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BOOK-5
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2026.1.2

闘う菩薩道
我が使命いまだ尽きず
佐々井秀嶺 著




2023年7月に佐々井秀嶺(しゅうれい)さんの
記事を読んだ。
佐々井さんは、60年近くインド中部のナーグプルに
住み、仏教の復興に尽力されている人。
インド仏教界の最高指導者の一人が
日本人だということに驚いた。
その記事には、2022年秋に、従業員1千人を
抱える日本人の元社長が得度を受けた
話しが出てくる。

その記事を読んだ後、妻の仕事の関係で
小野龍光さんを知った。
龍光さんは、以前は年商100億超えの
IT企業の CEOだった人。
前述の記事に出てくる元社長に違いない。

龍光さんは、数字を追い続ける生き方に
疑問を持ち、CEO を辞めて 友人に誘われた
インド旅行で、佐々井秀嶺上人に出会う。
佐々井さんは、1億人以上と言われる
インド仏教の頂点に立つ指導者。
1967年にインドに渡って、現在まで
インド仏教の復興に尽力されて来た方だ。
佐々井さんは、人生に迷っている龍光さんに
(その時はまだ「龍光」という名前をもらって
なかったけど)、「坊主になったらどうだ?」
と提案する。
龍光さんは、それまでの全てを捨て得度する。
出家だ。
龍光さんのお話しは2度か3度聴く機会が
あったが、とても素晴らしかった。

龍光さんの師匠となった佐々井さんの本を読んだ。
『我が使命いまだ尽きず 闘う菩薩道』

この本は、2010年に出版された『必生 闘う仏教』と
2015年に出版された『求道者 愛と憎しみのインド』の
2冊をまとめた上に、第三部として新たに
追加された部分も含めて、再出版されたもの。
クラファンで資金を募っての再出版だ。

読み応えのある本で、知らなかった仏教のこと、
インドのことを知ることができた。
もちろんこの本一冊で何かが分かったとは
思わないけど。

インドといえば、30年ぐらい前に
知人に聞いた話しを思い出す。
彼はインドを旅して来たが、街中で手や足のない、
物乞いする子供を見たと言う。
手や足のない子供の方が、同情を買い
沢山恵んで貰えるというので、親が手足を切るのだと聞いた。
日本人の感覚すれば、信じられない話しだが、
見て来た人が言うのだし、この手の話しは他でも
見聞きしたことがあるので、嘘ではないのだろう。

話しを本に戻そう。
インドのカースト制度というのは、
ヒンドゥー教の身分制度のことで、
1950年にインドの憲法で禁止されたが、
禁止されたのは「差別行為」であって、
カーストそのものは現在でも受け継がれているらしい。

「不可触民」と呼ばれる最下層の人々は、
人間扱いされず、大変ひどい差別を受けてきた。
今もその差別はなくなっていないようだ。
生まれた身分で一生が決まってしまう
ひどい制度だ。
そのヒンドゥー教が力を持つインドで、
人間の平等を謳う仏教は、当然、
一部の人間にすれば目障りな宗教だろう。
佐々井上人は、そのインドで人々のために
闘い続けてきた。
仏教なのに「闘い」というのは、違和感が
ありそうだが、本書を読めば「闘い」であることが
よく分かる。
本のタイトル通り「闘う菩薩道」なんだ。

龍光さんに出会ったあと、インドに行き、
佐々井上人と会って、得度した人を知っている。
彼女は衣(ころも)を着ていると
「内なる平和の状態」でいられるという。
信号無視もしないし、電車でも立っているし、
急がないし、ゆずる心があるという。
私は得度しないが、何となくだけど分かる。

その「内なる平和」のずっと先には
世界平和があるんだろう。


★★★★☆





2026.2.7

意味がなければスイングはない
村上春樹 (著)




村上春樹の小説は、過去に3冊読んだが、
今はあまり好きではない。
もう覚えていないけど『ノルウェイの森』は
面白かったような気がする。
それから『国境の南、太陽の西』を読んだ。
これは面白かったんだろうな。
30代だったと思うが、二度読んだ覚えがある。
そして、『1Q84』。
これで嫌いになった。
『1Q84』を読んだ感想に、その表現が
「外国文学を日本語に訳したような
言い回し」のようだと書いた。
(それはある意味当然とも言えることで、
村上春樹は翻訳家でもある。)
その表現がまどろっこしいというのか、
わざといらしいというのか、とにかく
読んでいてひっかかったんだな。
それが好きな読者もいるのかもしれないけど。

あと原作は読んでいないけど
『海辺のカフカ』の演劇を観に行ったことがある。
もう10年以上前のことで
記憶としては残っているのは、
「よく分からなかった」
「宮沢りえの声が小さくて聞き取りにくかった」
だけだ。
だが、当日の感想を読むと「終わった時には、
ゆる~い感動とたっぷりと文学的作品を味わった
ような満足があった」と書いているので、
それほど良くなかったわけではないようだ。
記憶は当てにならないな。

いずれにしろ、もう彼の小説は読もうと
思わないのだが、音楽エッセイを見つけ、
評判が良かったので、興味が湧いて読んでみた。

名前を聞いたこともないクラシックのピアニストから、
シューベルト、ポップス(ブライアン・ウィルソン)、
ロック(ブルース・スプリングスティーン)、
ジャズ(スタン・ゲッツ、ウィントン・マルサリス)、
フォーク(ウディー・ガスリー)、
Jポップ(スガシカオ)などについて、
書かれているのだが、知らないことばかりだった。
まず、その守備範囲の広さに驚く。
このジャンルなら詳しい、という人はいるだろうけど、
何でも来いだ。

ファンの間では周知のことなのかも知れないけれど
村上春樹が作家になる前、 JAZZバーを経営していた
ことも知らなかった。
本書を読めば分かるが、かなりの音楽通である。
とんでもない数の音楽を聴いてきたことは
間違いないだろう。

そして、その語彙、表現力の豊富さ。
カタカナ言葉は多いが、鼻につく「外国文学を
日本語に訳したような言い回し」はあまり感じなかった。
この「ひとりごと」に音楽ライヴのレポートを
書くことが多い私としては、むしろその表現力の
豊かさ、幅広さに圧倒された。

例えば少し長くなるが、こんな表現だ。
「僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を
燃料として、世界を生きている。
もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、
太陽系第三惑星上における我々の人生は
おそらく、耐え難いまでに寒々しいものに
なっているはずだ。だからこそおそらく僕らは
恋をするのだし、ときとして、まるで恋を
するように音楽を聴くのだ」

「太陽系第三惑星上における我々の人生」
なんて、ちょっと仰々しいといえなくもないが、
「血肉ある個人的記憶を燃料として、
世界を生きている」や「まるで恋を
するように音楽を聴く」は、気に入ったね。

ご本人が「あとがき」にこう書いている。
「言い訳をするのではないが、音楽について
感じたことを文章のかたちに変えるのは、
簡単なことではない。それは食べたものの
味を、言語的に正確に表現することの
難しさに似ているかも知れない。」

音楽を言語的に正確に表現するには、
ボキャブラリーの豊富さとそれを使いこなす
するどい感性と、背景となる膨大な知識と
リスニングの量が必要だ。
彼はそれを備えていると思う。

そして、本書の素晴らしさは、
その章を読めば、その名前さえ聞いたことのない
音楽家について、「その音楽を聴きたくなる」
というマジックだ。
実際に聞くかどうかは置いといてだけど、
聴きたくなるのは間違いない。

昨年、ブルース・スプリングスティーンの映画
『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』を観た。
その映画も知らないことばかりだったけれど、
本書を読んだことで、あの映画の意味が、
より一層深く理解できた。
たぶん、私がアメリカという国にとって
ブルース・スプリングスティーンがどういう存在か
よく理解していなかったんだと思う。
それが本書を通じて、全部じゃないだろうけど
ある程度理解できた。
その証拠と言っては何だが、ブルースが
トランプ政権の米移民税関捜査局(ICE)に
よる強制捜査により死者が出たことへの
抗議曲を発表したことについて
「なるほど、そうだろう」と思ったのは、
本書のブルースの章を読んでいたからだ。
ちなみにブルースは、その曲を
1月24日(土)に書き下ろし、
1月27日(火)にレコーディング、
1月28日(水)に配信リリースした。
そして、iTunesトップソングチャートで首位を獲得した。
とんでもないスピードである。
その歌詞には、ICE に殺害された
アレックス・プレッティとレネー・グッドの名前も出てくる。
日本のミュージシャンにはほとんどいない、
政治的とも言える音楽の活動だ。

ブルースの例は、たまたまだけど、とにかく
音楽・音楽家への洞察と愛に溢れたエッセイだった。


★★★★▲





2026.3.1

本日は、お日柄もよく
原田マハ 著




『本日は、お日柄もよく』は、原田マハさんの
2010年発表の小説。

スピーチライターという職業があることを、
この本を読むまで知らなかった。
スピーチライターというのは政治家や企業の
社長などのスピーチの原案を考えたり、
アドバイスをしたりする人。

OLだった主人公が幼馴染の結婚披露宴で
ある人のスピーチに感動したところから
人生が大きく変わり出すストーリー。

根が皮肉な私は「現実はそんな甘ないで」とか
「そんなうまいこといくかいな」とか思いながら
読み進めたが、それでもちょっと泣かされてしまった。
そして私が「現実はそんな甘ない」とか
「そんなうまいこといかない」と思うことが、
世界では時々本当に起きていることも知っている。
事実は小説より奇なり、だ。

