BOOK-4
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2024.4.7
父が息子に語る
壮大かつ圧倒的に面白い
哲学の書
2018年に妻が『サルトルの教え』という本を
出版して以来、書店で「哲学」のコーナーへ
立ち寄ることが増えた。
少し前に書店で手に取って買った本が
「父が息子に語る
壮大かつ圧倒的に面白い
哲学の書」
著者は、この本が一冊目だという、
スコット・ハーショヴィッツ。
ミシガン大学の法学・哲学教授。
最近、どの書店にも必ずといって良いほど
置いてある(しかもほぼ平積み)ので、
結構 売れているんだと思う。
私が買ったもののオビには
「世界18か国で続々刊行!」と書いてあった。
著者のふたりの息子との対話がたくさん出て来る。
著者は、その息子たちは特別ではなく、
子供はみんな哲学者だと、書いているのだけど、
中々そうは思えない。
こんなこと、話せる5歳児、6歳児がいるのだろうか、
と思ってしまう。
しかし、その会話を引き出すのは、大人
(この場合は著者=父親)なんだと気付く。
つまりは、(著者も書いているように)
親が子供の考える機会を奪い、
考えられない人間に育ててしまっているんだろう。
思えば、私が子供の頃、親や教師に質問をしたとき、
「あなたは、どう思う?」と尋ねられた覚えは
一度もない。
そして、そこには必ず質問された親や教師の
答えがあった。
ほとんどのケースで、その答えを鵜のみに
していたような気がする。
その答えに同意できなかったとき、
何かを言えば、返ってくる言葉は
「大人になれば分かる」だったり
「つべこべ言わずに言うことを聞け」だったり、
「世の中はそういうもの」だったりして、
けして「一緒に考えてみよう」などという言葉ではなかった。
彼らには(いや、私にも)問いには答えがある、
という前提があり、答えられない、答えがない質問は
「へりくつ」のように追いやられていたのではないかと思う。
では、私から哲学(考える力)を奪ったのは、
親や教師だったのかと言えば、そうでもない。
著者自身が5歳の時に母親の見ている赤色と
自分の見ている赤色が同じかどうか疑問を持った
というのだから、私に言わせれば、この人には
特別な資質があったんだと思う。
そんなこと思いつきもしないからね。
(それとも、忘れてしまっただけだろうか?)
哲学というと「正義とは何か」「権利とは何か」と
いうような日常生活とは、"関係ない"(ような)ことを
テーマにああでもない、こうでもない、と考えている
(議論している)ような印象があるが、
実はそれらは、私達が生きることに、
密接に関係している。
それをいつの間にか「学問」にしてしまい、
切り離してしまったのは、人類のミスだったと思う。
今や世界を救えるのは、宗教でも道徳でもなく、
哲学しか残されていないようにさえ感じるもの。
著者のように、大人(親や教師)が、
子供に考える(=哲学する)力を付ける対話を
始めれば、世界はもっと良い方向に向かうと
思うのは、楽観的だろうか。
いや、そんな未来に楽観的な希望を持つためではなく、
(つまり、子供に対してだけではなく)
大人がもっと考えた方が良いし、対話が必要だな。
誰よりも自分がね。
面白かったけど、オビに書いてある
「ページを繰る手が止まらない」はちょっと大げさかな。
哲学入門書としては、良いと思うけど、
それでも部分的に難しかった。
原書は
「Nasty, Brutish & Short:
Adventures in Philosophy with My Kids」
訳者あとがきにある訳は、
「意地悪で、残酷で、短い、
――子どもと楽しむ哲学の冒険」
★★★★☆
2024.4.28
「死」とは何か
一時、書店の哲学書コーナーに行くと、
多くの書店で、平積みされていたので、
気になって購入した「『死』とは何か」を読み終えた。
あー長かったぁ。
