BOOK-4
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2024.4.7
父が息子に語る
壮大かつ圧倒的に面白い
哲学の書
2018年に妻が『サルトルの教え』という本を
出版して以来、書店で「哲学」のコーナーへ
立ち寄ることが増えた。
少し前に書店で手に取って買った本が
「父が息子に語る
壮大かつ圧倒的に面白い
哲学の書」
著者は、この本が一冊目だという、
スコット・ハーショヴィッツ。
ミシガン大学の法学・哲学教授。
最近、どの書店にも必ずといって良いほど
置いてある(しかもほぼ平積み)ので、
結構 売れているんだと思う。
私が買ったもののオビには
「世界18か国で続々刊行!」と書いてあった。
著者のふたりの息子との対話がたくさん出て来る。
著者は、その息子たちは特別ではなく、
子供はみんな哲学者だと、書いているのだけど、
中々そうは思えない。
こんなこと、話せる5歳児、6歳児がいるのだろうか、
と思ってしまう。
しかし、その会話を引き出すのは、大人
(この場合は著者=父親)なんだと気付く。
つまりは、(著者も書いているように)
親が子供の考える機会を奪い、
考えられない人間に育ててしまっているんだろう。
思えば、私が子供の頃、親や教師に質問をしたとき、
「あなたは、どう思う?」と尋ねられた覚えは
一度もない。
そして、そこには必ず質問された親や教師の
答えがあった。
ほとんどのケースで、その答えを鵜のみに
していたような気がする。
その答えに同意できなかったとき、
何かを言えば、返ってくる言葉は
「大人になれば分かる」だったり
「つべこべ言わずに言うことを聞け」だったり、
「世の中はそういうもの」だったりして、
けして「一緒に考えてみよう」などという言葉ではなかった。
彼らには(いや、私にも)問いには答えがある、
という前提があり、答えられない、答えがない質問は
「へりくつ」のように追いやられていたのではないかと思う。
では、私から哲学(考える力)を奪ったのは、
親や教師だったのかと言えば、そうでもない。
著者自身が5歳の時に母親の見ている赤色と
自分の見ている赤色が同じかどうか疑問を持った
というのだから、私に言わせれば、この人には
特別な資質があったんだと思う。
そんなこと思いつきもしないからね。
(それとも、忘れてしまっただけだろうか?)
哲学というと「正義とは何か」「権利とは何か」と
いうような日常生活とは、"関係ない"(ような)ことを
テーマにああでもない、こうでもない、と考えている
(議論している)ような印象があるが、
実はそれらは、私達が生きることに、
密接に関係している。
それをいつの間にか「学問」にしてしまい、
切り離してしまったのは、人類のミスだったと思う。
今や世界を救えるのは、宗教でも道徳でもなく、
哲学しか残されていないようにさえ感じるもの。
著者のように、大人(親や教師)が、
子供に考える(=哲学する)力を付ける対話を
始めれば、世界はもっと良い方向に向かうと
思うのは、楽観的だろうか。
いや、そんな未来に楽観的な希望を持つためではなく、
(つまり、子供に対してだけではなく)
大人がもっと考えた方が良いし、対話が必要だな。
誰よりも自分がね。
面白かったけど、オビに書いてある
「ページを繰る手が止まらない」はちょっと大げさかな。
哲学入門書としては、良いと思うけど、
それでも部分的に難しかった。
原書は
「Nasty, Brutish & Short:
Adventures in Philosophy with My Kids」
訳者あとがきにある訳は、
「意地悪で、残酷で、短い、
――子どもと楽しむ哲学の冒険」
★★★★☆
2024.4.28
「死」とは何か
一時、書店の哲学書コーナーに行くと、
多くの書店で、平積みされていたので、
気になって購入した「『死』とは何か」を読み終えた。
あー長かったぁ。
いつ読み始めたのか覚えていないけど、
何度も途中で、ほったらかしにしてしまい、
読み終えるまで一年以上かかったと思う。
やめようと思ったことはないのだけど、
難しかった。
最後はがんばって読み切った感がある。
イェール大学で23年間連続の人気講義だという
「死」についての講義。
それをまとめた本だ。
著者は、シェリー・ケーガン。
イエール大学哲学教授で、道徳・哲学・倫理の専門家。
ふだん、考えたこともないことを考えてみるのは、
良いことだとは思うが、どうも書き方が難しいように
感じてしまい、何度もページを繰る手が止まった。
同じことを、もっと分かりやすく書けないことも
ないような気がするのだけど、どうだろう。
私は、元々「死」を悪いものとは
考えていないので、「不老」だったり、
「永遠の命」の方が、良いとは思っていなかった。
本書では、なぜ、そうなのかをひとつひとつ、
検証していくのだが、それが結構、めんどくさい。
もうええやん、って言いたくなる。
人は、自分の思考範囲を越えると
「めんどくさい」という反応が出るんだ。
この日本語版は、2018年10月に初版が
発行され、12万部を突破しているというが、
買った人の何パーセントが最後まで読んだのだろう。
大学で哲学を学んでいる人ならともかく、
普通の人には、しんどいのではないか。
