢、
そして、4ヶ月以上、ゆっくりと心の準備が
出来る時間があったからだと思う。
二度、面会に行ったことも良かったと思う。
これが、ある日突然のことであれば
ショックはもっと大きかっただろう。
こんな風にゆっくりと死を受け入れられるように
逝ってくれた父に感謝。
そして、通夜、葬儀のスケジュールも
見事に私に重要な仕事のない日を選んでくれた。
たまたまかも知れないけど。


父は、私に何も干渉しなかった。
子どもの頃から、何かをしてはいけないと
言われた覚えもなければ
何かをしなさいと言われた覚えもない。
「過ちて改めざる、これを過ちという」
という言葉は、何度か聞かされたが、
小学生低学年の頃の私は「アラタメザル」と
いう種類の猿の話だと思っていた。

1995年の暮れ、私が33歳で上京してから
3年目の正月に届いた父からの年賀状には、
「長男不在3年目の正月」と書かれていた。
私は、東京に来てから何一つ成し遂げていない自分が
不甲斐なくて、3年間実家に帰らなかった。
「帰ってこい」と言う人ではなかったが、
その年賀状は何かを訴えていた。

もう一つ、1995年、私が東京行きを決めた後に、
父が肺を患い入院した。
肺に水が溜まっていたとかで、苦しくなって自分で
運転して病院に行ったのだが、もう少しで手遅れに
なったかもしれないという深刻な状態だった。
父が65歳で、定年の年のことだ。

2〜3ヶ月後に東京に行くことが決まっていたが、
内心、私はこのまま病気の父を置いて、
上京して良いものかと 迷いがあった。

入院中の父を見舞ったある日、父はこういった。

「こんなことで、自分の志したことを諦めるなよ」

私は「うん」とだけ答えた。
もしかしたら、私の迷いを
父は感じ取っていたのかも知れない。


父は、几帳面な人だった。
そして、なんでも記録している人だった。
若い頃は、「そんなことを記録して、
どうするの?」と思ったものだが、
気が付くといつのまにか、私も記録魔になっていた。
この「ひとりごと」だって、その記録のひとつだ。

また父は、無事故無違反で交通安全協会から
表彰を受けるような人だった。
歩いているとき、車が走っていない、
誰もいない信号でも、赤信号では、
けっして横断歩道を渡らなかった。
一緒にいる人が赤信号で渡っても何も言わない。
そして、自分は絶対に信号を守る、
そんな人だった。

仕事や家庭にストレスがなかったわけではないだろうが、
父から、誰かの悪口や、愚痴を聞いたことがない。
生前、姉が父から「日記を付けている」と
聞いたらしい。
遺品の整理はまだだが、父の日記帳が見つかれば
何が書いてるか、読むのが楽しみでもあり、
怖くもある。

あまり自分のことを語る人ではなかったので
私の知っている父の情報は、そのほとんどが
母から聞いたことで、事実かどうかも分からない。
知っているようで、父のことを
実は何も知らない、と思う。
いや、どこまでいっても、自分以外の人が
何を考え、何を想い、何を感じていたのかは
知りようがないのかもしれないのだけど。

今あるのは、
あの人の息子で良かったという思いと
感謝だけだ。



父と私(1966年)


私は、父が32歳の時の子供だが、
自分があと32年も生きられるかどうか分からないな。

合掌。





2021.5.20

失われゆく大阪弁

東京在住の大阪出身の友人が数人いるのだけど、
彼らが話している言葉を聞いて、
幾度となく違和感を抱いてきた。

例えば、私と話しているとき、
大阪弁で話している彼が、
仕事の電話が鳴ると、途端に変な
東京弁(?)で話し出す。
別の友人は、私と話しているときは、
大阪弁で話しているのに、自分の子供と
話し出すと、変な東京弁(?)になるのだ。
いずれも、指摘すると全くの無意識であった。
不思議なのだが、無意識に何かのスイッチが
オン・オフするようなのだ。
そういうとき、彼らが話すのは、東京弁と言って
よいのかどうか分からないのだけど、東京の人が
話している言葉とは、微妙に違うように感じるので
ますます違和感があるのだ。
そんな風に感じるだけかもしれないけど。

先日、妻がレギュラーで出演している
インターネット・ラジオ番組にゲストとして出演した。
この番組は、会員限定のラジオ番組なので
ここで公開することは出来ないのだが、
その放送(インタ−ネットでも放送というのかな?)を
聴いて、驚いた。

まさに私自身が、その違和感満載の
イントネーションで話していたのだ。
完全に大阪弁で話している所もあるのだけど、
時々、めちゃくちゃ気持ち悪い話し方をしていた。

東京に出てきたのは、1995年の暮れ。
さすがに、25年も東京の言葉を浴び続けると、
自分のネイティヴな大阪弁も崩れてきたようだ。

テレビに出ている、大阪の芸人、
例えばダウンタウンの2人や明石家さんまなどが、
東京に出てきて、変な言葉遣いをするように
なったことに抵抗を感じていただが、
結局自分もそんな風になっていたんだ。

もちろん、自分で喋っていて、気持ち悪いなぁと
思うこともあったのだけど、
それは自覚があるので、良かった。
無自覚に、こんなに気持ち悪い喋り方を
していたことにショックを受けたのでした。





