2015年 エッセイ
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2015.1.25
スモール・ワールド
ずいぶん前に、聞いた話だ。
内容はうろ覚えだが、大体こんな感じ。
アメリカの西海岸に住んでいる A さんに
東海岸に住む B さんを探してもらう。
探す方法は、
「東海岸に住む B さんという人を知らないか?」 と
A さんの 友人知人に訊くのみ。
訊かれた友人は、同様に自分の友人知人に訊く。
さて、A さんから何人目で、
B さんにたどり着いたでしょうか。
私は、数十人か百人ぐらいじゃないかと
思ったのだが、その答えは、確か5~6人だった。
仮に A さんが、50人の友人知人に
訊いたとしよう。
その訊かれた友人知人が、それぞれの友人知人
50人に訊いたとする。
その人たちが、また50人に訊いて、
という風に計算すると、A さんから数えて、
5人目 (友達の友達の友達の友達の友達) は、
3億1250万人になる。
もちろん、これは計算上の話だが、
A さんから数えて5人目で、アメリカの
人口を超えることになるのだ。
この話は、人のネットワークの凄さを
表したものだ。
さて、連日、報道されている
イスラム国とみられる組織が
日本人2人を人質にとり、
殺害を予告している問題。
深刻な問題だが、20日の第一報は、
(自分の) 知らない人の話だという風に
聞いていた。
その日、近所の居酒屋で、常連客の
「危険な地域に自分で行ったんだから、
仕方ないだろう」 という声も聞いた。
もちろん、彼らも知らない人の話だからだ。
翌21日のニュースを聞いていて、
拘束された一人の名前 「後藤さん」 に
引っかかった。
正月に大阪に帰省した際、
30歳になる甥が、あるジャーナリストの
話を聞かせてくれた。
甥は、バンドを組んで歌ったりしているのだが、
そういう関係でそのジャーナリストに出会い、
直接 話を聞く機会があったそうで、
ずい分、刺激を受けたような、そんな話だった。
私が 引っかかったのは、甥の
「(その人が) シリアに行って、
連絡がつかなくなって、ちょっと心配」 という
言葉を思い出したからだ。
そう言えば 「後藤さん」 って、言ってたような
気がしてきて、甥に確認したら、
まさにその後藤健二さんだった。
私は、後藤さんのことを直接知らないのだが、
とたんに この事件が、全く知らない、
自分に無関係の人のことではなくなった感じがした。
別の話。
先日、ライブを観に行き、そのエッセイも読んだ、
島根県松江市在住のシンガー、浜田真理子さん。
彼女のことは、10年以上前に
渋谷のタワーレコードの試聴コーナーで知った。
その時に、1枚CDを買ったきりだったのだが、
一昨年5月に初めて、ライヴに行った。
そして、彼女のブログで、ベースの水谷浩章さんと
レコーディングしたことを知った。
水谷さんは、直接面識はないが、
友達 (K彦) の友達だ。
つまり、友達の友達が、
浜田さんと仕事をしていたのだ。
それで、一昨年の11月には、そのK彦と
浜田さんのライブにも行った。
この話には続きがあって、先日のライヴは、
水谷さんのライヴに浜田さんがゲストで
出演する形だったが、そのライヴに
PA (音響) で K彦が呼ばれた。
(K彦は、サウンド・エンジニア。)
つまり、浜田さんは、友達の知り合いに
なってしまったのだ。
10年以上前、レコード店でたまたま視聴して、
「ええなぁ」 と思った、松江在住のシンガーが、
そんな近くの存在になったのだ。
つくづく、世界は小さいと思う。
紛争は、いつまで経ってもなくならない。
世界中が 友達の友達なのに。
人質の湯川遥菜さんとみられる人が
殺害された写真が 配信されたらしい。
後藤さんが無事に解放されることを祈るのみだ。
2015.4.8
賞味期限切れ
先日、ある映画館で、
賞味期限の切れたマスタードを使って、
ホットドッグを販売したことについて
「買い求めたお客様へ」 とした謝罪文が、
その映画館のサイトに
「重要なお知らせ」 として、アップされた。
読んでみると、使用したマスタードは、
「検査機関にて成分分析・生菌検査を行なった結果、
食品衛生法上で陰性結果となり健康に害を
及ぼすものではないことを確認いたしました」
とある。
一体、どれだけ期限を過ぎたものを
売ってしまったのだろうと読み進めると、
賞味期限:2015年3月28日(土)
販売期間:2015年3月29日(日) 9:10~12:00
販売個数:7個
と書かれていて、ガクッときた。
賞味期限が9時間から12時間過ぎただけで、
「成分分析」 するのか。
せにゃならんのか。
この機会に調べてみると、
賞味期限が切れたものを販売することは、
違法ではない。
ただし、賞味期限を改ざんして販売すると、
法律違反になる。
つまり、賞味期限切れの商品を
「賞味期限切れです」 と知らせて売るのには、
何の問題もないのである。
もちろん 「賞味期限」 と 「消費期限」 は、
別のものなので、混同してはいけない。
つまり、件の映画館で、
「このマスタード、昨日で賞味期限なんすけど、
いいっすか?」 とことわり、客が承知の上で
購入すれば、何の問題もないことなのだが、
黙って売ってしもたもんやから、
成分分析までして、こんな仰々しい謝罪を
しなければならないのだな。
企業としては、再発防止に取り組まなければ、
消費者の信用を失いかねない問題だし、
謝罪もあって当然だと思うが、
たった1日の賞味期限切れで、
成分分析まで マジメに (?) やらなければ
ならない風潮は、どんなもんかな、と
思った次第である。
農林水産省によると、賞味期限とは、
「開封していない状態で、表示されている保存方法に
従って保存したときに、おいしく食べられる期限を
示しています。賞味期限内においしく食べましょう。
ただし、賞味期限を過ぎても
食べられなくなるとは限りません」 とある。
本来、未開封の状態での期限だが、
ほとんどの人が、開封してもその賞味期限を
目安にしているのではなかろうか。(私だけか?)