実際、アマゾンには、「途中でやめました」という
レビューも数件ある。
もしかしたらだけど、私が読んだ日本語版は、
「縮約版」となっており、
前半の形而上学的な詳しい考察が
ほとんどを省かれているので、
そのせいで面白味が欠けてしまっているのかもしれない。
現在は、その「形而上学パート」を含んだ、
「完全翻訳版」も出ている(2019年に出版)。
ページ数の都合で、縮約になったようだが、
なんでも、完全版を望む声が多かったとか。
アマゾンでは、縮約版より完全版の方が、
評価が高いことからも、これは、完全版を
読んだ方が良いのだろうな。
今から、読む気にはならないけど。
★★★☆☆
2024.6.2
自意識(アイデンティティ)と創り出す思考
ロバート・フリッツ、ウェイン・S・アンダーセン (著)
「IDENTITY(アイデンティティ)」を「自意識」と
訳すのが、適切なのかどうかは少し疑問が
あるのだけど、著者が言いたいことは分かる。
「自意識」に「アイデンティティ」とルビを振っている箇所と
振っていない箇所があるのは、意図的なのかどうか
書いてないので不明だけど、それも気になる。
時々「自己肯定感」「自己イメージ」が低いと良くない、
自分が自分をどう思っているかが、重要だという話を聞く。
だから「自己肯定感」を上げようというわけだ。
「自己肯定感」は、「自己承認」でも
同じような意味だろう。
しかし、著者は、自分のことが好きか嫌いかと、
人生で何を成し遂げるかは関係ない、と説く。
自分を嫌いなら嫌いで良い、と。
そのことよりも、人生で大切なことは、
「何を成し遂げたいか」だと。
そして、むしろ自意識が高い方が、
自分に優しく出来ないとも。
自分を「まだまだだ」と思っている人は、
自分にムチを打ち続けるだろう。
成果を出しても「まだ足りない」というわけだ。
著者の指摘のように、何かを成し遂げようとするとき、
その目標にフォーカスするのではなく、
自分自身に注意があることが私にも多々ある。
私の場合、それは演奏であったり、
写真撮影のとき、顕著に発現する。
演奏時の自分の心理は、とても興味深い。
良い音楽を創り出すことよりも、自分を良く
見せることにエネルギーを使っているなんて、
しょっちゅうだ。
音楽も写真も趣味で、仕事じゃないのが微妙だけど。
もちろん、(もう退職したけど)仕事上でも
「良く思われたい」とか「出来ると思われたい」とか、
自動的に出て来た覚えはある。
でも、アイデンティティが脅かされるほどの
場面はなかったような気がするな。
覚えていないだけかも知れないけど。
演奏時の邪念は、本当に音楽の邪魔だ。
いずれにしろ、自分をどう思っているかは、
人生では確かにあまり重要ではない。
なぜ、人は自意識に囚われてしまうか、
どういう仕組みになっているかを
この本では構造力学という観点から説いている。
一度読んだだけでは、十分に理解したとは
言えないので、この構造の部分だけでも
もう一度読み直して、自分のモノにしたいと思う。
途中、ちょっと中だるみ感があったけど、
後半持ち直した感じ。
書いてあること、全てに同意はしないけど、
役立つ部分も多いと思う。
ちなみにオビに「自分が何者かなんて関係ない」という
文言があるが、これは哲学で問う「自分は誰か」とは、
レイヤーが違う。
オビに書かれている「自分」は、
「自分が自分のことをどう思っているか」のことであり、
哲学の方は、「自ら創作する、投企する自分」のことだ。
★★★★☆
2024.8.9
説教したがる男たち
Men Explain Things to Me
レベッカ・ソルニット (著)
著者のレベッカ・ソルニットは、
あるパーティの場で、見知らぬ男性に
自分の書いた本の説明を受けることになる。
その場にいたレベッカの友人が、何度か
「その本は彼女が書いた本です」と
言うが聞こうともせずに、男性は話し続けた。
「だから、彼女の本です」と
3、4度繰り返したところで、ようやく男性は
事態を把握した。
この出だしのエピソードは、
(他人事なら)最高に面白い。
タイトルにあるように「男は女に説明をしたがる」らしい。
相手がその道の専門家であっても。
どうも男どもは、無意識に女性は無知だと
決めつけているようだ。
この男性の(求められていない)説明を
「マンスプレイニング (man と explain の合成語)」
というらしいが、この言葉は著者が創ったわけではない。
マンスプレイニング。
自分を観てみると、結構、やっているかも知れない。
と、寒くなる。
そんな滑稽なエピソードで始まるこの本は、
えげつない男女差別の歴史と、現在も続く
男性による女性への暴力の話でいっぱいだった。
結構重くて、読み終えるのに時間がかかってしまった。
そのマンスプレイニングの根っ子が、
実は女性蔑視であり、レイプや暴力とも
繋がっているというのだ。
日本でも暴力はあるし、レイプ事件もあるけど、
女性がひとりで夜道を歩けないほど
危険ではない。(絶体安全とも言いきれないけど)
しかし、世界には、とんでもない現実がある。
アメリカでは、報告されているだけでも
6・2分に一度レイプが起き、5人にひとりの
女性がレイプされた経験を持つ。
多くのレイプの犯人は、知り合いだという。
大学で、軍隊で、レイプは日常的に