いつ読み始めたのか覚えていないけど、
何度も途中で、ほったらかしにしてしまい、
読み終えるまで一年以上かかったと思う。
やめようと思ったことはないのだけど、
難しかった。
最後はがんばって読み切った感がある。
イェール大学で23年間連続の人気講義だという
「死」についての講義。
それをまとめた本だ。
著者は、シェリー・ケーガン。
イエール大学哲学教授で、道徳・哲学・倫理の専門家。
ふだん、考えたこともないことを考えてみるのは、
良いことだとは思うが、どうも書き方が難しいように
感じてしまい、何度もページを繰る手が止まった。
同じことを、もっと分かりやすく書けないことも
ないような気がするのだけど、どうだろう。
私は、元々「死」を悪いものとは
考えていないので、「不老」だったり、
「永遠の命」の方が、良いとは思っていなかった。
本書では、なぜ、そうなのかをひとつひとつ、
検証していくのだが、それが結構、めんどくさい。
もうええやん、って言いたくなる。
人は、自分の思考範囲を越えると
「めんどくさい」という反応が出るんだ。
この日本語版は、2018年10月に初版が
発行され、12万部を突破しているというが、
買った人の何パーセントが最後まで読んだのだろう。
大学で哲学を学んでいる人ならともかく、
普通の人には、しんどいのではないか。
実際、アマゾンには、「途中でやめました」という
レビューも数件ある。
もしかしたらだけど、私が読んだ日本語版は、
「縮約版」となっており、
前半の形而上学的な詳しい考察が
ほとんどを省かれているので、
そのせいで面白味が欠けてしまっているのかもしれない。
現在は、その「形而上学パート」を含んだ、
「完全翻訳版」も出ている(2019年に出版)。
ページ数の都合で、縮約になったようだが、
なんでも、完全版を望む声が多かったとか。
アマゾンでは、縮約版より完全版の方が、
評価が高いことからも、これは、完全版を
読んだ方が良いのだろうな。
今から、読む気にはならないけど。
★★★☆☆
2024.6.2
自意識(アイデンティティ)と創り出す思考
ロバート・フリッツ、ウェイン・S・アンダーセン (著)
「IDENTITY(アイデンティティ)」を「自意識」と
訳すのが、適切なのかどうかは少し疑問が
あるのだけど、著者が言いたいことは分かる。
「自意識」に「アイデンティティ」とルビを振っている箇所と
振っていない箇所があるのは、意図的なのかどうか
書いてないので不明だけど、それも気になる。
時々「自己肯定感」「自己イメージ」が低いと良くない、
自分が自分をどう思っているかが、重要だという話を聞く。
だから「自己肯定感」を上げようというわけだ。
「自己肯定感」は、「自己承認」でも
同じような意味だろう。
しかし、著者は、自分のことが好きか嫌いかと、
人生で何を成し遂げるかは関係ない、と説く。
自分を嫌いなら嫌いで良い、と。
そのことよりも、人生で大切なことは、
「何を成し遂げたいか」だと。
そして、むしろ自意識が高い方が、
自分に優しく出来ないとも。
自分を「まだまだだ」と思っている人は、
自分にムチを打ち続けるだろう。
成果を出しても「まだ足りない」というわけだ。
著者の指摘のように、何かを成し遂げようとするとき、
その目標にフォーカスするのではなく、
自分自身に注意があることが私にも多々ある。
私の場合、それは演奏であったり、
写真撮影のとき、顕著に発現する。
演奏時の自分の心理は、とても興味深い。
良い音楽を創り出すことよりも、自分を良く
見せることにエネルギーを使っているなんて、
しょっちゅうだ。
音楽も写真も趣味で、仕事じゃないのが微妙だけど。
もちろん、(もう退職したけど)仕事上でも
「良く思われたい」とか「出来ると思われたい」とか、
自動的に出て来た覚えはある。
でも、アイデンティティが脅かされるほどの
場面はなかったような気がするな。
覚えていないだけかも知れないけど。