そして、期限を少々 (1~3ヶ月) 過ぎていても、
よほど保管状態が悪い場合をのぞき、
多少、味は落ちていたとしても、
それを食べて、お腹を壊した経験のある人は
いないんとちゃうやろか。
逆に全く品質的に問題がなくても、
大幅に賞味期限の過ぎた食品は、
なんとなく、気持ち悪く、
食欲がわかないというのも私だけではなかろう。。
賞味期限なんてなかった時代は、
自分の嗅覚と味覚で判断したもんやけど、
日本人は、どんどんその感覚を
失っているのかもしれない。
賞味期限とは関係ないが、もう10年以上前の話。
あるレストランで豚肉料理を注文した。
ナイフを入れてみると、中が赤い。
半焼けというか、半生 (なま) というか、
十分に火が通っていないのである。
牛肉は、生でも食べられるが、
豚はよく火を通さないと危険と知っていたが、
大丈夫だろうと、私は 2~3切れ食べた。
一緒にいた2人が、
「それは、良くないよ」 というので、
店の主人を呼んだ。
「ああ、この肉は、これぐらいでも
大丈夫ですよ」 と言ってくれるのかと
思ったら、「調理し直します」 と言う。
調理をしたのはそのご主人ではなかったのだが、
赤い肉を見た時に、少し顔色が変わったように
見えたのね。
それって、怖いよね。
まあ、結局、胃腸の弱い私でも、
何もなかったから良かったけど。
2015.4.27
国 語 力
私は小学生の時、
国語という教科が嫌いだった。
算数は、答えが一つだから良かったけど、
国語の場合、「感想を書け」 というような、
答えが一つじゃないような問題は、
特に嫌いで、作文や読書感想文も
苦手だった。
ところが、どういうわけか中学になると
国語の成績が、悪くなかった。
古典や古文は、大嫌いだったが
現代国語は、そこそこの成績で、
それは高校進学後も続いた。
高校に入ってからは、ほかの主要教科の
成績が軒並み下降したが、
現国 (現代国語) の成績は、
ほかの教科ほど下がらなかった。
そして、小学生のころ、国語嫌い、
作文嫌いだった私が、今では、
このように文章を書くことが、
趣味 (?) になってしまった。
面白いもんや。
さて、小学5年生の夏から、週1回、
勉強を観ているK君も、はや中学3年生。
来年は高校受験で、
最近は、国語と数学をやっている。
解けなかった問題が解けるようになり、
読めなかった文章を読めるようになり、
書けなかった漢字が書けるようになり、
見た目も少年から青年へと変化していく、
その様を間近で見られることは、
子供のいない私にとっては、
貴重な体験の場であり、
「教える」 ということの学びの場でもある。
自分 (大人) が、できていることを
できていない子供に教えるということにおいて、
国語というのは、困難な教科だと思っていた。
数学なら、公式を覚え、練習問題の数を
こなすことでそれなりに身につくだろう。
また、教えるだけなら初心者にギターの弾き方を
教える方が、国語より簡単だ。
国語には公式がなく、練習問題をやりながらも
目的地が、ぼんやりしているような、
曖昧さを拭えなかった。
福嶋隆史さんという方が、横浜で国語専門の
塾をやられているのだが、試しに彼の著書、
『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』 を
読んでみた。
そこには、確かに国語力が伸びるであろう、
学習のポイントが書かれていた。
そして、国語の学習について、
私がモヤモヤしていたことも、
学校の国語の授業の問題点として
書かれていたのだった。
著者曰く、国語力とは論理的思考力だと。
ところが、多くの授業では、国語を
「味わう」 ことに費やされているのだ。
「味わう」 ことも感性を磨くためには、
良いかもしれない。
が、味わうだけでは、読解力や文章力を
身につけることはできない。
数学は、言わば論理的思考を身につける
教科の一つだと思ってたが、
国語も論理的思考を身につける教科だったのだ。
本書には、「偏差値20アップは当たり前!」 との
見出しも付いている。
さすがに、これ一冊に書かれていることだけで
偏差値20アップは、少々、大袈裟な気もするが、
実践すれば、国語力がつくのは間違いないだろう。
あとは、指導者の腕次第といったところか。
指導者といえば、本書には、こんな指摘があった。
子供のテストの答案を見たとき、
いきなり、「また、こんな簡単な問題で
バツをもらってる!」 と 「マル」 より
「バツ」 に 目がいく親御さんが多いということ。
正解した問題を認めてあげて、褒めてあげてから
できなかった問題のことに触れるのではなく、
バツにしか目がいかないのだ。
これでは、子供は浮かばれない。
そして、(今さら目新しくはないが)
