2023年 エッセイ
感想・ご意見は→ shinya◇shin223.com
メールをくださる方は、上記アドレスの◇を@に変えて送ってください。(スパムメール対策)
2023.1.21
アンコンシャス・バイアス
昔からあった言葉だが、
特にこの数年、「バイアス」という
区別を良く聞くようになった。
この場合の「バイアス」というのは、
いわゆる「思い込み」のこと。
「信じ込み」と言っても良い。
「アンコンシャス」は、「無意識」という
意味なので、「アンコンシャス・バイアス」は
「無意識の思い込み」ということだ。
厄介なのは、無意識なので、
本人はそれが「思い込み」だと
自覚出来ないことだ。
「思い込み」ということは「真実ではない」
ということでもある。
その「思い込み」が浅ければ、他人からの指摘や
時には、自ら気が付くこともあるだろう。
しかし、それが本人にとって「疑いのない真実」で
ある場合は、他人の意見は耳に入らないだろうし、
よほどのことがない限り、自ら気付けることもないだろう。
アンコンシャス・バイアス(以下、「バイアス」という)は
例えば、「男は外で働き、女は家庭を守るべき」とか
「学歴がないと出世できない」とか
「お茶くみは女性の仕事」など様々である。
性別が絡むと、今では「ジェンダー問題」にも
関わってくるので、なおややこしい。
「ジェンダー」が絡むと
「ジェンダーフリー」、「ジェンダーレス」、
「ジェンダーニュートラル」(それぞれ区別が
あるらしい)などとより一層ややこしくなるので
ここでは触れない(区別が明確でないので、
難しくて触れられない)。
話をバイアスに戻そう。
数年前、大きな水害があった時、
比較的高齢の男性が逃げ遅れて
被害に遭ったという報道を観た。
彼らは、「これぐらいの雨なら大丈夫だ」
「今まで大丈夫だったから、今回も大丈夫だ」という
バイアスの為に避難し遅れて被害に遭った。
あの2011年の大震災の津波でさえ
そういう人がいたようだ。
バイアスにはいくつかのパターンがあるが、
前述の避難が遅れるケースは、
「正常性バイアス」と呼ばれるもので
「これぐらいは、大丈夫だ」という思い込みだ。
そのほか「親が単身赴任中」と聞くと
「父親」を思い浮かべるのも、
「日傘は、女性がするものだ」というのも
血液型で相手の性格を想像したり、
決めつけたりするのもバイアスだ。
そして、私たちはバイアスを正当化する証拠を
これまた無意識に収集しているのではないか、と思う。
例えば、血液型の性格分類では、
A型の人は几帳面と言われる。
そのことを信じている人が、几帳面に見える人に
血液型を尋ねたとき「A型」という答えが得られると
「やっぱり!そうだと思った!」という風に
その思い込み(信じ込み)が強化されてしまう。
そのとき相手が A型以外の答えをしたとしよう。
おそらく、「ふぅ~ん、A型かと思ったわ」という
程度の反応はあったとしても、自分のバイアスが
間違っていたとは思い至らない。
そもそもバイアスだとは思っていない(知らない)から。
そして、血液型の予想が外れたケースは記憶に残らず、
当たった場合だけのデータが蓄積され、ますます
バイアスは強化されていくのではないだろうか。
これは、人には「そのバイアスに見合った現実しか
見えない」ということも出来る。
エゴが自分を正当化するため、
バイアスの正当化に役立たないことは、
スルーしているとも言えるのではないか。
話しはそれるが、私は血液型占いを信じていない。
人間のタイプをたった4つに分けることに
ナンセンスさを禁じ得ないのだが、信じない背景には
こういうことがあった。
高校生の頃、まだ私は自分の血液型を
知らなかったのだが、友達の中で血液型占いが流行った。
その本を読んで、私は自分は B型に違いないと思った。
まさにその本に書かれた B型の性格が
自分と一致したのだ。
父親が B型だということも手伝った。
高校3年生の時、18歳になって、
血液型を知りたくて、献血に行った。
結果、私の血液型は O型だった。
それ以来、私は血液型占いを信じていない。
あのとき、その本に書かれたO型の性格を
自分のことだと思っていたら、(実際にO型であった
わけだから)私は血液型で人を判別する人間に
なっていたかも知れないと思う。
思い込みなんて、そんなもんではないだろうか。
再び、話を戻そう。
問題は、バイアスはその人にとって真実であることだ。
若い頃なら、自分の思い込みが
間違えていたことを受け入れやすいだろう。
(もちろん人によるし、そのトピックによるけど。)
しかし、年を重ねれば重ねるほど、
そのバイアスが正しいという