行われているのだという。
そして、医師会の報告では、
「15歳から44歳の女性の怪我の主要な
原因はDVであり、これは自動車事故と
強盗事件と癌による死亡数を合わせた
数字よりも大きい」のだという。
ここに書くのもはばかれるような
ひどい性暴力事件がいくつも実例として挙げられ、
そんな中でも世界がほんの少しずつ、ゆっくりと
変わってきていることが書かれている。
遅すぎる進歩は、もちろん男たちのせいだ。
男性全てが、そうではないのは明白だが、
オビに書かれた「殺人犯の90%は男性」と
いう言葉を考えると、男性という生き物が、
女性より圧倒的に暴力的で、
力でなんとかしようとしているのは間違いない。
そして、男は(年を取るほど)説教したがる。
気をつけねば。
説教したがる男たち
★★★★☆
高田純次が
「年を取ると説教と自慢話ばかりになるので、
そうならないようにエロ話をしている」
と言っていたが、それええな。
2024.9.29
あっという間に人は死ぬから
佐藤舞 著
YouTube でたまたま観た「謎解き統計学」
という動画が面白くて、そのチャンネルの
動画を何本も観た。
それをやっているのが、佐藤舞さん、通称サトマイ。
「統計学」と謳っているだけあって、
話されている内容に根拠があり、説得力がある。
もちろんサトマイさんの個人的な見解も
あるのだけど、背景がしっかりしているし、
ご自分の推測は、断言せずに推測だと
分かるように話しているのも好感が持てる。
今どき、断定的に話している ユーチューバーが多く、
たびたび、なんでそんなこと言い切れるんかなと
私は疑問に思うので。
で、彼女の本が出版されたので読んでみた。
タイトルは『あっという間に人は死ぬから』。
子供の頃、20分間の休み時間でも、
校庭に出てドッジボールをしたり、目いっぱい
遊んだのに、大人になった今、20分なんて
何もできないとスマホで時間をつぶす。
なぜ、時間を大切にできないのか、
なぜ、大して重要でもないことに時間を
浪費してしまうのか、どうすれば有意義に
過ごせるのか、ワークを通して、自分を
知ることからその道を探る。
私は、もうこの手のことは、大体知っていると
思っていたけど、新しい切り口もあり、
新鮮に自分を観ることができた。
今まであまり考えてこなかった、自分はなぜ
楽器演奏や写真撮影が好きなのか、子供の頃、
なぜプラモデルに夢中になったのか。
そこにひとつの共通点が見えてきた。
ただ、物を作る(創る)という意味ではなくね。
私の妻は哲学をベースにした教育を展開している。
この本には、サルトルのことも出てくるし、
事実と解釈の区別、目的と目標の区別、
瞑想、マインドフルネスなど妻の仕事との共通点も多い。
対談すると面白いと思うんだけど、実現しないかな。
★★★★▲
2024.10.26
風景との対話
東山魁夷 著
初版は1967年。
私が購入したものは、2023年の57刷りだ。
オビには原田マハさんの推薦文が記載されている。
「本書は若かった私に進むべき道を示してくれた。
いま、私はその道を歩んでいる。」
60年近く読み継がれている名著なのだ。
昭和の時代には、こういう文章が多かったのかも
知れないが、この情報過多の時代には、
とてもゆったりした文章に感じられる。
読み始めてすぐに 2年前に読んだ 鬼海弘雄 著の
『眼と風の記憶 写真をめぐるエセー』を思い出した。
『風景との対話』は、東山魁夷の私的な独白で、
戦争でどん底を味わったころから、戦後、
魁夷が画家として、どのように美と向き合っていたか、
その旅の記録であり、実際の旅行の随筆も多い。
印象に残った一節を備忘録として記しておこう。
【p.109】
絵になる場所を探すという気持を棄てて、
ただ無心に眺めていると、相手の自然のほうから、
私を描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出会う。
その、何でもない一情景が私の心を捉え、
私の足を止めさせ、私のスケッチブックを開かせるのである。
【p.116】
「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」
(このふたつの文は、写真家ソール・ライターの
言葉を思い出させてくれた。)
【p.146】
人間が造った街であるのに、人間が住みにくくなるとは
どういうことだろう。
【p.174】
(村上華岳〈むらかみかがく〉の手記より)
岸にせせらぎの音を立てて流るる河水よ、
お前は休みなしに何処へ行く、
「私は海へ行く」
海へ去ってそれからどうする、それで終いではないか。
「私は水蒸気となり雨となりまた河と流れ、
斯くの如くまた海にそそぐ」
水よそれは何のためであるのか、徒らなことではないか、
「私は何のためだか知らない、
唯こうやって居るのが私の悦びである」
(いいなぁ。この文。
村上華岳は、大正から昭和の日本画家。
「徒ら」読めなかったよ。「いたずら」です。)
【p.269】
中学生の頃、作文に「希望」という課題が出た時、
軒下をきれいな水が流れる小さな町で、
こぢんまりした本屋を営み、可愛らしい奥さんを
貰って、平和に暮したいという意味のことを書いて、
受持の先生に叱られたことがある。
(それは、受持の先生が間違っている!)