褒めることの重要性が書かれている。
先日観た映画 『セッション』 の鬼教授フレッチャーは、
「褒める教育」 を頭から否定する。
生徒をダメにする一番の言葉は " Good Job "
(よくできたね) だと。
フレッチャーは生徒を罵倒し、時には、
暴力をふるい、その才能を引き出そうとする。
その極限状態を乗り越えられた者だけが、
第2のバード (チャーリー・パーカー)になれるのだと。
まあ、一般の小中学生の親向けの本に書かれていることと、
世界でも一流の音楽家を育てようという現場
(しかも映画の中) とでは、
教える方も教わる方も違いすぎるねんけど、
なんちゅうか、どっちにしても、
偏ったらあかんというか、決め事にしてしもたら、
うまいこと行けへんのちゃうかと思ったのでした。
それに、子供は、大人が本気で褒めてくれてるか、
何か下心があって、上っ面だけ褒めてくれてるか、
聞き分ける力があると思うので、
褒めるときは、本気で褒めやなね。
なんか、最後には国語と関係ない話になってしもた。
2015.4.28
コミュニケーション
この時期になると新入社員による珍事件が
あちらこちらのオフィスで展開されるらしい。
たとえば、こういうの。
・「エクセルで、これ作って」 と頼んだら、パソコン抱えて
“エクセルシオール (カフェ)” に行ってしまった。
・「出社したら、まず最初に机拭いてね」 と頼んだら、
机をフーッと吹いてた。ジョークだと思って
「アホなことやってないで、ちゃんと拭いてね」 って言ったら、
ものすごい勢いで息吸い込んで思いっきり “ フ~っ ” って。
一応、彼、T大卒なんだけどね。
・入社式に来ないので心配して連絡したら、
「退職願い」 と書かれたメールが来た。
この記事 からの拝借だが、これらは、ネタでもねつ造でもなく
ウソのようなホントの話だという。
そういえば、高校の同級生 (女子) のこんな話を
聞いたことを思い出した。
彼女が高校を卒業し、OLになりたての頃のこと。
会社にかかってきた電話の受話器を取ったものの、
何と言って分からなかった彼女は、
思わず 電話口でこう言ったそうな。
「いらっしゃいませ~。」
まあ、かわいらしい失敗談やけど。
記事の話にもどると、珍事件の元は、
コミュニケーション能力の低下と言えばそれまでだが、
筆者は 「『言葉にならない気持ち』 を受け取る力が
弱体化」 していると 分析する。
コミュニケーションは、受け手側が
その言葉の 「コンテクスト (文脈)」 を
理解する必要があるのだが、新入社員には、
まだそれが培われていないという風にも
考えることもできるが、若者全体のその理解力が
低下してきているということなのだろうか。
少し前のこと、仕事上のある案件について、相手が、
「A の件ですが、もうしばらくこのままでも良いですか?」
と訊いてきた。(メールではなく口頭で)
私は、「良いですよ」 と答えた。
ところが、相手が 「このままでも良いですか」 と
訊いた内容と私が 「このままでも良いです」 と
回答した内容にズレがあった。
後日、そのことが発覚した時の私の内心の反応は
「ちゃんと言えよ」 というものだった。
私は、「そういう意味で OK したのではないです。
私がOK したのは、~~~についてです」 と
答えたものの、相手の言い分は、
「ちゃんと おうかがいをたてたじゃないか。
今さら、取り消されても困る」 というものだった。
大体こういう場面で気弱な私は、
相手の言い分を呑むことになる。
この場合、「もうしばらくこのままでも良いですか」 と
打診されたときに 「それって、~~~のことですか?」 と
私が確認をしていれば、相手は
「いえ、▽□△のことです」 と答え、
誤解は生じなかっただろう。
メールなら、明確にやりとりしたかもしれないが、
口頭で、軽く言われたということも
私が無意識だった原因の一端かもしれない。
「もうしばらくこのままでも良いですか」 の
内容は、私にしてみれば、そんな風にお気軽に
依頼できる内容では、なかったからだ。
が、相手のせいにしても仕方がない。
勝手に思い込んだ自分が自分のけつを拭くしかない。
「メールなら明確にやりとりしたかも」 と
書いたが、私はとても明確に書いたつもりでも
相手のコンテクストがずれていると、
誤解されてしまうこともある。
その場合は、自分の言葉不足と省みるしかない。
そんなことをあれこれ考えていると
パーフェクトなコミュニケーションなど
元来、無理なのだと思わざるを得なくなってくる。
まあ、摩擦も誤解も人生のうち、
と思えばええことやねんけど。
2015.6.4
清水の舞台
清水(きよみず)の舞台から飛び降りる。
物事に取り組む時の強い決意を表す言葉だ。