体験が積み重ねられていく。
つまり、思い込みではなく、
真実であるかのように「固定」されていく。
それが、人生に大きな影響がなければ幸いだが、
洪水や津波のとき、逃げ遅れた被害者のように、
取り返しのつかない結果を招くこともある。
還暦を過ぎて、最近、自分はいつまで
柔軟な頭でいられるのだろうと、不安になってきた。
(というか、すでに柔軟ではないだろうな。)
人間である以上、既に数々の無意識な
バイアスがあることは仕方がない。
バイアスがない人なんていないんだから。
人生、いかにニュートラルでいられるかは、
自分の観点の多くがバイアスであることに
気付けるかどうか、単なる思い込みであると
受け入れられるかどうかだと思う。
それが、これから高齢者になっていく私
(私たちの世代)の大きなテーマだろう。
さて、どうするかな。
2023.2.14
ハンバーガーの値段
最後にマクドナルドに行ったのは、いつだっただろう。
東京に来てからは、いつも自宅から徒歩圏内に
マクド(あえてそう書く)があるのだけど、
あんまり行かないなぁ。
吉牛(よしぎゅう:吉野家の牛丼の略)は、
今でも時々行くんやけどな。
さて、今朝のテレビで、マック(やっぱり、こっちにしよう、
マクドと言うのが憚られるほど、大分 東京ナイズ
されてきたわ)のハンバーガーが1年間で
3回値上がりしたと報じていた。
ハンバーガーの値段が、昨年 110円から130円になり、
150円になり、先月16日から 170円になったという。
値上がりの背景には、あらゆるコストの値上がりがあり、
そのため 売上高が上がっても、利益率が下がっている、
という事情があるようだった。
あるコメンテイターが、「もともとあのハンバーガーが
110円というのが安すぎた」と言っていたのだが、
確かにそう思う。
私は中学生の頃、友人Yと数カ月に一度、
電車に40分ぐらい乗って、繁華街(大阪ミナミ)に
出向き、安い映画館(千日会館だったと思う)で
映画を観るのが楽しみだった。
その時、その映画館の並びにあったマックで、
食事をするのも恒例で、メニューはいつも
ハンバーガーとチーズバーガーとマックシェイク。
この3品でちょうど500円だったのを覚えている。
映画の料金(たぶん中学生は 300円ぐらい)
より高かったわけだ。
記憶が間違っていなければ、
ハンバーガーが140円、チーズバーガーが160円、
そして、シェイクが200円だった。
このシェイクが、それまで飲んだことのない飲物で、
とても大きなカップだったので、全部飲むと
お腹を壊すんじゃないかと、
毎回心配していたような覚えがある。
私が中学生だから今から、
45~47年前に140円だったハンバーガーが、
昨年まで110円だったということが驚きだ。
もしかしたら、値段は上がったり下がったり
してきたのかも知れない。
25年ぐらい前、ハンバーガーが100円だった
時があったような気がする。
当時、働いていたお店にいたお金のない若い、
大食いのスタッフが、ハンバーガーを10個買ってきて、
「これで(この量で)1000円ですよ!」と
言いながら、腹いっぱいにしていたのを見た覚えがある。
私は経済のことは、よく分からないのだけど、
1977年に140円だったものが、
2022年に110円で売られているということが
やはり、よく分からない。
他のものは全部値上がりしているだろ、と書いて、
そうでもないか、と思い当たったのは、音楽。
これもずい分と安くなってしまった。
ああ、ビデオも安くなったね。
1980年代後半、エリック・クラプトンの
VHSが、1万円ぐらいだったのを覚えている。
今だとDVDは 数千円だし、YouTube で
かなり無料で観ることが出来るもんね。
と、ここまで書いて、もししたらハンバーガーの値段の
推移をまとめたサイトがあるんじゃないかと
ググってみたらありました。
(リンクは貼らないので興味のある方は、
ググってください)
やっぱり値段は上がったり、下がったりしてて、
そのサイトによると、私の記憶の140円の時代は、
150円とあるので、もしかしたら、ハンバーガー150円、
チーズバーガー170円、シェイク180円
だったのかも知れない。
そんな気がしてきた。(ええかげんや)
そして、なんと2002年にはハンバーガーが
59円(税別)という時代もあったのだね。
私は、1985年にアメリカに行ったのだけど、
当時の為替が1ドル 220円くらいで、
マクドナルドのハンバーガーは、1ドル以上していたよ。
一番安いのは、バーガーキングで
88セントぐらいだったような気がする。
2023.3.1
パンッ!