【p.273】
(作品「冬華」について)
私は迷ったが、作品の強さというものは、
決して色調とか、構図とか描き方に在るのではなく、
その画面の中に籠る作者の心の強さに
あることに気づき、これを私の表現しようとする
内容にしたがって、白とグレーの画面に仕上げた。
【p.274】
展覧会も生きものであるから。その傾向も
変化してゆくのは当然である。
しかし、毎年、今年の傾向は、などと云われるのが
不思議でないところを見ると、ファッション・ショーに
近くなりすぎているように思われる。
たしかに、世界の変転は目まぐるしいが、
作家の仕事は、一般的傾向とか、
自分以外の作家の傾向に煩わされないところに
価値があるのではないだろうか。
【p.297】
(自分の作品を指して)
芸術作品は、それを生んだ作家のいとおしみや、
それを迎えた世間の好意のすべてを
剥ぎ取った後に、その真価を問われる運命を持つものだ。
その厳しさに耐え得る作品があっただろうか。
しかし、これからだとも云える。
魁夷は、1962年(私が生まれた年)、54歳の時、
デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、
フィンランドをめぐる写生旅行に出ている。
彼は、1930年代にドイツに留学した人であるが、
その頃にもデンマークへ行ってみたいと思っていたようだ。
しかし、西洋美術の勉学のためとなると、どうしても
イタリアやフランスのような国に足が向ていいたのだという。
後半の北欧を描いた作品に付けられた、短いエッセイを
読んでいて、初めてデンマークに行ってみたいと思った。
魁夷の観た60年以上前のデンマークとは、
大きく様変わりしてしまっているかもしれないけれど。
★★★★☆
2024.11.6
なぜ
柳家さん喬は
柳家喬太郎の
師匠なのか?
柳家さん喬師匠と喬太郎師匠への
インタビューと対談をまとめた本。
私は、さん喬さんも喬太郎さんも
好きな噺家なのだが、この本のタイトルの通り、
ちょっと不思議な師弟でもある。
さん喬さんは、正統派の噺家という印象で
言葉もとても丁寧で美しい日本語を話される。
喬太郎さんは、古典も新作も演られるが、
高座でひっくり返ったり、歌を唄ったりと
とても自由に見える。
確かに、なぜこの師匠にこの弟子が、と
疑問に思うのも不思議でないのだ。
とはいうものの一之輔だって、一朝師匠と
全くタイプが違うので、そんなに珍しくは
ないのだろうけど。
それでも、さん喬・喬太郎という師弟は
何かが興味深い。
本書を読めば、私が感じてきた印象なんて、
おふたりのほんの一面であることが分かる。
当たり前と言えば当たり前だが。
さん喬さんの師匠としての葛藤や嫉妬のような
感情さえも包み隠さず話されていることに
共感を覚えた。
そして、何よりもさん喬さんの師匠五代目
小さんへの尊敬と想い、喬太郎さんの
師匠さん喬への想い、さん喬さんの
弟子たちへの想いに心を動かされる。
その背景にあるのは、落語という芸への
終わりなき修行の精神と愛であることはもちろん、
人間であることの崇高な部分だと思う。
以前、鶴瓶さんの松鶴師匠への想いにも
感じたことだけど、人生で絶対的な師匠を
持てることは、とても稀なことで、幸運なことだ。
さて、本のタイトル「なぜ 柳家さん喬は
柳家喬太郎の師匠なのか?」が
問いだとしたら、その答えは何だろう。
喬太郎が弟子入りしたからとか、
師匠が弟子として受け入れたからとか、
そういうことではなく。
弟子入りしたって、続かないこともある。
誰もが噺家として、成功するわけでもない。
弟子入りに至るエピソードも含め、
そんな風に考え行くと「必然」のような気がしてきた。
「これ以外ない」ってね。
★★★★☆
2024.12.22
落語―哲学
中村 昇 (著)
哲学者が落語を説くとこんな風になるんだと
驚きながら、読み進めた。
いくつかの落語を題材に、哲学的思考を
進めているのだが、そのひとつに
「粗忽(そこつ)長屋」があった。
「粗忽長屋」は、唯一私が演じたことのある落語だ。
高校1年生の時、クラブ(アンサンブル部という
合奏のクラブ)の催し物で、隠し芸として演った。
別の高校に通う、落語研究部に属する
小中学校時代の友人Yに教えてもらったんだ。
ストーリーは、こんな感じ。
八五郎が誰かが行き倒れで
死んでいるところに遭遇する。
よく見ると死んでいるのは、同じ長屋に
住んでいる熊五郎だ。
これは大変だ、熊五郎に知らせなきゃと
長屋に戻り、熊五郎に行き倒れの一件を話す。
熊五郎も自分が死んでいるような気がすると言って、
ふたりで死体を引き取りに行くという噺。
「粗忽」というのは、そそっかしいことで
あわてんぼうのことを「粗忽者」という。