大体、高額な買い物をする時ぐらいにしか
聞いたことないけど。
行ったことのある人なら分かるだろうけど
清水寺の舞台は、地上約12メートルで、
4階建てぐらいの高さだ。
飛び降りた場合、打ち所が悪ければ、
命の危険もある。
記憶では、あそこから飛び降りたという
事件はないと思うのだが、昔はホントに
飛び降りが あったようだ。
「清水寺 成就院日記」という記録では、
江戸中期には、234人が飛び降りたらしい。
当時は、「飛び降り」ではなく、
「飛び落ち」と呼んだようだ。
「飛び降り」より「飛び落ち」の
方が怖い感じがするのは、なんでやろ。
「降りる」のは自分の意志やけど、
「落ちる」のは、自分の意志に関係なく
あらがえないからかな。
明治に入って、禁止令が出て、
飛び降り防止用の竹矢来が組まれたので、
現在では、飛び降りる人はいないだろう。
では、なぜ飛び降りたのか。
これは、自殺志願ではなく、
清水の観音様に一心に祈って飛ぶと、
命も助かり、願いも叶うという迷信による
願掛けであったらしい。
江戸時代以前には、飛び降りの記録はないようで、
江戸時代中期に始まった民間信仰だと思われる。
「命も助かり」と書いたけど、
打ち所が悪ければ、当然命に危険がある。
生存率は85%で、中には飛び降りても
無事でそのまま歩いて帰った人もいるようだ。
15%の人は、死んでしもたということやけど。
飛び降りの動機は、「主人のために願いを立てて」
「自分の病気の治癒」「母の眼病」
「暇がほしい」など。
飛び降りた70%は女性で、2度飛んで2度とも
助かったという女性もいたらしい。
願いは、かなったのか聞いてみたいね。
【参考記事】
清水の舞台から飛び降りた!?
「清水の舞台から…」 無茶な飛び降り、実は願掛け
2015.6.28
From China
JR横浜駅で東京方面行きの電車を待っていた時だった。
隣の列に並んでいた女性が私に近づいてきた。
30代前半ぐらいだろうか。
片手でベビーカーを押し、
反対の手でキャリーバッグを引き、
肩には大きめのバッグをかけている。
私は、i-Pod で音楽を聴いていたが、
彼女は私に向かって何か言っている。
イヤホンを外すとスマホの画面を
私に見せてきた。
彼女は、日本人に見えなくもないが、
外国人のようだ。
画面には「品川」とだけ書いてある。
そうか、ここに並んでいて品川行きの
電車に乗れるのか知りたいのだな、と
思った私は、線路を指さし、
「シナガワ、OK」と答えた。
ベビーカーには、1~2歳の男の子が
おとなしく座っている。
やがて電車が到着し、
私たちは同じ扉から乗り込んだ。
ホームと電車の間に 15cm ぐらいの隙間があり、
片手では、ベビーカーを電車に乗せることは、
できない。
私は、ベビーカーの前部を持ち上げ、
電車に乗せるのを手伝った。
彼女が、話しかけて来なかったら、
その存在にさえ気が付かず、
ベビーカーを乗せることに苦労していることにも、
気が付かなかったかもしれない。
電車が走りだすと、扉にもたれて、
私は再び、イヤホンをして音楽を聴きだした。
目の前には、彼女が立っている。
川崎駅を過ぎて、彼女が話しかけてきた。
英語で「ロッポンギに行くのは、この電車か?」と
言っているようだ。
私は、「この電車では行けない」と答え、
品川から、どの経路なら簡単に
六本木に行けるか 考えを巡らせた。
品川から山手線で恵比寿、恵比寿から
地下鉄日比谷線で六本木へ行くのが
一番簡単だと思いつき、
「六本木に行くには、2回乗換えだよ」と
答えた。
いや、実際には、
「Two times, change train」と言ったのだが。
彼女は、「Two times, OK」と答えた。
さて、どうやって英語で、この2回の乗換え
(しかも2回目はJRから地下鉄)を説明しようかと、
考えていて、私は自分が五反田駅へ
向かっていることに気が付いた。
五反田は、品川から恵比寿に向かう
途中にある。
つまり、同じ電車に乗って、
「恵比寿で降りて、サブウェイに乗れ」と
説明すればなんとかなりそうなのだ。
品川駅に着くと、彼女に
「六本木に行きたいのでしょ。
私について来なさい」と言った。
今日、初めて気が付いたが、JR品川駅には、
エスカレーターが少ない。
山手線のホームに下りるのに、エスカレーターは、
あっても反対向きだったりして、
ベビーカーと一緒では、中々ホームにたどり着けない。
ずい分と探してやっとエレベーターを見つけた。
これは不便だ。
でも、彼女がベビーカーと一緒でなければ、
気が付かなかったことだ。
なんで、もっとエスカレーターを作らないのだろう。
ラッシュ時にエスカレーターがあると、
もっと混雑するからだろうか。
ようやく、山手線に乗り込み、
