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 2026年
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2026.1.2

新 年

無事に新しい年を迎えました。

2025年は3月に義母、8月に義父が亡くなり、
私の母は、11月に90歳になりました。
1995年12月24日(か25日だったと思う)に
上京した私は、東京生活30年を迎えました。

大晦日から元日まで大阪に帰省しておりました。
大晦日は、いつも家族が集まって
ワイワイと騒いでいましたが、父と姉がいなくなり、
少しずつ人数が減っています。
90歳の母が、いつまで元気でいられるか
分かりませんが、母がいなくなったら、
正月を大阪で迎えることもなくなるのかなと思います。

自分の人生も、後半戦だとしみじみ思います。
残りの人生を楽しく、笑って過ごしたいと思います。
今年は、2年ほど更新をサボっている
YouTube(ソロ・ギター)を再開する予定です。

本年もよろしくお願い申し上げます。





2026.2.3

詐欺電話

12月に和歌山県警を名乗る男から電話があった。
もちろん詐欺だ。
今日は総務省を名乗る男から電話があったよ。
発信元は 090 で始まる番号だけど、
繋がった時に「プー」という国際電話の音がしたので
その瞬間に詐欺だと思った。

なんでも私がドコモショップで契約した携帯電話が
違法な通信に使われているというのだ。

「携帯電話で違法な通信って何ですか?」と聞くと
「オンラインカジノ、アダルトサイト、ロマンス詐欺や
なんとかかんとか」で、被害者が出ているという。
ロマンス詐欺って……。

「それは私ではない」というと、
自分ではない証明をしないと2時間後に
私名義の全ての通信手段を止めることになる、という。

興味本位でしばらく話しに付き合っていたが、
めんどくさくなってきたので「今、急用があるので
折り返します。電話番号を教えてください」
と言うと相手は「03-3604-2000」と応えた。

電話を切ったあと、その電話番号を
検索すると、なんと!
「リカちゃん電話」の番号だったぜ!





2026.2.11

フルマラソン 6時間を切れるのか(1)

昨年11月2度目のフルマラソンを終えた際、
あまりの足の痛さに、「もうフルマラソンは
いいや」と思ったのだが、結局、今年も走ろうと思っている。
今年も6時間切りを目指して。

昨年はマラソンについてのタイトルが
「フルマラソン 6時間切りへの道」だったのだけど、
今年は「6時間を切れるのか」とすでに弱気です。(汗)
なにしろ、昨年の経験で6時間を切ることが
私にとってはかなりハードなことであると分かったので。

11月にフルマラソン完走後も年内は何度か
ジョギングをしたのだけど、寒さを言い訳に
1月は一度も走らなかった。
これでは昨年と同じことになる、と思い
2月1日から練習を始めた。

まず4キロ走り、毎回1キロずつ増やして、
昨日は8キロまで来た。
今週中に 10キロを走り、来週からは
週に3回(理想は4回)最低10キロ以上を
走るつもりだ。
7月から9月は、暑さのため練習量が
減るだろうが、ウォーキングもはさみながら
今年1年間で合計1000キロを目指す。
(本日現在、ジョギング 31キロ、
ウォーキング 10キロ、計41キロ、あと 959キロ!)

フルマラソンは、やはり制限時間7時間の
大会になってしまうので、11月1日の
富山マラソンにしようと思う。
その前に妻が 10キロマラソンを
走りたいというので4月4日に開催される
「新横浜鶴見川マラソン」の10キロに
エントリーしたよ。
過去の練習での10キロの記録が
83分だったので 目標は 80分切り。

10キロ(1万メートル)の世界記録は、
26分台なので、80分というのは、
かなり遅いのだけど、それでも私にはしんどいよ。





2026.2.13

いとしのエリー

どういうわけか「サザンオールスタース」の
ギタリストとして、ステージに立っていた。
1曲目は『いとしのエリー』。
イントロのコーラスのバックで、
ギターはアルペジオを弾かねばならない。

私が抱えているのは、新しいタイプのギターで、
通常の演奏方法とは異なっている。
通常、ギターのコードはアルファベットで表記される。
たとえば「C」や「Am」という風に。
ところがそのギター用の楽譜には
記号が書かれていたんだ。
「田」とか「△」とか。

『いとしのエリー』の出だしのコードは
「田」と書かれていた。
これは左手の指をその形にして
ギターに当てることによって、そのコードが
鳴る仕組みになっている(どんなんやねん)。
が、私はその新しいギターの演奏方法を
マスターしないままにステージに上がってしまった。

『いとしのエリー』が始まった。
私はなんとかアルペジオで音を出そうとするが、
途切れ途切れの音しか出せない。
ステージの他のメンバーを見ると、
私のことはおかまいなしに演奏を続けている。

やばい。
そう思いながら、そういえばサザンの
デビュー時のギタリスト、大森隆志は途中で
脱退したな、なんて考えている。

そこで目が覚めた。

なんでサザンやねん。
どんなギターやねん。


余談。
大森隆志のサザン在籍時代、1982年の
ソロ・アルバム『真夜中のギター・ボーイ』には
エリック・クラプトン (Derek and the Dominos) の
『Why Does Love Got to Be So Sad ?』の
日本語カバーが収められていた。
本家の邦題は『恋は悲しきもの』だが、
大森ヴァージョンでは、『情熱のラスト・キッス』と
タイトルも改められている。
ヴォーカルにもう少しパンチがあれば、と思うが
本家よりテンポを落としたこのカバーは、
大森のオリジナリティが感じられ、結構好きだった。





2026.3.3

奈良レポート(その1)

私の育った大阪府柏原市は、奈良県との
県境にあり、柏原駅から奈良駅までは、
JR大和路線で30分もかからない。
子供の頃は、何度も奈良に遊びに行っているし、
大人になってからも、奈良のライヴハウスに出演したり、
奈良公園までドライブしたりしたものだ。
そういえば、姉は奈良の玉姫殿で結婚式を挙げた。
結婚相手が奈良の人だった。
中学生の頃は、信貴山(奈良県生駒郡)に
何度も歩いて登ったものだ。
そんな風に近いこともあり、奈良県へは
泊りがけで旅行に行くということはなかった。

その奈良に先週三泊してきた。
一日目は、大阪の母のいる老人ホームに
面会に行き、夜は奈良在住の友人(元々は
柏原の人)に会いに王寺へ行った。
たぶん彼に会ったのは、35年ぶりぐらいではないかと思う。
その間、彼とは電話もメールのやり取りも
なかったので、会うとどんな感じだろうと思っていたが、
話していると、なんだか当時の感覚が思い出され、
不思議な体験だった。

その日は、JR奈良駅前のホテルにひとりで宿泊。
翌日、14時に妻が奈良駅に到着するまで、
ひとりで奈良観光。
JR奈良駅から近鉄奈良駅まで歩いた。
中学生ぐらいの頃、何度も歩いた覚えがあるのだけど、
なんとなく記憶していた感じとは 全く違っていた。
もう45年ぐらい前のことなので、記憶も曖昧だが、
おそらく街も大きく様変わりしているんだろう。

金曜日ということもあってか、観光客は
東京の浅草のように多くはなく、かといって
寂しいほど人がいないわけでもなく
ちょうど良い感じだった。
外国人はそれなりにいたけれど、
あまり中国語は聞こえてこなかった。
やはり一時期より中国の観光客は
減っているのだろうか。

妻と合流した後、レンタカーを借りて
その日の宿である室生(宇陀市)へ向かった。
(つづく)





2026.4.4

フルマラソン 6時間を切れるのか(2)
― 10キロマラソンに出場 ―


秋のフルマラソンに向けて、
2月1日から練習を開始した。
月に100キロ以上は走りたいと思うのだが、
走る気満々の日に雨が降ったりして、
結局走った距離は、2月は 85キロ、
3月は 79キロ、合計 164キロと
目標の月 100キロ以上を達成していない。
目標に掲げた「年内に1000キロ」を達成するには、
もう少し練習を増やす必要がある。

3ケ月ほど前のこと、妻が「10キロマラソンを
走りたい」と言い出した。
私は普段の練習でも 10キロを走っていたので
10キロの大会に出ようと思ったことはなかったが、
付き合いで申込むことにした。

そんなこともあって、2月の2週目からは、
週に一度は、妻と走っている。
今まで妻は、私ほどは走っていないので、
最初は、まず10キロの距離に慣れること、
10キロ止まらずに動き続けることを
目的に10キロのウォーキングから始め、
徐々に走る距離を増やし、先週初めて
一緒に10キロを走破した。
そのタイムが、85分。
これは私がかなり走ってから達成したタイムで
それほど練習を重ねていない妻が
いきなり85分で走ったことに驚いた。

妻は1年ほど前からあるジムに通っており
そこのトレーニングがかなり効いているようだ。
1年前には「ひざが痛い」と言って、
漢方薬にまで手を出していたのに
今はひざは全く問題がないという。
一緒に走っていてもよく分かるほど、
その成長ぶりには驚く。
なにしろ15年前には、10キロに100分近く
かかっていた人が 85分なのだ。
しかも61歳。
40代の記録を60代で塗り替えたので、
一部の人には「奇跡の人」と呼ばれている。
(ほんまか。)

その10キロマラソンの大会が今日だった。
新横浜鶴見川マラソン、10キロの部。

この大会は、フルマラソン、30キロの部、
ハーフマラソン、10キロの部がある。
コースは、鶴見川の堤防を走る。



数日前から天気予報では
今日の新横浜は雨で イヤだなぁと思っていた。

10キロの部のスタートは11時。
今朝の天気予報では、新横浜は11時から雨。
なんとか昼過ぎまでもってくれれば良いなと
思いながら、10時過ぎに新横浜に着くと
すでに雨が降っていた。
昨年の福岡マラソンも雨にあった。
3回マラソンに出て、2回が雨というのも
どうやねん、と思うが仕方がない。