落語ではよく出てくる言葉だ。
「粗忽長屋」は全くバカバカしい噺だが、
本書を読むとそんなに深い、哲学的な
噺だったのかと、驚く。
いや「粗忽長屋」が、深い噺だったわけではない。
著者、そして哲学というコンテクストが、
このバカバカしい物語を深いものに
読み解いてしまうわけだ。
全体を通して、哲学のエッセンスが
散りばめられており、私のような哲学初心者が
読むには、ちょうど良い。
難しくてよく分からないくだりもあったけど。
「子別れ」のついて書かれた部分に
興味深いことが書いてあった。
人は、自分が生まれた時のことや
乳幼児の頃のことを覚えていない。
大人になって、子供を持って、その子の
誕生や成長を通して、自分もこうして親に
育てられたんだ、と知ることができる。
それに対して、子は、親より長生きをする限り
親の死に立ち会うことになる。
子は、親の死を通して人間の死を知り、
そのプロセスにじっくり付き合うことになる。
「つまり親は、自分の過去を子によって知り、
子は、自分の未来を親によって知る」。
なるほど。
子供のいない私たち夫婦のような場合は、
子供の誕生や成長を身近に体験することがなく、
人の誕生や成長について、知らないことだらけで、
死んで行くことになる。
その分、人生が未完成のような気もしないでもない。
まあ、だからなんだということではないが。
「涙や苦衷に染まっていない哲学は偽物である」
という言葉が出て来る。
(「苦衷(くちゅう)」は「苦しい心のうち・
つらさ・辛苦」の意。)
落語には多くの「悲哀」がつまっているが、
哲学も同じだというのだな。
著者はこういう。
「人生における苦しさや悲しさの経験から
哲学や落語が生まれたのだから、この二つは、
双生児のようなものだといえるだろう。」
そこまで言い切れるのは凄いが、
本書を読むとこの言葉にも説得力がある。
もうひとつ、古今亭志ん朝さんが、
セロニアス・モンク(ジャズ・ピアニスト)を
聴いて「これは志ん生だなと思った」という
話が出て来る。
なんだか興味深くて、モンクも志ん生も
聴きたくなった。
私は この十数年で結構な数(二千席以上)の
落語を聴いてきた。
滑稽噺なら笑い、人情話なら泣く。
そんな風に言ってみれば、浅い理解と反応で
落語を聴いていたんだと思った。
結局、世界なんてものはあっち側にはなくて、
全部こっち側(自分の内側)にしか
存在しないのだから、こっち側の、
受取るセンスしだいで人生は豊かにも
貧相にもなるんだよな。
そのセンスは、自分で磨くしかないんだな。
★★★★☆
2024.12.26
答え合わせ
石田 明 著
お笑いコンビ「NON STYLE」の、
ボケ担当、石田明の著作『答え合わせ』。
表紙には「この1冊で NSC 1年分の
価値ありますけど逆に大丈夫ですか?」
という、令和ロマンの高比良くるまの言葉がある。
漫才の分析は、なるほどと思いながら
読んだけど、これは専門家やお笑いを目指す
若者にとっては、ためになる本だろう。
しかし、私のようなお笑いファンは、
その漫才がなぜ面白いかを解説された
ところで、そこにはあんまり興味がなかった。
しかし、本書を読んで「NON STYLE」の
漫才が特別好きではなかった私は、
石田への見方が変わってしまった。
読後に、改めて「NON STYLE」の
漫才を観ると、印象が違っているんだ。
彼らの漫才が、妙に深く見えだした感じ。
中高生のときにオタクのように漫才を
聴いていたけど、プロになろうなんて
思っていなかった石田。
自分は面白くない人間だと
決めつけていた石田。
父親が板前という理由で、父親に
認められたくて、板前の道に進んだ石田。
そんな石田が、友達に誘われて出場した
お笑いのオーディションで目覚め、初めて
自分で自分の人生を歩みだすくだりは
感動的でさえある。
しかし、吉本に入ったあとも、
うつ病になるほど苦しむことになる。
そういう経歴を経て、今の石田、
NON STYLE があるのだなと
漫才を観ながら、感慨深い心持になった。
彼の漫才への愛、相方・井上への信頼も
素晴らしいと思う。
★★★★☆
2025.2.18
ボクの音楽武者修行
小澤征爾 著
小澤征爾さんが音楽之友社から、1962年に
出版した『ボクの音楽武者修行』を読んだ。
1959年、小澤さんが23歳の時、神戸港から
貨物船に載ってフランスに渡り、ブザンソンの
指揮者コンクールで1位になり、そこから急展開で
カラヤン、ミュンシュ、バーンスタインに師事するなどし、
1961年にはニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。
コネも資金も、語学力もない若者が
世界の小澤になっていく、
輝かしい歴史のそのスタートの部分を