先日、自宅で PC に向かっている時、
突然「パンッ!」という大きな音がした。
どこで音がしたのか分からず、棚の上から
何かが床の上に落ちたのかと思ったが、何もない。
CD を PC に取り込み中だったのだが、
見てみると、iTunes の読み込みが止まっている。
読み込んでいたものとは、違う音楽を再生中
だったのだが、それを停止することも出来なくなっていた。
仕方なくタスクマネージャーを起動し、
iTunes を終了した。
いやな予感がしながら、CD ドライブの
トレイを開けてみると・・・
ご覧のように CD は粉々になっていた。
あの音は、CD が割れた(というか粉砕した)
音だったのだ。
件の CD は、レンタルしたもの。
とりあえず、レンタル屋さんの問合せフォームから、
状況の報告を送った。
こんなことは初めてだったので、
原因が分からなかったが、
「PCの中 CD 粉々 破損」などと
キーワードを入れて検索してみると、
同様の事故は、たまに起きているようだ。
どうやら、クラック(ひび)の入った CD を使うと
割れてしまうことがあるらしい。
CD は、かなりの高速で回転しているので、
クラックに耐えられないんだな。
12年ぐらい前の記事だと、クラックのことを
書いている記事もあったけど、
まだ一般的ではなかったようで、
レンタル CD を弁償させられたという記事もあった。
私の問い合わせには、CD の破損については、
おとがめなしだった。
しかし、壊れてしまったCD ドライブの修理代は、
自分で負担するしかないだろうな。
ダメもとで「修理代は出ますか?」と
訊いてみようかとも思ったのだけど、
なんとなく厚かましいような、
みっともないような気がしてやめた。
CD にクラックが入っていたことは、
証明しようがない上、CD を買わずに
安くあげようという了見なんだから、
それぐらいは、当然だろう。
まあ、今までに数千枚の CD を
読み込んできて初めてのこと。
確立にすれば、0.0数%だ。
次回からは、クラックの有無をチェックしよう。
ただ、結構傷だらけの CD でもちゃんと
読み込んだりするので、危険なクラックを
見抜けるかどうかは自身がない。
2023.3.17
CDドライブ 奇跡の復旧!
先日、PC で CD を読込中、
突然「パンッ!」という大きな音がして、
CD ドライブの中で CD が粉々に破損した。
(その件のエントリー)
それから、毎日 PC の電源を入れるたびに、
CD トレイのふたが開いては閉まりを
繰り返していた。
CD ドライブの中に破損した CD の破片が
残っているのは間違いなく、それらを取り除いても
CD ドライブが正常に作動するかどうか
分からないし、どうやって CD ドライブの
中の破片を取り出せば良いのかも
分からないまま、3週間ほどが過ぎた。
どうせ、壊れているだろうから、
やれるだけやってみようと、一昨日、
PC 本体(Desk Top タイプ)を開けてみた。
しかし、CD ドライブ の取り出し方が分からない。
あれこれ、やっているうちになんとか
外せたが、CD ドライブも箱をあけないといけない。
これにも手こずったが、なんとか開けることができた。
中に残っていた CD の破片は、
思ったよりも多かった。
こんなん中に入ってたら、そらトレイが
開いたり閉まったりするわな。
機械自身、どうしてええか分からんやろ。
CD の破片と一緒に CD ドライブの
中からプラスチックの欠片が、出てきた。
明らかに内部で折れてしまったもののようだが、
どうしようもない。
で、CD ドライブを元通り PC 本体に
戻すのにもずい分苦労したが、
なんとか元に戻すことが出来た。
電源を入れて、CD をちゃんと認識するか、
全く予想が付かなかったけど、なんと、
ちゃんと動いたよ!