そんなに大勢が参加する大会ではないので、
受付や荷物置場も簡易的な印象。
仮設トイレもない。

私が天候以上に心配するのは、
「スタート後に便意を催したらどうしよう問題」。

新横浜駅でトイレに行ってみるが、
まだ機が熟していないようで出ない。
うーむ、これはスタート後に来よるんちゃうかと
不安がよぎる。
スタート(受付)地点は、駅から10分ほど
歩いた河原。
雨の中、傘をさしての受付。
受付を済ませて、準備を始めたとき、
ヤツ(便意)がやって来た。

見渡したところ、トイレはない。
スタッフに尋ねる。
「お手洗いはどこですか?」
公衆トイレの場所を聞き、向かう。
スタート20分前を切っている。
やばい、やばい。

用を足し軽くなった(?)身体で、
スタート地点に戻る。
そうこうするうちに雨が上がった。

雨の中、傘をさしての準備で、
ろくに準備運動も出来ないまま
スタート時間を迎えてしまった。
完全な準備とは言い難い厳しいスタートだ。

10キロの部に出場したのは、数十人という感じだった。
(結果を見ると 85人とあったが、それはたぶん
申込者数で、雨天のため欠場した人が
20人位はいたのではないかと思う。)

私と妻は、結構、前の方でスタートしたが、
みるみるうちに数十人に追い抜かれた。
それは、分かっていたことだけれど。

4キロ地点で時計を見ると30分を切っていた。
1キロ7分台。
かなり速いペースだ。
(私にとってであって、ほかの人に比べると遅いです。)

河川敷の桜も悪くないが、それを楽しめるほどの
精神的余裕はない。

途中、パラパラと雨が降る。
6キロぐらいで、右ひざの裏(太ももの下の方)が
張り出す。
福岡マラソンの悪夢が蘇る。
これがひどくなると、もう歩いているようなペースでしか
走れなくなる。

幸い、それ以上深刻にはならなかったが、
左足のひざも良くない。

7~8キロあたりで徐々に雨が強くなり、
9キロからはそこそこ本降りっぽく降り出した。

最後まで、妻とは抜きつつ抜かれつつで、
ふたり並んでゴール。
何故か、計測された記録は妻の方が2秒早かったけど。
まさか、妻と同じタイムになるとは
ひと月前には思いもよらないことだった。
なめたらあかん。

そして、肝心のタイムだが。



77分49秒!
本番までは 80分切るのは、難しいと思っていたが、
練習の記録を4分30秒ほど縮める結果。

このペースで42・195キロを走ると、
5時間30分で走れるのだが、それはまだまだ無理。
フルマラソンは、そんなに甘くない。
今日も走っている最中、痛む足を気にしながら
「やっぱりフルマラソンはやめとこかな」などと
弱気な自分の登場があったのでした。

さて、どうなるのでしょう。
とりあえず、10キロ 新記録は良かった。





2026.4.6

フルマラソン 6時間を切れるのか(3)
筋肉痛とシューズ


記録魔の私は、マラソンの練習に関しても
毎回記録を付けている。
走った距離と時間、簡単な感想など。

一昨年、マラソンを走ろうと思うまで、
人生で長距離を走ろうなどと思ったことのなかった私は、
62歳にして人生で初めて10キロを走った。
2024年8月23日のことだ。
同年7月15日に初めてマラソンの練習を始めた。
練習の1日目は10分(1キロほど)しか走れなったが、
約5週間で10キロ連続で走ることができた。
そのタイムは、96分00秒!
1キロあたり、9分36秒もかかっている。

一昨日の 10キロマラソンでは、77分49秒で
ゴールしたので、この1年7ヵ月ほどで
18分記録を更新したことになる。
これは、スタートのレベルが低いということだけなのだが。
とても地味な進歩でも、60歳を過ぎて、
自分の伸びしろを感じられることは、ラッキーなことだ。

今年は、2~3月の練習で9回、10キロ以上の
距離を走ったが、一度も筋肉痛にはなっていない。
が、昨日は(今も)少し筋肉痛があったんだ。

その9回の10キロのタイムは、82分台から
94分台とバラバラ。
まだまだ初心者の私は走り出して見ないと
その日のペースが分からないんだ。
82分台で走ったときも翌日に筋肉痛は
感じなかったのに、昨日は違った。

今まで走ったことのない、77分台で走ったというのが、
その原因であることは間違いない。
思うにこれは、
(1)今まで使っていなかった筋肉を使った
(2)今までも使っていた筋肉を今まで以上の
使い方をした
のどちらか、あるいは両方だろうと思う。

筋肉痛を感じるのは、2カ所。
(A)右足の太ももの裏
(B)股関節の内側の奥深いところの筋肉。

(A)は走っている最中に痛み出すことと
関連があると思う。
(B)は、開脚をした時や太ももに力を入れた時に
感じる筋肉痛で、普通の姿勢だと分からない。

この症状が、正常なことなのか、走り方が悪く
余計な力がかかっていたり、無意識にどこかを
かばいながら走ってるせいなのかは分からない。

100キロ・ウォークの練習で 30キロ歩いて、
腰が痛くなった時、整体の先生に股関節が
硬いせいだと言われたことを思い出す。
腰が痛いのは、腰のせいだと思い込んでいたので、
驚いた覚えがある。
長距離を歩いた際、股関節の硬さをカバーするために、
無意識に腰をそらして歩いているのが、原因だった。

まあ、まだまだ課題が多いです。

ところで、昨年5月に買ったランニング用のシューズ、
アルトラの「EXPERIENCE FLOW」が、
そろそろ寿命なので、新しい靴をおろした。
今度のは同じアルトラの「ESCALANTE 3」。
これは、昨年「EXPERIENCE FLOW」を買った後、
安く売っているのを見つけて思わずポチってしまったもの。

「EXPERIENCE FLOW」が、ドロップ(かかとと
つま先の高さの差)が4ミリあるのに対し、
「ESCALANTE 3」はゼロドロップ。
かかととつま先がフラットなのだ。

ほとんどシューズは、かかとが高くなっているのだが、
それには、プラス面とマイナス面がある。
私は、ゼロドロップで走りたいと思い、アルトラを
選んだのだが、いきなりゼロドロップのシューズで
長距離を走ると、慣れていないため、
足を故障することがある。
それで、入門として4ミリのドロップのシューズを
買ったわけだ。
そのドロップ4ミリの「EXPERIENCE FLOW」で
昨年のフルマラソンを走り、練習も合わせると
650キロぐらい走った。
シューズの寿命は、一般的に500~700キロ程度と
言われているし、それぐらい走れば、
そろそろゼロドロップで走っても大丈夫だろうと、
3週間ほど前に「ESCALANTE 3」をおろしたわけだ。

このシューズが、前の「EXPERIENCE FLOW」よりも
足にフィットしている。
25グラム重いのだけど、気にならない。
履いたことがないけれど、地下足袋は
こんな感じなのではないかと思う。
ちょっと厚手の靴下を履いているような感じとも言える。
足の裏で地面を直接感じることができる。
ドロップが10ミリ以上あるような厚底のシューズでは、
こんな風に地面を感じることが出来ない。

もしかしたら、今回の10キロマラソンによる筋肉痛は、
ペースが速かったことと合わせて、ゼロドロップで
走ったことも関係あるのかもしれない。

ドロップのあるシューズや、底の厚いシューズでは、
足の負担を軽くし、自分の脚の力ではなく、
シューズのおかげで走れている部分もあるらしいが、
ゼロドロップでは、人間本来の脚力で走ることになる。

マラソンやウォーキングを始めた目的のひとつは、
健康寿命を伸ばすため、認知症にならないためだ。
人間本来の脚力が付くというのは、その目的には
望ましいことだ。
せっかく歩いたり、走ったりしてもシューズの
力に頼っていたのでは、もったいないもんな。


新しくおろした ALTRA ESCALANTE 3





色が選べなかったので、普段は選ばない
こんな赤色だが、意外と気に入っている。

役目を終えた ALTRA EXPERIENCE FLOW。



右足の方が、かかと部の底の減りが明らかに激しい。



右足の方に力がかかっているということだろうか。





2026.4.10

4月10日

今日は父・正一郎(せいいちろう)の命日。
5年前の 4月10日に父は他界した。
90歳と 9か月と 4日、長生きだった。

父が亡くなってしばらくは、今までになく父のことを
想った覚えがあるが、5年も経つと父がいないことにも
慣れてしまうというのか、思い出すこと、
考えることがめっきりと少なくなった。
こんな言い方は、どうかと思うが、
命日ぐらいは、父のことを偲ぶことにしようと
2021年に書いた父の死に関するエントリーを
読み直し、これを書いている。
小学生のころ父に宛てた「プラモデルを一緒に
買いに行きたい」という手紙のこと
は、
読み返すまですっかり忘れていたが、
我ながらいじらしいやないか。
お父ちゃん、どう思ったんかな。

父と5歳違いの母は、昨年11月に90歳になった。
家族が分からないほどではないが、少しずつ
認知症が進んでいて、今は実家近くの老人ホームにいる。
母は、この5年間に夫と姉と娘を失った。
特に娘(私の姉)の死(一昨年10月/享年64)は、
大変ショックであったようで、いまだに娘のことを
話しだすと涙する。
父は、母のように感情を露わにする人ではなかったが、
生前に娘を失っていたら、どうだったんだろうか、
と考えても仕方のないことに考えが巡る。





2026.4.11

フルマラソン 6時間を切れるのか(4)
富山マラソンにエントリー!