演奏時の邪念は、本当に音楽の邪魔だ。
いずれにしろ、自分をどう思っているかは、
人生では確かにあまり重要ではない。
なぜ、人は自意識に囚われてしまうか、
どういう仕組みになっているかを
この本では構造力学という観点から説いている。
一度読んだだけでは、十分に理解したとは
言えないので、この構造の部分だけでも
もう一度読み直して、自分のモノにしたいと思う。
途中、ちょっと中だるみ感があったけど、
後半持ち直した感じ。
書いてあること、全てに同意はしないけど、
役立つ部分も多いと思う。
ちなみにオビに「自分が何者かなんて関係ない」という
文言があるが、これは哲学で問う「自分は誰か」とは、
レイヤーが違う。
オビに書かれている「自分」は、
「自分が自分のことをどう思っているか」のことであり、
哲学の方は、「自ら創作する、投企する自分」のことだ。
★★★★☆
2024.8.9
説教したがる男たち
Men Explain Things to Me
レベッカ・ソルニット (著)
著者のレベッカ・ソルニットは、
あるパーティの場で、見知らぬ男性に
自分の書いた本の説明を受けることになる。
その場にいたレベッカの友人が、何度か
「その本は彼女が書いた本です」と
言うが聞こうともせずに、男性は話し続けた。
「だから、彼女の本です」と
3、4度繰り返したところで、ようやく男性は
事態を把握した。
この出だしのエピソードは、
(他人事なら)最高に面白い。
タイトルにあるように「男は女に説明をしたがる」らしい。
相手がその道の専門家であっても。
どうも男どもは、無意識に女性は無知だと
決めつけているようだ。
この男性の(求められていない)説明を
「マンスプレイニング (man と explain の合成語)」
というらしいが、この言葉は著者が創ったわけではない。
マンスプレイニング。
自分を観てみると、結構、やっているかも知れない。
と、寒くなる。
そんな滑稽なエピソードで始まるこの本は、
えげつない男女差別の歴史と、現在も続く
男性による女性への暴力の話でいっぱいだった。
結構重くて、読み終えるのに時間がかかってしまった。
そのマンスプレイニングの根っ子が、
実は女性蔑視であり、レイプや暴力とも
繋がっているというのだ。
日本でも暴力はあるし、レイプ事件もあるけど、
女性がひとりで夜道を歩けないほど
危険ではない。(絶体安全とも言いきれないけど)
しかし、世界には、とんでもない現実がある。
アメリカでは、報告されているだけでも
6・2分に一度レイプが起き、5人にひとりの
女性がレイプされた経験を持つ。
多くのレイプの犯人は、知り合いだという。
大学で、軍隊で、レイプは日常的に
行われているのだという。
そして、医師会の報告では、
「15歳から44歳の女性の怪我の主要な
原因はDVであり、これは自動車事故と
強盗事件と癌による死亡数を合わせた
数字よりも大きい」のだという。
ここに書くのもはばかれるような
ひどい性暴力事件がいくつも実例として挙げられ、
そんな中でも世界がほんの少しずつ、ゆっくりと
変わってきていることが書かれている。
遅すぎる進歩は、もちろん男たちのせいだ。
男性全てが、そうではないのは明白だが、
オビに書かれた「殺人犯の90%は男性」と
いう言葉を考えると、男性という生き物が、
女性より圧倒的に暴力的で、
力でなんとかしようとしているのは間違いない。
そして、男は(年を取るほど)説教したがる。
気をつけねば。
説教したがる男たち
★★★★☆
高田純次が
「年を取ると説教と自慢話ばかりになるので、
そうならないようにエロ話をしている」
と言っていたが、それええな。
2024.9.29
あっという間に人は死ぬから
佐藤舞 著
YouTube でたまたま観た「謎解き統計学」
という動画が面白くて、そのチャンネルの
動画を何本も観た。
それをやっているのが、佐藤舞さん、通称サトマイ。
「統計学」と謳っているだけあって、