言葉の持つ力と、言葉にならない時の人の力は、
誰もが知りたい、欲しいことではないかと思う。
本書にそのヒントが散りばめられている。

ところで、登場人物が国政選挙に立候補し、
街頭演説する場面で、次の様な文言があった。

「いますぐ、まっすぐ。政権交代!民衆党」と
白字にくっきりと黒く太いゴチック体で書かれたのぼり


一瞬、その文字の色が白なのか黒なのか混乱した。
いやよく読めば「黒く太いゴチック体で書かれた」と
あるので文字は黒色なのだけど、その前にある
「白字」が混乱の元だった。

この場合、白い背景に充てる漢字は、
「白字」ではなく「白地」ではないかと思った。
でないと「白字に黒字で書いた」という、
訳の分からない文章ができてしまうやないか。

原田マハさんや編集者が間違うとは思いにくいので
「白地」だと思っていたのは私の勘違いなのかと
Googleに質問してみた。

Googleの回答は次の通り。

「白い背景」は、一般的に白地(しろじ)です。
それぞれの言葉の意味は以下の通りです。
白地(しろじ):
白い背景、地の色が白であること(例:白地に黒字)
白字(しろじ/はくじ):
白いもので書かれた文字、色抜きされた文字


やっぱりそうだよなぁ。
どう考えても「白地」は「白い地(背景)」
「白字」は「白い字」だもんな。
何故「白字」を使ったんだろうな。

それはさておき。
本当に政治家にスピーチライターが
関わっているのだとしたら、失言の多い政治家は、
スピーチライターのアドバイスや忠告を
聞けない人ということか、優秀なスピーチライターが
ブレーンにいないということになるのかな。

高市総理の「働いて、働いて、働いてまいります」も
ご本人ではなく誰かが考えたのかな。
奈良出身の初の総理ということで、
奈良のお土産屋さんには、「早苗ちゃんクッキー」が
売られていたし「働いて、働いて、働いてまいります」と
書かれたクリアフォルダも売ってたよ。





2026.3.23

走ることについて語るときに僕の語ること
村上春樹 著




先月、村上春樹の音楽エッセイ
『意味がなければスイングはない』を
読んだ流れで本書のことを知った。
今年3年連続3度目となるフルマラソンを
走るつもりでいる私は、本書の存在を知り、
「これは読まねば」と思ったのだ。

まず、タイトルについて触れておきたい。
前述の『意味がなければスイングはない』は、
ジャズ・リスナーならお気づきの通り、
デューク・エリントンの超有名曲
『スイングがなければ意味はない
(It Don't Mean a Thing If It Ain't Got That
Swing)』に由来する。
そして『走ることについて語るときに僕の語ること』は
村上春樹氏が敬愛する作家、レイモンド・カーヴァーの
短編集のタイトル『愛について語るときに我々の
語ること(What We Talk About When We Talk
About Love)』が元になっている。
『走ることについて語るときに僕の語ること』は、
日本語としてはいささかまどろっこしい言い回しの
ように感じるが、そういう背景があったんだ。

さて、毎年フルマラソンを走り、100キロ・ウルトラ
マラソンを完走し、トライアスロンにも出場する村上氏。
最近知ったのだが、2024年に大病を患い、
1ヵ月の入院を余儀なくされ、
体重が 18キロも落ちたらしい。
以前は、毎日1時間のランニングが日課だったようだが、
病気のあとの今はどうなんだろう。
あまり、メディアに出たり私生活を表に出す人では
ないようなので、詳しいことは分からないが。

本書は、2005年の夏から 2006年の秋にかけて
50 代の時に書かれたもの。
ストイックさや努力家であることが伝わって来る。
ご本人は「メモワール(自伝・回想録)」のような
ものだと位置づけておられるようだが、
確かに小説を読んでも知ることのできない
「村上春樹」という人物のことを知ることができると思う。

一時、彼はフルマラソンを3時間以内で走った
本格的なランナーで、私のような超ノロマなランナーとは
比べ物にならないが、それでも「走る」という
行為は同じで、共感できることも多かった。
おそらくマラソンに挑戦していなければ、
そんな共感もなかっただろうし、何より
この本を手に取らなかったに違いない。

本書では、氏が 50代になって以前のように
走れなくなり、年齢と体力の衰えを感じるような
ことが書いてある。
一方、60歳を過ぎて走り始めた私はスタートの
レベルが低すぎたおかげで、63歳にしてまだ
伸びしろを感じている。
この年になって衰退ではなく、進化・成長を
感じることができる(分野がある)というのは、
ラッキーなことだと思う。
スタートのレベルが低いのも悪くない。

そして、どういうわけか後書きの最後の文章で
泣きそうになるほど感動してしまった。
本書にそういう感動を期待も予想もしていなかったので、
これは虚を突かれた感じです。


★★★★▲


<気に入った文章>(文脈も大事だけど)

今のところ僕はまだ、音楽とコンピュータを
からめたくはない。友情や仕事とセックスを
からめないのと同じように。

学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、
「もっとも重要なことは学校では学べない」
という真理である。

そこでは、走るという行為がほとんど形而上的な
領域にまで達していた。行為がまずそこにあり、
それに付随するように僕の存在がある。
我走る、故に我あり。

生きることのクオリティーは、成績や数字や
順位といった固定的なものにではなく、
行為そのものの中に流動的に内包されて
いるのだという認識に(うまくいけばという
ことだが)たどり着くこともできる。





2026.4.14

ネガティブ・ケイパビリティ
答えの出ない事態に耐える力
帚木蓬生(ははきぎほうせい)著




最近知った言葉「ネガティブ・ケイパビリティ」。
これは「どうにも答えの出ない、どうにも
対処のしようのない事態に耐える能力」
あるいは「性急に証明や理由を求めずに、
不確実さや不思議さ、懐疑の中に
いることができる能力」のこと。

世の中では、スピーディに問題を解決する能力、
答えを出す能力こそが素晴らしいと
信じられており、学校教育では、その能力を
身につけることを目的としている。
それは、ポジティブ・ケイパビリティだ。

著者は、精神科医であり、小説家でもある。
精神科を訪れる患者は、一人ひとり違っており
対応に正解などない。
その時、求められるのが正に
ネガティブ・ケイパビリティだと説く。
著者自身が、ネガティヴ・ケイパビリティを
知ったおかけで救われ、精神科医を続けて来られたと。

本書は、そのネガティヴ・ケイパビリティの
重要性を色んな方面から語る。
特に紫式部がいかに優れていたかの件は、
(その分野に興味のない私には)読み続けることに
正にネガティヴ・ケイパビリティを求められた。
でもおかげで、死ぬまでには『源氏物語』を
読まなあかんなと思ったよ。

戦争が起きるのは、為政者の
ネガティヴ・ケイパビリティの不足だという。
ドイツのメルケル首相の「寛容とヒューマニズム」、
米国のトランプ大統領の「不寛容」の対比も分かりやすい。
不寛容の行きつく先は、戦争だと著者はいう。
(実際、トランプは戦争を起こしてしまったね。)
確かに人類の戦争の歴史は、不寛容の歴史だ。
それは、即ちネガティヴ・ケイパビリティの欠如でもある。

ネガティヴ・ケイパビリティの入り口は
「親切」であり「共感」であり「寛容」だと説く。
「人間の最高の財産は、Empathy です」という
言葉にも説得力がある。

粘り強さや耐性は、能力のひとつだとは
認識していたけれど、ネガティヴ・ケイパビリティは、
それらより文脈が広く大きい。
もっと普遍的とでも言おうか。

安易に答えを求めず、不思議や不安定・不確実の
中に居続けることが「能力」だというのは、
この歳になって初めて得た区別であった。

その能力は、自然に身に付くものでも、
一朝一夕に身に付くものでなく、
不断の努力によって、培われるものなんだ。

この区別を知ったおかげで、不思議と今まで
「これで良かったのだろうか」と思っていたことが、
そこにいること(答えのないこと)が、妥当で
適切であるように思え、幾分気が楽になった。

「おわりに」に書かれているボルバ女史(ミシェル・
ボルバ / 米国の心理学者・教育コンサルタント)の
ルワンダでの体験談は、心を打たれます。


★★★★☆


著者の帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏は、
前述の通り、小説家。
以前観た笑福亭鶴瓶、綾野剛らの出演する映画
『閉鎖病棟 ―それぞれの朝―』の原作者でもある。
その映画の感想を読んでみると、
「テーマは、永遠に正解がないような
哲学的な問いにあるように思うのだが、
いかんせん設定が良くない」と書いている。
もしかしたら、今観たら違う感想を持つかもしれないけど、
どうせなら原作を読んだ方が良いよな。





2026.4.25

やさしい『唯脳論』
養老孟子・楳図かずお 著




「唯脳論」というのは、この世は(この場合、
人間にとっての世界)は、全て脳が作っている、
脳に支配されている、というような考え方だ。
解剖学者である養老孟司さんと
マンガ家の梅図かずおさんの対談形式で、
唯脳論を紐解いていく。