初めて要件以外のことを訊いてみた。
以下、大体こんな感じ。(実際の会話は英語です。)
「あんた、どっから来たん?」
「中国です」
「観光(sightseeing)?」
「えっ?」(私の "sightseeing" が通じない)
「仕事?」(子連れで仕事もないやろうけど)
「いえ、夫が日本人なんです」
「ああそう、ほな日本に住んでるの?」
「ええ、名古屋です。東京に住んでいるのですか?」
「そうやで」
「東京は大きな街ですね。日本人ですか?」
「そうや」
「あなたの英語、素晴らしいです。
今日は、あなたに会えてラッキーでした。
どうもありがとうございました。」
言葉の通じない国で、小さな子供を連れての
移動はさぞかし不安なことだろう。
旦那が日本人と言っていたが、
六本木には旦那に会いに行ったのだろうか。
そこまでは、聞かなかったけど。
彼女は私の英語をほめてくれたけど、
ほとんど単語を並べただけで、
とてもじゃないが、褒められたものではない。
やはり、もうちょっと流暢に話せるように
なりたいものだ。
ところで、
中国人と聞くと、正直あまり良い印象がない。
耳に入ってくるのは、日本人にしてみれば、
とんでもないニュースが多い。
反日感情も根強いと聞く。
でも、こうやって言葉も通じないのに
日本に嫁いでくる女性もいるのだ。
それは、実際に目の当たりにすると
何かが感動的なのだった。
日本人旦那はどんな人なんでしょね。
それにしても、あの男の子はおとなしかった。
母親は私といる約30分の間、ベビーカーを
押している状態だったので、
子供の顔を一度も見なかった(と思う)。
そして、子供は一度も声を出さなかった。
それが、なんとなく気がかりだが。
彼女の肩からかけたバッグには、
中華まんらしきものが入っているのが見えた。
横浜にいたということは、中華街にでも
行ってきたのかも知れない。
親戚のおじさん、おばさんが中華街で
お店をしてるので、週末を使って、
会いに来たとかね。
そんな想像をさせる中国人親子との
ひとときだった。
2015.7.9
黙っていられない
先日、知り合いの息子、中学1年生男子に
ギターを教える機会があった。
全くの初心者。
初々しいとはこのことだ。
ギターを弾きたいって気持ちは、
人ごとでも 嬉しいね。
そのO君、東京からはちょっと遠くに
住んでいることもあって、
お父さんに連れられて2人でやってきた。
私の元々の知り合いはお母さんの方だが、
お父さんとも面識があり、会うのは
2回目だった。
レッスンと呼べるかどうかはさておき、
ギターのレクチャーが始まった。
面白かったのは、お父さんの反応だった。
私がO君に
「こういう風に弾いてごらん」と
見本を見せるのだが、
初心者がいきなり出来るわけがない。
もし、いきなり出来るとしたら、
その子は、ホンマもんや。
例えば、ダニー・ガットン(ギタリスト)は、
子供の時、ギターを買ってもらって、
楽器屋から家に帰るまでの車の中での
30分でギターを弾けるようになったという。
(確か ダニー・ガットンの話やったと
思うけど、違ってたらごめん。)
こんな子供は、もう間違いなくマスターやけど、
普通は、最初から弾けるわけがない。
で、中々うまくできない息子を
横で見ているお父さんが我慢できないんやね。
「違うだろ、そうじゃないだろ」と
いちいち、口を挟む。
まるで私が、気の長い心の広い人間かと
自分で錯覚しそうになるほど、
お父さんは黙っていられない。
実際は、私の気が長いわけでも
心が広いわけでもなく、
最初から出来るわけがないと
思っているだけなのだが。
と同時に、
その出来ないことに取り組むモチベーションは、
"本気で" ギターを弾けるように
なりたいか否かにかかっていると信じている。
だから、彼が「こんなに難しいならや~めた」と
投げ出しても それはそれで、
私は全く構わないのだ。
そして、たぶん、だけど。
つまり、私の想像だけど。
そのお父さんも、仕事などで、
人に指導する立場になれば、
きっと、早々に「違うだろ、そうじゃないだろ」なんて
言わずに根気よく、指導するんだろうと思う。
出来ないことが許容出来ないのは、
それが他人ではなく、自分の息子だからでは
ないかと思うのだ。
私には子供がいないので、リアルではないが、
おそらく子供は自分の分身のようなものなのだろう。
その分身が、簡単な(ように見える)ことを
出来ずにいるのは、耐えられないことなんじゃないかと
思うのだ。
もちろんすべての親がそういう風では
ないだろうけど。
ちょっと例が違うかも知れんけど、
私にはメチャクチャ簡単なことを
妻が出来ずにいることに
ちょっとイライラしてしまうことがあるように。
近い人間であればあるほど、
許容するのが難しいことってあるでしょ?