ただ、PC の起動時に今までしなかった
音がするけどね。
あの割れた部品のせいかもしれないな。
それにしても、ろくに知識もないのに
よくできたと自分でも驚いております。
まさに奇跡の復旧!
2023.6.11
休みないねん
土曜日曜と大阪に帰省していた。
実家は、近鉄大阪線沿線にある。
今日、東京に戻るため、
その近鉄線に乗っていた時のこと。
ある駅で小学1年生か2年生くらいの児童と
引率者らしき大人達の団体が、乗ってきた。
子供達は、全員同じロゴの入ったキャップを
かぶっており、引率の大人達は、
そのロゴの入ったTシャツを着ていた。
私の正面に座った女の子の話し声が
耳に入ってきた。
「月曜日は水泳、
火曜日は公文、
水曜日はバレエ、
木曜日は習字、
金曜日は公文、
土曜日は○△X️、
だから、休みないねん」
たぶん正確ではないけど、そんな感じ。
すごいなぁ、今の子供は。
その団体が、何のグループか気になったので、
そのロゴを手がかりに調べてみると、
子供達にキャンプなど野外活動を通して、
体験学習を提供している NPO だった。
ってことは(今日は日曜日だったので)、
その女の子は、日曜日には、
その活動に参加しているということか。
(毎週ではないかも知れないけど)
私がその年頃には、毎日友達と、
遊んでいたので、なんだかその子は、
幸せなのかなって、心配をしてしまった。
余計なお世話だね。
2023.9.11
年寄りは話したい
先日、仕事で85歳の男性に会う機会があった。
会社が所有する、とあるマンションの部屋の借主だ。
わざわざ会うほどの用ではないと私は思ったのだが、
オフィスに来たいというので、会うことにした。
1時間半以上、話しただろうか。
肝心の仕事に関係する話は、
10分程度で、それ以外は、延々と彼の
「俺はどんな人間かというと・・・」という話しを
聞かせて頂いた。
「自慢してるんじゃないぜ」という自慢話、
(その日遅刻したのに)「俺は遅刻はしない」という話。
先月、家賃を払うの忘れたのに
「俺ほど金払いの良い男はいない」という話など、
聞きようによっては、中々にディープな内容だった。
その人とは以前、その賃貸しているマンションの
部屋の修繕のことで、電話で もめたことがあったので、
今回は、大人しく聞こうと心して臨んだのだが、
話を聞きながら、(凄いなぁ、人間って、こんなに
相手が興味のない話を喋り続けられるんや)と
なんだか新たな発見のように思った。
いや、「話を聞きながら」と書いたが、
実際は相槌を打ってはいるものの
内容はほとんど右から左というやつだ。
おまけに高齢者の方によく見られる、
同じ話を繰り返す、というのも聞く方はつらい。
そんなことがあった2日後。
久しぶりに銭湯に行った。
風呂から上がって、脱衣所で裸にバスタオルを
巻いた状態で身体のほてりを冷ましていると、
人懐っこい顔をした年寄りが声をかけてきた。
私のあご髭を指して
「どれくらい伸ばしているの?」と。
私が「若いころから生やしています」と
答えると「そうかい、私は散髪屋なんで、
ちょっと興味があったんだ。お兄さん、歳いくつ?」
「61歳です」
「そう。私、いくつに見える?」
出たぞ。
この質問は、年寄りの「若く見える自慢」だ。
「その質問をされるということは、
きっと見た目より、お年をとってらっしゃるんでしょうね」
「いくつだと思う?」
私は、冷静に考えた。
当ててしまっては、彼に悪い。(なんで?)