考えたことがなかったけれど、確かに現代人、
特に都会に住む現代人は、
脳が作った(創った)世界に住んでいる。

今、家の中を見渡してみると人工物しかない。
自然は一切ない。
何一つないんだ。
仮に観葉植物や生花があったとしても
それらさえ自然ではない。
人工物しかないのは、人間が世界を
コントロールしようとしてきた歴史の証なんだな。

人工物しかない、ということは全ての物が、
まず元々は人間の脳の中にあって、
こういう物があったらいいな、便利だな、と
いうことから、具現化された物だということ。
家(建物)もそうだし、机も椅子もパソコンも
何もかもがそうだ。
これ、当たり前のことを言ってるんだけど、
その裏側で本来のあるべき重要なことが失われている。
というか、見過ごされている。
それは「自然」。

どういうことかと言うと、例えば未来は
不確実なものであるはずなのに、人間は何もかも
コントロールしたいものだから、明日のことも
明後日のことも、来月のことも予定が決まっていて、
そうなるもんだと生きている。
疑いなく。

でも、本当は違う。
明日、何が起きるか分からない。
それを思い出させてくれるのが、時々起きる天災。
「忘れた頃にやってくる」というやつ。
地震や台風、大雨、がけ崩れなど、
人間ほ全くもって自然を思い通りになんてできていない。
でも、普段は何もかも制御しているかのように生きている。
その制御できているかのように勘違いしているのが脳。
「脳」=「人間」だわな。

そういうと「脳だけではない、人間は心もある」と
いう人がいるらしいが、心も脳の機能だからな。

これを書いているのも「脳」。
これを読んでいるのも(あなたの)「脳」。
どう書くか、どう読むか、どう話すか、どう聞くか、
全てそれぞれの人の脳の「癖」次第。
そして、人間には共通の脳の癖がある。
何かを議論する前に、その人間の脳の癖を
共有しないことには、議論は不毛な訳だ。
だって、人によって、あるいは国によって、
脳の癖が違うから。

脳、つまり、自然でないことに支配されて。
それをよしとして生きてきたがために、
人類にはひずみが起きている。
人間自体が本来自然の一部なのに、
そこから遠ざかりすぎているからな。

唯脳論。
これは、「人間とは何か」を知る、
良い手がかりだと思うね。
まずは、人間の脳の仕組みを知ることは良いことだ。
昨年読んだ『あいては人か 話が通じないとき
ワニかもしれません』
もそうだったけど。

実は本書の内容は、期待していたものとは
違ったのだけど、それでも面白く読めたよ

ルビがあるのは、日本語だけというくだりも面白かった。
確かに英文にはルビはないよな。
「BOOK」は「ブック」としか読めない。
ルビ不要だ。

でも日本語の漢字は違う。
重複(ちょうふく)
重要(じゅうよう)
重い(おも・い)
重ねる(かさ・ねる)
「重」の次にくる文字で「重」の読み方が変わってしまう。
これは中国語にも韓国語にもないことらしい。
私たちは全く無意識のうちに
この恐ろしく複雑なことをやっている。
日本語を学ぶ外国人に同情するね。

脳のある部分を損傷すると失読症という
病気になるらしい。
その部分を損傷すると、世界の人々は
字が読めなくなるのだけど、日本人は
そこをやられても漢字を読むのには
不自由しないというのだ。
でも仮名は読めなくなるらしい。
養老さんによると、漢字の読みがひとつでは
ないのがその原因ではないかというのだ。
こういう、普段全く注意を払わないところに、
日本人のオリジナリティのルーツがあるのかも知れない。


★★★★☆





2026.5.5

胸の小箱
浜田真理子 著

(再読)




終活というのか 断捨離というのか
とにかく持ち物が多いので減らそうとしている。
目に見えて大きくは中々減らないのだけど、
本棚や CD、DVD の棚は少しずつ空いてきている。

先日、本棚を見ていて、
浜田真理子さんの本『胸の小箱』が目に入った。
浜田真理子さんは、島根県松江市出身、
在住のシンガーソングライタ―。
私は、2004年頃、渋谷のタワーレコードの
試聴コーナーで、彼女の歌声を初めて聴き
その場で CD を購入したのが彼女を知ったきっかけ。

『胸の小箱』は、2014年発売の浜田さんのエッセイ。
これも処分しなきゃと思っていたが、
今までおいていたのには理由がある。
2015年1月、浜田さんがゲスト出演するライブで、
その日、たまたまこの本を持っていた私は
ご本人にサインをしてもらった。
「つつみ様 Love & Peace Mariko」と
書いていただいたので、処分するのに抵抗があったんだ。
でも、そんなこと言っていたら、
いつまで経っても片付かない。

今では音楽はダウンロード、本は電子書籍の
購入も増えているが、実物を購入することもある。
しかし、本にしろ CD にしろ、手放す前提で
手に入れている。
年を取ってきて、所有欲というものが、
かなりなくなってきた。(except guitars)

なので最近は、サインをしてもらえる機会が
あっても、辞退させていただくことにしている。
相手が「サインしましょうか?」と言うのに
「いえ、結構です」と断るのも勇気がいるし、
それはそれで、中々心苦しいものがある。
こういう時は、サインしてもらうのが
礼儀の様な気もする。
そういう時、多くの場合は名前を聞かれ、
名前を書いてくださる。
私宛ての名前があるがために、そのサイン入りの
本や CD の処分に困るぐらいなら、
サインなしの方が気が楽だと思うようになったのだ。
手放すことが決まっているのに、
「つつみ様へ」とサインをいただくことも気が引けるし、
サイン入りの方が、値打ちが上がるかもしれないと、
サインをもらうのは、もっと不埒な感じがしてできない。

そんなわけで、ライブ会場で、CD を買うと
サインを貰える機会が時々あるのだけど
そういう時でもサインを貰う列には並ぶことがなくなった。

前置きが長くなったが、サイン入りの本を
手放すことへの複雑な気持ちを持ちつつ
『胸の小箱』をメルカリに出そうと決意し、
出品のための写真を撮り準備をした。

それから、2、3時間後だったと思う。
某プレイガイドから、あるライブのお知らせが届いた。
なんと浜田真理子さんのライブ。
浜田さんのライブの通知は、
ずい分久しぶりのような気がする。

浜田さんの歌は大好きで、
数えてみると過去にライブに5回行っている。
最後が 2023年2月だったので、
3年以上行っていない。
このタイミングでライブの通知が来るか? と思ったが、
こういうシンクロニシティには素直に応じる主義なので、
その通知のあったライブ(6月25日)は申し込んだ。

そして、11年前に読んだ『胸の小箱』の
自分の感想を読み返してみた。
もう一度読みたくなった。
そのライブの通知がなければ、もう一度読もうとは
思わなかっただろう。

で、メルカリへの出品を一旦見送って、
11年ぶりにもう一度読んでみた。
驚いたことに、いや、驚くことではないのかも知れないが、
内容は全く何も覚えていなかった。
初めて読んだも同然だった。

感想。
やはり、歌にも文章にも「その人」が表れるんだな。
読み直してみて、浜田さんの歌を聴いた後のような
心持ちになった。

「わたしは絶望なんか歌いたくないし、
そんなことを歌ったこともない。
どれほど先でもいい、針で突いたような
穴ほどでもいいから、光が見えなければ
歌う甲斐がないとさえ思っている」

彼女の歌の根底にあるのは、希望。
どんなに暗い歌であっても、
根底に流れているのは「光」なので
いつまでも聴いていられるし、
時々、聴きたくなるんだな。
そして、だからこそ彼女の歌声には
「Joy」を感じるのだと思った。

若い頃、ジャズピアニストを目指していた彼女は、
クラブで弾き語りをするうちに気持ちに変化が現れる。
テクニック重視の演奏にあまり興味がないことに
気づいた彼女は自分の音楽の嗜好をこう綴っている。

「メロディのよさ、歌詞のおもしろさ、コード進行の意外さ、
それらを丁寧に味わいながら楽しんで
演奏しているようなものが好きなのだ」

いいねぇ。
私もそういうの好きだ。
(時々、バリバリのテクニックのものも聴くけど。)

後半は、アルバム『But Beautiful』の録音時の
エピソードなのだけど、読みながら
『But Beautiful』を聴くと、これまた録音時の
スタジオの風景が目に浮かぶようで、大変面白かった。

久しぶりの6月のライヴもとっても楽しみになった。


★★★★★


[ 関連エントリー ]
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2013.5.21 浜田真理子 ~LIVE But Beautiful TOUR~
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2023.2.18 浜田真理子の有楽町で逢いましょう vol.1





2026.5.11

ファーストラヴ
島本理生 著




直木賞を受賞したので、書店に平積みされていた。
オビに書かれた「なぜ娘は父親を殺さなければ
ならなかったか?」という文に魅かれて買った覚えがある。
奥付けを見ると、2018年の発行なので、
約8年間も読まずに本棚にしまわれていたことになる。
買う時は読む気満々なのだけど、そんな本が何冊もある。

島本理生の小説は、初めて読んだ。
主人公は、臨床心理士・真壁由紀。
父親を包丁で刺殺した就職活動女子大生。
その動機は一体何か。
ちょっとミステリーというのか、推理小説的。