3年連続3回目のフルマラソンは、
11月1日開催される富山マラソンに申込んだ。

2024年に富山マラソン、2025年に福岡マラソンと
来たので、また別の土地でのマラソンに出場しても
良いのだが、とにかく制限時間7時間の大会が少ない。
ほとんどが6時間か、もっと短いものもある。
また、秋のマラソンは今の段階では、
まだ開催日等、オープンになっていないものも多い。
ならば、申込受付の始まった富山で
ええんちゃうか、と思った次第である。
一度走っているので、大体感じはつかめているし、
先着順なので、申込んでしまえば、
福岡のように抽選の結果を待つこともない。
そして、食べるものが美味い。(これ重要)

先週の新横浜での10キロマラソンで、
10キロの記録を更新したのは良かったけれど、
数日、脚に疲労を感じたので、走ることを控えていた。
昨日、ようやく中5日開けて10キロ走ったのだけど、
先週の本番のようには走れなかった。
先週の10キロマラソンは1キロ7分46秒だったのに、
昨日は、9分7秒。
1分20秒以上遅いやん。
本当に先週のコースは、10キロあったんやろかと
疑いたくなるほどだ。
まあ、昨日のコースが10キロより長いという
可能性もゼロではないけど。
にしても、そんなに大きな誤差はないだろう。

いずれにしろ、まるで走るたびに違う身体のようで
安定したペースを作ることができないし、
今のところ、そんなことできそうもない。
素人ならそんなもんなのかな。

さて、フルマラソン当日まで、あと 203日。
6時間なんて切ることができるのでしょうか。





2026.4.17

糖尿病眼手帳

5~6年ぐらい前から、徐々に血糖値が高くなりだした。
両親ともに糖尿病だったので、遺伝の可能性も
あったが、糖尿病と診断されたわけでもなく、
それほど気にはしていなかった。
血糖値より尿酸値や中性脂肪、コレステロール値の
方が正常値を超えており、問題だったということもある。

糖尿病か否かを診るのに HbA1c(ヘモグロビン
エーワンシー)という数値がある。
正常値は 5・7% 未満、6・5% 以上は
医学的には糖尿病だそうだ。
HbA1cは、血液検査で測るのだが、
その時の血糖値ではなく、過去1~2か月間の
血糖値を反映しているので、その日の食事や
運動などに影響を受けないらしい。

で、以前は、6未満だった HbA1c が 6年前に
6を超えた。
それでも6前後をキープしており、糖尿病予備軍の
ような感じだったのだが、ついに 6・5 を超えた。
最近の数値は、次の通りである。

血液検査の日付 HbA1c
2023/10/03   6・3
2023/11/27   6・4
2024/07/26   6・4
2024/12/25   6・7
2025/03/27   6・5
2025/07/14   6・6
2025/11/04   6・3
2026/04/03   6・6

2カ月に一度、尿酸値を下げる薬をもらいに
某クリニックに通っているのだけれど、
そこで尿酸値を測るために検査をしてもらっている。
薬のおかげで尿酸値は安定しているので、
いつも間にか HbA1c を観るための検査のように
なってしまった。
HbA1c が、6・5 を超えたときに
そこの医師に「糖尿病です」と言われた。

まだ自力でなんとかなる範囲だからだろうか、
すぐに治療が必要という訳ではなく、
薬も処方されていない。
データを見れば分かる通り、昨年11月には
一度 6・5 未満に下がっているしね。
しかし、今月の数値 6・6 を見て医師は
眼の検査をしてくるようにと行った。

糖尿病の深刻な合併症のひとつに
「糖尿病網膜症」というのがある。
最後には失明する怖い病気だ。
映画『国宝』でも、渡辺演じる 花井半次郎 が、
ほとんど視力を失うことが描かれていたよね。

「糖尿病網膜症」は、糖尿病の影響で、
眼球の中の血管が切れたり、詰まったりする病気。
初期には自覚症状がないので、検査をするしかない。

それで、クリニックの医師は私に「一度、
眼科の検査を受けなさい」と言ったわけだ。
実は昨年にも同じことを言われていたので、
これは行っておいた方が良いな、と思い、
昨日、検査を受けてきた。

63歳にして、人生初眼科受診。
健康診断での視力の検査以外、眼の検査なんて
受けたことがないので、眼に鋭利なものを
突き付けられたりしたら、怖いなと思いながら
眼科に向かったが、全然怖くも痛くもなかった。

いくつかの検査を受けて、合計1時間ぐらい
かかったけど、検査の結果は(今のところ)異常なし。
ただし、HbA1c の数値が正常値に戻らないのであれば、
半年に一度は、検査を受けた方がよいとのことで、
「糖尿病眼手帳」なるものを頂いた。



「糖尿病眼」ってなんかスゴイ呼び方やな。
「糖尿病・眼手帳」かしらね。

4年前に発症した飛蚊症のこともついでに聞いたが、
それは単に加齢のことで、眼球の病気由来では
ないとのこと。
まあ、眼球の病気やったら、4年もほっといたら
えらいこっちゃ。

今は、血糖値を上げないよう食事に気を付けて
いるのだけど、血糖値は見えないし、
感じないので、なかなか難しい。
11月のフルマラソンに向けて、体重も落としたいので、
ちょうど良いけどな。

眼科の検査では、眼にフラッシュを当てたり、
いくつかの検査があったので、
何の時に言われたのかは失念したけれど、
「5時間ほど見えにくいです」と言われた。
検査のあと、外に出て驚いた。
昨日はとても天気が良かったのだけど、
とにかくまぶしい!
もう眼を開けていられないほど。
太陽がまぶしいのではなく、陽の光が反射する
道路やなにもかもがまぶしくて驚いた。
そして、普段以上に小さな文字が見えにくかった。





2026.4.26

ザ・ノンフィクション

年商100億の CEO の座を捨て、2022年に
インドで得度した経歴の持ち主、小野龍光さん。
会社を辞めたあとのインド旅行で、
インド仏教の中心人物、佐々井秀嶺(しゅうれい)
上人に会い、「坊主になれ」と勧められ得度された。

今日 14時からフジテレビで、
『ザ・ノンフィクション』が放送された。
タイトルは「100億円男の人生相談
~満たされない心の行方~」。
小野龍光さんのドキュメンタリーだ。

龍光さんとは、妻の仕事を通じて、
数回お会いしたことがあった、
今日、家から歩いて10分ほどのところで、
そのテレビ番組を龍光さんご本人と一緒に
観るという機会を得た。
主催をしたのは、龍光さんの影響で
やはりインドで得度した経歴を持つ福田駿さん。
福田さんも番組に登場するのだが、
得度した理由が「面白そう」だったという、
これまた稀有な若者。

番組中、昨年、龍光さんがインドに行かれ、
師匠・佐々井上人に会うシーンがあるのだが、
そのシーンが素晴らしい。
何かを超越している世界だ。
佐々井上人については、今年本を読んだので、
少しだけ知識があったのも良かったが、
龍光さんと佐々井上人おふたりのやり取りに
俗人の一般的社会通念をぶっ壊される体験だ。

昨年の5月から龍光さんを取材し続け、
50分にまとめるのは大変な作業だったと思うが、
その取材と編集作業をする裏方の方々は
通常、表には出てこない。
今日は、ディレクターの牧野由佳さんも
来られていたので、そういう面にも話しが及んだ。
また、龍光さんの得度のきっかけになったご友人や
インドで得度された方、数名もお見えになっていて、
番組だけでは分からない、特別な話しを
聴くことができ、本当に貴重な機会だった。

そして、前述の「得度した理由が面白そう」の
意味も聞くことができた。
番組は 50分だったけれど、それ以上の内容でした。

テレビのドキュメンタリーをその主人公の方と
一緒に観るだけでも、そうそうあることじゃないのに
それが家の近くで、たった20人ほどの集まりだなんて
不思議なご縁のイベントでした。


「ノンフィクション」番組サイト


[ 関連エントリー ]
2026.1.2 闘う菩薩道 我が使命いまだ尽きず 佐々井秀嶺 著





2026.5.20

空き缶と加齢臭

夕方、地下鉄に乗っていた時のこと。
椅子の席はほぼ埋まっていて、立っている人が
パラパラいる程度の混みようだった。

麻布十番駅に着くと数人の人が、
降りるために立ち上がった。
私の隣りに座っていた高校生らしき
若い女性も立ち上がった。
が、出口には向かわず、向かいの席に
向かって歩き、かがんだ。

一瞬、座るように見えたので、
私は自分の隣りがイヤで席を移ったのかと思った。
えっ? オレ、そんなに臭い?
よくもまあ、あのわずな間(時間にして1秒程度)に
そんな考えが浮かぶものだと我ながら感心したが、
件の彼女がかがんだのは、置きっぱなしにされた
缶コーヒーの空き缶を拾うためだった。

その空き缶を手にした彼女は、さっそうと
ホームへと降りて行ったのでした。
カッコイイ。

私は、読書をしていたこともあり、
自分の前の席にどんな人が座っていたかも
見ていなかったし、足もとの空き缶にも
全く気付いていなかった。

かたや他人がほったらかしにした空き缶を
拾う女子学生。
かたやそんなことには気付かず、
自分の加齢臭を気にするおっさん。
嗚呼、世界が平和でありますように。





2026.6.10

5年ぶりの内視鏡検査

昨日、5年ぶりに胃と大腸の内視鏡検査を受けた。
前回は、2021年3月。
きっかけは忘れていたけれど、当時のエントリーを
読むと、胃の調子が良くないので、調べておこうと
思い立ち、ついでに大腸も検査したのだった。