実年齢よりは、若く言った方が
この場には相応しい。
「う~ん・・・75歳」
それを聞いた彼の眼には勝利の輝きが。
「81歳」
「わぁ~若く見えます。
お元気ですね!」
これは、お世辞でも何でもなく、
実際にそう思ったんだ。
本当に若く見えて75歳ぐらいかな、と。
「81だけど、どっこも悪くない。
お兄さん、どこか悪い?」
「ああ、頭だけです」
「いや、そういうことじゃなくて」と
あんまり受けない。(涙)
それから、その床屋のおじさんは、
隣に立っていた知り合いを
「この人は、84歳」と紹介してくれた。
それから、10分ぐらいかな。
最近の床屋事情やらなんやらを
話して、帰って行った。
床屋のおじさんが話している間、
もう一人の84歳のおじさんは、
全く話さなかったので、この人は、
シャイなんだろうと思っていたら、
床屋のおじさんが帰ったとたん、
スイッチが入ったように話し出した。
この人の場合は、住宅事情。
高齢者住宅に入居する云々の物語。
結構、話してた。
床屋のおじさんより長く。
たぶん、15分以上。
自慢話しではなかったので、
聞いていて社会勉強になったよ。
銭湯とか床屋というのは、そういう場所なんだな。
よもやま話をしながら、情報交換をするんだ。
高田純次が、言っていたらしい。
「歳をとると『説教』か『自慢話』か
『昔話』ばかりになる」と。
確かに、そうだ。
気を付けなきゃね。
そして、高田純次は、
「そうならないようにエロ話をしてる」らしい。
好きだな、そういう高田純次。
目指そう、高田純次。
今日のタイトルを「年寄りは話したい」と
したのだけど、実は年寄りだけじゃない。
人間はみんな、自分の話を聴いて欲しんだよな。
2023.9.12
SYNCHRONICITY
シンクロニシティ
「シンクロニシティ」という言葉を知ったのは、
英国のロックバンド「THE POLICE」の
1983年のアルバム『シンクロニシティ』だった。
当時は、その言葉の説明を読んでも
全く分からなかったけど、90年前後あたりから
ニューエイジ系の本を読みだして、
なんとなく分かるようになった。
「シンクロニシティ」は、心理学者のユングが
説いた概念で、日本語では「共時性」と訳され、
「意味のある偶然」を指す。
誰もが経験していることだろうけど、
私も人生で何度も何度もシンクロニシティを
体験して来た。
そのほとんどに大した意味もなく、
(大した意味を見つけられず)
ただの偶然だと思うようなことなのだが、
それでも、そのシンクロニシティが
起きた時には、不思議さが伴う。
先日、私のボスが、こう言った。
「中学2年の息子が『大阪弁は上手になれへんし』って
いう歌詞の歌ばかり唄ってるんだけど、知ってる?」
その歌詞には、聞いた覚えがあった。
「それってドリームズ・カム・トゥルーの曲じゃないですか?」
と答えて、調べてみると、確かにドリームズ・カム・トゥルーの
『大阪LOVER』という曲だった。
この話は、これで終わり。
その日の夜、自宅近くの洋食屋に晩飯を食べに入ると、
店内にずっと、ドリームズ・カム・トゥルーの曲が流れていた。
こういうレベルのシンクロニシティは、
誰もが経験しているだろうけど、私にも時々起きる。
何やろな、これ。
この偶然に意味はあるのか?
意味は自分で付けるのか?
付けるとしたら、どんな意味なのか。
それとも、こんなものはそもそも
シンクロニシティではないのか?