読み始めに軽い違和感、というか抵抗があったのは、
登場人物の名前。
主人公、真壁由紀はまだ良いとして、
その旦那が、真壁我聞(まかべがもん)。
父親を殺す女子大生が、聖山環菜(ひじりやまかんな)。
弁護士が、庵野迦葉(あんのかしょう)。
なんか少女漫画っぽい。
まあいいけど。

あまり後味の良い作品ではないが、
引き込まれて、それなりに面白かった。
昨年読んだ姫野カオルコの『彼女は頭が悪いから』を
思い出した。
全く内容は違うのだけど、なんだか「性の問題」
「性被害」という点では、共通しているものを感じる。
男性が女性を軽く見ているというか、
尊重していいないというか、分かってないというか。

裁判の判決は、私はどうもスッキリしないものがある。
被告の変わりようも、ちょっと劇的過ぎないか。

2020年にテレビドラマ(主演:真木よう子)に
なったようだし、2021年には映画化(主演:
北川景子)もされている。(監督は堤幸彦)
観てみようと思う。


★★★▲☆





2026.6.3

捨てる生き方
小野龍光・香山リカ 著




香山リカさん(精神科医)とはお会いしたことが
ないが、小野龍光さんのお話しは、数回 生で
聴いているせいもあるだろうと思うが、
誤解を恐れずに書けば、圧倒的なレベルの差の
様なものを感じてしまった。
もしかしたら香山さんは、読者目線に立って、
龍光さんに敢えてそういう問いかけをしたのかも
知れないけれど、どうも正解ありきの様な浅い質問に
「何言うとんねん」と思う場面が幾度かあった。
そして、何よりも全ての質問に回答(正解ではない)
できる龍光さんの思慮深さにも感銘した。
これは、ご本人が相当苦しまれたからこそのことだ
とお察しする。

香山さんは、東京の仕事を辞めて北海道の
僻地診療所での仕事を選んだことを、
龍光さんの選択(年商100億超えの IT企業の
CEO を辞めた後、得度した)と同レベルに
語っているかのように思える節もあるが、
とんでもない話しである。
それを並べること自体、恥ずかしいと思うのが
普通ではないかと読みながら違和感を拭えなかった。
まあご本人は、同レベルで並べているつもりでは
ないのかも知れないけどね。

思うに仏陀の教えはとても哲学的で、
所謂「正解」がないのではないか。
一方、医学を学んだ精神科医には
一応の対処法(≒正解)が、あるのではないか。

しかし、過日私が読んだ『ネガティブ・
ケイパビリティ答えの出ない事態に耐える力』
(著者は精神科医の帚木蓬生〈ははきぎほうせい〉)
に精神科の患者には治療の正解がない、と
いうようなことが書いてあって、なるほどと
思ったことも記憶に新しい。
そういう、不確かな面に関する記述、いわば
ネガティブ・ケイパビリティがほぼ感じられず、
常に正解を求めるように(私には感じた)
香山さんの言い分は、多くの場面で残念ながら
私は同意しかねた。

それが顕著なのは、第五章で「利他」について
語っている際に、龍光さんは「利他」などと
大げさなものではなく「思いやり」を持つことで、
自分目線ではない考えを持つことができ、
「思いやり」を持つこと自体が自分の幸福に
繋がるという話しをしているのに、
その「思いやり」について誕生日パーティの
サプライズでケーキを準備する例を出してくる。
私には、おいおい、って感じだった。
なんかずれてないか。
まあ、いいんだけどね。

他にも思うことあったけど、
香山さんを批判しても意味がない。
この辺でやめておこう。


小野龍光さん
★★★★★
香山リカさん
★★▲☆☆

偏ってますか? この感想。


(追記)
読み終えた勢いで、辛辣な感想文になってしまった。
考えてみると、香山さんのスタンスが龍光さんと
違っているおかげで、この本は龍光さんの
奥深さを引き出すのに成功していることに気付いた。
主役は、龍光さんだからね。
そういう意味では、香山さんは GJ ということかな。

Amazon のレビューに「お金持ちの道楽」と
書いている人がいて、驚いたね。





2026.6.7

リボルバー
原田マハ 著




原田マハさんの小説『リボルバー』。
先日、新宿の損保美術館で
ゴッホの「ひまわり」を観た。
その時のエントリー
「なぜ、ゴッホは花びらが落ちた、
枯れたひまわりを描いたのだろう? と
絵を前に考えてみた」と書いた。

ゴッホ関連では、マハさんの
『たゆたえども沈まず』は凄く良かったし。
『リボルバー』の表紙が「ひまわり」なので
もしかしたら、何かヒントがあるかも、と
読んでみた。

結果は、残念ながら、私が欲しかった
「ひまわり」に関するヒントになるような
ことは書かれていなかった。

そして、小説としての感想だが。
『たゆたえども沈まず』が素晴らしかっただけに
『リボルバー』は、ちょっと残念だった。
ミステリー仕立てなのは良いが、
ちょっと無理がある。

以下、ネタバレ注意です。

パリのオークション会社に勤務する
冴(さえ)のところに「ゴッホの自殺に
使われたものだ」という錆びついたリボルバー
(拳銃)が持ち込まれる。
持ち込んだ女性サラは、どういう経路で
それを手に入れたのかなど、ほとんど何も語らない。
冴は、その真贋を確かめるべく調査を始めるが、
そこで一番疑問だったのは、一番先にサラに
訊くべきでしょう、ということ。
本当にオークションに出したいのであれば、
その物にどんなストーリーがあるのかを
明かさなければ、売れるはずがないだろうに。

リボルバーは、ゴーギャンがゴッホの弟テオから
「弾は入っていない」と預かったものだったけど、
実は弾が一発だけ入っていて、事故で
ゴッホにその弾が当たってしまうというオチ。

この小説、最大の弱点。
ゴーギャンは弾が入っていないと思っていた。
ない、ない。
絶対にない。
ゴーギャンはその拳銃を相当な期間持っていた。
その間、一度も弾倉を見なかったなんて、
拳銃を持った人ならあり得ない。
例えテオが「弾は入っていない」と言ったとしても、
普通は確かめるでしょう。
確かめないなんて、あまりにも不用心で、
現実味がなさすぎる。

それに、ゴーギャンはアルルでゴッホと別れたあと、
二度どゴッホには会っていない、というのが通説。
オーヴェル・シュル・オワーズまで、ゴッホに
会いに行っていたという設定も(可能性が
ゼロではないにしろ)ちょっと無理があると思った。

そんなわけで、小説としては、
ちょっとなぁ、という感じなのでした。
マハさんの小説は、何冊か読んで好きなのだけど。

ただね、2019年にパリに行き、オルセー美術館にも
行ったし、何よりオーヴェル・シュル・オワーズに行って、
ゴッホが最後に過ごしたという部屋も、
オーヴェルの教会も、ゴッホの墓も、あたりの麦畑も、
オワーズ川の河原にも行ったので、それらが
舞台になったシーンでは、とてもリアルに
感じ取ることができたのは良かったよ。


★★★☆☆


来月は、2年ぶりに長野の東山魁夷館に
行く予定なので、続けてマハさんの
『生きるぼくら』(表紙が東山魁夷の「緑響く」)を
読みます。
これまた、東山魁夷がどれほど出てくるのか
知らんけど。


(追記)
『生きるぼくら』には、東山魁夷は登場しなかったわ。
美術とは関係ない小説です。
御射鹿池が出てくるのであの表紙
(東山魁夷の『緑響く』)なのだな。





2026.6.14

生きるぼくら
原田マハ 著




先日読み終えた『リボルバー』に続いて
原田マハさんの小説『生きるぼくら』を読んだ。

7月に長野の東山魁夷館に行く予定がある。
一昨年、御射鹿池(みしゃかいけ)に訪れ、
東山魁夷の作品を観たくなって、東山魁夷館に
行ったのだけど、残念ながら御射鹿池を
有名にした『緑響く』は展示されていなかった。
でも、見ごたえのある展覧会だった。

『生きるぼくら』の表紙は東山魁夷の
『緑響く』なので、良く調べもせず、東山魁夷の
話しだと思って読み始めたら、全く違った。
御射鹿池は登場するけどね。

主人公は、ひきこもりの24歳の青年。
彼がひきこもりから脱していく物語なのだけど、
そこに大きく関わるのが、米作りと祖母。
「生きるぼくら」の「生きる力」の物語。
ちょっとベタですが、泣きます。
おにぎり食べたくなります。
映画にしても良いと思う。


★★★★▲


御射鹿池


東山魁夷館のコレクションは、数カ月ごとに
入れ替えられるのだけど、今年の第1期
(5/14―7/27)には『緑響く』が
展示されているので、今度は実物に会えます。

緑響く



一昨年、御射鹿池(みしゃかいけ)に
行ったのは、妻がこの小説を読んで、
「どうしても行きたい」と思ったらしく、
長野での仕事に合わせて行くことにした。
『リボルバー』のオルセー美術館や
オーヴェル・シュル・オワーズもそうだったけど、
実際に行ったことがある場所が小説に
登場すると、風景が目に浮かぶので
とてもリアルに感じられ、臨場感が増すね。