2021.6.18

父への手紙

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おとうさん、ぼくが、プラモデルをかいに
いっしょに行こう、というのは、めったに
いっしょに プラもをかうというときがすく
ないからです。ずうと まえからいっしょに
行こうと思っていました。今こそは、今こそ
は、と思って ある日よう日に いこうと
いおおとしましたが、家で なんやかんやし
ていたので いいませんでした。そのつぎの
日曜日は、家でずうとねていました。そのつ
ぎの日曜日は、朝から夕方ごろまで いませ
んでした。そしてそのつぎの日曜日が きょ
うなのですきょうこそは、と思っていいまし
たが きいてくれないのです。それで
わかったでしょ。いっしょに行
って いっしょに えらんでそんなことを
したいのに にくたらしくなります。うらま
れたくなかったら こんどの日曜いっしょに
タイガーへ かいに 行って ください
        真也 父へ
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今年の4月10日に父が逝った。
90歳だった。
コロナのこともあって、ようやく先週末、
葬儀以来初めて大阪の実家に帰った。
父の死後のいくつかの手続きや、納骨、
あと片付けのためだ。

父のデスク回りを片付けたのだが、
色んなものが出てきた。

父は、記録魔だった。
そんなこと記録してどうするの?
ということをメモに残していた。
私たち夫婦が毎年父の日や誕生日に送った
プレゼントのいくつかは、全く新品のまま
しまわれていたのだが、全てに
日付と私たちの名前が記されていた。
プレゼントは、まだ分かる。
父は、それらが送られてきた宅急便の送り状まで
全て残していた。
どうするねん。

私も自分で結構な記録魔だと思うが、
父はその何倍も記録している。
と言っても若い頃の記録はなく、
ある程度年を取ってからの記録なのだが、
コンピューターが使える人ではなかったので、
管理は、アナログだ。
ワープロは打てたようで、色んなことが
文書でまとめられていた。

前置きが長くなった。
冒頭の手紙は、父の持ち物から出てきた、
私が書いた手紙だ。
文面から推測するに、小学校3年生か
4年生の時のものだろう。
つまり、50年前の手紙だ。

作文力に疑問もあるが、文字使いなど
原文のまま書き写した。
400字詰めの原稿用に書かれた手紙で、
改行も原文のままにした。

最後に出てくる「タイガー」は、地元にあった
プラモデル屋さんの店名。

当時、母は口うるさくて、「お父さんが好き」と
言っていたのは、覚えているけど、
この手紙のことは全く記憶にない。

それにしても、父親とプラモデルを買いに行きたい
真也、かわいいよなぁ。
自分で言うのも変やけど。
よほど、父とプラモデルを買いに行くのを
楽しみにしていたんだな。
手紙にある「こんどの日曜」に一緒に買いに
行ってもらえたのかどうか、覚えていないし、
今となっては、父に聞くこともできない。
聞いても父が覚えていたかどうかも分からないけど。

こんな手紙を息子からもらったなら、
いくら偏固な父でも、行ったんではないかと思う。
いや、きっと行っただろう。
行ったということにしておく。







2021.6.19

置 手 紙

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おかあさん。おとうさん。
ぼくは、やっぱり、がまんできません。
たんき間だったけれど姉ちゃんのよう
になれそうもないのです。いくら努力
しても。ぼくは、日ようからでも胸がよけい
いたくなりました。だからぼくは、出ていき
まず。ゆるして下さい。
         真也。
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昨日の「父への手紙」に続いて、
父の遺品から発見した手紙。
これは、私が小学6年生の家出の際に、
置いていった手紙だ(と思う)。

大阪の実家で、当時、
一緒に住んでいた祖母のことが嫌いで、
子供ながらに大変なストレスで、
我慢ができなくて、家出をした。

家出の計画は、数日前から立てたような気がする。
前日には、新聞の集金が来た時などの
支払い用に家に置いてあったお金の中から、
確か2千円を盗んだ。
電車賃だ。
かばんには着替えと、教科書を詰めて、
当日、家を出、学校には向かわなかった。

どこに行こうか、迷った覚えがある。
行先候補は親戚の3軒。
その中で一番遠い和歌山の伯母の家を選び、
2時間ぐらいかけて、和歌山に行った。
和歌山駅について、伯母に電話をかけて
泣いたことを覚えている。
伯母の家は、和歌山から3つ目の黒江という
駅から歩いて数分のところにあった。
驚いた伯母は、和歌山駅まで迎えにきた。
黒江まで行けばよかったのにと思うが、
その時は、和歌山駅に着いたことで、
すでに感極まっていたのかも知れない。

もちろん、すぐに両親に連絡が行き、
その日のうちに母が迎えに来て、一泊だけして、
翌日には大阪の家に帰った。

私の家出は、実際には親戚んちに
一泊お泊りしただけで、終わったのである。

翌日だったか、担任の先生に説教された覚えがある。
内容は覚えてないけど、「そういうことはするもんじゃない」
というような真っ当な教えだったような気がする。

手紙には「姉ちゃんのようになれそうもない」とある。
姉も祖母のことを好きではなかっただろうが、
私のように思い悩まず、良い意味で適当に
ええ加減にこなしていたんだろう。
母に「姉ちゃんのように(テキトーに)したら良い」と
言われたのかも知れないな。

私は、祖母がイヤで家を出たわけだが、
そのことは、祖母の耳にも入った。
私は、直接 祖母に何かを言われた覚えはないのだが、
母は姑である祖母から「あんたのしつけが悪いから、
真也が家出をした」と言われたと聞いた。
そんな祖母だったから、嫌いだったんだけどね。

母には悪いことをしたと思うが、私は
何かを表明しないわけには、いかなかったんだよな。



それにしても、父はよくこんなものまで置いてたもんだ。
私は置手紙をしたことなど、覚えていなかったので、
読み返した時、なんだかちょっと、嬉しいような
恥ずかしいような切ないような、複雑な思いがした。
小学6年生にしては、稚拙な手紙だと思うが、
これでも国語の成績は、良い方だったんだよ。







 ひとりごと