あ、でも彼女は私の分身ではないです。
念のため。
2015.9.17
「怒り」をコントロールする授業
文部科学省が発表した国公私立の小中高校を
対象にした「問題行動調査」の結果によると、
昨年度の小学生の暴力行為は1万1468件で、
前年を約5%上回って過去最多となったらしい。
→ ニュース記事
暴力の内訳には、クラスメートや器物だけでなく、
教員も対象に入っている。(18.7%)
先生に向かって暴力を振るうのは、
私の小学生時代には、考えられなかったことだ。
今は、体罰ができないので、
先生がなめられるのだろうか。
文科省の分析では、「繰り返し暴力をふるう子や
感情のコントロールができない子が増えている」とある。
小学生の暴力行為は増えているのだが、
中高生の暴力行為は、減っている。
そして、小6の加害者数は前年度より
減っているが、小1は5年前の2倍以上に
増えているという。
暴力の低年齢化か。
そこで、東京都品川区では2009年度から、
全区立小学校で「怒り」をコントロールする授業を
続けているという。
怒りの感情を理解した上で、
「衝動的に殴ってはだめ」と教えるのが目的らしいが、
その授業の効果については、記事では言及してない。
ネガティヴで申し訳ないが、
(その授業、効果があるんやろか)と思ってしまった。
「衝動的に殴ってはだめ」と 知っているオトナが、
一体、どれだけの衝動的な暴力事件を起こしているのか。
言葉の暴力も入れると、スゴイ数だろう。
その授業では、「衝動的に殴ってはだめ」だと
知ることはできるだろうが、果たして、
カッとなった時の自分を抑制することに
つながるのだろうか、と疑問に思ったのだ。
そこで思い出すのは、今年3月に観た
ドキュメンタリー映画『みんなの学校』だ。
映画の中では、暴力振るった児童が、
校長室に「やり直し」をしに行く。
校長先生と約束し、約束を破るたびに
何度も「やり直し」をしに行く。
「やり直し」は言わば、
反省と未来への宣言のようなもの。
文字通り "やり直す" のだ。
で、その「やり直し」のたびに
児童が成長していくように見えた。
知識で「衝動的に殴ってはだめ」と教えるのではなく、
その子供自身の体験の中から、本人が学び取っていく教育だ。
先生の方に、とんでもない忍耐と愛が求められる。
暴力が増えているのには、家庭内や社会や
色んな原因が考えられるのだろうけど、
一体何があって、先生に向かって「死ね」
「うぜぇ」という言葉を吐き、
時には殴りかかる小学1年生が現れるんやろう。
どんな両親の元で育てられているんやろう。
もしかしたら、人間って進化してるんと
ちゃうんちゃうか、とも思ってしまいそうやけど、
『みんなの学校』のような教育者の存在は、
救いやな。
2015.10.7
コミュニケーションのからくり
以前こんなことを教えてもらった。
コミュニケーションは、「何を言っているか」ではない。
相手が「どう聞いたか」が全てだと。
つまり、自分がどんなつもりで話そうとも、
相手がそういう風に聞いていなければ、
相手が聞いたことが、自分が言ったことになるのだ。
これは、自分の言葉を相手が「どう聞いているか」に
注意を払う必要があると同時に、
相手の言葉を「自分がどう(どんなコンテクストで)
聞いているか」に着目することの重要性を
言い表していると思う。
もうひとつ言えば、自分(相手)が何を言ったって、
相手(自分)は、
「聞きたいように聞く(聞きたいようにしか聞かない)」
ということでもある。
ニュース記事によると、こんなことがあったようだ。
テレビの生放送で菅官房長官が、キャスターに
「福山(雅治)さんの結婚、いかがですか」と訊かれ、
こう答えた。
「この結婚を機に、ママさんたちが一緒に
子ども産みたいとか、そういう形で国家に
貢献してくれればいいなと思っています」
キャスターが「なるほど、少子化にね」と、
相づちのを打つと、菅氏は「たくさん産んでください」
と笑顔で続けたらしい。
で、この発言が物議を醸しているらしい。
その場にいた(番組に一緒に出演していた)
尾木直樹氏は、お祝いの雰囲気の中で出た言葉で
自分には違和感はなかったと、コメントしている。
私もそうだろうと思う。
その一方で、一部の人たちが、
この発言に過剰に反応し、
声を上げるだろうということも推測できる。
特に「国家に貢献」なんていうと、
一部の人たちのスイッチを押してしまうやろうことは、
容易に推測できる。
その記事には、官邸幹部のコメントとして、
菅氏が福山雅治の結婚報道の後、
「支持者から『彼らと同級生の子どもが産みたい』との声
を多数聞いていた」ので、そういう発言になった旨の
説明(?)とともに、芸能レポーターが
「福山ファンのママたちはショックで受け入れられず、
一緒に産みたいとは思わない」と "断言" していると
書いてある。
「断言」するのか。
福山の子と同級生を生みたいと思う人がいないと。
スゴイな。
そして、記事には、ある大学准教授(女性)の
「菅氏の発言からは、『女性が輝く社会』を掲げながら、
内心では『産む機械』と見ている男社会の
根深い本音が透けて見える」というコメントが
書かれている。
そんな本音があるのかないのか、
私には分からない。
それは私が男であるからかなのかもしれないが、
少なくとも全ての女性がそんな風には、
言わないだろうと思う。(聞いてないけど)
また、その大学准教授は、
「昔は『産めよ増やせよ』と言い、
子どもが増えてきたら4人家族を推奨し、
また減ってきたら『増やせ』と言う。
女性の体を国家に使われているような感覚になる」
とも言っている。
「女性の体を国家に使われているような感覚」
なるほど、そんな感覚になるのか。
一体、どれくらいの女性がその感覚になるのだろう。
少子化が進むと若い人たちの負担が増え、
最後に困るのは、国民だと思うのだが。
私には、菅氏の発言より、
その発言に対する反応の方が、
気持ち悪く、ある意味怖い。
たぶん、私が書いていることは、
その反応している人たちにしてみれば、
菅官房長官の発言と同じ部類に聞こえるのかもしれない。
そして、彼らが自分の都合の良いように
聞いたのと同じく、私も一連の発言を