2026.7.10

妄想美術館
原田マハ X ヤマザキマリ




原田マハさんの著書は数冊読んだけれど、
ヤマザキマリさん漫画は読んだことがない。
大人になってからは、漫画は数えるほどしか
読んでいないんだ。
でも、映画になった『テルマエロマエ』は、
2本とも劇場で観たよ。
ヤマザキマリさんは、山下達郎のアルバム
『SOFTLY』のジャケットになった達郎氏の
肖像画を描いていたり、立川志の輔師匠の
落語会に行くとマリさんの描いた師匠の
肖像画が展示されてたりと、
漫画は読んでいないのに
不思議と馴染みがある。

原田マハ と ヤマザキマリ。
アート、そして小説と漫画という違いはあれど
アートをネタに創作するという共通点を持つ、
このおふたりの対談。
この本を読む前に、デジタルで読んだ対談が
とても面白かったので、この本も読んでみたくなった。

好きな美術館、好きな作家、好きな作品、
お勧めの美術館など、ふたりのファンでなくても
アート好きなら知っておきたい情報満載。
ふたりが館長をするなら、という妄想美術館も
面白いし、『テルマエロマエ』誕生秘話も興味深い。
知らない作家を知れるのも良いね。

ちょっとマリさんの方が、マニアックな印象。
おふたりとも専門的な教育を受けていらっしゃるから、
奥が深いです。
そんなに文字数が多い本ではないけれど
この一冊だけでも私の受け皿は溢れてしまいました。


★★★▲☆





2026.7.19

「さて死んだのは誰なのか」

東京・青山霊園にある池田晶子の墓参りに行ってきた。

発売されたばかりの池田晶子の著書
『すべての人の死因は生まれたことである』。
昨日届いて一気に読んだ。

池田は、2007年に46歳で亡くなっており、
新しい本が出るわけはないのだが、この本は
単行本4冊のエッセイから「生老病死」に
関するものを選んで再編集したもの。
(私は池田の本を3冊しか読んでいなかったけれど
そのうちの2冊がここに含まれていたよ。)

『すべての人の死因は生まれたことである』に
ついては書きたいことが色々あるので
改めて書くことにして、今日は墓参りのことを書こう。

その本に墓碑銘に関するエッセイがあった。
彼女は自分の墓碑銘は
「さて死んだのは誰なのか」にすると。

私は池田流の「洒落」だろうと思った。
(池田なら「諧謔(かいぎゃく)」と書くかも知れない。
「諧謔」は池田が良く使う言葉で、気の利いた
ユーモア・冗談のこと。)

しかし、本の後書きにその墓碑銘は
お墓に刻まれていると記載があった。
調べてみると、そのエッセイ「墓碑銘」は、
「週刊新潮」の連載エッセイ「死に方上手」の
連載最終回にあたるもので、池田の死後、
雑誌に掲載されたとあった。(こちらの記事

つまり、エッセイ「墓碑銘」を書いた時、
洒落ではなく、本気だったのだな。

お墓は青山霊園だ。
ならば、墓参りをして、ぜひその墓碑銘を
この目で見てみたい、と思った次第である。

青山霊園には自宅から 30分ほどで
行けるけど、池田の墓がどこにあるか
分からないのでは、墓参りも叶わない。
と思って検索すると、ヒットした。

池田晶子の「墓」ができました!

ちゃんと案内図付き。
そして、なんと 命日が2月23日。
223、そう「ツーツーミ」だ。
こうなると、もう絶対行かねば、となった。

墓碑銘は、原稿用紙を模した
アルミ合金製の鋳物扉に
本人直筆の文字を転写してあった。




「さて死んだのは誰なのか」

上にあるのは、本のオブジェで
こちらにも直筆の文字。



これは自著へサインした時のものらしい。

この墓碑銘が実現するまで、
青山霊園の抽選に挑戦し続けて8年、
没後12年が経過していた。
関係者(ご主人)のご苦労も多かったことでしょう。

* * * * *

実際には自分の墓を建てる気はないのだけど、
自分の墓碑銘を考えてみるのも乙かもね。

あと、だから何、ということでもないのだけど。
墓誌には誕生日の記載があった。
1960年8月21日。
一昨年逝った私の姉の誕生日は
同年8月22日で1日違いだ。





2026.7.21

すべての人の死因は生まれたことである
池田晶子 著




2007年に 46歳で亡くなった池田晶子(あきこ)。
いまだにその著書のほとんどが書店に並び、
著書の累計は140万部を超えているらしい。
先日、発売されたばかりの
『すべての人の死因は生まれたことである』は
アマゾンでは新潮新書の売れ筋ランキング1位に
なっていた(2026年7月20日現在)。
この本は、過去に出版された単行本4冊の
エッセイから「生老病死」に関するものを選んで
再編集したものだ。
池田晶子の著書の何がそんなに人々を
魅了するであろうか。
私も魅了された読者の一人だが。

本書は「生老病死」について書いたエッセイを
集めたものだが、タイトルになっている
「すべての人の死因は生まれたことである」は
当たり前のことである。
生まれないものは死なない。
生まれたから死ぬのだ。
しかし、世の中は当たり前のことが言えない。
通用しない。
医者がこんなことを言おうもんなら
大変な批判にさらされることになる。

池田は当たり前のことを書いているのだが、
それが誰にでも通じるわけではない。
私も全てに同意できるわけではない。
しかし、この人の諦念というか諦観というか
卓越したものの考え方には、唸らされ、
そして憧れてしまう。

「すべての人の死因は生まれたことである」
には続きがある。
「では生まれたことの原因は何か」と
問うことになる。

生まれたことの原因は、両親の性交か。
受精か。
否、それは生まれたことの条件であって、
原因ではない、と池田は言う。
病気で死んだなら、それは条件であって、
原因ではないように。

では、生まれたことの原因は何か。
ここから先は神秘である。

精子と卵子が結合する確率が
何十億分の一だから、私たちが生まれたのは
奇跡だと言う人がいる。
そう言われれば、奇跡のように思える。

しかし、池田は言う。
「いかに奇跡的な確率であれ、確率であると
いうことは、可能であるということだ。
可能なことは、可能なのだから、
奇跡的なことではない。
確率は奇跡ではあり得ないのだ。
本当の奇跡は、自分というものは、
確率によって存在したのではないと
いうところにある。
なるほどある精子と卵子の結合により、
ある生命体は誕生した。
しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。
その生命体であるところのこの自分は、
どのようにして存在したのか。
これはどう考えても理解できない。
なぜこんなものが存在しているのかわからない。
だから、奇跡なのだ。
なぜ存在するかわからないものが
存在するから奇跡なのだ」

自分というものが、存在していることが
奇跡で、神秘。

自分が生きていること、存在していることが
当たり前すぎて、そんな風に考えたことは
なかったが、これ以上の奇跡はない。

そして、「自分の」命だと思っているが、
生まれてくることも、死ぬことも
自分しだいではない。
一体、自分の命とは、自分とは、何なのか。

「死」についての考察も大変興味深い。
「死はない」と、池田は言う。
死を見た人はいない。
私たちが見たことがあるのは、
死体であって「死」そのものではない。
「死」そのものを見ることはできない。

「論理的には死は存在しないが、
現象的には死は存在する。
論理と現象の絶対矛盾が
同一であるのが人間という存在だ」

池田は自分のことを
「本質的にしか考えられないという、
どうしようもない癖がある」と書いている。
これは「病膏肓(やまい こうこう)」だと。
そして「『考える』とは、現象における本質を
捉えるということ以外ではない」とも。

彼女は「死」という現象について
その本質は何か、考えて考えて
考え抜いたのではないか。
その結果、「死はない」ということに
たどり着いた。
すると(墓碑銘に書いた通り)
「さて死んだのは誰なのか」ということに
なったのではないか。
こんな風に思うのは、まだまだ浅はかか。


★★★★▲


先日、その墓碑銘を見るため
青山霊園の池田の墓に行ってきた。
そのことは先日書いたが、
そのエントリーには書かなかったことがある。
実は、墓石(というより墓碑銘)の前に
立った時、突然何かが グゥ―ッと
込み上げてきた。
その情動が何か、言語化する前に
スゥーッと引いてい行ったのだ。
そんな情動を味わうより、
「さて死んだのは誰なのか」という
問いに向き合いなさい、
ということだったのかも知れないと思った。

もう一つ、墓参りなので手を合わせたのだが
この人の墓ほど手を合わせるのが
相応しくない墓はないのではないか、
とも思ったのだ。
池田の前では、自分の一挙一動が
ナンセンスに思えてしまうのであった。

「死」とは?
「墓」とは?
「墓参り」とは?