その検査では、大腸にポリープが2つ見つかり、
その場で切除した。
検査の結果、幸い良性のもので問題はなかったが、
ポリープはまたできるだろうし、それらが
いつ悪性に化けるか分からないので、
1年後にまた検査するようにと、医者に言われた。

一昨年10月、姉が大腸癌で死んだ。
前年の春に癌が見つかった時には、
ステージ4で手術もできない状況だった。

また内視鏡検査を検査を受けなきゃと
思いながら、5年も経ってしまった。
その間に姉が逝ってしまったわけだ。
しかも大腸癌で。
ちなみに日本人の癌の罹患数トップは大腸癌。

前回は、自宅から1時間かけて横浜の
クリニック迄行き、検査を受けた。
当日は下剤を飲んでいるので、移動中に
危ない目にあったこともあり、今回は
自宅から歩いて5分のクリニックで、
検査を受けることにした。

大腸検査のためには、大腸を空っぽに
しておく必要があるので、前日から準備が始まる。
前回は、朝からの検査だったため、
夜中に何度もトイレに通った記憶がある。
そんなことも忘れていたのだけど、なぜか
今回は15時からの検査を予約していた。

一昨日21時ごろに「センノシド」(下剤)を2錠飲んだ。
「センノシド」はたぶん、バリウム検査をしたあとに
バリウムを排出するために何度か飲んだことのある
下剤だと思う。
その経験では、大体 服用から4~5時間程度で
便意を催し、数回に分けてバリウム排便された。
しかし、今回は服用から12時間、朝9時になっても
全く便意がなかった。
ちょっと心配。

朝、10時ごろから洗腸剤を飲み始めた。
「モビプレップ」という粉を2リットルの
水に溶かして2時間ほどかけて飲むのだ。
「モビプレップ」を溶かした水は、腸で吸収されないので
そのまま大腸へ行き、腸の中の便を
水の力で押し出すという訳だ。

モビプレップをコップ2杯飲んだら、
水をコップ1杯飲む。
それを2時間ほど繰り返す。

前夜に飲んだ下剤は効いていないが、
そのうち便意を催すだろうと思って飲み始めた。

飲み始めて1時間、段々お腹が張って来たものの
中々便意を催さない。
すでにモビプレップと水を合わせて1・5リットルを飲んだ。
ちょっと心配になってきたが、
そうこうしているうちにようやく来ました。

それからは、数回トイレに往復しながら
2時間半ほどでモビプレップを飲み終えた。
その頃には、お尻から出てくるのはほぼ透明な水である。
これで、胃も腸も空っぽになったわけで、
当然お腹がペコペコだが、検査が終わるまでは
何も食べてはいけない。
そして、まだ水の便が残っている可能性があるので、
油断はできない状況だ。

家を出るころには、一応全部出たかな、という
感触になっていた。

検査は、15時からの予約だったが、
少し早めに着いて、準備を済まし、
検査台の横になったときには、15時前だった。

予約の際に「その日(私が希望した6月9日)は、
女医が担当ですが、構いませんか?」と訊かれた。
その質問をするということは、女医さんにお尻の穴を
見られることに抵抗がある男性がいるということだろう。
むしろ喜ぶ男性もいるかも知れないが、
それはそれで別の問題をはらんでいる可能性がある。
私は、別に男性でも女性でも構わないと思って
そのまま予約した。

検査台に横になって準備を進めていると、
女医さんが現れた。
マスクをしているので顔ははっきりとは分からないが
まだ若そう(30歳代?)で美人っぽい。
勝手におばちゃんの女医さんを予想していた私は、
急にちょっと恥ずかしさが込み上げてきた。

口から紙コップで少量の液体を飲み
鼻から何か薬品を入れられ、腕に点滴を繋がれた。
それぞれ説明があったが、何と言っているか
はっきりとは聞き取れず。
点滴だけ「これなんですか?」と聞いたら
「麻酔と痛み止めです」とのこと。
先生が「眠くなりますが、個人差があります」と
言ったのは覚えているが、その後の記憶はない。

かすかな意識の中で、お尻で何かされていると
感じたら、それがすっと消えた。
意識がはっきりした時には全てが終わっていた。

それからもしばらく(たぶん数十分)は、
麻酔が効いているので横になったまま
ウトウトしていた。
気分が悪くなることはなかった。
5年前の方が、検査の後フラフラだった
ような気がする。

着替えてから、先生に結果を聞いた。
胃の方は、特に問題はなかったが、胃びらん
(赤くなった状態)が認められたので、
検査のために組織を採ったとのこと。
大腸の方は、ポリープが2つ見つかったので
切除したとのこと。
これは5年前と同じだ。
ポリープは、5年間でこの2つしかできなかったと
いうことだろうか。
それにしては小さいので、できては自然に消えを
繰り返しているのかな。
写真をもらったが、胃も腸も壁面は、
きれいなピンク色をしていた。

全てが終わって時計を見ると4時半ごろだったので、
全部で 90分程度要したことになる。

胃の組織と大腸のポリープの検査の結果は
2週間後に判る。
これで、何も問題がなければ、またしばらくは安心。
胃と大腸に関してだけだけどね。

検査費用は、手術(ポリープ切除)も含めて
健康保険があるので、31,900円。
(総診療費用は 106,320円)
保険外費用(着替えかな?)が 1,000円で
総支払額は、32,900円でした。





2026.6.13

HbA1c が 下がった!

HbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)の
正常値は 5・7% 未満で、6・5% 以上は
医学的には糖尿病だそうだ。

この5年ほど、私の HbA1c は、6・0 を
超えており、一昨年ついに 6・5 を超えた。
それでも、特に治療もせず、食事にも大して
注意を払っていなかったが、4月から
真面目に取り組むことにした。
これ以上 悪くなって治療が必要になると、
食事の制限も厳しくなるし、「糖尿病網膜症」の
リスクも上がるからね。

YouTube を調べていると、糖尿病予防の
情報が山ほど出てくる。
まずは食べる順番。
いきなり白米や食パンを食べてはいけない。
野菜や肉・肴(たんぱく質)から先に食べることで
血糖値の急上昇を防ぐことができる。
食事の前に豆乳にリンゴ酢を混ぜたものを
飲んだり、整腸のためのサプリ(繊維質の
含まれているもの)を飲んだりしている。
これも血糖値の急上昇を防ぐためだ。
でも、結構忘れてしまうこともあるねんけど。

白米と玄米を混ぜて炊くことにした。
白米より玄米の方が糖の吸収が ゆるやかなんだ。
料理に砂糖を使うのをやめて「マービー」
(還元麦芽糖)という低カロリーの甘味料にした。

甘いものは、本当に食べたい時以外、
極力食べないことにした。(めったにない)

もともと清涼飲料水はほとんど飲まなかったけど、
ポカリスエットのようなもの、微糖の缶コーヒー、
野菜ジュースなど糖分の入っている飲み物は
一切飲まないことにした。

もう何年もビールは、ほとんど飲まないくなって
いたけど、ビールと日本酒は飲まないことにした。
本当はワインもやめた方が良いのだけど、
とりあえずは、良いことに。

そんなこんなの工夫を1ヵ月ほど続けたら、
HbA1c が、なんと 6・6 から 6・0 に下がった。

2026/04/03  6・6
↓
2026/05/18  6・0

成果が表れて嬉しい。
もっと頑張ろうという気になるね。
5・7% 未満を目指そう。

血中脂質も改善されている。
LDL コレステロールが大体140 から 160 ぐらい
だったのが、120 前後まで下がってきている。
(正常値は、119以下。)
これは、食生活だけではなく、ジョギングも
大いに関係していると思う。

生活習慣病とは、良く言ったもので、
ホンマに生活習慣で改善できるんやな。

最近、ちょっと健康オタク気味です。





2026.7.5

フルマラソン 6時間を切れるのか(5)

今年のチャレンジの一つとして、
ウォーキングとジョギング合わせて、
1年間で 1000キロを目標にした。
先日、ようやく 500キロを超えた。
ウォーキングが 103キロ、ジョギングが 400キロだ。

実は、ウォーキングは入れないで、
ジョギングだけで 1000キロ達成を目指している。
4月の半ばから5月の半ばまでは調子よく、
1か月間で 153キロを走った。
そのペースで進めば、今頃はジョギングだけで
600キロ近く走っていることになるのだけど
そんなに順調には進まない。
5月後半、韓国に行ったり(3泊)、
福井に行ったり(2泊)したあと、
いよいよ練習再開と思っていたときに、
軽いギックリ腰をやってしまった。
そんなこんなで、丸4週間開いてしまった。

ようやく6月17日に練習を再開。
毎回できれば 10キロ以上と思ってスタートするが、
どうも調子が出ずに、10キロ走らずに
やめてしまうことが増えた。
一昨日なんて全く力が出ず、2キロでやめてしまった。
夕方、また走る気になったので、8キロ走り、
その日の合計で 10キロは走ったけど。

そんな風なので、今のところフルマラソン
6時間切りは全く見えていない。

また、この時期、雨が多く走れない日もある。
ボチボチ暑くなってきたので、ジョギング中の
疲れというか ダルさも徐々に増してきた。
夏をどう乗り切るかが、11月の本番に
大きく影響すると思うが、当日まであと 119日。
はてさて。





2026.8.22

姉の誕生日

今日8月22日は、2歳上の姉の誕生日だ。
生きていれば、姉は今日で66歳になるはずだった。
やつは一昨年、64歳でこの世とおさらばした。
私にすれば、高齢の母をおいて、ひとりで
勝手に逝きやがった、という感じだった。
「ひとりで」とわざわざ書いたけど、逝く時は
いつだって誰だってひとりなのだけど。
ついでに生まれる時もね。