何やろな、これ。
直前まで、その店で食事することは
決めていなかったし、なぜ、その日に限って、
店の BGM がドリームズ・カム・トゥルーだったのか
その謎(?)は、解けないままだ。
2023.9.18
シンポジウム
「子どもたちの夢を育む未来の学校教育とは?」
ドキュメンタリー映画『夢みる小学校』のあとは、
教育に関するシンポジウム。
登壇されたのは、次の方々。
武田康弘さん(白樺教育館館長・哲学者)
千葉県我孫子市の私塾「白樺教育館」で、
45年間哲学教育を行っている。
小菅勲さん(日本大学土浦高校野球部監督・教師)
今年の夏の甲子園で、ベスト4に進出した、
野球部の監督。(監督として5度目の甲子園)
ご自身は、1984年 取手二高で、桑田・清原のいた
PL学園を倒し、優勝の経験あり。
後藤紀子さん(NPO法人アイアイスクール理事長)
本イベントの主催NPOの代表。
堤久美子(SQ教育提唱者・哲学者)
ええ、私の妻です。
中村由紀(フリーアナウンサー)さんが
ファシリテーターとして参加。
妻のプロフィールに「哲学者」とあったのだけど、
それを書くことが憚られるのは、なぜでしょう。
さて、このトークセッションが面白かった。
もう、全く周りの空気を気にせず、言いたいことを
ずけずけと言う武田先生。
本人の話によると、「忖度しないので、あちこちで
嫌われている」らしい。
「武田先生は、野球をご覧になりますか?」と
振られて「全く観ない。大体勝ち負けがあるというのは
どういうことだ」なんて、野球部監督の前で、
平気で言えてしまう人。
小菅監督、苦笑いする場面続出だった。
でも、あれだけ言いたいこと言えたら、
気持ち良いだろうな。
小菅監督の話される内容は、
さすがに甲子園に何度も行く監督は、
迷いがなく、明確。
自分が、習った野球は古い、今は新しい指導法が
求められていると、過去との比較などを
しないでいると、部員の方が「監督、去年は
こうでした」と過去を持ち出してくるので、
いちいち、それを否定しないといけないのだという。
つまりは、非常に自覚的でいることが求められる。
自覚的というのは、「今、目覚めていること」。
そうでなければ、適切な時に適切な内容を
部員に助言できないだろう。
シンポジウムのテーマが「教育」だったので、
「親と指導者(教育者)の違いは?」と
いう質問があったのだけど、この回答は、
武田先生も小菅監督も似通っていたね。
その話の流れだったと思うのだけど、
印象に残っているのは、武田先生の次の言葉。
「吟味し続ける」
うまくいかなかったから、考えるのではなく、
うまくいっていても、常にストップして
「これで良いのか」考え続ける。
これは、ある程度の年齢の人は嫌がると言っていた。
頭が固まってきたら、もう問いも吟味も
ないだろうからね。
でも、うまくいっている時にも「これで良いのか」
吟味するというのは、レベルが高く、難しいねぇ。
常に問い続けるためには、自覚していなければならない。
それが生きるということで、つまり、
思考停止は、もう生きていないということなんだ。
2023.10.1
年寄りは黙っていられない
先日「年寄りは話したい」というエントリーを書いた。
今日のお題は、そのシリーズになりそうな
「年寄りは黙っていられない」だ。
先日、石川県立美術館に川瀬巴水の
版画を観に行ったときのこと。
展示室に入ってすぐ、私のあとに50代ぐらいの
女性と70~80代老婆の二人組が入ってきた。
美術館というのは、基本的に私語は慎むものだと
思うのだが、この二人が全く周囲を気にしないような
風で話しているので、係員が静かにするようにと、
注意をした。
しかし、ほんの一瞬、声を潜めはしたものの
二人はまた話し出した。
明らかにうるさい。
気が散る。
巴水の版画を前に、私は全く集中できなく
なってしまった。
いくら集中しようと思っても、二人の声を聞いてしまう。
あかん、これはまずいパターンだ。
特に老婆は、まるで頭の中に浮かんだ言葉を
全て発しているかのように聞こえる。
キャプションを声を出して読み、
