2026年 エッセイ
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2026.2.5
衆議院議員総選挙
期日前投票 大丈夫なのか?
衆院選の投票日は2月8日だけど、
昨日ひと足先に期日前投票を済ませて来た。
まだ投票用紙は届いていないが、
「投票用紙がなくても投票できる」と
テレビで言っていた。
きっと身分証明書の提示が要るだろうと
思って用意して行ったら、不要だった。
用紙に氏名、生年月日、住所を記入すると
係の人がPCで照らし合わせるだけ。
これで、私は投票済みという記録になるのだろう。
無事投票は済ませたが、この方法だと
氏名、生年月日、住所を知っていれば、
本人でなくても投票できてしまう。
投票に行く気がない人や金になるのならと、
投票権の売買が簡単に行われるのではないか。
生年月日があるので、なりすますには
誰でも良い訳ではないけど、そんな心配が浮かんだ。
後日、もしその不正が明るみに出たとして、
期日前投票の全てを無効とするわけにはいかないだろう。
一体どう対処するつもりだろう。
まさかのやり直し?
でもそもそも、どの投票が不正ななりすましだったか
分かりようがないのではないか。
この方法では、何らかの問題が起きると思うのだけど、
大丈夫なんでしょうか。
余計な心配ならいいけど。
2026.2.6
続・衆議院議員総選挙
期日前投票 大丈夫なのか?
昨日、投票券(正確には「投票所入場
整理券」)が届いた。
昨日ここで「期日前投票は簡単に他人に
なりすまし投票ができる」と、その脆弱性を
指摘したつもりでいたが、期日前でなくても
この「投票所入場整理券」を持って行けば
身分証明書による本人確認は
義務化されておらず、そういえば、私も
身分証明書の提示を求められたことは
ないような気がする。
なので、そもそもが簡単に他人が投票できる
仕組みなのだな。
ググってみると、このことは国会でも
質問がなされたこともあり、
2月6日には毎日新聞で
「『期日前投票でなりすまし可能』
広がる懸念 超短期決戦が影響か」という
記事が出ている。
投票時に身分証明書による確認をすべきとの
声もあるようだが、国民全員が写真付きの
身分証明書を持っているわけでもなく、
課題は多いようだ。
2026.4.13
法律の不思議
先日、宅地建物取引士の法定講習を受けてきた。
これは、5年に一度受けなければならいもので、
コロナ禍以来、WEB による受講もできるように
なったのだけど、あまり好きではないので、
リアルで参加してきたよ。
法律は、常に更新され続けている。
時代と共に変わる。
言い換えれば、法律がいつも正しく、
合理的とは限らないということでもある。
今回もこの5年間に不動産関連において
どんな法令改正があったのか(たくさんありすぎて
全部はやっていられないので)ポイントとなる
いくつかについて、弁護士先生の講義を聴いた。
20年前、宅建の勉強をした時から
「変なの」と思っていた民法がある。
隣の家の竹木が越境して、枝や根が自分の
所有する敷地内に伸びてきたとする。
民法第233条によると、根っ子は勝手に
切ってよいけど、枝葉は「その竹木の所有者に、
その枝を切除させることができる」
と定められていた。
自分ちに伸びてきた根は、その木の所有者に
断りなく切ってもよいけど、枝を切ると違法というのだ。
で、この「その竹木の所有者に、その枝を
切除させることができる」という文言が曲者。
「切除させることができる」と法律に定められていても
現実には「切除させることなんてできない」からだ。
「お宅の枝がうちの庭にはみ出しているので
切ってください」と申し出たところで、相手が
切ってくれなかった場合、どうしようもない。
そして、勝手に切ると違法だ。
で、切ってくれなかった場合、訴えを提起し
切除を命ずる判決を得る必要があった。
それでも、切らなかった場合は、強制執行の
手続きを取らなければならない。
おまけに、その竹木の所有者が不明だったら、
誰に請求して良いか分からないし、竹木に
共有者がいる場合、共有者全員の同意が必要だった。
何じゃこれ。
あほらしい。
と思っていたんだ。
私なら、黙って切ると思う。
というか、現実レベルでは「切ってください」と
言っても切ってくれなかったら「切りますよ」と
言って相手が承諾すれば問題ないだろう。
こんな現実的でない法律が、つい数年前まで
21世紀になっても あったんだ。
しかし! ついに2023年に改正された。
改正後の民法第233条では、次の場合、土地の
所有者は、その枝を切ることができるようになった。
(1)竹木の所有者に枝を切除するよう催告したにも
かかわらず、竹木の所有者が相当の期間内に
切除しないとき。
(2)竹木の所有者を知ることができず、又は
その所在を知ることができないとき。
(3)急迫の事情があるとき
かなり前進したとは思うけど、ちょっとまどろっこしい。
なぜ根と同じように枝も切ってよい、としないんだろう。
枝は勝手に切るとトラブルになるという背景だろうか。
日本人的には、植木の枝は大切なものと
いう背景だろうか。(根っこは切っていいのに?)