同じ8月生まれの私は、
今月姉と同じ歳64歳になった。
姉と同じ年齢になるなんて、
当たり前だけど人生で初めだ。
不思議というほどではないが、なるほど、と思う。
もしも親より長生きすることがあれば、
その時はまたそれなりの感慨があるのかも知れない。

姉は大阪で10年ほど前から、
高齢の両親と一緒に暮らし始めた。
彼女の経済的なこともあっただろうが、
二度の離婚を経て、子供たちふたりは
独立した後のことで、最後の親孝行と
思ったのかも知れない。

私は長男なのに、好き勝手に生きていて、
東京在住ということもあるが、
仮に大阪にいたとしても両親と同居など
考えられなかったので、姉が両親との同居を
選んだのはありがたかった。

しかし、これが上手くいかなかった。
父とは良かったが、母と難しかった。
かなりのストレスであったと思う。
私は、近くにアパートでも借りて
別居することを提案したが、姉は
「家を出るときは親子の縁を切るときだ」と、
意味不明な覚悟を決めていた。
父は5年前に他界し、それからは
母と二人暮らしになった。

3年前、62歳で癌が見つかった姉は、
それから1年半で見事に人生を終えた。
見事というのは、驚くほど冷静に
全くその寿命を受け入れたことだ。
いや、もしかしたら、誰にも知れず
泣き明かした夜があったのかも知れない。
否、あったのだろう。
でも私の知る限り、早々に癌・余命の
告知を受け入れたように見えた。
私なら、生への執着が強い分、
もっとじたばたしたような気がする。

10月で、2年になる。
早い。
あっという間に2年。

やはり女性は年齢を気にするのか、
50歳を超えた頃から、姉は(冗談で)
私のことを兄と呼ぶことがあった。
メールには「兄上」と書いてきていたよ。
私が来年、65歳の誕生日を迎えたら
本当に兄になってしまう(のか?)。





2026.9.13

母が死んだ

9月8日未明、母が死んだ。
享年 90。

「他界した」とか「息を引き取った」とか
婉曲な表現を避け、わざと「死んだ」と書いている。
なぜなら「死んだ」に違いないからだ。
その現実を婉曲な表現でごまかすことはしたくない。

母と最後に会ったのはその2日前(6日)で、
すでに意識はなく、声をかけても反応がなかった。
その前に会ったのは、8月28日。
26日に緩和病棟に入院しており、
もう歩けないほどに弱っていた。

もう長くないのは分っていたので、
8日に大阪に行くつもりだった。
7日に主治医から「長くない」との電話をもらい
7日中に大阪に行くことも考えたが、
8日まで持つだろうと思った。
結果的には、8日の午前3時ごろ
病院から「呼吸が止まっている」との電話が
あったので、大阪にいたとしても死に目には
会えなかっただろう。

9月9日は、奇しくも母と父の
67回目の結婚記念日。
その日に母を荼毘に付した。

5年前、父は 90歳と9ヵ月で死んだ。
5歳違いの母も 90歳だったので計算してみると、
父は、90歳と9ヵ月4日、
母は、90歳と9ヵ月 20日で、
母の方が少し長生きだった。
負けず嫌いの母だから
少しだけ長く生きしたのかな。
母の親兄弟の中では、今のところ、
90歳まで生きた人はおらず、一番の長生きだ。

この6年間で、父、姉、母が死んだわけだが、
残念ながら誰一人として、死に目に会うことは
叶わなかった。
まあ、それは大して重要なことでは
ないのだろうけど。

考えてみると、この5年間で死んだ親族は
両親と姉の3人だけではない。

2021年 父(享年90)
2021年 叔父(父の弟・享年85)
2023年 伯母(母の姉・享年89)
2024年 姉(私の姉・享年64)
2025年 義母(享年90)
2025年 義父(享年93)
2026年 伯母(父の姉・享年97)
2026年 母(享年90)

なんと8人。
こんなにも短期間に多くの親戚、親族が
死ぬのは もちろん人生で初めてのこと。
享年を観てもらえば分かる通り、
姉の 64をの除いては、そういう歳だったと
いうことなのだけど。
残念なことに、ここに友人(同級生)も加わっている。
「死」は本当に身近なことなのです。

さて、母のこと。
約4年間、母は望んでいない
老人ホームでの生活を強いられた。
強いたのは他でもない私と、
2年前に死んだ姉だ。

4年前、母が家の中で転倒し立ち上がれなかった時、
同居していた姉が救急車を呼んだ。
母は救急搬送され、そのまま入院となった。
骨折などはなかったが、
入院中にコロナにも罹った。

退院後は、住宅型有料老人ホームに
「リハビリ施設」と偽って入所させた。
これは姉のアイデアであったけれど、
私も同意したので姉と同様に私にも責任がある。

母は、すぐにそこがリハビリ施設などではなく
老人ホームであることを見抜いた。
当たり前だ。
リハビリなんてしないのだもの。

母は、家に帰りたがった。
姉が生きているうちは姉が対応してくれていた。
2年前、姉が癌で死んでからも、
母は「一人で暮らせる」と言い、
何度も私とぶつかった。

母は、自身が姑とうまく行かなかった。
「老いては子に従え」という言葉を
私は小学生の時に覚えた。
が、その母は老いても 子に従うことに抵抗した。
曰く「私の人生である」と。

とてもじゃないが、母が一人暮らし
できるなんて思えなかった。
私ひとりの考えではなく、ケアマネージャーや
老人ホームの担当者に聞いても同じだった。

でも、母の家への執着は強かった。
認知症が進んでおり、まともな母だったなら
言わないであろうひどい言葉も浴びた。
「私を殺す気か」
「子供なんか生まなきゃ良かった」

「(老人ホームから出られるように)弁護士を立てる」
などと言うこともあった。
そんなことできる訳もないのだけど。

「私の人生だ」と言われれば、全くそうなのだけど、
だからといって、一人暮らしなどさせられるわけでも
ないことは、母の認知症も手伝ってか
とうとう 分ってもらえなかった。

老人ホームでの生活は、買い物など外出もままならず、
また食事も(病院食のようで)おいしくない、
と母の不満は溜まる一方だった。
私にできることは、たまに母を食事に
連れ出したり、お菓子を買って行くぐらい。

今となっても、確かに母の一人暮らしは
無理だったし、姉が生きていた時に
家に帰したとしても、階段から落ちるか、
転んで骨折をするか、火を使って
火事を出すか、そんなところだっただろうと
思うのだけど、それとて、自分のしたこと
(老人ホームに入れ続けた)の正当化の
ようにも思えてならない。
だからって、ほかにどうすることも
できなかったのだから、自分を責めているわけでも
ないし、後悔があるわけではない。

ただ、夫を亡くし(21年)、自分の姉を
亡くし(23年)、娘を亡くし(24年)、
ずい分寂しい思いをし、おまけに家に帰れず、
自由に外出もできず、死にたくても、これだけは
自分ではどうにもならず、つらい時間を
過ごしたのだろうと思うと、意味不明に
申し訳ない気持ちもある。

先日、老人ホームの部屋の荷物も片付たのだが、
誰に宛てたというわけでもない日記のような
手紙のようなメモがいくつも残っていた。
その中には、先に書いた境遇への怒りや
悲しみもあったけど、むしろ、周囲の人
(入院中知り合った人、死んだ父・姉、
姉の子供(孫)、私の妻、私)への感謝の方が
多く綴られていたことが私には救いだった。

ホームのスタッフや看護師の方々は、
お仕事だろうから、一々感傷的になることも
ないだろうと思っていたけれど、母の死を
本当に悲しんでくださっているように
思えたことも私には救いだった。

母は昭和10年生まれだが、この時代の人の
多くは今では考えられないような苦労をした。
母も中学卒業後、15歳で田舎の宮崎から
就職のため出てきて、弟妹が4人もいたため、
給料の半分を実家に送り続けたという。

勉強ができるのなら何でも良かったと、
美容院の住み込みに入り、美容師の免許を
取ったものの手の平に汗をかく体質のせいで
その道には進まなかったと聞いたこともある。
でも、ハサミは持っていたんだな。
子供の頃、散髪にも行っていたけど、
時々、母に髪の毛を切ってもらった覚えがある。
大きな鏡がなかったせいで、右左の髪の長さが
微妙に違っていたのも良い思い出だ。

自分が生まれた時、家にいた3人、
父、母、姉がいなくなった。
生まれたときから、いるのが当たり前だった
3人がいなくなった。
4人家族の私以外の3人が、死んでしまった
ことの意味は大きいような気がする。
どんな意味かと言われても、いま正確に
言語化できないのだけれど。
もしかしたら、死んだのは死んだということで
あって 何の意味もないのかも知れないけどね。

これで天涯孤独になったわけでもなく、
今のところ、何より妻がいてくれるし、
甥や姪、母の兄弟の叔父、叔母がいる。
あと従妹も。(父の兄弟は全員死亡)
それに友人もね。

でも、人間は死ぬ。
全員、必ずね。

どうも人間には、生きることは良いことで、
死ぬことは良くないことだという思い込みがある。
不思議なことに、死んだ人の話しは聞いていないのに
なんで、生きることが良いと
信じ込んでしまったのだろうね。
その方が、生きていくのに都合が良いからかな。
もしかしたら、死は生よりも良いかも知れないのに。

ま、この世で 生きていた人がいなくなること、
会えなくなることは、寂しいことには違いないけど。


母の想い出を書くのは、また今度にしよう。





2026.9.16

母が死んだ(其の弐)