それに対するどうでも良い反応を声に出す。
明らかに鑑賞の邪魔だ。
早くいなくならないかなぁとしばらく我慢したけど
たまらなくなって、係員に近づき
「あの二人、注意してもらえませんか?」と言うと
「そうですよね、ひどいですね」と言った。
そう思っているなら、さっさと注意しろよと思ったけど、
それは言わなかったよ(おとな)。
係員は、二人に近づき小声で何かを言った。
係員が二人から離れたあと、老婆は女性に聞いた。
「何?話しちゃダメなの?」
「話してもいいけど、トーンを落としてくださいって」と
全くトーンを落とさず話す女性。
もしかしたら、老婆の耳が遠いのかも知れない。
それにしても「話してもいいけど、トーンを落としてください」
じゃないだろう。
「ほかのお客様の邪魔になりますので、
私語はご遠慮ください」とか
「やめてください」とか言わないとこの二人には
通じないよと思った。
その後も、相変わらず話し続けるので、
(たぶん、黙るということが出来ない)
その二人を先に行かせることにして、
私はしばらくその場に留まっていた。
すると、次に70歳くらいの男性と50代くらいの
女性の二人組がやってきた。
この男性もこれまた喋る喋る。
連れの女性に解説して聞かせるんだ。
おいおい、またかよ。
東京の美術館ではあんまりないぞ。
地方ではこんな風なのか?(偏見?)
私は、「うるさいよ」というサインのつもりで
わざと振り向いて話している彼らを数回見たのだけど、
そういう人たちって、おそらく全く無意識なんだろうね、
全く気が付かないようだった。
しまいには、その男性の携帯電話が鳴る始末。
そういう人、いるよねぇ~的な。
係員は、また私に何か言われるかも知れないと
思ったのかも知れない。
しばらくすると、その二人組に注意をしていた。
このことで思うことは、二つある。
一つ目は、歳を取ると黙っていられなくなるんじゃないか。
そういえば、今年88歳になる私の母も、
ずっと喋っている。
例えば、テレビを観ていると、その内容に対する
反応を全て声に出しているかのように見える。
あれは、自覚の低下なのだろうか。
それとも、何でも喋って良いんだという
心の解放なんだろうか。(そんなわけないやろ)
私もそうなっていくんだろうか。
もう一つは、たかが その程度のノイズで、
集中して鑑賞が出来ない、私のマインドの弱さだ。
こういうのって訓練で高めることが出来るんだろうか。
そんなこと、訓練する気も暇もないけど。
ふたつ目の展示室に移ったら、まだあの老婆と女性の
二人組が、話しながらそこにいて、げんなりした。
そうこうしていると、私の電話が鳴った。
安心してください、もちろんマナーモードにしてあります。
仕事の電話だった。
超小声で話しながら、展示室を出て、
ソファの置いてある廊下で、1、2分話して
電話を切った。
すると、私が老婆たちに注意をしてくれと
頼んだ係員が近づて来ていて
「すいません、通話は禁止なんです」と
注意されてしまった。
そこには「通話禁止」の立札があったけど、
全く目に入っていなかった上に、
ああいうスペースでは、声が響くから、
たぶん、声がでかかったんだね。
人のこと言えんわな。
ひぇ~。
2023.10.30
為 念
仕事でもらったメールに
「為念ご確認させていただきたい」という
文言があった。
「為念」。
「念の為」の打ち間違いかと思ったが、
そんな打ち間違いはしにくい。
念の為、調べてみた。
あるのだな「為念」という言葉。
初めて知った。
「ためねん」または「ねんのため」と読むらしい。
つまり、意味は「念の為」「万が一に備えて」
「確認のため」ということらしい。
「なかんずく」を「就中」と書いたり、
「さすが」を「流石」と書いたり
「いわゆる」を「所謂」と書いたりするのと
同じだろうか。
けど、なぜ「念為」ではなく
ひっくり返って「為念」なんだろうな。
漢文から来てるからなのかな。
日本語は難しいな。
ちなみにネットでは、あまり一般的でないので
「ビジネスでは使わない方が良いでしょう」
というサジェスチョンもあったよ。