まあ、立派な松の木の枝なら多少は切るのを
憚れるかもしれないけど。
とにかく、自分で切ってOKになったので、良かったよ。
改正後 民法第233条
(竹木の枝の切除及び根の切取り)
第233条 土地の所有者は、隣地の竹木の枝が境界線を越えるときは、
その竹木の所有者に、その枝を切除させることができる。
2 前項の場合において、竹木が数人の共有に属するときは、
各共有者は、その枝を切り取ることができる。
3 第1項の場合において、次に掲げるときは、土地の所有者は、
その枝を切り取ることができる。
(1) 竹木の所有者に枝を切除するよう催告したにもかかわらず、
竹木の所有者が相当の期間内に切除しないとき。
(2) 竹木の所有者を知ることができず、又はその所在を知ることができないとき。
(3) 急迫の事情があるとき。
4 隣地の竹木の根が境界線を越えるときは、その根を切り取ることができる。
そして、法律は明確なようで曖昧なのだ。
「相当の期間内」って何日? 何カ月?
「急迫の事情」とあるけど「急迫」かどうか
誰が判断するの?
こういうのはケースバイケースでしょうから、
たぶん、最終的には司法判断なんだろうけど。
2026.9.15
三浦綾子
20代後半に 三浦綾子にハマった時期があった。
当時販売されていた多くの小説やエッセイを読んだ。
たぶん、20冊ぐらいか、もしかしたら
もっと読んだかもしれない。
三浦さんはクリスチャンだが、その影響で
宗教嫌いだった私が日曜日に教会へ行き、
その場で聖書を買ったほどだった。
結局、教会へ行ったのはその一度きりで、
聖書も本棚の飾りになっただけだったけど。
もう30年以上も前だが、三浦さんの本で
読んだいくつかの言葉は今も私の心に残っている。
「人は、人を殺して人殺しになるのではありません。
人は、人殺しだから、人を殺せるのです」
これは、強烈だった。
自分もいつ人を殺すか分からないのだと、
思った覚えがある。
これは「気を付けて生きなさい」
「目覚めていなさい」という教訓だったと思う。
また聖書の言葉で
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。
ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、
いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてに耐える」
というのがあるのだけど、この「愛」を
「自分」と置き換えて読みなさい、という
いうようなことも書いてあって、
全くそんな風に生きていない自分は
キリスト教の崇高さに触れたような気がした。
「結婚したからといって夫婦になるのではありません。
一生かかって夫婦になっていくのです」
なんていうのも印象に残っている。
さて、昨日のニュースで、三浦綾子記念文化財団が
専務理事を解職したとの記事を読んだ。
三浦綾子記念文化財団は、北海道旭川市で
三浦綾子記念文学館を運営している。
その文学館事務局長を務める男性専務理事
(53)が、なんと、業務用パソコンに大量の
児童ポルノを保存していたという。
勝手に文学館の招待券を発行していたことが
ばれて、その調査の過程で見つかったらしい。
また、家族のフェリーの代金を財団の
クレジットカードで支払うというような
せこいこともやっていたようだ。
パソコンから見つかったのは、女児の裸などの
画像や動画。
その数5千ファイル以上だという。
なんたること。
記事には
「元専務理事は保育士だった。
日本基督教団牧師の資格を持ち、
道内の教会を担当していたことがある」
とある。
保育士で 牧師が 児童ポルノ……
2016年に観た映画『スポットライト
世紀のスクープ』を思い出した。
あれは、カトリック教会が組織ぐるみで
神父による児童への性的虐待を何年にも