死んだ母が、夢に出てきた。
理由は分からない(夢の中では分っていた
ように思う)けど、私が何かをして
母に叱られ、激しい往復ビンタを喰らった。

夢の中の私は子供ではなかったように
思うのだけど、夢の中では大人か子供の区別も
曖昧で、年齢もない。

往復ビンタを喰らった私はそのまま寝た。
翌日、寝ていた部屋のふすまを開けると
母がいたようだが、口を利かずに出かけた。

出かけた先で友人に会った。
母に往復ビンタを喰らった話を
その友人に話しながら、変な点に気付いた。
ビンタされた部屋も私が寝た部屋も
私が幼稚園から小学3年生まで
住んでいた家のようだったんだ。
それで、あのビンタされたことは
「夢だったと思う」と友人に話す。
その話している自分も夢の中だとは
気付いていないのだけど。

なぜビンタされたか、思い出そうとしても
思い出せない。
そばには父もいたような気がする。
考えていると、ビンタしたのか本当に母だったのか
どうかも分からなくなってくる。
でも、確かに友人には「母にビンタされた」と
話していたんだな。

目が覚めて、妻に「母にビンタされた」と
言うと、「お母さんに何悪いことしたの?」と
訊かれた。
その場では「何もしていない」と答えたけど
いっぱい心当たりがあるよ。
書かないけど。

おかあちゃん、ごめんなさい。





2026.9.17

母が死んだ(其の参)

正月に会った時、90歳になった母に
それまでとは違う衰弱を感じた。
この1~2年、会うたびに弱っていくのを
手に取るように感じていたけど、
いよいよ夏まで持たないだろうと思った。

結局、私の予想は外れ母は夏まで生きたが、
8月に入って、その衰弱はガタンと
音を立てたかのように進んだ。
転倒による慢性硬膜下血腫の疑い。
左足のむくみから考えられる血栓の疑い。
血栓が肺に飛べば一巻の終わり。
血栓のための薬を出すと、体内で出血の
リスクが高まる。
おまけに本人には告知しなかったが、
昨年11月には胆管癌が見つかっていた。
奇しくも私の誕生日(8月7日)に
医師は「3ヵ月だろう」と言った。

血栓があるかどうかの検査、
あった場合、治療をするかどうかの
判断を迫られた。
こういう判断は全て私がしなければならない。
本人にはもう判断力がないからだ。
たとえ余命があまりないと分かっていても、
自分の判断次第で、死期が早まったり
かえって苦痛を増すことがあるかも知れないと
思うと判断を下すのが難しかった。
ネガティブ・ケイパビリティの求められるところだ。

母の苦痛を少しでも和らげること、
それを目的に 最善は何かを考え、
8月の半ばに血栓があるかどうかの検査をした。
結果、血栓が見つかり、薬を出してもらうことにした。
そのあと、足の浮腫(むくみ)が いくぶん
ましになったので、すこしは楽になったのかも知れない。

8月の半ばの時点では、たぶん9月か
10月だろうと思っていた。
10月に1週間船旅をする予定があって、
その時に重なるとイヤだなと思った。
出発前なら、旅行をキャンセルすればよいが、
旅の途中だと厄介だと思った。
しかし、これだけはコントロールの利くことではない。
人が死ぬ日だけは、誰も選べないんだ。
もし、そうなったら そのときのこと。
なるべく余計な心配はしないことにした。

9月は比較的予定が少なく、先週と今週は
たまたまだけど私は何も予定が入っていなかった。
こんなことは珍しい。
そうしたら、先週の火曜日9月8日に母は死んだ。
5年前の父のときも、3年前の伯母のときも、
2年前の姉のときも、今回の母のときも、
通夜や葬儀のために私が何か予定を
調整しなければならないことがなかった。
まるで、そういうときを選んで逝ったかのようにさえ思えた。

特に姉との最後の会話が死ぬ数時間前の
「今日何曜日?」だったのは、逝く日の確認の
ようにさえ思えた。
そのタイミングを選んでくれたことに感謝した。

が、今回の母の場合は、少し違う感じがした。
前述のとおり、母は私の予定が何もないときを
選んでくれたように見える。
父、伯母、姉、母だけではない。
昨年死んだ義父と義母のときもそうだった。

義母のときは、通夜や火葬はやはり
スケジュールの変更をしなくて良かったが、
葬儀の日が火葬の4日後で、行きたかった
コンサートと重なってしまい、それだけは行けなかった。
これは、義母が死んだ日というより、
生きている人間(家族やお寺)の都合で、
葬儀がその日になったので仕方がなかった。

今回の母の場合、少し違う感じがしたというのは、
それは故人がその日を選んだというより、
”そうなっている” という感じがしたのだ。
故人がその日を死ぬ日に選んだといえば、
そうだし、その日に私が予定を入れてなかったと
いえばそうだし、いずれにしろ、そんなレベルの
ことではなく、これは ”そうなっている” 。
なぜそうなっているのかは、
神秘で不思議で説明のつかないこと。
そんな風に感じたんだ。
違う言い方をすれば、なぜその日に死んだのか
私(達)は、知らない。
知る術もない。

だからといって、感謝がないというわけでもない。
それとは別の次元の話しね。





2026.9.18

母が死んだ(其の四)

父と母は仲が良い夫婦だったと思う。
私が小学生3年生か4年生だったとき、
一度大げんかをして、父が「出ていけ!」と
怒鳴ったことがある。
夜遅く(たぶん9時ごろ)のことで、
私と姉はすでに寝室にいた。
母は「明日出ていく」と言ったらしいが、
父は収まりが付かず「今すぐ出ていけ!」と怒鳴った。

怒鳴った父は、私たちの部屋に来て
「お母さん、出ていくからな」と言った。
私も姉も何が起こったのか訳も分からず、
そんな経験は初めてのことで、
ただ黙っているしかなかった。

後日の母の話では、父が私たちに
「お母さん、出ていくからな」とわざわざ言ったのは、
子供たち(私と姉)に「お母さん、出て行かんといて」と
言って止めて欲しかったんだろうということだった。
それは、父に確かめたことはないので、真相は
分からないけど、「今すぐ 出ていけ!」と怒鳴って
引っ込みがつかなくなった父が、子供らに助けを
求めた可能性は十分にある。

夜の9時過ぎに家を追い出された母は、
国道沿いのラブホテルに一人で泊まったらしい。
細かいことは覚えていないけど、翌日には
何ごともなかったかのような、いつもの父と母に
戻っていたような気がする。

そんなこともあったけど、基本的に仲の良い夫婦で、
父はたまに仕事関係の人を家に招いて、
母の料理を自慢していたことも覚えている。

40代から 60代ぐらいまでの母は、とても
充実した人生を送っているようにも見えた。
生まれ変わっても父と結婚するというような
ことを言っていたし、いつ死んでも後悔がないと
言っていた。
父も「久子(母の名)命」のような人だと
思っていた。

それが、高齢になってから少し変わった。
正確にいつからとは言えないのだけど、
70代後半ぐらいからだろうか、
母が変なことを言うようになった。
原因は、認知症だと思っている。

印象的で覚えているのは、ある年の正月、
両親と私たち夫婦と甥(両親の孫)と
5人で食事をしている最中に母が、その時点で
60年近く前の、本当にあったかどうか
分からないような父の女性問題を話し出した。
自分がとてもつらい思いをした、と。
私は「それ、孫の前でする話か?」と思った。
口に出して言ったかもしれない。
父は一切の弁解も弁明もしなかったが、
かなりの怒りを堪えているように感じた。

その頃から、父と母の関係はギクシャク
しだしたように思う。

母は「父のことを怖い」と言い出した。
ある時は「(父が)怒ってお皿を投げた」と言った。
姉も私も「あの父が?」と首を傾げた。
よほど逆鱗に触れるようなことを言ったのだろうが、
母に何を言ってそうなったのか尋ねても、
答えられるはずもなかった。
母は自分が、父が怒るようなことを
口にしているという自覚は全くない様だった。

その頃はそれが認知症の始まりだとは、
父も姉も私も気付けなかった。

あの頃、母は病気だと捉えることができれば、
少しは違う対処ができたのかも知れない。
いや明らかに母がおかしくなってきているのは
分っていたけれど、どう対処して良いのか
分からなかったのだな。
専門家に相談すれば良かったのかもしれない。

しかし、人間の心理というか脳は面白い。
あんなに父のことを悪く言い、
「結婚しなければ良かった」などと、
息子の私に向かって言っていた母は、
父が死ぬと一切の悪口を言わなくなった。

死んだらみんな、ええ人になるんやなぁ。

父が死に「さびしい、さびしい」と言っていた母は
一度だけ、私に
「(父を)私がイジメたからなぁ」と言ったことがある。
私には「母がイジメたから父が死んでしもた」と
言っているように聞き取れた。
私が「イジメたの?」と聞き返すと
母は何も答えなかったけど。

姉は、2018年から両親と住み始めた。
そんな母とやっていくのは姉には難しかった。
(誰でも難しいわ)
当時、母は飲んでいた薬の副作用もあって、
かなり、めちゃくちゃなことを言っては、
翌日には覚えていない、というようなこともあったらしい。

そのうち、父が死に、姉は癌になった。

姉の癌が分かったとき(2023年春)、
母はすでに老人ホームに入っていた。
母は自分が娘の看病をできないことを、
ずい分と憂いていたが、姉は病気の
しんどさもあり、母と距離を置いた。

こんな風に書いていると、
良い人生だったのに、終わりの方だけ
なんだか、哀しい人生だったなぁ。





2026.9.19

フルマラソン 6時間を切れるのか(6)