話されている内容に根拠があり、説得力がある。
もちろんサトマイさんの個人的な見解も
あるのだけど、背景がしっかりしているし、
ご自分の推測は、断言せずに推測だと
分かるように話しているのも好感が持てる。
今どき、断定的に話している ユーチューバーが多く、
たびたび、なんでそんなこと言い切れるんかなと
私は疑問に思うので。
で、彼女の本が出版されたので読んでみた。
タイトルは『あっという間に人は死ぬから』。
子供の頃、20分間の休み時間でも、
校庭に出てドッジボールをしたり、目いっぱい
遊んだのに、大人になった今、20分なんて
何もできないとスマホで時間をつぶす。
なぜ、時間を大切にできないのか、
なぜ、大して重要でもないことに時間を
浪費してしまうのか、どうすれば有意義に
過ごせるのか、ワークを通して、自分を
知ることからその道を探る。
私は、もうこの手のことは、大体知っていると
思っていたけど、新しい切り口もあり、
新鮮に自分を観ることができた。
今まであまり考えてこなかった、自分はなぜ
楽器演奏や写真撮影が好きなのか、子供の頃、
なぜプラモデルに夢中になったのか。
そこにひとつの共通点が見えてきた。
ただ、物を作る(創る)という意味ではなくね。
私の妻は哲学をベースにした教育を展開している。
この本には、サルトルのことも出てくるし、
事実と解釈の区別、目的と目標の区別、
瞑想、マインドフルネスなど妻の仕事との共通点も多い。
対談すると面白いと思うんだけど、実現しないかな。
★★★★▲
2024.10.26
風景との対話
東山魁夷 著
初版は1967年。
私が購入したものは、2023年の57刷りだ。
オビには原田マハさんの推薦文が記載されている。
「本書は若かった私に進むべき道を示してくれた。
いま、私はその道を歩んでいる。」
60年近く読み継がれている名著なのだ。
昭和の時代には、こういう文章が多かったのかも
知れないが、この情報過多の時代には、
とてもゆったりした文章に感じられる。
読み始めてすぐに 2年前に読んだ 鬼海弘雄 著の
『眼と風の記憶 写真をめぐるエセー』を思い出した。
『風景との対話』は、東山魁夷の私的な独白で、
戦争でどん底を味わったころから、戦後、
魁夷が画家として、どのように美と向き合っていたか、
その旅の記録であり、実際の旅行の随筆も多い。
印象に残った一節を備忘録として記しておこう。
【p.109】
絵になる場所を探すという気持を棄てて、
ただ無心に眺めていると、相手の自然のほうから、
私を描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出会う。
その、何でもない一情景が私の心を捉え、
私の足を止めさせ、私のスケッチブックを開かせるのである。
【p.116】
「平凡なものを緻密に見れば、非凡な発見がある」
(このふたつの文は、写真家ソール・ライターの
言葉を思い出させてくれた。)
【p.146】
人間が造った街であるのに、人間が住みにくくなるとは
どういうことだろう。
【p.174】
(村上華岳〈むらかみかがく〉の手記より)
岸にせせらぎの音を立てて流るる河水よ、
お前は休みなしに何処へ行く、
「私は海へ行く」
海へ去ってそれからどうする、それで終いではないか。
「私は水蒸気となり雨となりまた河と流れ、
斯くの如くまた海にそそぐ」
水よそれは何のためであるのか、徒らなことではないか、
「私は何のためだか知らない、
唯こうやって居るのが私の悦びである」
(いいなぁ。この文。
村上華岳は、大正から昭和の日本画家。
「徒ら」読めなかったよ。「いたずら」です。)
【p.269】
中学生の頃、作文に「希望」という課題が出た時、
軒下をきれいな水が流れる小さな町で、
こぢんまりした本屋を営み、可愛らしい奥さんを
貰って、平和に暮したいという意味のことを書いて、
受持の先生に叱られたことがある。
(それは、受持の先生が間違っている!)