ご自身の言葉で語られる。
スクーターとギターを持って、貨物船に載せてもらい、
2カ月かけてフランスを目指すくだりは、
もう冒険小説でも読んでいるかのようにワクワクした。
本を読んでこんなにワクワクしたのは、
子供の時以来かも知れない。
1959年というと まだまだ一般の日本人が
外国に行くのは難しかった時代だ。
その時代にこんな破天荒なやり方で
ヨーロッパやアメリカで認められたのは、
小澤さんの音楽に対する情熱に他ならないが、
時代が良かったのかも知れないとも思う。
今なら、色んな規則が多すぎて、
この時代のようには行かないだろう。
そんな時代に海外に音楽の勉強をしに行くなんて
よほど裕福な家庭だったんだろうと思ったが、
そうでもないんだな。
小澤さんの音楽に対する情熱が、
周りの人たちを動かし資金をかき集め、
富士重工のバイクを手に入れ(そのために
東京じゅうかけずり回った」とある)、貨物船に
載せてもらいフランスに渡ることができたんだ。
そして、言葉の壁に阻まれ、色んなトラブルに
遭いながらも着実にステップアップしていく。
この本が、60年経った今もベストセラーとして
読み継がれているのは、小澤さんが辿った道、
その奮闘が、きっと多くの音楽家を目指す若者に
勇気と力を与え続けているからだと思う。
さて本書は、現在は新潮文庫になっているが、
もう文庫本の字は、小さくて読めないのと、
ある事情でオリジナルの音楽之友社版を
中古本で買った。
(50年以上の前のものにしては、
カバーも付いており、状態は悪くなかった。)
その事情というのは、哲学者の武田康弘先生の
ウェブサイトに書いてあったこと。
武田先生は、1970年代にこの本を小学6年生の
読書会で使っていたらしいが、数年でやめてしまった。
その理由が、文庫化された際にある文章が
削除されてしまったことだった。
小澤さんがカラヤンの弟子になったくだりだ。
「 レッスンになると、カラヤンは指揮台の真下の
椅子に腰かけて、ぼくらが指揮しているのを、
じろっと睨むように見ている。
ぼくは睨まれると、カラヤンの音楽そのものを
強要されるような気がした。そこで考えた。
こんなことをしているとカラヤンの亜流になってしまう。
カラヤンなにくそと思って、ぼく流の音楽を
作らなければいけないと固く心に誓った。」
新潮社による文庫本では、上記の青字部分が
削除されているらしい。
(新潮文庫は、手元にないので未チェック。)
それに対して、武田先生はこう書いている。
「若き血潮ほとばしる小澤のこの決意の言葉が
抜け落ちた文章を通読すると、当時、
楽団の帝王として大きな政治力をもっていた
カラヤンへの賛美だけとなり、平板で面白味が
ないだけでなく、小澤の見方と決意=【魂】が
消されて、全体はまるで別物の印象となります。」
またそのページにある写真に添えられた説明文
「カラヤンの指揮でベルリン音楽祭の幕は
切っておとされた」が、「カラヤンの人気は
ヨーロッパ全体でもすばらしい」と
変えられているらしい。
もう一か所、「あとがき」の一部(6行)が
削除されていることも先生は指摘しているが、
これは私の入手した1973年の第十二刷では
すでに削除されていた。
「プライベートの話」とあるので、
音楽之友社の時代に削除されたのだろう。
クラシック音楽業界の政治的圧力なのか、
カラヤン賛美の現れなのだろうか、
何者かに対する忖度なのだろうか、
どういう力が作用したのかは想像するしかないが、
小澤さんの反骨精神を表した文章は、
消されてしまった。
確かに、今出版するとしたらOKではないだろう
表現も数か所あった。
例えば黒人のことを「黒ん坊」と書いていたり、
「土人」という表現を使っていたり。
もちろん差別の表現ではない。
これは、1960年代は今よりも鷹揚な時代だった
証にはなるが、カラヤンのくだりの削除とは話が違う。
その小澤さんの
「若き血潮ほとばしる小澤のこの決意の言葉」
が、書かれた本を読みたいと思って、
わざわざ古いものを取り寄せたんだ。
感想は、前述したようにワクワクする冒険小説の
ようでもあると同時に、知らないクラシック音楽業界を
覗き見ることができてとても面白かった。
フランスとドイツとアメリカのオーケストラの違いなんて
3つの国のオーケストラで指揮をしたことの
ある人にしか語れないだろう。
この違いはある種、各国の国民性とも繋がっていて
とても興味深い話だった。
1961年4月にニューヨーク・フィルハーモニーと共に
2年数カ月ぶりに帰国したところで本は終わっている。
ここからは、本には書かれていない話。
先日、TBSで深夜に放送されたドキュメンタリー
『解放区 小澤征爾 〜魂のタクト・奇跡の第九〜』