9月は滋賀に行ったり、大阪に行ったりした上、
母の死もあり、おまけに長雨ということもあって、
ほとんど走れていない。
2日に走ったあと、次に走ったのが昨日。
中15日、2週間以上練習をサボってしまった。
サボった訳ではないねんけど。

本番までひと月半を切ったのに
こんなんで大丈夫か。
と、心配になるが、昨日16日ぶりに
10キロ走ったけど、体力に全く衰えを
感じなかったのは良かった。
走らない日は、室内でエクササイズ
しているのも効いているんちゃうかと思う。
ペースは相変わらずで、とてもじゃないが
フルマラソン6時間切りは
奇跡が起こらない限り、叶いそうにない。
6時間切りは、ほぼ完全に諦めています。

さて先日、ニューシューズを入手した。
シューズは大体 500キロから 700キロ
走るとダメになる。
今 練習で履いている靴は、すでに 450キロ
走ったので、本番用にと新しいものを購入したのだ。
今回も アルトラを選んだ。

ALTRA ESCALANTE 4


アルトラはこれで3代目。
今履いているのが「エスカランテ3」という
モデルだが、ニューシューズは、
そのアップデート版「エスカランテ4」。
最新モデル「5」が出ているのだけど、
「4」は旧モデルなので幾らか安く手に入った。

アルトラの一足目は「エクスペアレンス」という
ドロップ(つま先とかかとの高低差)が4ミリの
ものだったが、「エスカランテ」シリーズは
ドロップ・ゼロ。
つま先とかかとがフラットなものだ。
履いた印象は、軽くて靴下のようにフィットする。
以前、安いベアフッド・シューズも買ったけど
それはソールが薄すぎて、長時間履くのには
向いていなかった。
(慣れれば違うのかも知れないけど)
アルトラはクッションもあり、足が疲れない。
普段履きにも欲しいのだが、
いかんせん見た目はあまりカッコよくない。





2026.9.19

母が死んだ(其の伍)

(其の四)では、母は晩年、認知症のせいで
父や姉とうまく行かなくなったと書いた。
もちろん、私も難しい場面が何度かあったが、
一緒に暮していなかった分、父や姉ほどでは
なかったと思う。

認知症と言っても、母は自分の名前や
生年月日、住所は最後まで言えたし、
家族のことが分からなくなるようなことはなかった。
記憶は、新しくて 自分に関わりの薄いものほど
残らないようで、私が退職したことも覚えて
いないようだったし、妻の両親が亡くなったことは
覚えていられなかったようで、
何度も言わなければならなかった。

一方で、夫と娘(私の父と姉)が
死んだことははっきりと覚えていた。
自分の娘に先立たれたことは、最大のショックで
あったようで「毎日(なんで先に死んだんやと)
写真に文句言うてる」と私に漏らしたこともあった。
それでも、いつ死んだのかは覚えていられなかったのか、
あちこち命日と享年を記したメモが残っていた。

母は、長年糖尿病であった。
最後の4年近くは、老人ホームでの
規則正しい生活と食事のおかげか、血糖値が
問題になることはなかったが、入所当初、本人は
ずい分と血糖値のことを気にしていた。

調べてみると、糖尿病の人は認知症の
発症リスクが約2倍だそうだ。
母の認知症と糖尿病に関連があったのか
どうかまでは分からないけど、統計的には
糖尿病の人に認知症になる人が多いのは
間違いなさそうだ。

母は新しいことはあまり覚えていなかったが、
何十年も前のことは、かなり詳細に話していた。
以前、「記憶は話すたびに上書きされる」と
何かで読んだことがある。
だとすると、母の話には 事実に母自身の
無意識な創作が加わっていても不思議ではない。

1年くらい前だったか、母と電話で話していたとき
母が「あんたがコンビニでアルバイトをしていたとき」
と言い出した。
私は「一度もコンビニでバイトしたことはない。
誰かと思い違いしているんじゃないか」と言うと
「なんでやの、してたやんないの。
なんでそんなことを言うの?」と
少し取り乱したように言った。
あとから思えば、あれは正に認知症の
症状であったと思う。
私がコンビニでバイトしていたかどうかの真偽など
全くどうでも良いことで、「ふんふん」と話しを合わせて
聞いてあげれば良かったと思う。
そんな風に「母がボケている」ということは知っていても、
ついついそのことを忘れて接してしまうことが多かった。

姉との間でもよくあった。
姉が母に「こんなこと言われた」
「こんなこと言うてた」と私に電話してくる。
私は自分がターゲットでないので冷静に
「しょうがないやん。オカン、ボケてんねんから」
と応える。
姉は「あぁそうや。そうやった。
また引っかかってしまた。
分かってんねんけどなぁ」と言う。

別の時は、私が母に言われたことに腹を立て
姉に言うと「しょうがないやん、ボケてんねんから」と
言われて「しまった!またひっかかった」てな感じだった。

数年前、伯母(母の姉)が亡くなる前、
私は伯母の認知症を全く見抜けなかった。
節々に話しの不自然さ、違和感を感じていても
その違和感に焦点をあててみようとはしなかった。

母が老人ホームに入所したとき、
親戚(父の従妹)に電話をして、苦情を訴えた。
「子供に無理やり老人ホームに入れさせられた」と。
それは間違ってはいないけど、なぜそうなったかの
背景は語らず(語れず)、家に帰りたいと
訴えたわけだ。
すぐに そのおじさんから私に
「一体、どうなっているんだ?」と
電話がかかってきた。

「母が転倒し立ち上がれなかったから
救急車を呼んだ。
その日、母は二度転倒した。
自宅で生活するのはもう危険だと判断したので
老人ホームに入れた。
本人は立ち上がれなかったことは覚えていない」
と説明すると「そうやんたんか」と
納得してくれた様子だった。
電話で話すと母は全く普通で認知症だなんて、
分からないから騙されてしまう。
母にすれば、騙しているつもりはないのだけど。

ところで、認知症になっても
「自分に都合の悪いことは言わない」のは、
ボケてないときと一緒やねんな。
これって自分を守るための 本能かしら。
人間て おもろいな。


「母が死んだ」シリーズ、其の伍まで来たが、
なかなか母との想いでを綴るに至らない。
いや、今まで書いてきたことも今日書いてることも
母との想い出と言えばそうなんやけど。

どこに向かっているのかも分からないが、
まだもう少し続きそうで終わりが見えない。
こういうのは、自分がよしと思えるまで
書いてみるしかないだろう。





2026.9.21

母が死んだ(其の六)

8月17日、甥とふたりで母を病院に連れて行った。
左足が腫れているのは、血栓があるかも知れない
との疑いから検査をすることにしたからだ。
病院では検査と検査の間、検査のあとの
医師の結果説明までの待ち時間が長かった。
おまけに全てが終わった後、会計までの
待ち時間も長かった。

時間は昼の12時を過ぎていた。
車椅子に座った母は、空腹もあって
「なんでこんなに待たされるんや。とろい」と
待合室全体に聞こえるような大きな声で言った。
もちろん、本人は自分の声が大きすぎるなどとは
思っていないし、その場にいる他の人に
聞こえていることも知らない。

私は、会計窓口に「午後に支払に戻ってきます」と
言い残し、先に食事に行くことにした。

行きたい和食の店が閉まっていた。
近くに3年前に死んだ伯母(母の姉)が
50年位前に働いていたステーキ屋があった。
母には、肉は良くないかなと思ったが、
「食べるか?」と訊くと「食べる」というので、
行ってみることにした。
その店は、伯母が働いていたこともあって、
姉が高校生のときにアルバイトしていた
こともある。
私もこの店に行くのは、50年ぶりぐらいだったと思う。
あの頃とは、内装も雰囲気も変わってしまっていたけど。

母は、赤身ステーキを頼んだ。
一口食べて「柔らかい」と嬉しそうだった。
少しして「このお肉味付けは?」というので、
母の目の前にあるステーキソースの入った
皿を指さし「それを付けて食べ」と答えた。
5分も経たないうちに母は同じことを聞いた。

数切れ残して「もう食べられない」というので
私と甥が残りを食べたのだが、
赤身ということだったけど、なんだか脂っぽかった。

病院に支払に戻っている間、母は甥と
コンビニに行き、車の中でハーゲンダッツの
アイスクリームをペロリと食べた。
いくつになってもスイーツは別腹だそうだ。
アイスクリームというか糖分の威力は凄い。
アイスクリームを食べたあとの母は、
顔色も心なしか良くなったようで、
元気が戻ったように見えた。

母との外食はそれが最後になった。
どうせならもっとおいしいお肉を食べさせて
あげたかった。

その検査の日以降、急激に母は弱って行った。
もともと食事の量は減っていたけれど、
ほんとに食べなくなっていったようだ。
私は、それは自然なことだと思う一方で、
あの日の肉が良くなかったのではないかとも思った。
関係ないかも知れないけど。

検査、外食の日から1週間で、いよいよ、
母を緩和病棟に入院させるところまできた。
24日、病院と打合せをして、8月27日の入院を決めた。

母は、25日、26日と2日続けて転倒した。
たぶんトイレに行こうとして、ベッドから立ち上がる際に
転んだんじゃないかと思う。
部屋にはベッドからトイレまで、手すりを付けて
もらっていたし、転んだ際のけが防止にと、
8月のはじめにはホームセンターで買ってきた、
クッションマットを敷き詰めてあった。
しかし、26日の転倒は かなり痛かったようで
骨折していてはいけないからということで、
救急搬送したいと、老人ホームから電話があった。