分かっているようで、
何一つ分かっていないことを
突き付けられる思いであった。


[ 参考サイト --- いずれも知らない方の記事です]
池田某氏の墓詣で
池田晶子氏のお墓を訪ねて





2026.7.22

『蜜柑』
芥川龍之介 著



高校3年生の冬 18歳から 21歳までの
3年間で 1000冊の本を読んだという人の
記事を 池田晶子について検索していて
「note」でたまたま見つけた。
読書歴 15年とあるから、現在33歳ぐらいか。
彼は読書好きが高じて、愛知県田原市で
ブックカフェを経営している。

読んだ本は3年間で 1000冊であり、
その後も読み続けているので、
何冊読んだのか分からないらしい。

自分の人生に影響を与えた本を10冊選ぶ
としたら、というテーマで書かれた記事に
厳選されたと思われる 10冊が並んでいた。

その中に芥川龍之介の短編『蜜柑』があった。

これはご本人が、読書にハマるきっかけに
なった小説で、出会いは 問題集。
高校の問題集に載るぐらいの短編だ。
(3千文字程度)
彼は「生まれて初めて『文学』に出会った
瞬間だった」と書いている。
問題集で『蜜柑』を読んだ日の帰り道、
本屋で新潮文庫で出ている芥川の本を
全て買い、その日から3年間の読書漬けの
日々が始まったという。

そんなきっかけになった短編小説『蜜柑』。
ぜひ読んでみたいと思い、買おうとしたら
今ではアマゾンの Kindle で無料で読める。
えらい時代になったもんや。

主人公は横須賀発の上り列車
(蒸気機関車)に乗っている。
頭の中は疲労と倦怠。
発車間際に13、14歳ぐらいの
小娘が列車に乗って来る。
主人公はその娘の顔だちも服装も
気に入らない。
おまけに小娘はトンネルが近いにも
かかわらず、窓を開けようとする。
疲労と倦怠の上に憂鬱まで
やってくる始末だ。
が、小娘がなぜ窓を開けたのか、
その訳を知ったとき、主人公は……。

自分の内面と
目の前に起きていることの一方的な
一面的な解釈。
この時、主人公に世界(他人)は
存在していないが、そこに世界(他人)が
存在し出す瞬間。

ささやかな幸福感(主人公は「朗らかな
心もち」と表現している)を表現した
短いながらも余韻の残る小説だ。


★★★★☆


ところで件の記事で選ばれていた
10冊の中に私が読んだことのある本が
1冊だけ含まれていた。
リチャード・バックの『かもめのジョナサン』。
たぶん 20歳ぐらいの頃に読んだが、
内容は覚えていない。
ちょっと詩的だったような記憶がある。
なんだかピンと来なくて、なぜこの本がこんなに
話題なのか分からなかったような気もする。
(たぶん、私はセンスがないんだよ。)





2026.8.3

美しき愚かものたちのタブロー
原田マハ (著)




川崎造船所(現・川崎重工業)の
社長であった松方幸次郎という人は、
まだ日本に西洋美術館がなかった時代
(1920年前後)に、本格的な美術館を
創設しようと、ヨーロッパで膨大な数
(1万点に及ぶと言われている)の
美術品を集めた人で、その作品群は
「松方コレクション」と呼ばれている。

現実には、松方が創ろうとした美術館
(場所や「共楽美術館」という名前まで
決まっていた)は、川崎造船所の破綻や
第二次世界大戦によって実現しなかった。
が、その膨大なコレクションが、
フランスに残されたままであった。

松方は、なぜ美術品のコレクションを始め、
美術館を創ろうとしたのか。
そして、戦争でフランスに接収された
「松方コレクション」を日本が取り戻すまで、
どんなドラマがあったのか。
本作は史実に基づいた小説で、
実在した人物が多く登場する。

原田マハさんによると、タイトルの
「美しい愚かもの」とは、ゴッホ、モネ、
マティスといった当時のフランスのアカデミーでは
斬新すぎて評価されなかった画家たち、
そして、美術館を作ること、コレクションを守ることに
命を懸けた登場人物たちのことで、その美しいまでの
彼らの愚直さに、敬意を込めて付けたとのこと。
「タブロー」というのはフランス語で「絵画」のこと。

現在の日本には、当たり前のように美術館が
あるけれど、この小説を読めば、日本に美術館が
できるまでには、多くの人の苦労と大変なドラマが
あったんだと知ることができる。

1959年にフランスから寄贈(取り返しただけなのに
フランス政府は「返還」とは言わない)された
松方コレクションの受け入れ先として、
上野にある国立西洋美術館が、設立された。

2019年6月、国立西洋美術館は、
開館60周年を迎え「松方コレクション展」を開催した。
(本作は、それに合わせ 同年5月に出版された。)
その頃の私は、松方幸次郎のことも
この小説のことも知らなったので、
展覧会には行っていない。
この小説を読んでいたら、絶対に行っただろうなぁ。


★★★★▲


実写化するのは大変だろうけど、
映画にしても良いと思う。
松方幸次郎は、役所広司、
吉田茂は、小日向文世、
田代雄一は、妻夫木聡、
年老いた日置釭三郎は、遠藤憲一で
どうだろう。

ところで、2022年に先にこの小説を読んだ妻が
松方幸次郎の話をし出した。
写真はその頃に見つけて買った2019年の
国立西洋美術館「松方コレクション展」の図録。



中古品だがとても状態の良いものを入手できた。
分厚いです。





2026.8.12

死と生きる : 獄中哲学対話
池田晶子・陸田真志(著)




池田晶子と死刑囚・陸田真志との往復書簡。
陸田は、1995年 東京・五反田(めちゃ近所)の
SM クラブの経営者と店長を殺害。
動機は、金欲しさと彼らに「勝つ」ためだった。

殺人を起こしたような人が、
こんな風に覚醒することに驚き。
殺人を起こしたような人が、
27歳にして、こんな文章を書くことに驚き。
(それぐらい、金銭目的で知人を殺せる人間に
対し無意識なバイアスがかかりまくっている。)

陸田がそんな風になるのは、
刑務所で自省する時間、読書する時間を
得たからに他ならない。

陸田が池田に書いた一通目、
二通目の手紙が素晴らしい。
その後、何がと言語化できないのだけど、
陸田の手紙が、なんだか面白くなくなる。
すると、池田がズバズバとそれを指摘する。
その陸田の文章、全てが理解できたわけではない。
あまりに振り切っている部分があるのだが、
その難解さを池田が指摘する。
痛快であるが、互いにまさに命がけの対話である。

この往復書簡のやり取りの最中、
陸田は死刑判決を受けるも、控訴。
この控訴は弁護士が勝手にしたもので、
本人は取り下げようとするが、
池田の説得もあり、控訴することになる。

この本が発行されたのが、1999年。
死刑の確定は、2005年。
刑の執行は、2008年。
死刑執行の前年2007年に池田は癌のため
46歳で逝去。

死刑の確定後は、やり取りに制限があったと
しても、それでも1999年から2005年まで
5年以上あった。
ここに収録されている手紙のあとにも
ふたりのやり取りは続いたと推測するが、
残念なのは、続きが読めないことである。
ふたりがどんなやり取りを続けたのか、
池田からの刺激を受け、陸田はどんな風に
変化していったのか、大変興味があるところだ。
しかし、ふたりともすでにこの世にいない。

「死刑」の是非。
なぜ、殺人はいけないことなのに、
死刑制度があるのか。
なぜ(普通)人は人を殺さないのか。
あるいは、殺すことに躊躇があるのか。
「善く生きる」とはどういうことか。
そして池田晶子をして、「ようやく、私と
対等に語り合える相手が現れた」とまで
言わせた陸田とは何者なのか。

大変、興味深い、考えさせられる、
そして、視野が拡がる本。
自分が全く知らなかったけど、現実世界に
存在するえげつない世界と、生と死を形而上に
捉えた凄い世界を垣間見たような読後感である。

ところで、池田晶子の著書の多くは、
今も出版され続けているが、本書はすでに絶版に
なっており、私も中古本を入手した。
(実勢価格は、定価よりも500円から千円ほど高い。)
なぜ、この素晴らしい本が絶版になっているのか。
途中、特定の個人(著名人)を侮辱するような
これはあかんやろ、というような陸田の表現もあったし、
被害者遺族の感情もあるのかも知れないな。
(絶版の理由は、公式には明かされていないようだ。)


★★★★▲





2026.8.18

14歳からの哲学
考えるための教科書
池田晶子 著




『死と生きる:獄中哲学対話』に続いて
池田晶子である。
本書はタイトルからも分かる通り、
中学生、高校生向けに書かれたものである。
私が14歳でこの本を手にしていたら、
最後まで読み切ったか疑問なほど、
64歳の私にも難しかった。
もしかしたら、以前読んだ
『41歳からの哲学』よりも
難解だったかも知れない。
あれは週刊誌に連載されたエッセイだった
から読みやすかったのかも知れない。

「あとがき」には、Ⅰ章Ⅱ章は14歳、
Ⅲ章は17歳を対象に書かれたものだとある。
著者は、語り口こそやさしいものの
「内容的なレベルは少しも落としていません。
落とせるはずがありません」と書いている。
つまりは、哲学すること、考えることの本質、
本物さにおいて、相手が中学生だからといって、
手抜きはない。
おそらくはこれを読んだ多くの中学生が
脱落してしまうのではないかと、
余計な心配をしてしまう。
そんなことを言うと池田に
「あんた分かってないわね」と
たしなめられそうだけど。

普段当たり前に思っていて、
考えたこともないことを考えるのが、
その入り口。

自分って何?
社会って何?
自由って何?
理想って何?
……

実は、普段から当たり前に
使っている言葉なのに、
改めて説明しようとすると、
多くの大人たちさえ言葉に窮する。

大人たちは「社会が悪い」「社会のせいだ」と嘆く。
「社会」とは何か、も言えないのに。

たぶん若い頃の私も含めて、多くの人たちが
「そんな面倒くさいこと考えずに
楽しくやりましょや」と
生きているような気がする。
考えることがしんどいし、
正解のない問いに向き合う
ネガティブ・ケイパビリティに欠けるからだろう。
何より、すでにある自分の考えが「正しい」と
思っているしね。
でも、池田は若者をいざなう。
「本当はどういうことか知りたくないか?」
「自分が存在しているのはなぜか知りたくないか?」
と。
そこへの道は「考える」でしかない、と。