では、小澤さんが、ブザンソンの指揮者コンクールで
1位になった際、司会者が「Seiji Ozawa」と
名前を呼ぶ映像が流れた。
こんな映像が残っていることに驚き。
1962年小澤さんはN響(NHK交響楽団)と
仕事をするが、アジアの演奏旅行中に
オーケストラの団員と小澤さんの間に
軋轢が生じ、N響側が小澤さんをボイコットした。
大変な事件に発展したようで、
「日本で音楽をするのはやめよう」と
思ったほど小澤さんにとってはショックだったらしい。
その理由は色んな記述があり、
何が本当かなんて分からないけど、
次に小澤さんとN響が共演するのは、
32年後の1995年になる。
もちろん1962年当時の楽団員はひとりも
残っていなかっただろう。
そのドキュメンタリーでは、1965年に再び帰国し
武道館で第九を振る映像も練習風景を含めて
収められていた。
武道館でクラシックというのも珍しいのではないかと思う。
明日は、小澤さんが作った、
「サイトウ・キネン・オーケストラ」の
ブラス・アンサンブルを聴きに行くよ。
★★★★▲
2025.2.26
ジャズ深掘りトーク・セッション
魚返明未 井上銘 石若駿 著
著者の3人は、全員間違いなく日本の
若手ジャズ・シーンの重要人物。
3人ともの演奏をライヴで聴いたことがある。
魚返さんは、たぶん一度だけだと思うけど、
あとの2人は、何度もライヴを観ている。
本書は、魚返さんと井上さんのトーク・セッションで
話したことを編集部がまとめたもの。
石若さんはほとんど登場しなくて、
別に取材をしたものをちょこっと書き足した感が否めない。
個人的な感想としては、何とは言えないのだけど、
この編集があまり良いとは思えなかったのは残念。
内容ではなくね。
「ミュージシャンが語るライブ・演奏・音源の愉しみ方」
とある通り、内容としては、これからジャズを聴く人、
ジャズに興味を持ち始めた人向けだろう。
どちらかというと私のような彼らの父親の世代が
読むのではないかなという印象。
別に知っていることばかりだったというつもりは
さらさらなくて、私もジャズに詳しいわけではないので
えらそうに言うつもりはない。
実際、後半の魚返さんの作曲家についてのくだりは、
とても興味深く 参考になった。
彼はかなり勉強されていて、ツウだと思う。
ただ、これまた何とは言えないのだけど、
前半はちょっと期待していたものとは違ったんだな。
ちなみに「魚返明未」、「おがえり あみ」と読む。
読めん。
★★★▲☆
2025.3.3
喫茶店の水
qp(キューピー)という人のインタビュー記事を読んだ。
qpさんは、喫茶店で出される「水」の写真を撮り続けて
フォトエッセーを出版されたという方。
本職は、画家のようだ。
インタビュー記事を読んで俄然興味が湧いたので、
そのフォトエッセーを取り寄せた。
エッセーは、喫茶店と喫茶店の水に関することが
ほとんどで、読みやすい文体で内容にも共感が持てた。
初めて入った喫茶店の黒板に
「伝言 qpさん会えるでしょうか?ご一報ください S」
と書かれていたエピソードは、泣くような話では
ないのにどういうわけか、泣いてしまった。
また、行くたびに違うグラスで水を出す、
喫茶店の店主の粋な計らいの話も良い。
qpさんは、2020年の夏から 400店舗以上の
喫茶店をめぐり、水を撮りためてきた。
フォトエッセーの出版は昨年11月だが、
私が入手したものはすでに第二刷だった。
何でもないことを続けると、
同じだと思っていた物に
その違いが見え始め、発見があり、
物語が生まれるんだと思った。
写真は、全て水の入ったコップを
ど真ん中に置いて撮られている。
構図は、コップを置いたテーブルの縁のラインや
背景に映る壁、窓、椅子、カーテンなどが
作り上げている。
コップは表面が曇っているもの、
結露しているもの、柄の入ったもの、
形の凝ったもの。
ほとんどは透明だけど、薄っすらと
色のついたコップもある。
そして、ただの水なのにこんなにも
色んな表情があるのだと発見する。
それは、水の表情というよりは、
写真がかもし出す表情だけど。
考えてみれば、違う店で 違うコップで
違う日に 違う光で写しているわけで、
同じものなどないということは当然なのだけど、
喫茶店で出される水なんて、特に特徴もなく
どこも同じでしょ、と浅い考えのバイアスに
支配されていることに気付く。
もう一つ、このフォトエッセイには、
85枚の水の写真が収められているが、
意外にも氷の入った水が少ない。
数えてみると 15枚程だった。
(氷なのかどうか分かりにくい写真も
数枚あったけど。)
なんだか 喫茶店に行きたくなったよ。
[ 記 事 ]
「喫茶店の水」を400店で撮り続けて
身の回りの美しいものに光をあてる