結局、27日の入院予定は、
1日早まり 26日の夜の入院になった。

幸い、骨折などはなかったようで良かった。

27日、妻とともに病室を訪れた。
母に「どう?」と聞くと「しんどい」と言った。
しんどそうな表情だが意識は
はっきりしているようだった。

先生からの説明を聴きに診療室へ。
昨年の入院時の主治医だった若い男性の医師だ。
話の内容としては、特に新しい情報はなかった。
緩和病棟は、治療はせず、患者の苦痛を
とり除き、看取るのが目的の病棟。
なので、詳しく検査を繰り返したりもしない。
この病院の緩和病棟で、父も姉も逝った。

私は医師に
「あとどれくらいでしょう?」と訊いた。
「1カ月は持たないと思います」
という回答だった。

その日、私は実家に泊まった。
翌日夕方、東京に帰る前にもう一度、母に会いに行った。
母は、ちょうどオムツを交換されているところだった。
ついに、自力でトイレに行けなくなったのだと思った。

母は前日より落ち着いている風に見えた。
「今4時」だと言うと
「4時?4時に起きてきたん?」と言う。
夕方の4時だと告げると「朝も夜もわからん」と、
昼夜が分からなくなっているようす。
口数は少ない。
「もうおかあさん、あかんな」
「病院はイヤや」
私は返す言葉が見つからず、ただ黙って聴いた。

母は時折、ナースコールのボタンを見つめる。
「これ押すの わかるのかな?」
「何がわかるの?」と聞くと
「寿命」とよくわからないことを言う。
「しんどい時に押す。しんどい時はもう終わり(の時)やわ」

「お腹すいた」
食欲はあるようだ。

やせ細った母を見て、初めて祖母に似ていると思った。
祖母は私が 19歳のとき(1982)、74歳で死んだ。
74歳というと今では若い方だが、
90歳の母同様、骨と皮だけだったのが
19歳の私には強烈だった。
私の人生で最初の身内の死が祖母だったんだ。

「また来るね」と言うと
母は「ありがとう。無理しないで」と言った。

それが母と交わした最後の会話となった。

病院を出てから、駅に向かって歩き出すと、
突然、何かが込み上げてきた。

悲しいとか 寂しいとか つらいとか ではない、
言語化できない何か。

その情動は、それが最初で最後だった。
それから9日後に意識のない母に対面した時も、
母の死を聞いた時も、冷たくなった母に
対面した時にもあんなことはなかった。

あとになって思うと、あの会話が最後だと
どこかのレベルで知っていたのかも知れない。
あの日が私の母との別れだったのだと思う。





2026.9.27

人生のほんとう
池田晶子 著
第一章の途中まで読んで




鮎川誠が死んだあと、甲本ヒロトが
「いなくなったことなんてどうでもいい。
いたってことがすごいんだ。
いたってことに比べたらいなくなったことなんて
大したことない」
と言ったと何かで読んだ。

それを読んだとき、なるほどそういう考えも
あるのかぁ、と感心はしたものの、本当に
自分の腑に落ちた、という感じではなかった。

池田晶子の『人生のほんとう』。
本書は、「常識」「社会」「年齢」「宗教」
「魂」「存在」の6つのテーマで、2004年
2005年に行われた講義をもとに纏めたもの。
第1章の「常識」では人の生死について
触れている。
ここに、前述の甲本ヒロトの言葉と似たような
意味のことが書かれている。

私たちは、身近な人が亡くなると、どうしても
その「死んだ」「いなくなった」ということに
焦点を当ててしまう。

しかし、よくよく考えるまでもなく、
人が死ぬのは当たり前だ。
死なない人はいない。
生まれた順番に死ぬとは限らないけど、必ず死ぬ。
どうして、この当たり前がそんなに重要なことの
ように生きているんだろう。

大好きな人が死んだら、「もう会えないから
哀しい」とか、若くして死んだ人に対しては、
「もっと生きたかっただろうにかわいそう、とか色々思う。
でも、死ぬことは最初から決まっているやないか。

人の「死」は当たり前、常識だけど、
その人と出会ったことは、当たり前じゃない。
当たり前のように生きているけど、
よくよく考えると、なぜ当たり前だと
思っているかも説明できない。

9月8日に母が死んだが、
私は死んだことばかりに注意を向けて
いたような気がする。
でも、「死」自体は毎日太陽が昇るように
当たり前のことだ。
それよりも、あの人がなぜ自分の母親だったのか、
なぜあの人の息子として自分は存在しているのか、
そして、そもそも自分はなぜ存在しているのか、
それらの方がよほど不思議で謎なわけだ。
これには、説明がつかないもの。

池田晶子は、この謎について、
あちこちで触れている。
理屈では理解できていたけど、
本物の謎、不思議、神秘としては、
私には迫って来ていなかった。
云うてることは、分かるねんけどな…
という感じだった。

本書を読んで、初めて池田が言っている
ことの意味が、本当に掴めた。
とたんに世界が変わった。
大げさにいうと人生が変わったといっても良い。

池田は「見方が逆転する」と表現しているが、
パラダイム・シフトが起きた、といっても良い。
世界をひっくり返して、裏側から観たような感じだ。
純粋に感動して、涙が流れてきた。
こんなことは初めてだ。
世界が変わったことに驚き、
そのことに感動している自分に驚いた。

「死ぬ」ことは、存在のほんのひとつの
点であって、重要なことは そこではないのだ。

ああ、こんな風に世界を観ることが
できるなんて思ってもみなかった。
ホントに自分でも驚いている。

池田はこう書いている。
「そんなふうに考えると、一種驚きというか、
独特な感情が起こります。
そうすると、単純に悲しむだけでなくてもよいと、
だんだん気持ちが広い方へ開けてゆきますし、
そのことだけでも、その意味では救われると思います。
謎を味わうというか、一種の至福というと
強すぎるけれども、そういう喜びの感情に
変わっていくような感じがします」

至福。
確かに。

まだ、20ページほどしか読んでないけど
感動のあるうちに、このことを書いておこうと思った。
ホンマにビックリしたんよ。




母が死んだ(其の七)

はっきりと覚えている。
あれは小学6年生の修学旅行の
前日のことだ。(52年前!)
そろそろ私も思春期というのか、
所謂反抗期というのか、
なんだか分からないが、
難しい年頃に入った頃だった。

何かがあったとは記憶はないのだけど、
どうもイライラしていた。
そこにそんな私の心持ちを全く知らない母が、
私に向かって何かを言った。
内容は、なんてことのない普段の会話であったと思う。
しかし、そのいつもと変わらぬ母の態度が
私のトリガーを引いた。

いきなり奇声を発した私は、母に殴りかかった。
母に対して怒りがあった訳ではない。
どうすることもできないイライラをたまたま
目の前にいた母にぶちまけたようなもの、
それは地表からマグマが吹き出したようなものだった。
おそらく母は驚いたに違いない。
しかし、まだ身体も母の方が大きく、力も上だった。
鬼と化した母は「親になんてことを!」と
言いながら、強烈な反撃に出た。
母に叩かれて、一瞬で私は戦意を喪失した。

そのあとのことは覚えていない。
ちゃんと謝ったかどうかも覚えがない。
ただ翌日から修学旅行に行くのに、
何か親に用意してもらう物があったように思う。
それをちゃんと用意してもらえなかったら
どうしよう、と不安になったことは覚えている。
あ、思い出した。
たぶん、修学旅行に持って行くお小遣いを
貰えなかったら、どうしようと思ったんだ。
翌朝、母はいつもの通りで、お小遣いもちゃんとくれた。
が、あんなことをしでかした自分は、
気持ちよく旅行に出発することはできなかった。

私の小学校(大阪)の修学旅行は一泊で、
行き先は三重県の伊勢志摩だった。
伊勢神宮の参拝と、ミキモトパールの見学を
したように思う。
二見ヶ浦の夫婦岩が見える旅館に泊まったと
記憶しているが、本当に旅館から見えたのか
どうか、はなはだ怪しい。

母から貰った小遣いの使い道は、
家族へのお土産である。
母に貰ったお金で、母に土産を買うという訳だ。
なんとなく まだモヤモヤしながら、
母(というか両親)への土産を選んだ記憶がある。

選んだのは、伊勢の風景が描かれた
小さな徳利とお猪口のセットだった。
そんなこと、よく覚えているなぁ、オレ。
ずっと実家のサイドボードの中に飾られて
いたような気がする。
今もあるのかな。





2026.10.6

フルマラソン 6時間を切れるのか(7)

マラソン当日まであと26日と迫ってきた。
ここにきて、問題が発生。
もう10日以上前だが、9月21日に
家で軽いストレッチの最中に左の足首を痛めた。
全く無理な態勢ではなかったのに、痛みが走った。
捻挫をしたような痛みだ。
その日は、しばらくすると痛みは治まったが、
それから2~3日は歩いている時に
時々だけど突然痛みが襲ってくることもあった。
しかし、3日後(9/24)には痛みもなく、
13 キロを走った。
念のためにかなりゆっくりだったけど。

次に走ったのは、それからまた3日後(9/27)。
この日は、1・5キロぐらいで足首が痛み出したので中断。
しばらく歩いたら、痛みが治まったので、
再び走り出すも、3キロ弱で痛み出し断念。
その日以降も、歩いていても時々、痛むことがあって
練習(ジョギング)は控えている。

そのうち治るだろうと思っていたが、一向に
よくなる気配はなく、今日の時点でも軽い痛みがある。
まだ 26日あるので、完治すれば走る気はあるが、
その間、練習ができないのは不安だ。
せっかく2月から練習で 600キロ以上走って来たのに、
スタートして、数キロでリタイアということも考えられる。
少しでも痛み出したら、アウトだ。
それならばいっそのこと、潔く走ることは諦め、
富山観光旅行にしようかとも思う。

判断するのは、もう少し先だが、
うーん、どうしたものか。







 ひとりごと