特に宇宙に触れたくだり(Ⅲ章)は、
壮大過ぎて、神をも超えて(この表現が
合っているか分からない)、
もう振り切っており、ほとんど付いて行けなかった。
そこだけもう一度、読み直して、
やっと理解できる部分と訳が分からない部分を
区別できたけど、分からない部分は、
本当に何を言っているのか分からない。
こんなこと分かる高校生がいるのかしらと
思ったが、いるんやろなぁ。

本書以外でも度々語られる「死はない」と
いうことも分かっているようで、
完全には掴めていない。
この人の本は、もう少し読んでみようと思う。
あまりにも私は分かっていなさ過ぎると思った。
まぁ考えてこなかったのだから、当然だけど。

幸いは、彼女の言っていることに
興味があることだと思う。
そうでなければ、この人の著書を
手に取らないだろうし、取ったとしても
「何書いてるか分からん」で終わりだろう。

本書で、印象に残った言葉を記しておく。

「美しいもの」と聞いて、君は、美しい花や
美しい景色、美しい音楽などを思い浮かべることが
できるけれども、それなら、そこから花や景色や
音楽を取り去って、「美しい」だけを
思い浮かべることができるだろうか。
(p33)

「わからない」ということは、
答えではなくて、問いなのです。
(p43)

何であれ、何かを肯定したり否定したりできると
いうのことは、それがそれであるということが
認められているのでなければならないね。
そうでなければそれについて
議論することはできないからだ。
(p80)

社会という現実は、皆が内で思っている
その観念の、外への現れだ。
観念が現実を作っているのであって、
決してその逆じゃないんだ
(p82)

思いや考えが状況や環境を
作り出すのであって、状況や環境によって
その思いやその考えになるのではないということです。
(p94)

ちっぽけな自分を捨てることだ。
無私の人であることだ。
君が自分を捨てて、無私の人であるほど、
君は個性的な人になる。
これは美しい逆説だ。真実だよ。
人は、個に徹するほど天に通じることになる。
この宇宙は、なぜかそういうつくりになっているからだ。
(p128)

情報はしょせん情報だ。
情報には本当もウソもある。
事実か事実でないかということもある。
本当のこと、真実というのは、外から与えられて
知るものではなく、自ら考えて知るものだからだ。
自ら考えて知るより、知りようがないものだからだ。
(p132)

善悪の基準を自分の外に求めるという
思い込みの根は、とにかく深い。
まさにこの思い込みのために、人類において、
道徳や法律は時代や国によって相対的と
なっているのであって、本当は話がまったく
あべこべなのだけど、ここ数千年、
人類はそのことに気がついていない。
ごくごく少数の考える人しか、この当たり前
すぎる事実には気がついていないんだ。
(p162)

人は、思い込むことで自分で自分を不自由にする。
それ以外に自分の自由を制限するものなんて、
この宇宙には、存在しない。
(p170)

考えるということは、
答えを求めるということじゃないんだ。
考えるということは、答えがないということを知って、
人が問いそのものと化すということなんだ。
どうしてそうなると君は思う。
謎が存在するからだ。
謎が謎と存在するから、人は考える、
考え続けることになるんだ。
だって、謎に答えがあったら、それは謎ではないじゃないか。
(p196)

などなど。
他にもあったけど、引用が長くなり過ぎるのでやめておこう。
当たり前のこともあれば、当たり前なのに
今まで気付かなかった、新しい観点もある。
この本もまた読み直したいが、
他にも読みたい本がいっぱいで、悩ましい。


★★★★☆


ところで、本書のアマゾンのレビューを読むと、
概ね好意的で高評価なのだが、
割合は少ないものの批判的な感想というか
むしろ酷評とも言えるものもそこそこあって驚く。
「えっ? そんな風に解釈するの?
いやいやそこはポイントちゃうやろ、
ずれてるで」と思うようなことが書かれている。
それだけ、一般的に通じにくいことを
書いているとも言える。

肯定的なレビューの一つに、こういうのがあった。
(一部抜粋)

「この本を読んで、著者の(社会的に理解しがたい)
意見に不満を持った方、著者の主張が幼稚だと
思った方、著者の語調が ‘傲慢’ だと思った方、
残念ですが、みなさん、哲学には向いていません。
著者があくまで、この本を通して、私たちに
教えたかったことは、既成の価値観のすべてに
戦いを挑んでいくこと、自分が信じて疑わなかった前提を
片っ端から崩していくこと、そうすることによって
瓦礫の山と化した混沌とした状態から、
いかに自分の力で「考え」抜くかについてです。
既成の価値観を一歩たりとも離れようとせずに、
自分の ‘いま’ ある尺度で、この本の内容を
‘よい’ かどうか評価することは、まさに愚の骨頂であり、
誰より池田晶子氏が最も残念に思うことでしょう。」


なるほど
「哲学に向いていない」
その通りだな。





2026.8.22

水中の哲学者たち
永井玲衣 著




池田晶子の意思と業績を記念し、
精神のリレーに捧ぐとして作られた、
「わたくし、つまり Nobody賞」 を
2024年に受賞した永井玲衣さんの
『水中の哲学者たち』(2021年)を読んだ。
この賞は、作品に与えられるものではなく、
賞の趣旨に相応しい人物に対して授賞するものだ。

大体において、哲学者というのは
変わり者が多い(と思う)。
永井さんは、17歳の時に
サルトルを読んで、大学で哲学を
学ぶことを決めたという。
私が17歳の時、頭の中は
ギターと好きな女の子のことでいっぱいで、
哲学なんぞの入る余地は全くなかった。
そんな自分を基準にして、
哲学者は変わり者が多いというのは、
あまりにも偏見に満ちていると思う。
でもやっぱり、17歳でサルトルを読み
哲学を目指す人は、少数だよね。

妻が哲学を仕事にしたおかげで、
私も若い頃には全く興味のなかった
哲学に興味を持ち始めて数年。

最近、読んだニューヨークタイムズの記事は、
就職先のなかった哲学専攻の人が、
AI の開発会社に高給で雇われているという話し。
ちょっと前までは「大学で哲学を学びたい」と
子供が言うと 親は頭を抱えたらしいが、
今はそうではない。
AI の開発には倫理や哲学が
欠かせなくなっているからだ。
今や、AI が感情を持っているのではないかと
専門家たちは研究している。

それはさておき、本書の著者・永井さんは、
学校、自治体、企業などで幅広く
「哲学対話」を行っている。
私が子供の頃にはなかったことだ。
例えば、私の通った中学校は、
男子は丸坊主にしなければならなかった。
そこへ「なぜ丸坊主にしなければ
ならないのですか?」などと質問したとて、
「規則だから」以上の回答は得られなかっただろう。
いや、哲学対話は誰かに回答を
求めるものではなく、自ら考えることなのだけど。

そのことに疑問を持つ子供も父兄も
いなかった時代だ。
疑問を持つ人が全くいなかった訳では
ないだろうけど、ほとんどの人は
それを問うこともなかった。
これは完全に思考停止である。

もしかしたら、丸坊主にするのがイヤな
子供が「なんで?」と親に問うたかも知れない。
そこに哲学的な対話があっただろうか。

考えてみるとなぜ、丸坊主にしなければ
ならなかったのか、今でも分からない。
私は大阪の外れにある小さな町の中学に
通っていたが、すでに当時の大阪市内には、
丸坊主ではない中学校はいくつもあった。
にもかかわらず、私は疑問を持たなかった。
今となっては、自分を含め多くの人が
「疑問を持たなかった」ことに大いに疑問がある。
(ちなみに現在は丸坊主ではないようだ。)

話を戻そう。
学校や管理側にとっては、哲学対話などと
いうものは、ある意味危険ではないか。
何を言い出すか分からないからだ。
しかし、時代は変わったんだなと思う。
まだまだ少ないのだろうけど、
各々が自由に、自分の意見や考えを
言える時間や場が増えてきたということだろう。
今まで疑問を持たなかったことを
「なんで?」と問うことができるのは、良いことだ。

本書は、
「日常にあるささやかな問いを見つめた
『手のひらサイズ』の哲学入門」とある。
いきなり、哲学のうずに投げ込まれるのではなく、
哲学の周辺を見学(?)するような感じで、
とても易しく分かりやすい。
一日で読み切ってしまったよ。
例えていうなら、スタジアムでスポーツを
観戦するような感じ。
観客は、サッカーをしてはいないけど、
スタジアムにいればサッカーが何かは分かる。

本書を読んだからといって、いきなり哲学を
していることにはならないと思うけど、
その入り口としてはとても分かりやすい。
哲学というと、何やら難しい学問のようだが、
「哲学する」とはどういうことなのか、
本書を読めばなんとなく分かるのではないだろうか。
先に書いた「丸坊主問題」のように身近な、
日常に、哲学のネタはたくさん転がっている。
そんな分かりやすさが、本書の5万部突破の
要因のひとつだろうと思う。