自分の聞きたいように聞いている。
相手が言っている通りに聞くのではなく、
自分の聞きたいように聞くのだとしたら、
自分がハッピーでいられるように聞きたいものだ。
2015.10.18
運動会
昨日は、K 君(中学3年生)の運動会だった。
朝8時の時点で結構雨が降っており、
延期になるのかと思っていたら、決行だった。
なんでも、翌日曜日に延期すると、
模試やら高校見学やらと予定があり、
受験生に影響があるそうで、
小雨決行との判断であったようだ。
私は写真を撮りに行ったので、
小雨でも降っていると、
カメラを濡れないようにかばいながらの
撮影になり、思う存分に撮れない。
それでなくても、運動会の撮影は
難しいのに困ったもんだと思ってたら、
幸いお昼前には、雨は上がった。
運動会というと、校庭の周囲に
家族が応援のためにゴザを敷き、
座って観戦するものだと思うが、
ここの中学校では、ゴザを敷くのは
禁止されている。
持ち運び用の椅子を置いての観戦も
禁じられているらしく、父兄は皆、
立ったままの観戦だ。
なんでも、ゴザを敷くことを OK にすると
場所の取り合いになるので、
それを防ぐためらしい。
ゴザに座って応援し、弁当を食べるのは、
運動会のひとつの風物詩のように思う。
それができないのは、なんとなく寂しいな。
あれはダメ、これはダメという
昨今の風潮を、世知辛いと感じるのは、
年をとってきたということか。
盆踊りの音がうるさいと苦情が出るので、
無線で音を飛ばし、イヤホンで聴きながら
踊る盆踊りもあるらしい。
はたから見ると、無音で踊っているので、
甚だ不気味なようだ。
このままいくと、そのうち イヤホンで
「天国と地獄」や「ウイリアム・テル序曲」を
聴きながら、運動会を観戦する日が来るのかもしれない。
100メートル走のスタートラインに並ぶ K 君たち中学3年生。
2015.10.31
ハロウィンに思う
今日は、ハロウィンで、
仮装した子供や若者を何人か見かけた。
渋谷は大騒ぎで、逮捕者まで出たようだ。
一体、いつから日本でハロウィンが
こんな風に扱われるようになったのだろう。
少なくとも30年前の日本人のほとんどは、
ハロウィンを知らなかったはずだ。
1985年10月の終わりごろ、
私はアメリカ、ロサンゼルスに行った。
その時、街のディスプレイを見て初めて
ハロウィンのことを知った。
それまでは、聞いたこともなかった。
それから10年以上経って、
日本でもハロウィンのことを目にするようになった。
東京ディズニーランドのイベントや、
菓子メーカーのハロウィン商戦がきっかけのようだ。
1985年にハロウィンを知ったといっても、
なぜ仮装するのか、なぜかぼちゃなのか、
多分その時も、説明を聞いたか読んだかしたのだろうが、
覚えていないし、今だに何の祭りなのか分かっていない。
果たして、今日仮装していた若者や子供は、
ハロウィンが何の日か知っているのだろうか。
クリスマスが、キリスト教徒でもない人の
イベントになったように、ハロウィンは、
仮装して大騒ぎするか、子供がお菓子をもらう
イベントの日として定着するのかもしれない。
2015.11.20
君たちに憎しみを あげない
もし、自分の妻がテロリストに殺されたら、
私はどう思い、どう考え、どう生きるのだろう。
テロが世界のあちこちで起こっているとはいえ、
日本のような平和な国に住んでいると、
どうしても対岸の火事のようでならない。
そんな私でも、今まで考えたこともないようなことを
考えさせられた。
先日のパリのテロで、妻を亡くした、
仏人映画ジャーナリスト、アントワーヌ・レリスさん(34)が、
テロリストに向けてつづった フェイスブック上の文章に、
共感の輪が広がっているという記事 だ。
以下がそのレリスさんのメッセージの和訳。
(朝日新聞デジタルより)
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金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。
私の最愛の人であり、息子の母親だった。
でも君たちを憎むつもりはない。
君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。
君たちは死んだ魂だ。
君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。
もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、
妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは
神の心の傷となっているだろう。
だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。
君たちの望み通りに怒りで応じることは、
君たちと同じ無知に屈することになる。
君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、
安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。
だが君たちの負けだ。
(私という)プレーヤーはまだここにいる。
今朝、ついに妻と再会した。
何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、
そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。
もちろん悲しみに打ちのめされている。
君たちの小さな勝利を認めよう。
でもそれはごくわずかな時間だけだ。
妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。
君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
私と息子は2人になった。
でも世界中の軍隊よりも強い。
そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。
昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。
彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、
私たちはいつものように遊ぶ。
そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが
君たちを辱めるだろう。
彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。
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テロリストに対して、対応・対策は必要だ。
だが、武力で抑え付けることや、
報復に報復することが、
果たして平和への道なのかどうか私には分からない。
もちろん、対話が可能な相手でないことは、
分かっているが、怒りにまかせていたのでは、
敵の思うツボのようにも思える。
もしこれが戦争で、戦前・戦中だったら、
そんなことを言うと、非国民と呼ばれただろう。
いや、今だって、この日本でも
そういう意見は「生ぬるい」と
ネットでは叩かれているようだ。
これで、日本でもテロが起こったら、
どんな風潮になるか分かったものではない。
報復の連鎖では平和はない、と思っていても、
目の前で家族が殺され、
手の届くところに銃があったとすれば、
手を伸ばしてしまうんじゃないだろうか。
それでも、銃を手に取らない、
そんな選択が可能なのだろうか。
特に国全体が、熱くなっているときに。
そんな時、
DNA に仕組まれた反応で熱くなるのではなく、
ただ、冷静でいたい、と思う私は平和ボケと
呼ばれても仕方がないし、そう呼ばれても構わない。
私が「冷静でいたい」と願うのは、
冷静でいられないことに自信があるからだ。
当事者のレリスさんがこんなメッセージを発すること、
そしてこのメッセージに共感が広がっている、
というのは、もっと、小っちゃいことで
人を恨み憎んでしまう私には、
心強く、救いであり、光でもある。
2015.12.1
固定資産税のお勉強
不動産(土地や建物)を所有していると、
毎年、固定資産税という税金を納めなければならない。
この税金は、国税ではなく地方自治体に納める。
例えば、東京都品川区に土地を持っていれば、
品川都税事務所がその管轄となるわけだ。
その税額の決め方は、説明するとややこしいので
(というか、ちゃんと理解していないので)
ここでは省くが、建物が建っているとすると、
その土地と建物、両方に課税される。
では、建物が建っていない更地だと
建物分が安いのかというとそうではない。
建物が建っていない更地の方が、
税額は高くなる仕組みになっている。
これには、なるべく建物を建てるように促す、
国や地方自治体の意図があるのだろう。
私が数年前に仕事で関わった○×区の土地を例にとる。
非常にざっくりした言い方をすると、
更地の時に土地だけで150万円だった固定資産税が、
住宅を建てると、70万円になった。
半額以下である。
この70万円は、土地・建物の固定資産税の合計だ。
ちなみに、今日のトピックとは直接関係がないが、
この建物が、住居用と事業用で、税額が全然違う。
先ほどの70万円の税額だった建物は、
住居として建築したのだが、賃貸時には、
事務所兼住居OKという風に貸し出した。
すると、場所がら事務所として借りる借主さんが多く、
結局、全室に事務所としての表札が出ることになった。
都税事務所は、それを見逃さなかった。
どうも、見て回っているようだ。
実質、事業用として使われているので、
事業用建物として課税されることになってしまった。
その税額は、70万円から一気に210万円になった。
3倍だ。
住宅だろうが事務所だろうが、
その建物で入ってくる賃料は、同じ金額なのに。
住宅であれば、大家さんに少し優しい税の仕組みなのだ。
建物が建っていないと、固定資産税が高くなるのは
前述の通りだが、それは、いつ決められるかというと、
1月 1日が基準になる。
ちなみに納税義務者も1月 1日時点の所有者だ。
つまり、年の途中でその不動産を売却した場合、
売主と買主の間で、固定資産税の清算を行うことになる。
さて、1月 1日に建物が建っていないと、
税額が高くなるわけだが、例えば、12月に古い家を解体し、
年を明けてから、新築工事を始める場合も
1月 1日には、更地の状態だ。
これで、先ほどの例のように1年分の固定資産税が、
倍以上になるというのは、ちょっと理不尽すぎる。
そのために、住宅を建て替える人のために
特別な措置が用意されていて、
「固定資産税の住宅用地等申告書」というものを
提出すれば、税負担が軽減される仕組みになっている。
今、私が仕事で関わっている ある土地が、
ちょうどその対象となる要件を満たしており、
来年 1月 1日時点では建物がなく、2月ごろ新築の着工予定なのだ。
このケースは、私は初めてだったので、
その土地のある○×都税事務所の固定資産税の
「課税」係りに電話をして、事情を説明し、
どうすれば税の軽減ができるかを尋ねてみた。
すると、電話口に出た担当者は、ハッキリと
「1月 1日に住宅が建っていない土地は、
固定資産税が高くなることを免れません」と言ったのだった。
どうも、スッキリしない。
そんなことがあるもんか、と思っていると、
某関係者が、
「そんなはずはない。ちゃんと調べた方が良い」という。
それで、今度は同じ都税事務所の固定資産税の「評価」係りに
電話をしてみた。
先ほどかけたのは「課税」係り。
すると、あっさりと「固定資産税の住宅用地等申告書を
提出してください」と言われたのだ。
それで、仕事としては、解決したのだけど、
最初に話した「課税」係りのあまりのいい加減さに
腹が立ったので、電話をして苦情を言った。
納税者が申告しなければ、高額な固定資産を課税されるのだ。
係りが違うから知らなかったでは、済まされない。
固定資産税の仕事に関わっているなら、
それぐらいのことは知っていないとプロとは言えないだろう。
お役所仕事と批判されるのは、こういうとこやと思うな。
しっかりしてほしい、○×都税事務所、課税係。