話題のフォトエッセー著者qpさんインタビュー
2025.3.13
獄中で聴いたイエスタデイ
瀧島祐介 著
1980年1月16日、ポール・マッカートニーは
成田空港で、大麻所持容疑で現行犯逮捕された。
本書は、警視庁の留置所でポールと偶然
居合わせた殺人罪で逮捕されていた極道、
瀧島祐介の手記だ。
瀧島が「ポール ! イエスタデイ、プリーズ ! 」と叫ぶと
なんとポールは、『イエスタデイ』を歌ったという。
周りの囚人達のアンコールに応えて、
ポールは4曲も唄ったのだという。
もちろんギターも何もないのでアカペラだ。
瀧島はその後、裁判で懲役15年の判決を受ける。
1995年に出所した時には、56歳になっていた。
その後、一時期はまた極道に戻ってしまうが、
やがて完全に足を洗いカタギになる。
自分が更生できたのは、あの時ポールと話し、
歌を聴いたからだと、ひと言ポールに会って
礼を言いたいと2013年の来日時に
ポールに会いに行く。
著者は殺人を犯すほどの筋金入りの極道。
私には極道の友人はおらず、知り得ない世界だが
その生き方は、なんとも形容がしがたく、
誤解を恐れずに書けば滑稽ですらある。
著者は、若い頃に両手の小指を自分で詰めたが、
それが、両手共に「そんなことで指詰めるの?」
という常人には考えられない理由なのだ。
そんなことで指詰めていたら、10本で足らんで、
と思う程度のことなんだ。
しかし、著者にとって当時は、それこそが
「筋を通す」ことだったんだな。
殺人の理由も「筋を通す」ためだ。
それだけ、筋を通すことができる人なら、
もっと違う生き方もあったんじゃないかと思うのだけど、
それは外野の意見で、戦後のドサクサの時代に、
著者のような環境で育ったら、極道として
生きるしか道がなかったのかも知れない。
そして、極道であったからこそ、
筋を通して生きられたのかも知れない。
著者は、1939年生まれなので
ご存命なら、86歳になられていると思う。
今は平安な暮らしをされていることを願ってやまない。
本書には、昭和の時代の暴力団と芸能界や
相撲界の繋がりなど、今ではアウトなことも
結構書かれていて興味深い。
本の表紙は、実際にポールが獄中で著者宛に書いたサイン。
2015年の出版だが、すでに絶版のようで、
私は状態の良い中古本を 3,250円で入手した。
現在、アマゾンでは 5,980円から27,000円。
メルカリでも28,690円で出品されている。
その値段で 買う人いるのかしら。
★★★★☆
2025.3.18
Believe ビリーヴ〜夢を生きぬいて
上田正樹 著
キー坊(上田正樹)は、大好きなシンガーの一人だ。
そのキー坊の 2002年に発行された著書
『ビリーヴ〜夢を生きぬいて』を読んだ。
彼の生い立ちについては、何も知らなかったけれど、
平凡な家庭ではなく、ちょっと複雑な家庭で
育っており、なるほど BLUES な人なんだと思った。
日本ではあまり知られていないが、
インドネシアでは、レザというシンガーとの
デュエット曲が、15週間連続チャートの
トップになったこともある。
日本の商業音楽シーンとは一線を画した
活動をしているアーティストなんだ。
本の発行元は、第三文明社という創価学会の
関連企業であることからも分かる通り、
キー坊は、創価学会の信者だ。
ミュージシャンや芸能人には、信者は珍しくない。
若い頃は、宗教に抵抗のあったキー坊が
なぜ創価学会に入信したのか、
そういう経緯も全て書かれている。
私は、創価学会以外の宗教も含めて
信仰を持とうとは、思っていない。
子供の頃から、宗教に対する抵抗があった。
しかし、本を読んで気が付いたのは、
若いころほどネガティヴではないということだった。
信仰を得て、人生が良くなった人は、
それはそれで良いやないか、と思うのだ。
若い頃は、そういう他人事に対してさえも
否定的な感情があった。
その背景が何かは、また別の機会に触れるとして
ああ、年取ったんたなと思ったのでした。
「死ぬ間際には『僕のやってきた音楽は、最後には
僕というジャンルだった』と絶対に思えるように」
という記述があったけど、すでに「上田正樹」という
ジャンルになっていると私は思う。
例えば、レイ・チャールズやスティービー・ワンダーは
リズムアンドブルースやソウル・ミュージックと
いうより、彼ら自身がそのジャンルになっている
アーティストだと思う。
誰もがそれを目指したいだろうが、
自分の名前が、ジャンルと呼べるアーティストは、
そう多くはない。
キー坊は、日本人にあって、その域に達している
数少ないシンガーの一人だと思う。
彼の歌をライヴで聴くたびに、
もはや「唄っていない」とさえ思う。
来月は、半年ぶりにキー坊のライヴに行くよ。
★★★★☆