美容院で「どうしたいですか?」と美容師に
問われる。
この問いが哲学的だという著者。
「どうしたいですか?」は、
「どういうあなたでありたいですか?」
「どういう人生をあなたは送りますか?」
という問いだという。
美容師の何気ない質問が
「いかに生きるのか?」という根本的な問いに
つながってしまう、という。
なるほど面白い。

また、たくさんの哲学対話の現場での
著者の体験は、とても考えさせられるものがあった。
対話は、ディベートではない。
私たちはつい「どちらが正しいか」に
走りがちだが、対話に勝敗はないんだ。

印象に残ったフレーズをいくつか記しておこう。

哲学対話をしていて、対話が居心地の悪い同調や、
いたたまれない孤独につつまれているとき、
わたしは願う。
もっともっとバラバラになろう。
バラバラになって、ちゃんと絶望しよう。
もともと世界はいつだって、多様で、複雑で、
曖昧で、不確実だ。その意味でわたしたちは
みんなみじめで、みんな平等にひとりぼっちだ。
(p. 59)

そういうものだよ、考えすぎるとつらくなるよ、
わからなくなるよ。
この思考停止を誘う言葉は、思いやりの形を
とったアドバイスの容姿をしているからおぞましい。
いつくしみ深い聖母の見た目をして、
抱きしめられた途端にわたしたちの息の根を
止めてしまう。
気がついたら、あっという間に無抵抗で
受け身の人間につくりかえられてしまう。
(p. 68)

哲学は何も教えない。
哲学は手を差し伸べない。
ただ、異なる声を聞け、と言う。
(p. 70)

哲学は意外とシンプルである。
哲学とは、「なんで? と問うこと」だからだ。
だから、学問というよりは、行為や営みと
表現したほうがいいかもしれない。
ある哲学者は、哲学することの根源は
「驚異と懐疑と喪失の意識」であると言った。
ひとは、びっくりしたりつらいことがあったりすると、
「なんで?」と自然に問うてしまう。要するに、
「は?(驚異)マジで?(懐疑)
つら(喪失)」から哲学は始まるのだ。
(p. 130)

★★★★▲





2026.8.24

無敵のソクラテス
第一章 帰ってきたソクラテス

池田晶子 著




再び池田晶子である。
本書『無敵のソクラテス』は、池田の死後、
『帰ってきたソクラテス』(1994年)、
『悪妻に訊け 帰ってきたソクラテス』(1996年)、
『さよならソクラテス』(1997年)の3冊に加えて、
3冊に収録されていないソクラテス対話篇作品を
第4章として加え、1冊にまとめたものだ。
なお『悪妻に訊け 帰ってきたソクラテス』は、
2002年の文庫本刊行時に
『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』に
改題されている。

元々の著書が3冊(以上)になるので、
全部読み切ってからではなく、それぞれの章
(元々の著書1冊ごと)で感想を書こうと思う。
3冊それぞれの単行本のあとがき、文庫本の
あとがきも巻末に収録されているので、
それらも読んだ上で。

まずは第1章『帰ってきたソクラテス』。

ソクラテスのことは名前ぐらいしかしらず、
ソクラテスに関する本を読んだこともなく、
ソクラテスが一冊も書籍を残していない
ことさえ、最近まで知らなかった。
本書は、ソクラテスが現代日本にいたなら、
という仮定で、様々な人々と様々なお題で
ソクラテスが哲学対話を繰り広げる。
例えば、ジャーナリストと評論家と、
エコロジストと、フェミニストと、実業家と、
サラリーマンとその妻と、作家と、
といった具合に。
キリストと釈迦と、というのまである。
(これは痛快だった。)
そこにたまにプラトンやソクラテスの妻
クサンチッペも加わり、対話の幅を広げる。

きっと、池田が言いたいことを
ソクラテスに語らせているのだろう。
今まで考えもしなかった観点・解釈が
いくつもあって面白かった。
と同時に、それらは本当にわかっている
つもりで生きていて、実は何もわかっていない、
ということでもあった。

一度読んだだけでは、わからない文章もある。
例えば(p. 151)
「本当にわかるということは、
わかるということは自分がわかるという
ことではないとわかるということであるはず」。
これは手ごわかった。
何回も読み直して、やっと意味がわかった。
これ、カッコを付け足すとわかりやすくなる。

「本当にわかるということは、
『わかるということは
<自分がわかるということではない>
とわかる』
ということであるはず」

言っていることはわかったけど、
意味はまだ掴めていない。
どうやら「わかる」ということを
わかっていないようだ。

そんなことを考えていたら、余談だが
小学生の時に流行った言葉を思い出した。
「わかったか? わからなかったか?
わかったか わからなかったか言わなければ
わかったか わからなかったか、
わからないじゃないか」

単行本の刊行は 1994年だが、92年から
94年にかけて「新潮45」に連載されたもので、
文庫本になったのが、2002年。
文庫本のあとがきには、
「(10年前のものなので)いかにも古いと
感じられるものもいくつかあります」とあった。
書かれてから 30年以上経って読んだ私には、
インターネットが拡がる前だから、
多少時代を感じる面はあるけど、
それを「古い」とは感じなかった。
基本的に人間は変わっていないしね。
あえて言うなら、対話に登場する
ニュースキャスターのモデルは久米宏かな、と
思ったのが 90年代的かな。

ソクラテスのことは何も知らなかったけど、
なんだか好きになった。
(といっても池田ソクラテスだけど。)
このオッサンが何を語ったのか、
もっと知りたいと思った。
が、彼は文字に残さなかった。
それがまた、なんだか魅力を増す。
弟子のプラトンがソクラテスの対話を
書き残しているので、まずはプラトンの著書を
読むのが良いのかな。
まさか自分が、ギリシャ哲学の書物に
興味を持つとは思わなかったよ。


★★★★☆





2026.8.28

無敵のソクラテス
第二章 ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け

池田晶子 著




『無敵のソクラテス』の第二章は、1996年刊行の
『悪妻に訊け 帰ってきたソクラテス』
(2002年の文庫本刊行時に
『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』に改題)。

悪妻と言われるソクラテスの妻、クサンチッペ。
実際にどういう人だったのか、悪妻だったのか
どうかは分からないけど、こういう人でないと
ソクラテスの相手(妻)は務まらないのだろうと
思わせてくれる。

本章では、ソクラテス、あるいはクサンチッペの
口を借りて、池田はばっさばっさと色んな人を
勇ましいほどに切り捨てる。

柄谷行人(からたにこうじん)という
哲学者は今もご存命(85歳)だ。
彼は刊行時の96年なら、まだ50代だったわけだが、
本書で池田はそんなに批判してもいいの?
と思うほどに切り刻んでいる。
曰く
「真面目な人だとは思うよ。
まわりの太鼓持が崇める程度には
十分頭がいいし、ただ、いかんせん、
気が小さいんだなぁ」

それから映画『シンドラーのリスト』については、
ニーチェやハイデガーまで登場させて、批判する。
ニーチェには「愚劣極まる映画」とまで言わせる。
ソクラテスは、スピルバーグ監督を「分ってない」と切る。
監督やアカデミー賞(12部門にノミネート7部門で
受賞)の審査員が読んだら、どう思うのだろうね。
(『シンドラーのリスト』は、ずい分前にビデオで観た。
評判ほど感動しなかった、というか、ナチスとか
ユダヤ人とかをよくよく理解していないと、
この映画を100%理解するのは難しいと
感じたような記憶がある。)

一方で、小林秀雄や養老孟子、フランクル
(『夜と霧』の著者)、大江健三郎などのことは、
認めているので、誰でも彼でも批判するというわけではない。
批判するにしても、そのポイントは明確に書いてある。

前作『帰ってきたソクラテス』では実名でなく
職名などで書かれていたのであるが、本作では実名、
実際の人物を批判(あるいは承認)している。
あとがきにあるのだが、編集長から
「次は実名でいきましょう」と提案されたとき、
池田は「そんな下品なことはできません。
そこらへんの評論家じゃあるまいし、いやです」
と、抵抗したようだ。
(そこらへんの評論家の立場がない言い方やけど。)
しかし、編集長の
「大丈夫、あなたなら、絶対にできます」
という殺し文句にやられたようだ。
そして「その実名の方からの反論その他を
頂戴したことは、なぜか一度もない」と。
そのことについて、編集長曰く
「スッパリ切るなら血は出ないのですよ」。

本書も印象に残ったフレイズを書いておこう。

「考える」ということを、
「解釈する」ことだと思っている人が多い。
(p. 172)

僕らが誰か人を信頼するのは、その人の
考えがその人の生き方を裏切らず、
その人の生き方がその人の考えを示している、
そういうときだけだ。
(p. 175)

考えているのは脳だと、考えが考えているのさ。
(p. 183)

良寛さんの手紙、
〈災難に逢(あう)時節には 災難に逢が
よく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候
是(これ)はこれ災難をのがれる妙法〉
これを皆は一種の諦観だと読んでいるようだ。
人間の無力さ、諸行は無常だとね。
しかし、違うね。こういう考え方のどこが
諦観なんだ。こんなのはただの事実を
述べたにすぎん。
ほんとうの諦観というのはだな、
諦めることなんかできやしないのだという
考えに諦め続けることでしかないのだよ。
(p. 258)


★★★★☆







ひとりごと