【p.273】
(作品「冬華」について)
私は迷ったが、作品の強さというものは、
決して色調とか、構図とか描き方に在るのではなく、
その画面の中に籠る作者の心の強さに
あることに気づき、これを私の表現しようとする
内容にしたがって、白とグレーの画面に仕上げた。
【p.274】
展覧会も生きものであるから。その傾向も
変化してゆくのは当然である。
しかし、毎年、今年の傾向は、などと云われるのが
不思議でないところを見ると、ファッション・ショーに
近くなりすぎているように思われる。
たしかに、世界の変転は目まぐるしいが、
作家の仕事は、一般的傾向とか、
自分以外の作家の傾向に煩わされないところに
価値があるのではないだろうか。
【p.297】
(自分の作品を指して)
芸術作品は、それを生んだ作家のいとおしみや、
それを迎えた世間の好意のすべてを
剥ぎ取った後に、その真価を問われる運命を持つものだ。
その厳しさに耐え得る作品があっただろうか。
しかし、これからだとも云える。
魁夷は、1962年(私が生まれた年)、54歳の時、
デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、
フィンランドをめぐる写生旅行に出ている。
彼は、1930年代にドイツに留学した人であるが、
その頃にもデンマークへ行ってみたいと思っていたようだ。
しかし、西洋美術の勉学のためとなると、どうしても
イタリアやフランスのような国に足が向ていいたのだという。
後半の北欧を描いた作品に付けられた、短いエッセイを
読んでいて、初めてデンマークに行ってみたいと思った。
魁夷の観た60年以上前のデンマークとは、
大きく様変わりしてしまっているかもしれないけれど。
★★★★☆
2024.11.6
なぜ
柳家さん喬は
柳家喬太郎の
師匠なのか?
柳家さん喬師匠と喬太郎師匠への
インタビューと対談をまとめた本。
私は、さん喬さんも喬太郎さんも
好きな噺家なのだが、この本のタイトルの通り、
ちょっと不思議な師弟でもある。
さん喬さんは、正統派の噺家という印象で
言葉もとても丁寧で美しい日本語を話される。
喬太郎さんは、古典も新作も演られるが、
高座でひっくり返ったり、歌を唄ったりと
とても自由に見える。
確かに、なぜこの師匠にこの弟子が、と
疑問に思うのも不思議でないのだ。
とはいうものの一之輔だって、一朝師匠と
全くタイプが違うので、そんなに珍しくは
ないのだろうけど。
それでも、さん喬・喬太郎という師弟は
何かが興味深い。
本書を読めば、私が感じてきた印象なんて、
おふたりのほんの一面であることが分かる。
当たり前と言えば当たり前だが。
さん喬さんの師匠としての葛藤や嫉妬のような
感情さえも包み隠さず話されていることに
共感を覚えた。
そして、何よりもさん喬さんの師匠五代目
小さんへの尊敬と想い、喬太郎さんの
師匠さん喬への想い、さん喬さんの
弟子たちへの想いに心を動かされる。
その背景にあるのは、落語という芸への
終わりなき修行の精神と愛であることはもちろん、
人間であることの崇高な部分だと思う。
以前、鶴瓶さんの松鶴師匠への想いにも
感じたことだけど、人生で絶対的な師匠を
持てることは、とても稀なことで、幸運なことだ。
さて、本のタイトル「なぜ 柳家さん喬は
柳家喬太郎の師匠なのか?」が
問いだとしたら、その答えは何だろう。
喬太郎が弟子入りしたからとか、
師匠が弟子として受け入れたからとか、
そういうことではなく。
弟子入りしたって、続かないこともある。
誰もが噺家として、成功するわけでもない。
弟子入りに至るエピソードも含め、
そんな風に考え行くと「必然」のような気がしてきた。
「これ以外ない」ってね。
★★★★☆