わたり、隠蔽してきたという事実を暴いた
米国の新聞記者たちの実話に基づく映画だった。
こういう牧師や神父と呼ばれるおっさんたちは
神が怖くないのかね。
神への畏れよりも 児童好きの方が
勝っているのかね。
なんやよう分からんけど、
天網恢恢疎にして漏らさず ですな。
三浦綾子さんが、もし生きていたら
何と言ったであろうか。
財団としても、忸怩たる思いでしょう。
2026.9.22
老後について考える
「老人ホームに入れるとボケる」と
聞いたことがある。
母を観ていて、もしかしたらそうだったのかも
しれないとも思う。
老人ホームで規則正しい生活になることは良いが、
ボケる要因の一つは、絶対的な運動量が
減るからではないかと思う。
例えば、自力で歩ける老人たちは、
(保育園の園児たちがやるように)一緒に
散歩するとか、そういう運動の機会があれば良いが、
おそらく老人ホームでは、入所者に転倒されては
困るので そういうことはやらないだろう。
デイサービスに行っても、椅子に座ったままで
簡単な体操をする程度で、とても筋力を
保てるような運動をしているとは思えない。
何もしないよりは ましだろうけど。
転倒のリスクということを除いても、
老人ホームで大勢の散歩が叶わないのは、
ひとつには、同じ年齢であっても、個人による
その体力差が大きいということもあるように思う。
おそらく体力の差は、15歳の中学生の個人差よりも
85歳の老人の個人差の方が大きいのではないか。
3日に一度8キロ歩くという 86歳の叔父がいる。
歩くだけではなく、自分で決めた足腰のための
エクササイズを毎日やっているとも言っていた。
叔父は心臓を患ったことがある。
医者は激しい運動は控えるように言ったらしいが、
毎日歩くことで健康を取り戻した。
先日、2週間ほど入院したが、退院してきて、
すぐに歩いてみたら、「2キロで疲れてしまった。
体力が落ちた」と言っていた。
今まで長年鍛えていたこともあって、
歩くことをやめなければ、またすぐに8キロ
歩けるようになるだろうと思う。
何より歩くことが習慣になっているのは強いと思う。
私の両親を思ったとき、86歳のとき 3日に一度
8キロを歩けたとは思えない。
歩くことは、様々な健康効果を期待できる。
逆をいえば、歩かないことで筋肉が落ちると
様々なリスクが高まる。
母が、最後の数週間に何度も転倒したのは、
もう身体を支える筋肉がなかったからだと思う。
幸い転倒による骨折はなかったが、
高齢者が転倒すれば、骨折しそのまま
寝たきりになることも多いだろう。
長生きするのも善し悪しだと思うが、
寿命は自分では決められないので、
生きている間、ボケずに健康でいられたらと思う。
病気になって、ネタきりで、下のお世話も
他人に任せ、頭もぼんやりで、自分で何も
できないような状態で、それで生きていくのは
やはり避けたい。
もっと言えば、意識のない状態で管に繋がれ、
生きている老人もいるだろう。
それは「生きている」ことになるのだろうか。
世の中には 90歳を過ぎても、現役で
仕事をされている方もいる。
先日、1931年生まれ、94歳の医師、
藤井英子さんの記事を読んだ。
藤井さんは、89歳の時に開業した。
それは、89歳の医師を雇ってくれる病院が
なかったからだ。
医師を続けるには、開業するしか
選択肢がなかったのだという。
その方がどんな健康法で 94歳にして
元気でいられるのかまでは書いていなかった
けれど、そんな風に生きられたら素敵だ。
サックス・プレイヤーの渡辺貞夫さんは、
現在 93歳だが、今も現役で全国でプレイを
されている。
もともと持って生まれた身体のポテンシャルも
あるだろうから、誰もがそんな風に 90代を
生きられるわけではないとは思うけれど、
今の、私の場合 60代の生きる姿勢が、
80代 90代の人生を決めるような気がしている。